このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

知多半島殺人事件 〜南吉の涙〜


見えない悲しみは氷の結晶を張りめぐらせ、凍てつく思いを司る。

心の傷を癒すのは年月と愛する人の労り。

涙は過去を洗い流す慈雨なのかもしれない。

忘れえぬ人の面影を追い求めても、それは永遠の影踏み遊び。

昨日、今日、明日・・・過去、現在、未来。時の流れは止まらない。

人の時間が止まるとき、そこには涙の滴が満ち満ちている。


プロローグ


 彼女は夢を見た。子供のころの夢だ。懐かしくて楽しく、そして悲しい思い出だ。幼きころの思い出は断片的に記憶に残っていたり、つまらないことをずっと覚えているものだ。だが、彼女にとってあの出来事は幼い子供の心にも大きな傷魂を残していた。とうに、忘れていた、忘れていたと信じ込んでいた悲しみが、今夢が覚めきらない脳裏に焼きついていた。枕が少し濡れていた。夢の中で泣いたのだろうか?夢を見ている瞬間はあたかも現実のような錯覚に陥っていたが自分はあの時にかえったような気がした。魂は今のままで肉体だけが幼き時代に戻ったようだった。まるで「不思議のメルモちゃん」が赤いキャンディを食べたのと同じだ。あの頃の友達もいた。皆、昔のままだ。仲良しのさっちゃんやゆみちゃんもいる。もう名前を忘れてしまった子さえいた。その子たちを見ながら、自分は皆どうしているのだろうかと現実の考え方をしている。そこにあの人が、お兄ちゃんが来た。優しくて暖かく、そして懐かしいお兄ちゃん。でも、そのお兄ちゃんが・・・・・・。
 もう思い出したくない。今日の夢は全て記憶にありありと残ってしまった。もう十五年以上も昔のことなのに、なぜか鮮明に思い出された。記憶の奥底に仕舞い込まれた思い出が甦った。人は一度記憶したことは決して忘れない。ただ、仕舞った場所を忘れただけなのだ。なぜ、今になってあの時のことが浮かび上がってきたのだろう?よりによって、今までの中で最も悲しい思い出が出てくるなんて、いくらでも楽しかった思い出があるのに・・・・・・。
 朝の木漏れ日がカーテンの隙間から漏れている。その光の帯に埃のような細かい白いちりが浮いている。窓の外では目覚めの早い小鳥たちが既に詩を奏でていた。頭の位置を変えると眩しい光が瞳の中で反射した。すでに眠気はなくなり、新しい朝の営みを迎える気になっていたが、今日はいつものすがすがしさはない。夢見の悪さだけが、悲しさだけが心の片隅に残った感じだ。彼女はベッドから起きて伸びをした。長い髪が顔を隠しているのを払いのけ、枕元にある手鏡を覗いてみた。確かに泣いたようだ。かすかに涙の跡が目から頬に残っている。泣いたなんて久しぶりだった。大人になってからいつ泣いたか全く記憶にない。子供のころは泣き虫で、いつも泣いてばかりいたが、成長するに連れて泣くぐらいなら頑張ろうという妙な自制心がついてきたらしい。もちろん、卒業式や感動のドラマを見たりしたときは涙したが、悲しみや苦しみで泣涕したことは近頃ほとんどない。
   目覚し時計が鳴る二十分も前に起きたらしい。時計が鳴らないようにボタンを押し、大きく息を吐いた。気分を変えて今日も仕事に頑張らなければならない。まだ、就職して半年足らず、わけも分からぬままここまで来たようだ。今日もまた複雑な作業をしなければならないので、そちらの方に頭を切り換えなくてはいけない。
 吉田真紀、二十二歳。トリオシステムプランズというソフトウェアハウスに勤務している。たいした会社ではないが、良き同期の仲間たちと、立派な(変な人もいるけど)先輩たちに囲まれそれなりに満足している。
 だが、今日見た夢がこれから起きる事件の前兆だと、そしてその事件が彼女にどのような影を落とすか、今の彼女が気付く術はどこにもなかった。
 

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