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ソフトハウス殺人事件 〜メビウスのアリバイ〜
第四章 寮の惨劇
1
時刻は退社時間の六時になろうとしていた。今日一日、竹内は仕事らしい仕事はしていなかった。会社の人たちから話をききまくったが、パズルは一向に埋まる気配はない。
月末とあって、出向に出ている人たちが作業報告書を提出するために、次々と帰ってきた。まず、K塾の下前一也と枡田信秋が「ただいま」と行って戻ってきた。枡田とは家が同じ方向なので、一・二度同じ車で送ってもらったことがあり、話も比較的よくする方だった。顔を見た途端「久しぶりだね」と竹内にとっては相変わらずの挨拶をされてしまった。通夜や葬式の日の記憶は皆あまりないらしい。枡田はいつも笑っているような感じで、本当にいい人にだと思っている。トリオでも決して怒ったことのない人の一人と言われているから、この人が犯人とは到底思えない。それよりも、竹内は社内にいない人は犯人でないと考えている。それゆえ、社内に犯人がいるという線で絞られていき、心がひしひしと痛んだ。
次にT社の別ビルから竹村和子が白井孝好と戻ってきた。竹村は竹内が入社した時、隣の席だったのでいろいろ世話になっていた。全く白紙状態の自分に親切に教えてくれたので感謝している。しかし、今は全く異なる種類の仕事をしているので、当時のことはすっかり忘却の彼方に消え去ってしまった。
次に秋山浩代と和田健一が来たが、二人に関しては竹内は全くと言っていいほど面識がない。和田は何か近づきがたいものがあったが、土田にきいたところ結構面白い人だと話していた。秋山に関してはトリオで唯一、主婦している女性ときいて、「へえー、結婚しても働いている人がいるんだ」感心したものだ。皆からは「ワンさん」と呼ばれている。確かに何とかという犬に似ている気もする。愛嬌のある可愛らしい人だ。
今度は寺村弘が帰ってきた。寺村もあまりよく知らないが、新入生歓迎会の時、話をしたのでそれなりに対話はできた。ただ、寺村と同じH省に行っている自分と同じ名字の竹内弘二には一度も会ったことがない。社内にずっといる土田でさえ、二三回しか見たことがないのだから、当然と言えば当然なのだが、どんな人なのか興味をそそられる。
そして、やっとお目当てのT社の三人が帰ってきた。片岡、臼井、古井の三人だ。古井は竹内を見つけると「やあ、竹内さん、どしたの」と声をかけてきた。社内には人がたむろして騒がしかった。皆事件のことはなるべく触れないようにしようという気配が漂い、専務室からも離れ気味で、三課の机の群れからは遠ざかっていた。
竹内はマシン室に入る片岡を見つけ、自分も後を追った。
「やあ、竹内君」片岡はすらすらとキーボードを叩きながら言った。
「ああ、どうも、ちょっと話をききたいんですけどいいですか」
「いいよ、F5のことF1のこと?」
「いやあ、コンピュータのことではなく、カードのことなんですけど」片岡の手が止まった。 「カードって?・・・・・・」
「一階の裏口を開けるカードですよ。小耳にはさんだんですけど、片岡さん随分前にカードを無くしたそうですね」
「ああー、そのこと、そう・・・・、借りたのはいいんだけど、その後すっかり忘れちゃってさ、気が付いた時には全然見つからなくて、始末書まで書かされて大変だったよ」
「それって、いつ無くしたんです?」
「三ヵ月位前かな」 「どこでどう無くしたか、全然記憶にないんですか?」
「ぜーんぜん」
「分かりました。どうも、思い出しましたら、後で教えてください」
「このことってあの事件と何か関係があるのかな?」片岡は不安そうに尋ねた。
「さあよく分かりませんけど、そのうち刑事にきかれるんじゃないですか」
「そりゃ面倒だな、今日もいろいろきかれて大変だったからな」
「もしかして筒井とかいう刑事ですか?」
「そう、そうだよ・・・・・・しつこい刑事だね。ほんと困るよ」
竹内は片岡との話にきりを付け席に戻った。外は冷たそうな雨が降り、ガラス窓には細かい水滴が流れている。竹内の心にも雨を降らす雲のような暗雲が広がりつつあった。
2
堀川は慶長十五年、加藤清正が名古屋城を構築するための資材の運搬用に作った運河である。名古屋市民の誰もが堀川のことは知っているが、皆が持つ川のイメージはくさい、汚い、ドブ川というものであろう。戦前は魚も泳ぎ、泳ぐことさえ出来るぐらいだったが、高度経済成長や都市開発と共に川は徐々に汚れていった。汚水の垂れ流し、河口の名古屋港の汚れとが重なり、今ではガスがわき、底にはヘドロが溜まっている状態である。一応、上流は別の川と繋がっているものの、運河とあって水の出入りはあまりなく、海の満ち引きと共に川の水位まで変わってしまうぐらいだから、もっと根本的な清掃が必要だ。それゆえ、近年、堀川を浄化しようという運動も盛んで、夏の夜など電飾で光輝く納涼船が渡ることもある。だが、一度死んだ川はなかなか生き返らない。もちろん、港の方もきれいにしなければ、意味はないが。
そんな堀川の一風景に白鳥橋がある。数年前、名古屋デザイン博と銘打って、オリンピック誘致に失敗した名古屋にとっては、当時の博覧会ブームも手伝い、まずまずの成果を収めたイベントがあった。その博覧会の跡地に白鳥センチュリープラザという高層ビルがデザイン博の面影を残して建っている。
プラザに通じる白鳥橋近くで男の変死体が上がった。発見者は川沿いをジョギングしていた人で直ぐに一一〇番通報し、熱田署の署員が急行した。死後五日位で腐乱もかなり進行していた。最初、警察は溺死かと推測していたが、解剖の結果、頭部を強打された後が見つかり、それに伴うショック死と断定された。しかも、服装がホームレスのようなため捜査陣は色めき立った。当然、連絡が愛知県警を通じ中村署に伝わり、中村署が殺人事件の目撃者として探している男ではないかと照会が急がれた。あの事件から六日目を迎えようとしている。調査の結果、星光桜通りビルの一階に居すわっていた男と判明した。
中村署はある程度今回のことは予測していた。事件の日からまったく姿が見られなくなっていたため、何らかの原因で「トリオ専務殺人事件」に巻き込まれたものと考えていたのだ。ホームレスが寝泊まりしていた桜橋から白鳥橋までかなり離れているが、堀川に漂った場合、引き潮の時間に合致すれば、その日のうちに流れ着くであろう。それが、今日まで発見されなかったのは、堀川に多くある貯木場の木材に引っ掛かっていたと思われる。どのみち、警察の方も一週間して男が見つからなければ堀川を捜索する予定であった。汚い川に入らなくて済んだという、不謹慎なことを考える捜査官もいた。
その後、家出人などの捜索願いを調べたところ、この男は滋賀県大津市に住んでいた佐藤行雄と判明した。佐藤は三年前まで大津の情報処理関係の仕事に関わり、プロジェクトリーダー的役割を担っていたが、その時の銀行関係の仕事につまずき失踪したようであった。最初は大阪近辺にいたらしいが、その後、仕事でも来ていた名古屋に現れ、ホームレスという孤独な存在になったようだ。日雇いの仕事や段ボールなどを集めて生計をたてていたらしく、仲間うちでは「エスさん」と呼ばれていたそうだ。妻の公美が身元の確認に名古屋を訪れた。夫の変わり果てた姿に号泣していたが、確かに夫ですと静かに答えていた。竹内はこのことを知り、自分と同じ職業の者が、このような末路を迎えたことに同情以上の悲しみに包まれた。
片岡からの電話は美砂が取り次いだ。午後三時だ。
「もしもし、トリオシステムプランズです」
———もしもし、片岡ですけど、お疲れさまです。
「あっ、お疲れさまです」美砂は型通りの挨拶をした。
———今日、竹内君いますか?
「いえ、竹内君は今日は来ていませんけど、仕事先の方だと思いますが」
———あっ、そう、それは困ったな。誰か他にいる。
「そうですね、土田君や伊藤君ならいますけど」
———それなら、土田君に替わってください。
「はい、わかりました」美砂は保留のボタンを押して、マシン室にいる土田を呼びに行った。
「ツッチー、片岡さんから電話」
「はーい」と返事をし、「片岡さんから?一体なんだろう?」つぶやきながら土田は資料を置いてマシン室を出た。
「ここでいい?」
「いいですよ」転送してもらうのが面倒なので、土田はそのまま受話器を取った。しかし、これが間違いのもとであった。
「もしもし、土田ですけど、お疲れさまです」
———お疲れさま、竹内君は今日はいないんだよね。
「ええ、今日は来ていませんよ」
———帰る予定はあるの?
「さあ、ちょっと、分かりませんけど、なんですか?」
———ああ、昨日のカードのことで思い出したことがあるんだけどね。
「カードですか?」
———うん、それで竹内君はに話そうと思って電話したんだけど、どうしようかな。
「それじゃ、いっぺん竹内さんに連絡して都合はどうかきいてみますよ」
———あっそう、それじゃね、今日はひとまず定時後には寮に帰っているからさ、それくらいに来るように言っといて。
「わかりました」
土田は電話を一度きり、竹内の仕事先の短縮ボタンを押した。電話がつながると竹内を呼び出してもらった。
「竹内さん、どうも、片岡さんから電話があって、カードのことで話したいって言ってきたんだけど、今日は空いているの?」
———今日かい、今日はちょっとまずいんだなあ。突然システムダウンしちゃってさ、バグ探すのにおおわらわなんだ。下手すると徹夜になるかもしれないんでちょっと無理だな。
「そうなの、それは困ったな」
———なんなら、土田さんが話をきいてくれば。
「えっ、僕が」
———君に関わる重大なことなんだからさ。
「ええ、わかりました。それじゃ僕が行ってきますよ」
———うん、それなら、また後で連絡してくれ、そんじゃ。
土田は電話を切って実際どうしようと考えていた。その時、近くにいた青山が尋ねた。
「片岡さんがどうかしたのか?」
「いや、別に、何かカードのことで話があるとかで」
「カード?」青山には何のことか分からないようだった。しかし、その意味を理解しうる者が一人はいた。
3
竹内は電話を切った後、何か得体のしれない不安を抱いた。それは表現できないものだが、しいて言えば第六感のようなものだろうか。しかし、その不安も仕事の忙しさに紛れていってしまった。
土田が寮を訪ねたのは六時半だった。土田は一人で片岡を訪ねるのが心配だったので、伊藤を無理矢理連れてきた。こちらもしいて言えば感のようなものが働いたのだろうか。「何で俺が行かなくちゃいけないんだよ」と伊藤は文句を言ったが、「今度何かおごってやるよ」という言葉に、急に腰を低くしてついてきた次第だ。
玄関口横のすりガラスからは中の光がもれている。しかし、何度呼びかけても返事はない。二人は互いにどうしようかと顔を見合わせたが、土田は何かを感じ、思い切って入ることにしてみた。ドアには鍵が掛かっていない。靴も一足、無造作に置かれていて、片岡は居るようだ。もう一度玄関から「片岡さーん」と呼びかけたがやはり返事はなかった。
二人は靴を脱いであがり、リビングへゆっくり進んだ。台所には料理の準備がしてある。しか し、片岡の姿は見えない。二人は言い知れぬ暗影を感じ取り、リビングの隣にある片岡の部屋の入口がわずかに開いているのに気付いた。土田と伊藤はその入口を開け覗いてみることにし、土田が目で合図して恐る恐る片岡の部屋のドアを開けた。
そこには胸に包丁が突き刺さり、絶命している片岡の姿が血の海に浮かんでいた。
警察は直ぐに到着した。寮は中区であったが堀川の向かい川は中村区であるため、中村署の方が先にやって来た。また運がいいのか悪いのか、通報者の土田の名が署内に伝わり、筒井警部補の耳に入ったため、第一陣より少し遅れて到着した。土田にとっては最悪であったが、今回、伊藤を連れてきたことを神に感謝する気持ちで一杯だった。筒井は土田の顔を見るなり、またかというような表情を見せていた。
片岡は左胸をひと突きされ、ほぼ即死状態であり、死後まだ三十分ほどであった。つまり、土田たちが訪ねた直前と言ってもいい。下手すれば二人とも巻き込まれていた可能性もあった。もちろん、二人には不審な人物を見なかったかと質問されたが、二人はそれらしき人物を目撃していなかった。
ただ、犯人は顔見知りではないかと考えられた。それは、片岡がお茶を出そうとした形跡があったからである。やかんがコンロにかけられ、乾いた茶の葉がきゅうすに入ったままだった。やかんの湯は温かかったが、火は消されていた。犯人が消したのだろうか。次に片岡が正面から刺されていることも根拠となっていた。そして、もう一つ不思議な物証があった。
指紋は犯人らしき人物のものはなかった。包丁やドアのノブには拭き取った後が見られ、ドアのノブには訪問した時の土田の指紋が残っていただけだ。部屋中に多くの指紋があったがどれも片岡のものか、以前誰かがここに泊まった時の古いものばかりであった。が、一つだけ怪しい指紋があった。かすかに残っていたため犯人の特定は不可能であったが、片岡自身のものでないことは確認できた。その指紋があった場所は片岡のまぶたに残っていたのだ。片岡の指紋でないことから犯人が目を見開いて死んだ彼の目を閉じさせたのではないかと推測された。このことからも犯人は顔見知りという説が挙がったのだ。
後にこの事実を知った竹内は大胆な推測をたてた。犯人は片岡を殺したくはなかった、やむを得ず片岡を殺さなければならなかったのではないのか。ただの殺人犯が死者の目を閉じるはずがない。目を閉じた行為には謝罪の思いが感じられる。犯人は心優しい人物ではないかと竹内は想像した。
動機となると、それは土田たちが片岡を訪ねた理由から明らかになった。土田はここに来た経緯を、竹内に事件の調査を頼んだことも含め正直に話した。これ以上警察に不審がられるわけにはいかないからだ。筒井警部補は「素人が勝手なことをしてもらうと困るんですがね」と不平を鳴らし、「竹内ね・・・」感慨深げな顔をしていた。警察はもう一枚カードがあり、片岡が無くした事実を今日突き止め、明日話をきくつもりだったのだが、してやられたという悔しさが身に沁みていた。
なぜ、もっと早くもう一枚のカードのことを警察に知らせなかったのかと問い詰められたが、竹内及び土田がその事実を知ったのも昨日のことなので、あまり二人を責めることは出来なかった。
警察は「トリオ専務殺人事件」との関連ありとみて、同一犯ではと考えたものの、そこには重大な疑問があった。後の事情聴取により、その日トリオを最初に退出したのは土田と伊藤で、時間は六時十五分。片岡はその日五時四十分ごろ自転車で出向先を出ており、六時には寮に着いたと予測される。犯人はそれと同時に現れたか、既に待っていたのか。部屋に入り、少し話した後犯行に及んだと思われる。となると、トリオ社内の人間には時間的に実行は不可能であった。しかし、電話の件から判断すれば社内の人間しか「カード」のことを知りえる者はいない。共犯がいるのだろうか?そんな新たな疑惑が生まれ、捜査は混迷しつつあった。
竹内はその日の夜遅く事件を知った。仕事の方はなんとかかたが付き、家には帰れることになったが、戻るやいなや母親から「土田さんという人から何度も電話があったわよ」と言われたので、早速かけてみて、片岡の事を知った。竹内にとってはショックであった。もちろん、カードについて知ることが出来なかったということではなく、片岡のという事件に関係のない者の「死」という出来事がショックだったのである。自分のせいだ。そう思いはじめると竹内はその場に座り込み、しばらく動くことが出来なかった。
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