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トゥリダンの逆襲

 

    第 一 章        光 る 玉

 

         1

 

 伊藤悦子は出掛ける身支度に慌てていた。土曜日の午後は秋の気配を色濃くし、少し肌寒く感

じられる。家の周りの広葉樹もすでに落葉を終え、寂しい姿をさらしていた。家の中は暖房を取

るほど冷えてはいないが、幼い子供がいるだけあって気を使わなければいけなかった。

 悦子は結婚してもう二年を迎えようとしていた。トリオシステムプランズというコンピュータ

会社に就職し、そこで出会った後輩の男と結局は結ばれた。いま思えば、最初出会った時から、

そんな予感めいたものがあったような気がする。よく、トリオの仲間も交えて一緒に遊んでいた

が、同じB型気質のせいか互いの気も合って、個人的にも会うようになっていた。いつしか、そ

れが気づかぬうちに恋愛となり、結ばれる結果となった。というよりは、ある問題が出来上がっ

たため、結婚することになったと言ってもいい。ちょっと、そのことは失敗したかなと思っても

いたが、結果的には幸福な毎日を送っていて、過去の事はもう忘れてしまっていた。

 結婚生活はまずは順調であった。結婚後、瀬戸市内のアパートに移り住んだが、伊藤賢司の実

家に離れを新築してもらい、そこで新しい生活を始めた。伊藤はとうにトリオを退職し、今はコ

ンクリート会社の営業職に収まっている。本人には一番合っている仕事かもしれない(仕事の内

容よりも、さぼる時間が自由に取れるという点の方が大きい)。伊藤自身、結婚前とは対して変

わってはいない。一児の父親になったのにも関わらず、相変わらずチャランポランな生き方をし

ていた。まあ、悦子自身がしっかりしているから家庭内での問題はないし、それが姉さん女房の

利点かもしれない。新婚生活を楽しむ間もなく、出産を迎え今は仕事を一切せず、家事と育児に

勤しんでいる毎日だった。

 娘の美沙希はもう一才半になった。子供が子供を産むんだと友達にはからかわれたが、人に言

われる以前、自分自身が母親になったのが信じられなかった。子供は好きな方だが、いざ、育て

るとなるとそれは大変だ。育児本を買い揃え、今までにないほどの勉強をして、出産に備えた。

その甲斐あってか、出産は安産で思ったほど苦しまなかった。それには秘密があった。陣痛を感

じ病院へ運ばれた時、悦子はこっそりあるペンダントを握っていた。金の環に三つの透明な玉の

付いたペンダントだ。そのペンダントの出所は夫の伊藤でさえ知らない。悦子は分娩室に入った

時もそれを懐に忍ばせていた。陣痛の痛みを感じ始め、そのペンダントを握るとほのかな暖かみ

が掌から体中に伝わり、肉体的な苦しみと精神的な不安を和らげてくれた。新たな命の芽生えと

共に、子供の泣き声が病室内にこだますると、彼女は人生最良の喜びを感じた。ただ、この瞬間

を以前に見ていた記憶、デジャビューがあった。あの夢のような冒険の時にこの竜玉の力によっ

てかいま見た情景である。逆に言えば、この現実が未来にあったからこそ、あの時魔女の術策に

陥ることはなかったのだ。ただ、夢と違ったのは夫の伊藤が出産の時にそばにいなかったことだ

けだった。伊藤は仕事で遅れたと言っていたが、ほんとかどうか怪しいものだった。

 美沙希が産まれてからは子供が中心の生活になり、あまり伊藤の事は顧みることがなくなった。

本人もその方がいいのか、以前と変わらない気儘な毎日を過ごしているようで、夫婦になったと

いう実感が湧いてこなかった。まあ、互いにB型同士だから、バラバラになるのは分かりきって

いたことなので、気にもしていないし、今は子供の方が大事であった。

 今日はトリオの仲間たちと会う予定になっていた。水野美香のお誘いで、久し振りに多くの同

僚が一堂に会するというものである。結婚してからは電話以外で彼らと会ったことはなかった。

なにぶん育児と家事に忙しく、家を開ける暇がない。ただ、今回は美香からの「結婚二周年を祝

いましょうよ」という強い要請もあり、悦子も承諾した。それに、たまには懐かし面々に会いた

い懐旧の念にもかられていたからだ。美沙希の方は知立の実家に預ける手筈となっていた。

 ところが、急に実家の方で諸用が発生し、美沙希を託すことが出来なくなった。どうしようか

と悦子は悩み、一度伊藤の会社を通じて本人と連絡を取った。

「家の方が都合で美沙希を預けられなくなったの。どうする?」

「そりゃ、困ったな。しかし、桑原、じゃやない、水野さんのお誘いだし断るのも悪いだろ。そ

れに俺だけ行ってもいいけど、ここに迎えに来てもらわなきゃ、行けないのは変わらないからさ

・・・」伊藤は電話口から言った。今日は客先に行っていたのだが、悦子と二人で集まりに行く

つもりだったので、自分で車を運転してはいかなかったのだ。客先までは同僚の人に乗せてもら

い、その同僚だけは別の客先に行くため、先に出ていた。しかし、今伊藤がいるところは、山の

奥のため、電車やバスなどの交通手段はなく、車だけが唯一の輸送手段であった。「お客さんの

車に同乗させてもらってもいいんだけど、今日はここの終業時間は遅いからな。下手すると間に

合わなくなっちまうしな」

「そうね、美香さんが絶対来てよねて言っていたから、今更行けないというのも何だし・・・。

こっちも皆忙しくて、お祖母さんもお出かけでしょ、見てくれる人はいないわ」

「じゃ、しょうがないな。美沙希も連れていこう。人見知りする子じゃないし、泣いたりはしな

いだろ。早めにおいとまさせてもらえばいいじゃないかな」

「そう?ちょっと心配だけど、そうね・・・。あなたが、あんまり家にいないせいか、美沙希、

どの男の人を見ても笑っているから、大丈夫よね」

「おいおい、そんな皮肉言うなよ。ったく」伊藤は電話口から舌打ちをした。

「本当のことでしょ、じゃ、美沙希も連れていくわ。予定通りに迎えに行くから、それでいいわ

ね」

「ああ、分かったよ。待っている」悦子は受話器を置いたが、それからが忙しかった。自分の準

備もしつつ、美沙希の出掛ける支度もしなくてはいけない。子供と出掛けるのは結構大変なもの

である。まだおむつが完全に取れていないので、その予備も支度しておかなければならない。箪

笥を引っ張りだしては、手っとり早く最低限の必需品をバックに詰め込んだ。

 美沙希はもうよちよちながら歩けるようにはなっていた。ちょっと目を離した隙にも部屋をう

ろつき、危ない目にもあいそうなくらいだ。お出かけ用のベビー服に着替えた美沙希は補助歩行

器につかまりながら、部屋を行き来している。悦子はそれを気にしながら、出掛ける準備を進め

ていた。補乳瓶が見つからないので、台所の方へ動いていった。その時、美沙希は開けっぱなし

の箪笥の引き出しにぶつかった。開いているのは一番下の引き出しで、赤ん坊でも覗き込める位

置だ。何にでも興味を示す赤ん坊は、その引き出しの縁に手を掛けた。補助歩行器の端が引き出

しの側面に接したが、美沙希はそのままの体制で、中の物をまさぐることができた。

 引き出しの隅に十センチ四方ほどの紙の箱があった。蓋も紙なので赤ん坊にも簡単に開けられ

る。美沙希は蓋をどけると、中にある金色の環っかを見つめた。二センチほどの太さの環には均

等な位置に三つの透明な玉が付いている。美沙希は不思議な物を見る目つきで小首を傾げた。そ

の環と玉が微かな光を放ち、美沙希の瞳にそれが映った。美沙希は好奇心からそれを手に取ろう

とした。補助歩行器に体がつかえ、ぎりぎりの範囲でやっと手が届いた。赤ん坊にとっては金属

の環とガラスのような玉は見た目はかなりの重量があるはようだが、実際にはすごく軽いもので

あった。

 玉がまた光った。その光を美沙希が浴びると同時に彼女は満身の笑顔を顔中にほころばせた。

美沙希にとり、それは母親の腕の中に抱かれているのと同じ様な心地よさであった。そして、自

分が母親の体内に宿っていた時の感覚をも思い出させていた。お出掛け用の服には胸のところに

ドラえもんの異次元ポケットみたいな大きなポケットがあり、美沙希はそれを仕舞い込んだ。時

々、これを来て出掛けるときは周りにあるものを何でも入れる癖がついていた。彼女はそれを入

れた時、台所の方から悦子が慌てて近づいてきた。

「だめよ。美沙希、箪笥をオイタしたら・・・」悦子は美沙希を箪笥から引きは離し、引き出し

を閉めて彼女をかかえた。

「それじゃ、出掛けましょうね。パパを迎えに行ってから、いろんなおばさん、おじさんい会い

ましょう」

 悦子は、今美沙希が覗いていた引き出しにあの竜玉が入っていたのをすっかり忘却していた。

出産のあと、大事に仕舞っておいたのだが、毎日の忙しさに紛れて徐々に竜玉とあの冒険のこと

を忘れ去っていた。

 悦子は美沙希を抱えながら、バックを持って外に出た。

───今日はこの子やけに機嫌がいいわね。出掛けるのが好きなのかしら?

 ニコニコと笑い放しのわが子を見ては、悦子は自分に似ているのかなと親馬鹿な思いを募らせ

た。

 

 悦子は愛車の白いシビックを繰り出した。大学を卒業して仕事に就き、親に援助してもらいな

がらも買った大事な車で、独身のころから乗り回していた。なぜ、この車が好きだというと、そ

の理由はシートにある。女性の中でも小柄な方な悦子は普通の車に乗ってしまうと、後方から見

た場合、誰も乗っていない無人車に見られてしまうのが嫌だった。その点この車はシートのヘッ

ドの部分に穴があいているので、後ろからも乗っていると確認できるのだ。些細なことにこだわ

る女性である。結婚してからも、車だけはこっちに持ってきた。慣れた車だし、伊藤家の車に彼

女には乗れなかった。両親の車はセダンの大型車だし、伊藤の車も悦子には絶対に運転できない

スポーツカーのフェアレディZでは、無理もない。そのZも今はもう姿を消していた。独身の時

はどんな車でもよかったが、結婚して特に子供が産まれたのでは、ツードアクーペの車は少々不

便である。Zを手放すのは偲びなかったが、家族の半ば強制的な勧めもあって、伊藤はRVRと

いうファミリー向けRV車を買うことになった。その割りにはRVRはあまり利用されず、伊藤

でさえ小回りがきくこのシビックを仕事にも使っていた。

 だが、この大事な車も一度大破したことがあった。悦子の不注意な運転で電柱に激突したこと

がある。原因は彼女自身だけではなかった。普段は慎重なドライブをする彼女も時には激情的な

衝動で無茶をすることもあったのだ。

 しかし、その事故も彼女にとっては怪我の巧妙で、思わぬ効果を生んでいた。一つは離れかけ

た伊藤との絆をより深くしたこと。そしてもう一つが自分の住む世界とは異なる「トーセ」の街

と、そこに住む人々との出会いであった。あの事故がなければあの街に行くこともなかったはず

だ。フーミやヒロチーカ、そして、ジーケンイットらの高潔で素晴らしい人たちにも会えなかっ

たはずだ。それを思うと、あの事故は何か運命的な巡り合わせのような気がしてくる。だが、そ

れも遠い過去のように思えてきた。本当に自分はあの世界に行ったのか?単に事故で気を失って

いた時の夢か幻ではなかったのだろうか。ジーケンイットやリオカはいつか見た映画の中の人物

ではないのだろうか?最近そんなふうに思えるようになっていた。

 忙しさに紛れ、人間が本来忘れてはならない夢や希望を失ってしまうと、実際に体験した一生

の宝のような出来事も記憶の片隅に消えていくものなのだろうか。特に尋常でない奇異な経験を

したことほど、鮮烈な印象をその時は感じながらも、その突飛すぎる出来事に現実と虚実の区別

が、時が経つほどに記憶の奥底に押しやっていく。悦子にしても、今は美沙希の事しか頭になか

った。そのためか、トーセの街に行ったという唯一の物的証拠──竜玉のペンダント──のこと

も、すでに記憶の表面からは消えていた。むろん、その竜玉が今、同じ車に乗っている娘のポケ

ットに入っているなどとは露ほども気づいていない。

 美沙希はシビックの後部座席に置かれたベビー用の補助シートの中で眠っていた。さっきまで

は、シートに座りながらもやけにはしゃいだ様子で、ずっと声をあげながら笑っていた。いつも

愛想を振りまいている愛らしい子ではあるが、今日は特にその表情が顕著であった。久し振りに

外に出たり、車に乗ったことが嬉しいのだろうか?

 静かになったなと思ってルームミラー越しに覗いてみると、いつしか娘はすやすやと眠ってい

た。しかし、その寝顔もどこか楽しそうな笑顔を湛えていた。そんな子供の顔を見ていると自分

も幸せな気持ちになっていく。悦子は伊藤が待つ、川沿いの工場に向け車を進めた。

 

 伊藤賢司は仕事を終え、工場の門の前で待っていた。仕事と言っても大したことをしているの

ではない。今日の作業は立会いだけで、ほとんど無為な時間を過ごしていた。楽と言えば楽だが、

それはそれで苦労が付きまとう仕事なのだ。営業というだけあって、あちこち出掛けたり飛び込

みもしたりする。会社に戻れば、昔の杵柄のせいかパソコンの作業をさせられてしまうし、土曜

日も出勤だったりして、遊ぶ暇もなくなってしまった。また、転職しようかなと思ってはいても、

一人身ではないこの身分ではそう簡単に事は運べない。トリオにいた時でもなんだかんだ言って

四年近く働いたことになる。飽きっぽく、何事にも長続きしない伊藤ではあるが、意外と生真面

目なところもあるんだなと自負していた。

 山の中にある工場なので空気も冷たく、まだ、コートを着る季節でもないが、スーツ姿のまま

では弱い風でもさえ肌寒さを感じる。事務所の中で待ってても良かったのだが、さすがに妻が迎

えに来るとなると、少々恥ずかしくここで待つはめとなった。どうせ、遅れてくるだろうと思い、

約束の時間より十分ほど経ってから外に出たが、その後十分を過ぎても妻は現れなかった。

───本当に来るのだろうか?忘れてやいないか?

 と、ちょっと疑ったりもしたが、そう思ったのと同時にやっと車がやって来た。

「待った?」悦子は運転席のウィンドゥを下ろし、顔を出した。

「遅いよ。寒くて死にそうだよ」伊藤はわざと震えてみせた。

「何、言ってんの。真冬じゃあるまいし、あんたみたいな人がそう簡単に死ぬわけないでしょ」

「へえへえ・・・、分かりやした」伊藤は口答えをやめ、運転席側のドアを開け、席を替わるよ

う促した。悦子は車の前を回って助手席側にいき、車に乗り込んだ。

 伊藤は珍しくシートベルトをしながら、後部座席の美沙希を見ようとした。父親の存在に気が

ついたのか、娘は目を覚まし伊藤を見つけると手を伸ばして笑い始めた。

「今日は機嫌がいいのかな?妙に嬉しそうに笑っているけど・・・」

「そうなの、家を出てからずっとこうなの。さっきまでは少し眠っていたんだけど、パパが来た

らまた楽しそうにしているわ。久し振りに会ったから嬉しいのかしら」悦子は少し皮肉を込めて

言った。

「おい、おい、それじゃ俺が全然帰ってないみたいじゃないか」伊藤が反論を唱えたが、すぐに

切り返された。

「だってそうでしょ、昨日だって帰りが遅かったから、美沙希には会ってないんじゃないの?」

「そりゃ、確かに・・・、昨日は遅かったけど・・・、こっちにも都合というものが・・・」伊

藤は言葉に詰まりながら弁明を述べようとした。本当はパチンコに行っていて、遅くなったのだ

がそんなことは口が裂けても言えなかい。だが、妻がそれを感づいていることも、多少は承知し

ていた。だから、墓穴を掘るようなことは言わないよう言葉を選んでいた。

 美沙希はそんな夫婦の会話も意に介さない様子で生えはじめた歯を覗かせて笑っている。

 伊藤は車を動かし、一旦工場内に乗り入れてからUターンをして名古屋の街に向かった。

「今日は誰が来るの」伊藤が悦子に尋ねた。

「うん、美香さんや藤井さん、青山さんに、ワンさんも来るのかな。それから史ちゃんや珍しく

真野ちゃんも来るとか言っていたわね。それと、そうそう、ツッチャンも来るらしいわよ」

「何だー、わざわざ東京から来るんだ。ツッチーも暇なんだな〜」伊藤は惚けた口調で言った。

「全部で十七、八人くらい来るとか言っていたから、お店も喜多満を予約したらしいわよ」

「ふーん、喜多満だったんだ。すっかり忘れていた」

「あれっ、前にもちゃんと言ったじゃない。それじゃ、どこに向かうつもりだったの?」

「いや、適当に名古屋に向かえば案内してくれるかなと思って・・・」

「ったく、しょうがない人ね」山田は呆れながらもそんな伊藤が好きだった。

 

         2

 

 水野美香は久し振りにトリオのメンバーで集まりたいなと考え、飲み会でもしようかと思い立

った。今は彼女自身もトリオを辞め、同じ様な別の職場で働いている。結婚を機に一宮を離れ、

夫と共に名古屋の住宅街に越してきた。ちょっと古い集合住宅だが、環境的には街の度真ん中で

ないので、生活はしやすい。結婚して三年近く過ぎたが、生活はそれなりに充実していた。ただ、

子供がまだなのがちょっと物足りないのだが、これも天の恵である、深く考えたところでも仕方

がなかった。

 彼女が以前勤めていたトリオシステムプランズというソフトウェアー会社もバブル崩壊後の平

成不況には大きな打撃を食らっていた。その波及が最も影響するのは働いている社員であり、人

員整理の方も徐々に進められていった。女性社員は社員からバイトという形にされ、給与面の削

減を余儀なくされた。能力のない者は、管理職の提言(強制)により退職の方向に促されていっ

た。また、それなりに力のある者も、辞意を表明すると「去るものは追わず」という経営陣の考

え通り、以前のような引き止めは全く無くなっていた。社員の方も、元来こんな会社に長居しよ

うとは思っていなかったので、退職後の目算や目処がたち、また結婚など人生の転機を迎える者

はここぞとばかり退職していった。結果的にトリオに勤めていた大部分の人が、この職場を去り

新しい生活を営んでいる。中堅どろこが次々と辞めていってしまったため、年配の管理職と若輩

の新入社員ばかり残り、会社としてのレベルも以前に比べれば落ちている状況だ。だが、倒産と

いう最悪の結果だけは何とか免れた。この大不況の中で中小のコンピュータ関連企業が生き残っ

ているのは奇跡に近い。

 こうして、一番景気のよかった時のメンバーはてんでんばらばらになっていった。この時代の

社員は能力的にも高水準を保ち、人望的にも厚いものがあった。一般社員のまとまりはよく、大

企業にはないアットホームなつながりが個々の間にあり、年齢や上下関係を感じさせない楽しさ

がいつも充満していた。それ以上に各人が個性的で、傍から見ていても飽きさせない連中だった

かもしれない。

 楽しいことばかりでもなかった。トリオのメンバーにとっては辛く悲しい出来事が数多くあっ

たのも事実だ。専務殺害事件がその始まりであり、また最も悲劇的な事件であった。誰もがその

ことに心を痛め、悲しみに打ちひしがれた。片岡伸二と鈴木康弘、そして、樋口昌洋の死は衝撃

的なものであった。運命的なその巡り合わせが悲劇を生んだのは間違いない。誰にも止めること

が出来ない激流の流れだったかもしれない。だが、悲しみはそれだけではなかった。一年後、乗

鞍高原で起きた悲劇も大きな波紋を呼んでいた。陰惨で計画的なこの事件は皆の心に大きな傷痕

を残してしまった。その後も、大事には至らなかったが、トリオの大きな仕事の渦中での社員失

踪事件、世間を騒がせた知多半島の連続殺人事件にも巻き込まれ、ある意味では踏んだり蹴った

りの時期でもあった。

 それを救ってくれたのは竹内正典という社員の一人であった。見掛けとは異なる明晰な頭脳と

洞察力、機敏な行動力と判断力を持ったこの男がいたからこそ、トリオが事件の中に没すること

がなかったと言っても過言ではない。そのことはトリオのメンバーも重々承知しており、彼の存

在が大きなものだということを皆あらためて悟っていた。逆に言えば、このような不幸な事件が

あったからこそ、互いのつながりを強くし、相手に対する思いやりや労りを強固なものにしてい

ったのかもしれない。それぞれの人たちがそれぞれ奇異な出来事や事件を体験をしている。それ

ゆえに、相手の苦しみや戸惑い、そして喜びが分かりあえていた。

 美香はトリオのことを思い浮かべると、いろいろな思い出が脳裏に巡り、心から当時の仲間に

会いたいと思った。当時から親しかった人などとは時々電話で連絡を取り合ってはいるが、疎遠

になっている人も多かった。それなり、仕事も忙しいし、相手も同様なので頻繁に会うこともで

きない。それに、結婚や転職で現在の状況がつかめない人たちも少なくなかった。今頃はどこで

何をしているのだろうと思ってしまう人も多い。

 善は急げとばかり、早速あちこちに連絡を取り始めた。昔の名簿を引っ張りだし、引っ越しや

結婚した者には、年賀状や連絡の取れた人たちからの情報でなんとか電話をつなげることができ

た。だいたいの都合を考慮して、日取りと場所を設定した。どうしても出席が無理な人や、音信

不通状態の人もいたが、二十人近くの人が出席できることになった。中でも伊藤夫妻、特に夫人

の伊藤悦子に対しては出てほしいと強く要望した。互いに結婚してから会うこともなく、連絡も

年賀状ぐらいだけだったので、再会を切望していたのだ。子供のことも聞きたいし、結婚や出産

のお祝いもきちんと述べていなかったことがその気持ちをより増長させていた。悦子の方でも会

いたいのはやまやまであったが、何しろ幼い子供がいるので手を離す暇がなく、本来大の酒好き

にも関わらず、結婚後はそういった機会とも離れている状態であったらしい。それでも、今回は

美香からのお誘いともあって、夫婦での出席を快く承諾してくれて、美香も嬉しかった。

 それと、土田道幸が来るというのも朗報であった。土田は美香が結婚した直後、すぐにトリオ

を辞め、東京の方に行ってしまったからだ。何度か電話や手紙で話はしたのだが、実際に会うの

は三年振りぐらいになる。今回はわざわざ、名古屋まで帰ってくるというのだから、暇人なのか

なと思いつつも、美香にとっては楽しみの一つであった。

 場所はトリオのメンバーなら誰でも知っている御用足しの店、喜多満という居酒屋にした。送

別会や新年会など大きなイベントや、単なる飲み会にも頻繁に利用する店である。「大」という

もう一件の馴染みの店が栄の方に移転してしまったので、ここが憩いの場所になっていた。お値

段も手頃な物ばかりで、料理に関しては他の店とあまり変わらないものの、日本中の名酒が飲め

るという点が皆に好かれているのだ。連絡の過程で秋山浩代と話した時、喜多満の事が話題に上

がり、そこなら誰も文句を言わないと思って決めたのだ。彼女から店の電話番号を聞いて予約を

入れた。その後、多少の人員の変動はあったものの、当初の予定の人たちが来ることに収まり、

予約日の前日にもう一度確認の電話を入れておいたが、その時になって、予約した店がいつもの

店でなく同じ屋号でも別の支店であることが分かり、慌てて出席者全員に連絡を入れ直した次第

だ。

 前夜に連絡の付かない者もいたが、翌日には何とかなった。一番遠くから来る土田につながる

か心配であったが、彼は前日のうちに実家に帰っており、連絡が付いたうえに他の人への伝言ま

で頼んしまった。そして、当日が来た。見えない時間の流れという不思議な力が今動きだしたの

を誰一人気付いてはいない。

 

 美香は午後五時には家を出た。夫も今日は友人と出掛けて帰りが遅いはずなので夕食などの支

度もしていない。家の付近は団地やマンションの集まる名古屋でも有数の住宅地で、癌センター

も近くにあるせいか、栄や名古屋周辺に出掛ける交通の便はいい。そのうち、本山から大曽根ま

でつながる地下鉄が何年後かにはできるのでもっと便利が良くなるだろう。しかし、それまでこ

こにいるかは分からない。今は夫とともに一生懸命働いて、マイホームかマンションを見つける

のが目標でもあるからだ。今日は名古屋駅まで行くので、基幹バスに乗った。いつもなら、本山

までバスに乗って地下鉄で行くのだが、職場に行く定期がちょうど切れていたので今日は別ルー

トを通った。古出来町へ向かうこのバスは全国でも珍しい、道路の中央をバス専用道が走ってい

る道を進む。今日は土曜日なので専用でなく優先であるが、それほどの混雑はしておらず三十分

で名古屋駅に着いた。

 少し買い物をしてからまだ時間があるので、名古屋の地下街の一つ、ユニモールにある喫茶店

でコーヒーでも飲んで時間を潰すことにした。店自体が階段状になっている店で、通路側に座る

と地下街を歩く人の姿がよく見える。昔はトリオへ通勤するためにここを毎日通ったものだと、

ちょっとだけ感慨深げに昔を思い出した。向かいにある絵画店も帰りなどはよく足を止めては眺

めていたものだ。いつか、安いものでも買おうかなと思っていたのに結局買う機会を逸してしま

った。

 七時十五分前になったので、店を出て地上に出る出口を登った。丁度地上に出た時、秋山浩代

とばったり出会った。

「あっ、美香さん」と浩代が声を掛けると、美香も驚いて拍子抜けした声で言った。

「あっら、ワンさん、ビックリするじゃない。今、来たとこ?」

「ええ、そうよ。そういえば、御免なさいね、私が新しい方の喜多満の電話番号を教えたばっか

りに大変だったみたいで」

「ああ、いいんですよ、私の方がしっかり確認しなかったんですから」

 二人は並んで歩きだした。秋も深まり七時になるとすでに外は真っ暗である。昼間は暖かなの

に日がかげると急に冷え込んでくる。二人は桜通りから曲がって人通りの無い二車線の道を進ん

だ。

「で、今日は何人来るの?この間は十人くらいとか言っていたけど・・・」浩代が尋ねた。

「全部で十八人かな。結構集まりましたよ。悦ちゃんも伊藤君と来ますし、ツッチーもわざわざ

東京から来ますから」

「へえ、凄いわね。久々っていう人ばかりかもね」

 小学校の校庭脇を進み、信号のところまで来ると喜多満の看板が見え始める。

「あそこですか?」美香が指を指した。

「ええ、そうよ、美香さん、来たことないんだ?てっきり知っていると思ったわ」

「初めてですよ。向こうの店はよく行くんですけど。でも、何か、私ならどんな居酒屋でも知っ

ているというような言い方ですね」

「あら、そうじゃなかったかしら、ふふふ・・・」

「もう、ワンさんったら」美香はいじけた口調をした。

 信号のある交差点を超えるとすぐに店となる。引き戸を開けて中に入ると店の人が出てきた。

一階はカウンターとテーブル席があるが、土曜日のせいか店の中は客が疎らにしかいない。

「あの、水野で予約してあるのですけど?」美香がきいた。

「はい、お待ちしておりました。三階の左側のお部屋ですのでお上がりください」と若い店員の

女の子が答えた。

 狭い階段を三階まで上ると廊下の両側に襖で仕切られた座敷がある。左側の方の床にはすでに

靴が並んでおり、部屋の仲からも話声が聞こえてきた。

 美香は靴を脱いで襖を開けると「今晩は、お待たせしました」と、明るい声でいい、浩代も続

いて入った。

「ワンさん、久し振り〜」と入り口の近くにいた真野祐子が声を掛けると、浩代も手を振りなが

ら、「真野ちゃん、元気〜」と陽気に答えた。

 すでに部屋には数人の男女が座して談笑していた。青山真治などは早く酒が飲みたいなという

顔つきで「幹事が遅くてどうするんだ」といつものからかう言いぐさを美香に向かって言い放っ

た。

「御免なさい。でも、いつものことだから許して、青ちゃん」と、美香も懲りずに言い返した。

 青山の向かい側にはスーツ姿の藤井幹弘がいた。今日は休日出勤の帰りなのだろうか。藤井は

いまだトリオに残っている数少ない人物である。

「藤井さん、仕事だったんですか?」美香は彼の隣に座って尋ねた。

「まあ、何かと忙しくてね。今じゃこれを持つ身だよ」と藤井はお尻を美香に向けた。腰のベル

トには携帯電話のフォルダーが取り付けてある。

「水野課長は元気?」美香は思い出したように言った。

「ん、課長は元気さー、相変わらずだよ」藤井は髪を手で触る癖を見せながら言った。

 藤井の隣には古井孝士が座っており、青山たちとくだらなさそうな話をしている。彼もまだ現

役のトリオ社員であるが、いまだに外(出向)に出ている身分で、自分の会社よりその出先の方

での生活が長くなっている。それだからこそトリオに残っているのかもしれない。

「古井君も久し振りね、まだT社にいるそうだけど・・・」美香は藤井を挟んできいた。

「ええ、いますよ。本当、僕、トリオの人間というよりは完全にT社の人間みたいなものですか

らね。まあ、片岡さんの弟子としてやってかなきゃいけないですから・・・」

「そう・・・」片岡の名を出されると美香にとっては辛いものがある。数年前の事とはいえ、あ

の時の悲しみを今も忘れたことはない。感受性のつよい彼女にとり、片岡を始め、樋口や鈴木な

どの死は耐えられない衝撃であった。表面上は平静を保ってはいたが、心の痛みはそう簡単には

拭えなかい。特に、乗鞍の事件における林田の死は強烈なものであり、よくあの時狂乱しなかっ

たといまさらに思えるほどのショックであったのだ。今でもその犯人に対しては許しを与える気

にはなっていない。二度と会うことは無いだろうが・・・。

 青山の隣には前沢暁がいた。彼もまだトリオの現役であるが古井と同じように外に出ている身

分らしい。今度は彼に声をかけた。「前ちゃんも元気ね。全然変わってないみたいだけど」

「ええ、まあ」前沢はいつものようにペコペコ頭を振って答えた。

「香織ちゃんも、元気?いつ、結婚するのよ。もう、随分長い付き合いなんだからさ」前沢は元

トリオの総務部にいた榊原香織と付き合っている。そのことを尋ねると前沢は「ええ、まあ、そ

の、何とか」と照れながら曖昧に言うのみであった。

「前ちゃん、ハッキリしなさいよ。脇田たちの方が先に結婚しちゃったんだから、遅れをとって

いるわよ」

 美香の言葉が聞こえたのか前沢たちとは反対側にいる酒井と妻の奈緒美がこちらを見た。

「桑原さん。何か言いましたか・・・」奈緒美は長い髪を撫でながら言った。「ああ、すいませ

ん、もう桑原さんじゃなかったんですね。つい、癖で」

「いいのよ、脇田・・・って、私も言っちゃったけど、酒井夫人よね。今は・・・」脇田奈緒美

はトリオ入社時から付き合っていた酒井明徳と、最近結婚したばかりであった。二人とも、トリ

オは辞めていて、酒井は営業のような仕事を今はしている。奈緒美の方は完全な主婦業だ。彼女

が奥さんになったのかと思っても外見からはとてもそんな感じはしない。いまだにキャピキャピ

した現代子というイメージが消えないのだ。そういう美香も人のことは言えないが・・・。

「いえね、酒井君もちゃんとけじめを付けたから、前ちゃんも早くしないきゃと思って」

「そうよ、前ちゃん、いい加減にぴしっと決めなきゃ」と、前沢の隣にいた祐子が彼の背中を叩

いた。

 前沢はまた「ええ、まあ」と相変わらず不甲斐ない答えしかしていない。

「でも、そう言う真野ちゃんもいい加減に身をかためなきゃいけない時期じゃないの?」浩代は

祐子に向かって厳しいことを言った。確かに祐子の同期以上で結婚していないのは彼女ぐらいで

ある。男の方もほとんど片づいているし、女性に限っては祐子が最古参になってしまい、今では

後輩たちに先を越される身分になっている。

「ワンさんったら、私はいいの、別に。いい嫁さんが見つからないんですから・・・」祐子は適

当に誤魔化していた。

「真野さん、お嫁さんが欲しいんですか?」祐子の正面にいた渡辺史子が驚いた様子で尋ねた。

彼女も他の女性陣と同じように、トリオからはとっくに離れているが、結局は別の職場で同じ様

なことをしていた。

「ええ、欲しいわよ。炊事、洗濯、掃除。何でもしてくれる人がいいわ。そうしたら、私が楽で

きるでしょ」祐子は澄ました顔で答えた。

「真野さんったら、真野さんこそいいお嫁さんなると思うんですけど・・・」

「でも、史ちゃんだってまだでしょ。それとも、もう予定が決まっているの?」

「いえ、私もまだ、全然・・・」史子は慌てて否定したが、真野はニヤリと笑ってみせた。

 こうしてみると美香は皆、そういう歳なのかと思えてならない。二十代前半で結婚などあまり

念頭になかった人たちが、今ではそれぞれに身を固め、また、その方向で進んでいる。最終的に

は社内恋愛で結ばれた人が多い。今日は来ていないが、和田健二も後輩である加藤千尋と結婚し、

今では一児のパパであると聞いている。出会いの少ない都会の生活ではそうならざるを得ないか

もしれないが、幸せならそれでいいのだろう。人との出会いなど大したきっかけではないのだ。

人と人との巡り合いなど、それは運命の流れにおけるある一点でしかない。それが、その人の人

生にどう影響するかはその人次第なのだ。ここにいる誰もが、その一点をナイスキャッチし幸せ

足る生活を送っている。短くしてこの世を去った仲間を思えば、どんなに自分が幸福か、そのこ

とを心に刻んでおかなければいけないのだ。

「美香さん、もう七時だけど、どうする?まだ、来ていない人もいるみたいだけど」青山はいい

加減に酒を飲ませろと言いたげに、声を張り上げた。

「そうね、まあいつもの事だから、先に始めておきましょうか?じゃ、適当にビールを注いでく

ださい」美香がそう言うと、一斉にテーブルの上に置かれたビールの栓が抜けれ、あちこちでコ

ップにビールが注ぎ込まれた。全員の準備が整うと、一応幹事である美香が音頭を取ることにな

った。

 美香はあらたまって、「では、お忙しいところ有り難うございます。今日はこうして古き良き

仲間が集えたことを喜ばしく思います。皆さんとの再会を祝して乾杯!」

 美香の一声に続いて皆が倣い、「乾杯!」とコップの音がこだました。一時の安らぎが、彼ら

の中に流れたが、それは本当に一時でしかなかった。

 

         3

 

 松浦美砂は早足で進んでいた。約束の七時には間に合いそうもないが、誰もそんな事を咎める

人などいないので、慌ててはいない。美砂も既にトリオからは足を洗っており、今はコンピュー

ター関連の専門学校に勤めている。事務とティーチャーを兼任しているのだが、人に教えること

は案外楽しいものだと、この仕事を始めて知った。以前、トリオでも新入社員の教育を行ったこ

ともあるが、まあ、あの時には言うこときかねえ若造がいて、堪忍袋が切れかかったり苦労した

ものだったが、今は完全教師であるのでそのへんはきちんと弁えている。というより、二十歳に

も満たないガキになめられてはなるものかという意気込みで接しているので、学生たちも彼女の

威圧を察しているのか、美砂の前では皆わりかしおとなしい。当然、陰では何がしら言われてい

るはずだが、自分だって学生の時分にはいろいろ先生に対して言ったものだ。こういう事は輪廻

転生みたいに学校という枠組みのなかでは永遠に繰り返されることなので、いちいち気にしてな

どはいられない。生活はそれなりに満足しているし、トリオにいたころと比べれば気が楽という

ものだ。ただ、学校ということで、休日が平日になってしまうのがやや不満だが、遅く出勤でき

る日もあるので、贅沢は言ってられない。

 今日も授業と残務的な事務を整理してから駆けつけた。学校は名古屋駅前なので、喜多満に行

くのは随分都合がいい(本店の方がもっと近いのだが)。桜通りを横切って、暗く狭い道に入っ

た時、目前に見たことのある男を見つけて声をかけた。

「あら、ツッチーじゃないの。今、来たところ?」

「なんだ、松浦さんですか。学校の帰りですか?」土田道幸は驚いた様子で振り返った。

「ええ、そうよ。ツッチー、今、名古屋なの?今日来ているということは?」

「いえ、違いますよ。まだ、僕は東京の方に住んでますよ。今日はわざわざこれの為に帰ってき

たんじゃないですか。松浦さんに会うために!」

「あら、そうなの御苦労さんね。新幹線で?」

「いえ、金がないから高速バスで帰ってきて、昨日着いたばっかなんです」

「それは、それは・・・」

「喜多満はこっちでいいんですよね。新しい店なんか知らないから、美香さんの話だけではよく

分からないし、迷ったら困るので誰かいないかなとちょっとゆっくり歩いていて、松浦さんに会

ったんですよ。まあ、松浦さんなら、名古屋中の酒場を熟知していると思うので、安心できます

しね・・・」土田は不敵に笑って相変わらずの戯言を言い放った。土田はトリオの女性に対し下

らない冗談や、皮肉を言う。だが、それが的を得ているだけあって、言われる側も反論しにくい

のだ。       ........

「何、知らないわよ、そんなに。今日の喜多満でも前に本店の方に行って混んでいたから案内さ

れたことがあるんで知っているだけよ」松浦も土田のペースにはまって、言葉を返した。

「今日は結構来るそうですね、わざわざ来ているんですから、二・三人じゃ帰ってきた甲斐がな

いですからね」

「ええ、十五、六人はいるそうよ。藤井さんたちや、ワンさんとか。そうそう、伊藤君の奥さん

も来るようよ」

「そうですか?それは楽しみだな」何が楽しみなのだろうか?土田はすでに頭の中で次の標的に

対する言葉を選んでいるようだった。

 

 飲み会は既に盛り上がっていた。乾杯を行った後には飲み放題のビールが次々と消費され、テ

ーブルに並べられた料理もすぐに無くなりつつあった。話の方もある程度のグループに分かれた

り、席を移動したりしては、絶え間ない笑い声が部屋中に広がっている。

 そんな中、部屋の襖が開いた。佐藤寿晃が遅れて現れたのだ。

「どうも、どうも。仕事が片づかなくて遅れました」と、佐藤はスーツ姿のまま美香の前に座っ

た。佐藤も既にトリオの人間ではなく、退社後アルバイトとして働いていた職場にそのままそこ

の社員となり、今では店長にまでなってしまったのだ。

「佐藤君も久し振りね。元気にしてた?あっ、そうそう、結婚おめでとう。この間は手紙をもら

って嬉しかったわ。奥さんも元気?」美香は囃すような口調で言った。

「ええまあ、元気にやってますよ」佐藤は先日、長い付き合いの中田ひとみとゴールしたのだ。

佐藤は美香にビールを注がれ、周りの人と乾杯して一気に飲み干した。

 しばらくすると、土田と美砂がやって来た。二人が現れると一応に視線が集まった。三年以上

会っていない人もいるので、土田の登場はそれなりの懐かしさを感じさせるのだ。まあ、本人自

身は相も変わらずで、青山などは「ツッチー、全然変わっていないな」と大声で笑った。

 美砂は祐子と佐藤の間に、土田は美香の隣に座った。

「どうも、どうも、美香さん、お久し振りです。手紙や電話では話をしてますけど、会うのは本

と何年振りですかね。結婚式の披露宴以来のような気がしますけど」土田も美香にお酌してもら

い、乾杯をした後話しだした。

「そうね、土田君が向こうに行ってもう何年?そうか私ももう結婚三周年だから、それぐらいに

なるのかしら。でも、わざわざ、遠くから来てもらって、嬉しいわ」

「ええ、僕も久し振りですからね。美香さんに会うために帰ってきたんですから」

「また、すぐそういう事言う・・・、ほんと変わっていないわね。仕事はどうしているの?まだ、

惣菜屋さんみたいなとこ行っているわけ?」

「そうでうよ、結局学校は終わっちゃって、そのまま仕事が見つからないから、バイトを続けて

いるんですよ。何だかんだ言って、もう二年半ぐらいやってますよ」       てい

 土田は東京へデザインの勉強をするために上京したのに、結局はフリーターという体たらくな

生活をしている。それでも、元気でやっているのだからと美香は呆れ半分に思った。

「今日は大勢いますね、でも、まだ来ていない人がいるんですか?」

「そうね、竹内君に荻須君、あと伊藤夫婦がまだね」

「伊藤君か、相変わらずだな・・・」

 そう言っていると、噂をすれば何とやらで、その二人が登場した。

「やっ、お待たせ」と伊藤はニヤリと目尻に皺を寄せ、きっぱりした言いぐさで詫びる様子もな

く片手を上げて入ってきた。その後ろから子供の手を引きながら悦子が登場すると、室内がざわ

めき立った。

「悦ちゃん、元気!、ああ、娘さん連れてきたんだ」最初に浩代が歓声を上げた。

「ワンさん!久し振り、真野ちゃんも来てたんだ、元気ー。あっ、史ちゃんも・・・」悦子は周

りの人を一人一人見ながら、朗々とした声を掛けまくった。

「よう、伊藤!久し振りじゃん!」佐藤と青山の間へ座った伊藤に、青山が声を掛けてコップを

手渡した。「まあ、飲め、飲め。何だ今日は夫婦揃ってどころか、家族揃ってか?」

「ええ、ちょっとあいつの実家の方が都合悪くなって、こっちを断るのも悪いと思って、連れて

きたんですよ」

「でも、伊藤君のパパの姿が見れるなんて、滅多にないことだな」佐藤も青山に追随して、伊藤

を冷やかした。

「何、言っているんですよ。これでもちゃんと父親なんですからね!」伊藤は偉そうに胸を張っ

た。             なつ

「そのわりには娘さん、誰にでも懐いているみたいだけど。家で構ってあげていないんじゃない

?」と、美香が指摘した。伊藤の愛娘は、浩代たちの群れに囲まれはしゃいでいる。

「ええ、いや、その・・・、あの子は誰にでも懐くんですよ。はっはっはっ・・・」伊藤は引き

つって笑った。

「伊藤、お前も俺と同じで母子家庭の身分なんだな・・・」青山は感情を込めた言い方で、伊藤

の肩を叩いた。

 

 一昔前は、会社での愚痴やテレビやスポーツの事など、歳相応の話題で盛り上がっていたのだ

が、何年かが経ち、結婚や家庭を迎えた者たちの会話は随分様変わりしたものだと、昔の自分た

ち自身が傍から見ればそう思うかもしれない。女性たちは子供の事を話し、男たちも家での出来

事を話す。以前は仲間自体が大きな家族のようなものであったのが、今では核家族化してきたよ

うに感じられた。だが、それでも彼らはこうして時には集い、昔を懐かしんだり、これからの事

を話したりしている。彼らにとり、この会社で出会った人たちは家族や友人とはまた違った心の

拠り所なのかもしれない。むろん、昔のように好き放題とはいかない。学生のような浮ついた気

分はもう彼らには無かった。家庭を持ち、家族を養い、社会にも貢献しなければいけない年代な

のだ。だが、それも人間の営みとしては仕方のないことだ。子供から大人になり成人を迎え社会

人になる。そして、出会いや別れを経験して人は最良の伴侶を見つけ出し、新たな家庭を築き上

げるのだ。その永遠に変わることのない流れが、人の一生であり、そのために人は生きていく。

人は誰でも幸せを捜し求めている。その幸せの帰結は男女の愛であり、その愛の結晶である。人

がどうあれ、時代がどうあれ、人種がどうあれ、思想がどうあれ、人が人である証は決して変わ

ることはない。そして、友情というものも愛情以上に変わることはないのだ。

 悦子はこの時、まだ気付いていなかった。彼女に注がれている愛情と友情というものは今、目

の前にしている者たちからだけではないことを・・・。光の速さでも届かないような遙か彼方か

ら彼女に対し呼びかけがあることを・・・。

「悦ちゃんが母親だなんて何か信じられないわね?」浩代が彼女の娘、美沙希を抱き抱えながら

言った。

「ワンさんまでそんなこと言うんですか?もう、周りの皆からそう言われているんですから。第

一、ワンさんの方こそ、母親に見えないんじゃないですか?」悦子は口を尖らせた。浩代の方も

今年に子供を産んだばかりであった。

「どっちも、どっちだと思うわよ」祐子が二人の喧騒を止めようと横から割って入ってきた。

「もう、真野ちゃんたら、真野ちゃんこそ、いい人いないの?もう残っているの真野ちゃんだけ

じゃない?」悦子は意地悪ぽく言った。

「私はいいのよ・・・。それに、史ちゃんだってまだ仲間よ」と、墓穴を掘った祐子は話を史子

に持ってこうとした。

「史ちゃんを入れたら駄目よ。まだ、若いんだし、ねー、史ちゃん」

「でも、脇田さんには負けてしまったから、大きな事は言えません」史子は照れながら小さくな

った。

「ああそうか、脇田さんも酒井君と結婚したんだっけ、でも、ずっと二人のことは知っていたか

ら全然夫婦っていう感じがしないわね。酒井君!」悦子は御馳走に集中しているしている酒井を

はたいた。

「何するんですか?痛いじゃないですか?」酒井はマイペースな回答を示し、トイレに行こうと

席を立った。

 美沙希は浩代と悦子の間にちょこんと座り、大人の会話も気にせず、一人笑っている。

「美沙希ちゃん、笑ってばっかね、人見知りもしなくて。知らない人がいても泣いたりしないん

だ。うちの子とは随分違うわね」浩代が美沙希の小さな手を握り、笑いながら言った。

「今日はなぜかいつもより機嫌がいいの。でもそうね、この子、確かに人見知りはしないわね。

パパがパパだから、男の人を見るとすぐに懐いちゃうの。いいことか悪いことか・・・」

「伊藤君じゃ、しょうがないわね。いまだにふらふらして、大黒柱には成りえないみたいだし」

祐子は伊藤に聞こえないように小声で言ったつもりなのだが、向こうで藤井たちと話し込んでい

る伊藤の耳にはなぜか届いていた。

「何か言いました・・・?」

「うん、うん、何でもないの、伊藤君はいいパパだって話していたの」浩代がわざとらしく誤魔

化すと、伊藤も調子に乗って、「あたりまえっすよ」と満足げに笑って、また藤井たちの方に耳

を傾けた。

 祐子たちは肩を上げるジェスーチャーをして、懲りない奴だとしかめっ面をした。

 美沙希が立ち上がろうとしてふらふらとしたかと思うと、悦子の胸元に転がり込んだ。その時

彼女は美沙希のポケットを真上から覗き込み、中に何かが入っているのを見つけた。悦子は娘を

抱き抱えながら、ポケットの中に手を入れそれを取り出した。

 直径十センチほどで二センチ幅の金色の環に三つの透明な玉が均等な位置に挟まっている。周

りにいた人たちもそれに目が行き、浩代が最初に尋ねた。

「それ、なあにー、随分綺麗なものね。ペンダントか何か?」

「本当、綺麗ですね。何か、電気に照らしだされている以上に眩しく見えるし、暖かみも感じる

わ」史子が続いた。

 祐子も奈緒美も身を乗り出してそれを覗き込んだ。

 当然、悦子にはすぐさま、それが何か分かった。

───これは、竜玉だわ、懐かしい・・・。でも、なぜ今ここにあるの。どうして、美沙希が持

っているの?

 そう思ったのも束の間、美沙希が母親にそれを取られたと思い、取り返そうと小さな手を伸ば

した。その時、美沙希と悦子の手の中に納まった竜玉が急に光を放ち始めた。その光は瞬く間に

大きくなり、悦子を中心に広がっていった。

 側にいた祐子たちにも何が起こったのか全く分からず呼吸が止まった。奈緒美の悲鳴だけが聞

こえたが、その声も光に中にかき消されていった。

「おい、何だ、何だ。何が起こったんだ」と古井が叫びだしたが、光の広がりは古井たちのとこ

ろまでも達していた。皆、何が起こったのか理解するまもなく、光の中に取り囲まれ、眩しすぎ

て目が開けていられない。

「大丈夫か・・・」、「ガスでも爆発したのか・・・」、「キャー・・・」、「ウワァー・・・

」光の中から誰の声かも分からないほどの声が響いていたが、いつしかそれも静かになった。

 

         4

 

 竹内正典は迷走しながら、暗い町中をうろついてた。現在彼もトリオの人間ではなく、農協と

いう彼にしてみれば地味なところに勤めている。トリオを退職した後、一旦、広告関連の会社に

就職したが、どうも自分の方向性とは違うことを感じ始め、一年足らずでそこを辞めてしまい、

地元の農協で働くことになったのだ。今日も土曜日ではあるが、営業のような客先への仕事があ

り、六時まで駆けずり回っていた。その後、名鉄電車で名古屋まで来て、飲み会の場所向かって

いたのだ。

 美香からの場所変更の知らせは、昨日残業で夜遅く帰ったため、親からの伝言でしか聞いてい

ない。美香は竹内ぐらいの人間ならば、新しい喜多満を知っていると思い、詳しい位置の説明を

残していなかった。竹内はそれほど名古屋を知らない。昔の喜多満なら知ってはいるが、新しい

ところなど分かるはずもなかった。曖昧な伝言だけで竹内は喜多満がありそうなところをうろつ

き、探しまくったが全然見つからなかった。

 もう、諦めようかとも思った。別にどうしても行きたいわけではないし、ブッチしたところで

文句も言われないだろう。トリオを辞めてから、彼らとの付き合いもだんだん疎遠になっていっ

た。土田や伊藤など同期の連中とはちょくちょく会ったり、電話したりしていたが、土田は東京

に、伊藤も結婚してそういう機会も最近では少なくなってきた。それに、昔のように事件にお呼

びが掛かることも無くなってきて、嬉しいやつまらないやらと複雑な心境ではあった。「国道一

五五号殺人事件」以来、でかい事件にはぶつかっていない。平穏で退屈な毎日でもあったが、そ

の静けさが竹内の精気を無くしているとは本人も気付いてはいない。

 突然、美香から電話があり、今度飲み会をやるから来ないかと言われた。竹内は仕事が忙しい

のを理由に断ろうかとも思ったが、土田や伊藤を含め何年も会っていない人が来ると言われると、

旧懐の念がわき、ひとまず仕事が暇なら行くと回答しておいたのだ。その時、また何か事件に巻

き込まれないかなと一抹の不安がよぎったが、竹内は神経過敏になっているなと自分を戒めた。

だが、心の内ではそれを願っていたのかもしれない。

 十五分もうろついていて諦めかけた時、竹内を呼ぶ太い明朗な声が聞こえた。

「竹内さんじゃない。何しているの?」

「えっ、ああ、荻須さんか・・・、もしかして、今から飲み会に行くの?」暗がりの電灯の中に

体格のいい男が立っていた。竹内の同期である荻須克也だ。彼もトリオから出向していた先の関

連会社に再就職している。同期の中では最初に結婚をし、瑞浪に新居を構え、そこから通ってい

るのだ。

「そうだけど、竹内さんは?、ああ、そうかきっと迷ったんでしょ、場所が分からなくて」

「いや、実はそうなんだ。桑原さんから連絡があったんだけど、直接聞いていなかったからよく

分からなくてね。あちこち廻ったんだけど、見つからなくて。もう諦めようかと思ったら、ちょ

うど荻須と鉢合わせたっていうとこだよ。やれやれ、これで、助かった」

「竹内さんも相変わらずだな。店は、もうこの先で、信号の向こうだよ」荻須は指を指し示して

笑った。

「あっ、そうだったか、さっきあっちの方までは行ったんだけど、気付かなかったな」

「よく、そんなふうで、ああも複雑な事件を解決できるね?」

「いや、それとこれとは違うよ」

「まあ、とにかく、急ごう。もう三十分は遅れているから、喰うもん無くなっちまうぜ」

 荻須は竹内を促して、先に進んだ。竹内もホッとした表情で彼の後に付いていった。

 喜多満の店につき、店員の案内で三階まで登った時、丁度、トイレから酒井が出てくるところ

だった。

「あっ、竹内さん。お久し振りですね。お元気ですか」

 竹内は悪い癖で一瞬相手が誰か思い出せなかったが、荻須が先に「よっ、酒井君も元気か」と

話しかけたので、相手が誰か確認できた。

「そういえば、脇田さんと結婚したそうじゃないか、エンジョイしているか?」と荻須が続けた

が、今度も竹内は脇田が誰かすぐに思い出せなかった。

───そういえば、酒井君はトリオの女の子と付き合っていたっけ。どんな子だったかな・・。

 と、竹内が考えている時、目の前の襖が閉められた座敷から、悲鳴のような声が響いてきた。

「何だ、どうしたんだ」荻須が驚いて言った。

「ここに、皆がいるのか?」竹内は酒井に向かって叫び、彼が「そうです」という答えを聞かな

いうちに、座敷に上がりかけ、襖を開けようとした。

 だが、襖の隙間からは強烈な光の帯が洩れだし、竹内は開けることを瞬時ためらった。「ガス

でも爆発したのか」とういう声が聞こえ、竹内は座敷の中で鍋物でも(まだ、季節には早いが)

料理していて、そのコンロが爆発したのかと、咄嗟に思ったからだ。だが、大きな衝撃などは起

きなかった。悲鳴や怒号が聞こえたかと思うと、一瞬にして静寂になった。それとともに、襖の

隙間からこぼれていた閃光も突如収まった。

 三人の男は互いに顔を見合わせながら、怯えた表情を示した。竹内はおそるおそる、再度襖に

近づき、そっと静かに開けてみた。頭一つ分だけ開けたところで、竹内は中を覗き込み、後ろの

二人も竹内の頭の上から中をかいま見た。

 三人とも唖然とした。部屋の中には誰一人としていない。テーブルの上に盛られた料理と、そ

れを食べたあとの残骸、そして中身の無くなった数本のビール瓶が散乱しているだけだった。さ

っきの騒ぎが嘘のような静寂さで、人の気配など微塵も感じない。ビール瓶が一本テーブルから

転がり、鈍い音をたてただけだった。

「ど、どうなってんだ?」荻須が最初に口を開いた。「だ、誰もいないぞ」

「酒井君、ここに皆いたのかい?」竹内は頭の上の酒井にきいた。

「ええ、皆さんここにいたはずですけど、そんな馬鹿な・・・?」

 竹内は何が起こったのか全く把握できなかった。ただ、分かっているのは竹内が今までで出会

った事件の中で最も難解な出来事だということだけはハッキリしていた。

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このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください