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トゥリダンの逆襲

 

    第 十 章        罠

 

         1

 

 二つの太陽が沈みかけ、夕刻の色を濃くし出すころ、コトブーの一行も今日の旅の休息場所を

探していた。大きな川伝いに進んでいたので、川の曲がりくねったところにある川岸を野営地に

した。警備隊の者が準備を進めていったが、アウトドアに命を賭けている佐藤が黙ってみている

はずも無く、一緒になってテントの用意や食事の支度を手伝っている。キャンプをする道具など

何も持ってきてはいないのだが、それは佐藤だけあって自然の物を使う工夫は冴えていた。

 佐藤によって感化されていた美香や、世話好きな祐子もそれなりに手伝い、前沢も見よう見真

似で佐藤に従っていた。

「あんたたちも山で暮らしていたのか?」コトブーはそんな彼らを見て感心している。

 フーミの存在だけが少々浮いてきてしまった。城の習学ではこんな野営の勉強などするわけも

なく、何をすればいいのか分からないし、兵士たちが城の王女様にそんなことをさせようともし

なかった。だが、フーミにとっては自分だけ仲間外れみたいな気持ちになり、コトブーのところ

にいそいそと出向いていった。

「コトブー、私も何か手伝います。じっとしていても仕方がないですし」

 だが、コトブーは「別にいいぜ、王女さんは黙って見てれば。慣れないことをすると返って邪

魔だからな」と邪険にフーミを追い払った。

 仕方なく、フーミは祐子と美香のところに行って何かすることはないかと尋ねたが、彼女らも

相手が王女様では畏れ多いという意識を持っているので、「大丈夫です。自分たちでできますか

ら」と丁重に断られてしまい、少しいじけた気持ちになってきた。

 しょうがなく、川のほとりをブラブラしていると、大きな石を運んでいる前沢と佐藤を見つけ

た。

「何を運んでいるのですか?」

 佐藤は重そうな顔をして答えた。「薪を燃やすための釜戸作りに使う石です。それくらいのこ

とは道具がなくてもできますから」

「そうですか。サトウさんたちもどこかで訓練されたのですか?警備隊の者みたいに何でもでき

るようですけど」

「はっはっは、別に訓練なんかしてませんよ。好きでやっているだけなんですから」

「マエサワさんもですか?」

「僕もあまりこういうことには興味なかったんですけど、佐藤さんたちと付き合えば自然にこう

なりますよ」前沢も嬉しそうに笑った。

「あのー、私も何か手伝わせてください」懇願するようにフーミは二人を見つめた。

「手伝いって言われましてもねー」佐藤は困った顔をした。

「私を特別扱いしないでください。私の勝手で皆さんに付いてきたのですし、一緒に旅をしてい

るのですから身分のような隔たりは無くしてください。私もミカさんやマノさんと同じように接

してもらえればいいのです。兵士やコトブーは遠慮しているようですけど、まあ、それは仕方の

無いこととして。ですから、サトウさんたちだけでも・・・」

「・・・、分かりましたよ。フーミ様がそこまでおっしゃるなら、そうしましょう。その方が僕

たちにとってもいいかもしれません。失礼ですけど、僕らもあなたのような王家の人と接する機

会なんてないんで、どうすればいいのか、本当は戸惑っていたんです。お互い、自然な感じでこ

の旅をしましょう」佐藤は率直に言った。

「ありがとう、ございます。私も城にばかり籠もっているので、外の世界の人と接する機会があ

まり無く、残念だったのです。兄は昔からお忍びでどこかに出かけていますが、私にはそんなこ

とはできなかったので、この旅がチャンスだと、思い切って城から抜け出したのですから、もっ

と親交を深めなければと思っています。で、何を手伝いましょうか?」

「そうですね、それなら、前ちゃんの石の上にのっている薪を持ってやってください」

「はい」フーミは素直に従い、前沢のところに行って石の上に布で包まれた薪の束があったので

それを手に取った。

「すみません」前沢はそう言ってフーミを見つめた。

 フーミは確かに肩より長い黒髪で均整の取れた顔立ちの美しい容姿であり、王家の者という意

識を持って見れば、うなづける程の女性だ。だが、こうして普段見せない出で立ちで彼女を見る

とそういったことを感じさせないことに前沢は気付いた。鼻高ぶったり傲慢さというものが微塵

も無い。だが、彼女から漂ってくる貴賓というものは、彼女を普通の女性とは違うという意識を

みせている。二十歳ほどの歳だと前沢は思っていたが、自分より精神的には年上のような感じが

する。ジーケンイットにも言えることだが、身分の違いというものを決して前面には出さない。

しかし、自分の役割というものをしっかりと認識していることがよく分かる。

 野営地まで行くと準備はすっかり整っており、兵たちは先に食事の準備をしている。佐藤たち

は自分なりの食事を作ろうと持ってきた石で釜戸を作り、祐子たちが準備してくれた材料で日本

的な食事を作ってみた。米でもあればいいのだが、そう言った類のものはこの世界にないようで

野菜や芋類に似たものでシチューに近い料理を作ってみた。これが案外にも兵たちに好まれ、簡

素な食事ばかりをしている彼らは大いに喜んだ。

「あんたたちは、なかなかなものだな。こんな野宿というのにきちんとした食事を作るなどとは

俺も少し教わりたいぐらいだな。山では近くで取れた木の実、魚や獣を焼いたりして食べるだけ

だからな・・・」コトブーは感心しながらもおいしそうに食べまくった。

「ええ、まあ、こういうことは好きですから」佐藤は誉められて上機嫌でいた。

「コトブー、ヒヨーロさんにはこういった物を作ってもらえないのですか?」フーミが何気なく

尋ねた。

「ヒヨーロには無理だ。今は、城の生活から離れて一人で生きていくことで精いっぱいだからな。

料理はするだろうが、教えたのが俺やターニじゃろくなものが作れない。かと言って、城では料

理など給仕たちが作るのだろう?だから、食事に関してはどうしようもないな。王女さんだって

こういった物は作れないだろう?」

「そうですね、城の習学では料理に関しての項目はありませんから・・・」

「それじゃ、ヒロチーカもできないっていうのか?この先困るぞ!」

「そうですね、少し考えておきます」

「大丈夫ですよ」美香が二人の会話を聞いて言った。「女の人は結婚とすればきちんとそういう

ことはするようになりますから。私だって、結婚するまでは何にもできなかったですけど、今は

それなりにしていますから」

「そんなものかね。じゃ、サトウは男なのにどうしてこうも器用なんだ?」

「佐藤君は単に好き者というだけですよ」祐子がそう付け加えた。

「好き者って、何か変な言い方ですねー。今の世の中、男でもこれくらいのことはできなくっち

ゃだめなんですよ」佐藤はいきり立った。

「あんたたちの世界というのは変わった世界なんだな?」コトブーは不思議そうに美香たちを見

つめた。

「マエサワさん、あなたがたの世界ってどういうことですか?チーアの生活ではいつもこういっ

たことをしているのですか?」フーミは世界という意味が分からず、隣の前沢にきいた。

「えっ、ええ、そうですね。僕たちの世界は女性の方が強いですから」

「そうなのですか?」フーミも彼らを見ていて、なんとなくそのことを理解していた。

 

 フーミは慣れないテントで眠れなかった。隣の美香と祐子は疲れもあるのかぐっすりと穏やか

な寝息をかいている。彼女は気分転換にと静かにテントを出て、川岸を散歩してみた。二つの月

を囲むように星々が散らばっている景色は城から眺めているのと何ら変わりはない。だが、外の

世界をこうして望むことなどなかった彼女にとり、夜のこの景色も新鮮味があって楽しかった。

そんな物思いに耽っていると、視界の中に青白い光が映った。何だろうと興味を持つと同時に怖

いなという恐怖心もわきおこった。だが、そう思った時には遅かった。青い光を見つめてしまっ

た瞬間、フーミはその光に吸い込まれるように虚ろな足取りで近づいていった。

「ケッケッケッ、来たな。お前はもう私の虜だ。今度私の言葉が聞こえたとき、お前の意思は私

の支配下に陥る。その時までは、今のことを思い出さない。分かったか?」

 イサカの言葉をきき、フーミはゆっくりうなずいた。

「では、帰れ!いいか、私の命令を忘れるな。そして、私のことは忘れるのだ」

 フーミはそのまま反転して、テントに戻っていった。寝袋に体を包み込ませるとすぐに眠りに

つき、この夜の記憶は消え去っていった。

 

         2

 

 翌日も一行は川伝いに下っていった。美香が持つ竜玉は常に川の下流に向かって淡い光を放っ

ている。

「この川はどこまで続くのですか?」美香はコトブーにきいてみた。

「このまま、下っていくとクラワーイの集落に行くな。その手前のクラワーイ湖にこの川はつな

がる」

「じゃ、その集落とやらに竜玉はあるのですかね」佐藤が続いて尋ねた。

「そうかもしれんな。ひとまずクラワーイに向かうとするか。竜玉の方向もそちらを指している

し、距離的に言っても、今夜はそこら辺りで泊まらなくてはいけないだろうからな」

 一行はひたすら川を下りていく。土手なども整備されているわけではないので、時には川の中

に入って進まなければならない。カウホースの荷車を岩場の川に進めるのは苦労このうえないが、

強靭な警備隊の兵たちがそれを乗り越えていた。歩く者にとっては、水かさはそれほど多くはな

いので、支障を来たすことはないが、美香などは時々深みに足を取られて川の中で転び、全身を

水びたしにしていた。

 フーミも同じようによろめいたりはしているのだが、なぜかいつも側に前沢がいて彼女が足を

滑らしても素早い反応でフーミを庇っていた。

 土手の方が平坦になると、再びそちら側に戻っていった。フーミがコトブーのところに行った

時、「前ちゃん、どうしてそう王女さんのとこばっかにいるの?私なんか二回も転んで、びしょ

ぬれよ。たまには助けてくれないの?」美香は肌に付いた衣類が気持ち悪いという顔で文句を言

った。

「えっ、僕は別にそういうつもりはないんですけど、たまたまというか・・・」

「そう?さっきからべったりっていう感じだけど」祐子も怪訝な目つきで前沢を見た。

「前ちゃんも、こう見えて隅におけないからな」佐藤までからかい始めた。

「・・・・・・」前沢は返す言葉も無く、押し黙ってしまった。

 フーミが戻ってきて前沢の顔付きを見てから言った。「どうかされましたか?」

「いえ、別に・・・」

「そうですか?」フーミはそう言いながらニコリと笑うと、前沢は照れたように瞬きを早めた。

 

 川の流れが遅くなり始めると前方に湖が見え始めた。湖畔のそばまで来て全体を眺めたがそれ

ほど大きな湖ではなく、立っている位置からでも一望でき、一周するにもそれほど大変ではない

ぐらいの湖だ。反対側の湖岸に数軒の建物が見え、人が住んでいる気配があった。

「あれがクラワーイの集落ですか?」祐子はコトブーにきいた。

「あれは違う。もう少し先にクラワーイはあって、もっと人家も多い。あそこは湖で魚などを捕

っている者たちの家だろう。ところで、竜玉の方はどうなっている?」

 美香はポケットに仕舞っておいた竜玉を取り出しすと今までにない光を放ち始めた。

「あらっ、さっきまでの反応とは違うわね。随分明るくなっている。でも・・・、光の先が湖の

中に向かっているみたいですけど・・・」

「つまり、竜玉はこの湖の中にあるって言うことなのか?」佐藤は眉間に皺を寄せた。

「そのようだな。時間はまだあるが、今日はこの湖畔で野営するとしよう。明るいうちに竜玉を

探せ出せるかもしれない。ひとまず、あの集落まで行ってその後の事を考えよう」

 コトブーの言葉に従って、一行は湖の外周を周り集落まで来た。人家まで近づくと、薪を割っ

ている初老の男がいて、コトブーたちに気付き、何事かという表情で腕を止めていた。野暮った

い恰好をし、長い白髭を生やしたやつれた感じの風体だ。

 コトブーはその男に近づいていった。「我々はブルマンの城から来た者だ。城の使いでクラワ

ーイの集落に向かう予定なのだが、今日はここで野営しようと思っている。その辺りの空き地を

使わせてもらってもいいか?」

「これは、これは城からおいでとはご苦労様です。ええ、どうぞ、御自由にお使い下さい。それ

に、何か必要でしたら、何なりと申しつけ下さい」男は恭しく答えた。

「それはありがたい。それなりの準備はしてあるのでまあ、気遣いはいらないが、折角なので、

夕食用に魚でも分けてもらおうかな。それと、湖に出たいので小型の舟を貸してもらえないか?

「それはお易いご用です。舟ならばどうぞ。それに、魚などはお好きなだけ差し上げますよ」

男は笑っているようだが髭で顔の表情が良く分からない。

「そうかね。ではよろしく頼む」コトブーはわずかに眉をひそめた。

「んじゃ、舟漕ぎもつけて差し上げますから、ちょっとお待ち下さい」男はそう言って家の方に

消えていった。

「何か、変な感じね?」男が去ると祐子がつぶやいた。

「でも、親切に舟まで貸してくれるって言ってくれてんですから、いいんじゃないですか」佐藤

はあまり人を疑わない。

「それじゃ、ミカ、サトウは俺と一緒に来てくれ。後の人はここで野営の支度でもしてくれれば

いい。それから、警備隊のうち、誰かクラワーイの分隊に行って、付近の状況を聞いてきてくれ。

囚人の片割れがうろついていないかどうか、気になるからな」コトブーはてきぱきと指示を出し、

美香と佐藤を連れて初老の男を探しに湖の方に歩いていった。

 軒の陰から飛び出すとさっきの男ともう一人、中年の男に出会った。この男も不精な髭を生や

し、あまりすっきりした出で立ちには見えない。それほど暑くもないのに大きなひさのついた帽

子を被っている。

「ああ、こちらでしたか。こいつが舟を出しますんで、付いていってください」初老の男がそう

言うと、無愛想にもう一人の男がうなずいた。

「すまんな。いろいろと」コトブーはそう言いながらも注意深く周りを見つめた。

 三人は男に付いて湖へ向かったが、コトブーはその男がわずかに足を引きずった歩き方をして

いるのに気付いていた。岸には人が五人ほど乗り込める小型のボートがある。男は岸辺に打ち込

まれている杭からロープを解くと、舟に乗るよう促した。三人はそれに従い舟に乗り込むと男は

舟の後ろを押しながら湖の中に突っ込んでいき、水に足を浸しながら舟に飛び乗った。そして、

すぐに舟の船尾にある手漕ぎのオールを握り全身をくねらせるように舟を漕ぎ出した。

「で、どこまでいけばいいんですかね」男は初めて口をきいた。

「ああ、ひとまず湖の中心の方まで行ってくれ」コトブーが指示し、美香に振り返った。「で、

竜玉の光はどこを指している?」

 美香がポケットから竜玉を取り出すと、光の導きは舟の進む方向に向かって伸び、湖の中心当

たりの手前で水の中に没していた。「方向はこっちですけど、光の先は水の中ですね」

「それじゃ、やはり水中にあるということかな。どうします?コトブーさん」佐藤は困った表情

をした。

「それならば水の中に潜るしかないな。サトウ、あなたが行くかい?」

「俺がですか?それは・・・、ちょっとね・・・。美香さんはどうです?」佐藤は苦笑いをして

美香を見た。

「私?私もちょっと・・・。松浦でもいればよかったんだけどね・・・?」

「分かっている。おれが行くさ」そうコトブーは言いながら、身につけている物を脱ぎだし、腰

に布を巻き付けただけの裸体をさらした。山の中を飛び回っているだけあって体も見た目以上に

逞しい。コトブーは背中に背負っていた弓矢を手に取った。「さすがに、これは水の中には持っ

ていけない。サトウ預けておくから持っていてくれ」

「分かりました」と佐藤は大事そうにそれを受け取った。

 美香が船首で竜玉を湖に翳しながら方向を定め、コトブーが男に指示していった。舟は湖の中

心に近くまできている。水の透明度はかなり良くて、水の中の様子が望めるがここまで来ると深

さもそれなりにあり、底までは太陽の光を届かせない。

 美香の竜玉の光が真下を指すようになった。「どうやら、この下にあるみたいですね」

「では、潜るとするか」コトブーは飛び込む構えをした。

「でも、水の中は暗くて見えないのじゃないですか?懐中電灯みたいなものはこの世界にはあり

そうもないし・・・」佐藤が言った。

「カイチュウデントウって、何だ?明かりのことか。それは大丈夫だ。ミカの持っている竜玉に

反応して水の中の竜玉も光っているはずだ。潜ればすぐに発見できる」

「そうですね」

「じゃあ、待っててくれ」コトブーは勢いよく水の中に飛び込んだ。シュノーケルや酸素ボンベ

なしの素潜りだが、自然児のコトブーには必要ないようだった。

 佐藤と美香は手持ちぶたさでボーッとしていた。美香は水の中を覗き込み、「大丈夫なのかし

ら?そのまま、飛び込んでいったけど」と佐藤を見た。

「コトブーさんなら何も心配ないんじゃない」

「それは、どうかな!」突然、舵を取っていた男が今までとは異なる、ドスの効いた声を張り上

げた。

「えっ」と美香が言うと同時にその男はどこからか短剣を抜きだし、二人に向けて突き出した。

「死にたくなきゃ、おとなしくしていろ」

「何だと?お前は何者だ。この集落の人間じゃないのか?」佐藤は相手を睨みつけて言ったが、

身動きはできない。美香は怯えながらすがるように佐藤に近づいた。

「ふっ、俺たちはあの山猿に恨みがあるんでな。ここがあいつの墓場になるんだよ。さあ、お前

この縄で男の手を縛れ!緩めたりして下手な小細工はするな、命が大事ならな。それと、奴の弓

矢を渡してもらおうか?奴もそれさえなければただの猿だからな」

 佐藤は仕方なくコトブーの弓矢を舟の底に滑らせた。美香は男に投げ渡された縄で佐藤の手首

を後ろ手で縛った。緩めておこうとしたが、男の鋭い視線がそれを監視していて誤魔化すことは

できない。

 男は顔から髭を引っぱがした。どうやら付け髭のようだが、その素顔も以前とあまり変わらな

い風体の悪い顔付きだった。ダーワはコトブーが上がってくるのをじっと待っていた。

 

 コトブーは湖底に向かってまっすぐ下りていった。水面から降り注ぐ太陽の光が水の中でも眩

しく輝いているが、潜るにつれてその光が弱くなっていく。湖の底に向かえばそれは光の世界と

は異なる神秘の闇の世界へつながっていく。だが、明から暗にグラディーションされていく先の

一点にきらびやかに光るものがある。その光点からはコトブーに向け、そして水面上の舟に向け

て光の帯が伸びていた。

 コトブーはそれに向かい、体をくねらせながら潜っていった。竜玉は湖底にある岩の窪みの中

にあった。どこからここまで流れてきたのかは分からないが、この窪みに落ちてしまえば多少の

流れがあっても動くことはないだろう。コトブーは手を伸ばしその窪みに突っ込んで竜玉を手に

した。光が指の隙間から漏れて眩しいくらいだ。そろそろ息も続かなくなってきたので、コトブ

ーは体を反転させ、足をばたつかせながら水上に向けて上がっていった。

 勢いよく水面に飛び出した。舟からは少し離れたところだったが、コトブーは立ち泳ぎをしな

がら竜玉を持った手を高々と上げた。「おい、竜玉があったぞ」

 そう声をかけると美香がこっちを向き、コトブーに手を振って、竜玉を投げてくれるよ手で合

図した。コトブーはなんの不審も抱かず、狙いを定めて竜玉を美香に向けて投げた。見事なコン

トロールで竜玉は美香の手の中にキャッチされた。コトブーは舟に戻ろうと、一度潜ってゆっく

り進んだ。

 だが、舟の上では美香からすぐに竜玉を奪い取り、コトブーが水の中から顔を出すのを待ち構

えるようにして、ダーワが短剣を握っていた。

 

 岸では祐子たちも縛り上げられ、納屋のようなところに押し込められていた。警備隊の兵たち

もすっかり油断しており、フーミたちが人質にされたので、素直に捕まるしかなかった。敵は十

名ほどの男たちだがどういつもこいつも、あまり立派な人間には見えない。納屋には彼女らだけ

でなく、この集落の人たちも同様に押し込められていた。

「真野さん、一体あいつらは誰なんですか?突然僕らを襲ったりして、話にあったコーキマの囚

人でしょうか。見かけはそんな気がしますけど」前沢は身動きして縄を解こうとしたが、そう簡

単には解けない。

「さあ、私に言われても・・・。でも、多分そうなのでしょ。でも、コトブーさんのことを名指

しで始末しろとか、物騒なことを言っていたから、気になるわね。あいつらは何をしたのですか

?」真野は向かい側にいる男女にきいてみた。

 縛られている住民の一人が答えた。「やつら、突然やってきて、私たちを縛り上げたんです。

もう、何がなんやら分からないうちにですね。あいつらが噂の脱獄囚なのですか?」

「ええ、彼らはきっと、コトブーが山にいた時の盗賊ではないでしょうか?街で盗みなどをして

いた一派の者が彼のいた山の中に逃げ込み、軍隊の追っ手から逃れていたのですが、逆にコトブ

ーと対立することになって、結局、コトブーの策によって、街に出た彼らは警備隊に捕まってし

まったんです。それが、今回のコーキマの件で脱走してきたんではないでしょうか?しかも、コ

トブーに復讐しようと・・・」フーミはそう語った。

「復讐って、それはまずいんじゃないですか?もしや、あの舟の船頭も仲間じゃ」前沢が深刻な

顔をすると、祐子も「それだと、美香さんと佐藤君も危ないじゃない!」と言い放った。

 何とかしようともがいても縄はきつく縛ってあり微動だしなかった。

「くっそー、どすればいいんだ」

 

 舟が静かに岸辺に辿り着いた。砂浜には数人の男がたむろしており、舟が着くとぞろぞろと近

づいていく。舟から降りた髭もじゃの男はうつむきながら舟を浜の杭に縛り付けた。

 一番がたいのでかい男が声を掛けた。「ダーワ!、うまくいったか?山猿はどうした、水の底

に沈めたか?」大地を震わすようなワイカの低い声が空気中に響く。

「はい」

「で、トゥリダンの涙とやらは手に入ったのか?」

「はい」男は腕を上げて、手のひらの中の竜玉を見せた。

「よし。おやっ、女と男は始末しなかったのか?」

「はい、女は何かの役に立つと思いましたし、男の方は暴れたので、殴り倒してやったら気絶し

ちまいやがったんで」

「そうか、まあいい。山猿さえいなければ何も恐くはないからな」ワイカは嘲笑した。「ターオ

カ、スマーダ、女と男をさっきのやつらのところに運んでおけ」

 命令された二人は、のそのそと舟に近寄っていった。ターオカは美香を連行しようとしたが、

舟を係留した男が「俺が連れて行くと」と彼女を強引に引っ張っていった。スマーダは倒れてい

る男を起こそうとしたが、服装はコトブーたちとここに来た男のものであったのに、顔は違って

いた。「ダーワ!」

 ワイカはその言葉を聞き「何!おい、きさま、待て!」と美香を連れて行こうとした男に向か

って恫喝した。「きさま、何者だ?・・・、もしかして、山猿か?」ワイカがそう言うと周りの

ものたちは身構えて、男と美香に歩み寄っていった。

 

 祐子たちがいる小屋の入り口が静かに開いた。誰もがそれに反応を示し、どんな展開になるの

だろうとビクビクしていた。しかし、扉から現れたのは佐藤で、しかも、下着しか付けておらず、

頭から足先まで濡れていた。

「佐藤君、どうしたの?あいつらに捕まらなかったの?」祐子は声をひそめて言った。

 佐藤は祐子たちに近づき、ポケットナイフを取り出して、彼女らの縄を切っていった。「ええ、

コトブーさんは最初からあいつらのことに気付いていたみたいですよ。だから、舟から竜玉を探

しに行った時も、油断しているように見せかけて、舟の船頭が短剣を振りかざすのを見抜いてい

て、舟の逆側から飛び上がり、敵を逆に倒しちゃったんです。それで、コトブーさんはその男の

振りをして岸に戻り、僕は水の中に潜って、真野さんたちの様子を探りに来たんです」佐藤は順

番に縄を解いていき、フーミのとこまで言ったが、自分が下着姿なのが恥ずかしかった。「すい

ません、こんな格好で・・・」

「いいえ」フーミの方が返って照れていた。このへんはやはり庶民的な生活を知らない城育ちの

女性だ。

「佐藤君、なんで私の前だとそんなに恥ずかしがらないわけ?」祐子は佐藤の行動に気付いて言

った。

「えっ、別にいまさら真野さんに見られても・・・。前だってキャンプなんかでは平気だったじ

ゃないですか?」

「そりゃ、そうだけど、何か気になるのよね」

「そんな、ことよりも。ここから逃げ出し、助けを求めに行かなきゃいけないですよ。それに、

コトブーさんの方も心配ですし、そろそろばれるころですから・・・」

 その時、ワイカの部下が二人中に入ってきたが、予想外の状況に唖然としてしまっていた。敵

に気付いた前沢は機敏な動きで男の脇腹を殴り付け、相手をその場に倒し込んだが、もう一人の

方は隙をついて逃げ出してしまった。

「おっと、まずいな。皆、早く逃げるんだ」佐藤は声を張り上げた。

 

「山猿、一杯食らわそうとしやがって、だが、俺はそんなに甘くはないぜ!」ワイカはジリジリ

と迫っていった。

「バレちゃしょうがないな。しかし、ワイカ、お前も馬鹿だな。折角、コーキマから逃げ出せれ

たというのに、わざわざ俺に会いに来るとわな。また、牢獄に送られたいのか?」コトブーは作

り声をやめて普段の声に戻した。

「何だと、きさまには数々の恨みがあるからな、それを晴らさなきゃ、こっちも気が済まないん

だよ。コーキマでの地獄の苦しみ、すべてきさまのお陰なんだからな。礼はたっぷりさせてもら

うぜ。それに、この世界はもうすぐジーフミッキのものになる。そうなれば俺たちの天下だ。そ

のためにもきさまの持つ玉がいるんだよ」

「愚かなやつめ、ジーフミッキの言葉を鵜呑みにしているのか?あいつに従うようになったので

は、きさまもおしまいだな。まあ、おとなしくして、警備隊の者たちに捕まれや」

「ほざくな、捕まったのはお前たちの方だぞ、素直に俺の言う通りにしろ。その女を離して、タ

ーオカたちに可愛がってもらうんだ。下手に抵抗してみろ、ここに残ったきさまの連れがどうな

るか分からないぞ!」ワイカは勝利は我に有りと高らかに笑った。

 しかし、そこに納屋から逃げてきた部下が現われ「ワイカ様、やつらが逃げ出しました」と今

の状況も分からず報告してきた。

「何だと?何をしてやがるんだ」ワイカの笑みは急激な怒りと戸惑いに変わっていった。

「残念だったな、ワイカ。俺はそんなに甘くないぜ!」今度はコトブーが嘲笑した。

「くっそー、だが、きさまだけは逃さん!ここで、あの世に送ってやる」ワイカの顔に怒気がみ

なぎり、傷だらけの顔が険しい表情と重なっていった。ワイカは剣を抜き、コトブーに向けて突

進し、「お前ら、一気にかかれ!」と命令を下した。

「ミカ、ここは危ないから他の人のところにいっていろ」コトブーも美香に指示した。

「でも・・・」

「俺のことは心配するな、こんな奴らなど、相手じゃない」

「はい」

 一人目が剣を振りおろしながら、コトブーに斬りかかった。コトブーは簡単にそれを交わし、

相手の足を払いのけて転ばせた。「さあ、行け!」

 美香はコトブーの言葉に従って走り出したが、ワイカもそれを見逃さなかった。「女を逃がす

な!」

 スマーダはワイカの言葉をきいて美香の方に向かった。「待ちやがれ!」

 美香は背後から迫る敵に慌てたせいか、足がもつれて前につんのめってしまった。スマーダは

すぐにも追いついた。美香は咄嗟に竜玉と思ったが、よく考えると竜玉はコトブーが持ったまま

だった。

───しまったわ?どうしよう!

 スマーダは歩調を緩め、短剣を何度も両手で持ち替えながら近づいてきた。「ふざけたことす

るんじゃねえーぜ」薄汚れたスマーダは蛇のように睨み付けた。

 美香は血の気が引いてくるのをおぼえ、声も出ない。だが、次に悲鳴を上げたのはスマーダの

方だった。

 スマーダは短剣を落とし両手で目を覆っていた。美香が振り返るとそこには光を放つ竜玉を持

った祐子と前沢たちが走って来るところだった。

「美香さん、大丈夫ですか?」佐藤はすぐに彼女を抱き起こした。その間に前沢は苦しんでいる

スマーダに一発食らわしてその場に倒し込んだ。

「ええ、大丈夫。危ないとこだったけど、ありがとう。それよりも、コトブーさんの方が心配だ

わ」美香も少しずつ落ち着きを取り戻し、立ち上がると今来た道を戻っていった。

 

 コトブーはスマーダを止めようと弓矢に手を掛けたが、ワイカたちの襲撃がそれを邪魔した。

「山猿、きさまは弓矢の名手かもしれん。だが、こういった接近戦ではその能力も宝の持ち腐れ

だな。それに、山の中じゃないと、きさまのすばしっこさも効果がないというものだな!」ワイ

カの言葉には一理ある。コトブーは山の中を駆け巡り、敵に気付かれないように背後を取り、的

確な弓矢の攻撃で相手を落とすというのが彼本来の力だ。

 次々に襲い掛かってくる、敵の剣をコトブーは俊敏に避けていた。

「剣を交わすだけがやっとのようだな!今度はお前の腕を切り落としてやるぞ」以前、コトブー

の矢に左腕を射られ、不自由を強いられているターオカはここぞとばかりに言い寄ってきた。

 だが、コトブーは少しも慌てた様子はない。剣を交わしながらも相手の動きをしっかり見つめ

ターオカの剣が空を斬った時、その背後に回り込むと、弾みをつけて高く飛び上がり、ターオカ

の延髄目掛けて膝蹴りを食らわせた。強烈な痛みを感じ、倒れ込むターオカの剣をコトブーは奪

い取り、すぐにも襲い掛かってきた次の敵の太股を斬りつけた。

「血を見るのが嫌いでな、あまり、剣を使うのは好きじゃないが、そうも贅沢は言ってられない

な。だが、お前たちは大きな誤りを犯したぜ、俺が弓矢だけの人間だと思っていたのがな、これ

でも剣の扱い方は知っているんでね。何しろ、先生はターニだからな!」コトブーは不敵に笑っ

て見せ、ワイカたちは少したじろいだ。

「どうせ、でまかせだ。叩き斬ってやれ!」ワイカは部下を意気込ませた。

 しかし、コトブーの言葉は嘘ではない。敵が次々に斬り込んでいったが、今度は交わすことな

どせず、剣を剣で受け止めて隙あらば、相手の腕や足を斬り付けていった。その技と動きは見事

なもので、コトブーから逃れた敵は立ち向かっていくことに戸惑いを感じていた。確かに、コト

ブーは剣など使ったことはなかった。だが、ヒヨーロがターニから剣の鍛練を教わっている時に、

自分もついでだからとターニから享受してもらっていたのだ。

「世の中、何が役に立つか分からないものだな!」

「ば、馬鹿な、きさまがそんな腕の立つ奴とは・・・」ワイカは自分の考えを次々と打ち砕かれ

たうえに、コトブーに完全に裏をかかれた事で悔しさが充満してしまい、冷静な判断力も欠如し

だしていた。自棄くそ気味になったワイカは前後の見境もなくなり、コトブーに立ち向かってい

った。     あや

「俺は滅多に人を殺めたりはしない主義だが、お前は俺の大事な仲間たちを捕らえ、危険にさら

しめた。そのことは絶対に許せない。俺には人を裁く権利などはない。だが、この剣はそれと同

じ効力のあるものとして、思い知れ!俺と出会ったのが不幸だったとな!」

「ほざきやがって!」

 ワイカの剣がコトブーを捕らえ、大きく振りかぶったが、次の瞬間コトブーの姿は目の前から

消えていた。「何!」

 コトブーはワイカの上空に飛び上がり、頭上をきりもみしながら、ワイカの後方に回った。空

を斬ったワイカはすぐに振り向いたが、それは自分の死を意味する行為だった。コトブーの剣が

ワイカの胸元を貫き、盗賊としてその名をはせた男はつまらない人生を終わらせてしまった。

「馬鹿な奴だ。コーキマにいれば、まだ、何とかなったものを・・・。改心さえすれば、釈放さ

せてやるつもりだったのにな」コトブーが悲しげにそう言うとワイカはその場にばったりと倒れ

込んだ。                                かしら

 コトブーは残ったワイカの部下たちに叫んだ。「さあ、どうする?お前たちの頭は死んだぞ。

まだ、俺と戦うか!」

 部下たちはコトブーの勢いに恐れをなし、剣を捨てて逃げ去ろうとした。しかし、逃げ道の方

からは警備隊の兵が数十人現われ、逃げる男たちを捕らえていった。

 そこに、美香たちが駆けつけたのだが、すでに争いは終わり、意気込んできた佐藤も拍子抜け

していた。

 フーミはコトブーを見つけてすぐに駆け寄った。「コトブー、大丈夫ですか?怪我はないよう

だけど」

「ああ、こんな奴ら、どうっていうことはないさ。そっちの方はどうなんだ。皆無事か?逃げた

ミカには会ったのか?」

「ええ、コトブーの機転のお陰で皆無事よ。ミカさんも大丈夫だから安心して」

「そうか、良かった」そう言うと、美香たちも心配そうに近づいてきた。

「皆、無事みたいだな。、全く、奴らには手を焼くぜ。しかし、タイミング良く警備隊の兵が来

たもんだな」

 そのことに対して、祐子が説明した。「ええ、あいつらが来た時、この集落の人の中で捕まら

なかった人がいて、街の方へ知らせにいったそうです」

「そうか、だったら、こんな無茶をしなくてもよかったんだな。まあ、仕方ないか・・・」コト

ブーはもう一度ワイカの亡骸を見入った。

 

 この出来事をじっと見ているモノがいた。ワイカたちが竜玉を手にすればすぐにでも横取りす

るつもりであったが、そんな必要もなくなり、イサカは本来の計画の実行を進めることにした。

「愚かな人間もいるものだな。地道な計画を立てるという思考力もないのか。竜玉は私が頂く、

もっと簡単な手段でな、ケッケッケッ」

 

         3

 

 その夜はクラワーイ湖のほとりでテントを張った。集落の人々は助けてくれたお礼にといろい

ろなもてなしをしてくれたが、実際のところコトブーたちがこの地に来たことがワイカたちをお

びき寄せた原因になっているので、コトブーのほうが恐縮しているような気持ちではあった。

 集落のある家で風呂を貸してくれることになり、美香たちは順番に今日まで溜まった汗を落と

していった。

 祐子が風呂から戻ってきた。「ああ、すっきりしたわ。次の人、いいわよ」

「それなら、フーミ様、お先にどうぞ、私は後でいいですから」美香がそう言うと、フーミは「

そうですか、では、そうさせてもらいます」と、支度をして風呂のある家へ向かった。

 薪の前で集落の人からもらった魚をパクついていた佐藤は、フーミの後を追うように視線を走

らせ、腰を浮かせようとした。

「佐藤君、どこ行くつもりなの」祐子が髪を布で拭きながら言った。

「えっ、いえ、ちょっと、散歩にでもと・・・」佐藤はビクッとした表情で答えた。

「そう、それなら、いいんだけど、変な方向にはいかないでね。特に、向こうの家の方には」

「はっはっはっ、真野さん、何か勘違いしてませんか?僕は何もやましいことなんか考えていま

せんよ」

「別に、私は何も言ってないわよ。その、やましいことって何なの?」

「ウッ・・・、それは・・・」佐藤は見事に祐子の誘導尋問にはまってしまった。

「佐藤君、ちょっと、奥さんがいないからって、若くて奇麗な女性に目が行っては駄目じゃない。

しかも、新婚間もないっていうのに」今度は美香までもが佐藤を責め始めた。

「二人して、よってたかって言わないでくださいよ。分かりましたよ。ここでじっとしてます」

佐藤は完全にいじけてしまった。

 その喧騒の隙に席を離れようとしていた前沢を祐子は見逃さなかった。「前ちゃんも、どこ行

くつもり?」

「えっ」前沢は忍び足を止めて振り返った。「ちょっと、トイレです。トイレですから」と慌て

て言葉を発した。

「そう、それならいいんだけど」と祐子は凄みのある声で前沢に言った。

 前沢はブラブラと湖の方へ歩いていった。二つの月が湖に映り、四つの月が天と地にあるよう

だ。湖面の輝きが穏やかな風の波により瞬いていた。耳に聞こえてくるのは水が岸に打ち寄せる

微かな波音と、周りの草むらから奏でられている虫の声ぐらいしかない静寂さだった。月さえ除

けば、この環境は地球のものと変わりない。同じ様な景色を以前にも見た記憶が甦ってきたが、

一つだけ違うものがあった。それは隣に彼女がいないことだった。今ごろ香織は何をしているの

だろうか?自分のことはもう知れ渡っていてきっと心配しているに違いない。香織も飲み会には

呼ばれていたが、二人で出席するのは恥ずかしいということで彼女は来なかった。だが、今とな

ってはそれが幸いしたようだ。こんな、見も知らぬ世界に香織を連れてくることはできなかった。

たとえ、多くの仲間や自分がいたとしても、もしかすれば、二度と帰れないかもしれないこの異

質の世界に連れて行くことなど彼にはできなかった。ある意味では安心しつつも、それは前沢に

とって辛いことでもある。

───二度と帰れない。

 そのことを思い浮かべると、孤独という言葉の意味が初めて分かったような気がしてきた。

 

 フーミは浴槽の中でくつろいでいた。浴槽といっても城にあるような大きく大理石でできた風

呂とは全然異なる。湖の一角を仕切っただけの砂浜に湯が沸いているだけの温泉である。それで

も、すっきりした気分だけは満喫できる。街の人々の生活ぶりというものを体験するのも王家の

人間にとっては必要なのだなと、人々と同じ土台に上がって周りを見なければいけないことをフ

ーミは痛感していた。兄のジーケンイットが時々、お忍びで出かけていたことも、街人の暮らし

というものを把握するための目的もあったのだなと、今分かった気がする。それが、ジーケンイ

ットの才覚に生かされ、あのような偉業を成し遂げれた結果になっているのだろう。

 自分ももっと外の世界に出てみればよかったと後悔していた。城の者は当然反対するが、それ

でもこういった実体験は街を治めていく上で必要なことなのだと思わざるをえない。街の人々が

何を考え、どのような生活を営んでいるかを知らずして、その街を統治することなどできないの

だ。

───だから、あの抜け道があるんだわ。歴代の王はあそこから抜け出して、街を見学し、それ

を統治に役立てていたのね。そうか、お兄様にあの抜け道を教えたのはお父様なのね。私は偶然

ヒロチーカが通ったのを見たから知っていたのだけど、お父様も意地悪ね。

 フーミはそんなことを思いながら、湯の中で疲れをいやしていた。その時、囲いの外に誰かが

いる気配を感じた。

「誰、誰かいるのですか?」覗きをするような人は仲間内にはいないはずだし、集落の人もそん

なことをするはずはない。それとも、案外コトブーなんかがそう言った趣味を持っているのだろ

うか?

───ヒヨーロさんに言いつけてやらなきゃ。

 そう考えながらも、フーミは周りの様子に気を配り、辺りをうかがった。しかし、そこにはモ

ノの姿があった。囲いを素通りすかのようにイサカはフーミに近づいた。

 フーミは驚いて逃げようとしたが、その時、イサカの言葉がフーミを捕らえた。「逃げるな。

私の言葉がきこえたのなら、お前はその場に留まれ」

 フーミは呪縛にでもかかったようにその場に凍り付いたように静止しイサカの言葉だけを耳に

入れていた。

「さあ、いいか。お前はこれから、お前たちが手に入れたトゥリダンの涙を私のところまで持っ

てくるのだ。いいか、誰にも悟られるな。私は湖の奥の森で待っている。さあ、すぐに行け」

 フーミは操り人形のように静かにうなずき風呂から出て行こうとした。

 

「前ちゃん、どこいったのかしらね。トイレにしちゃ長いし・・・」美香が気付いたように言っ

た。

 祐子がそれに答えた。「うーん、前ちゃん、もしかしてフーミ様をのところに・・・、ああい

う感じでも、男だから、それなりに好奇心があるんじゃない」

「帰ったら、香織ちゃんいいつけてやらなきゃいけないわね。それじゃ、そろそろ、フーミ様の

お風呂も終わるころだと思うから、私がちょっと見てきて、そのままお風呂を頂くわ」美香はそ

ういいながら風呂に入る支度を行って出かけた。

 コトブーは薪の炎をじっと見詰めていたが全身の感覚を研ぎ澄ましているように、何かを警戒

していた。

「どうかしましたか、コトブーさん?恐い目をしてますけど」隣でまだ、魚を食べている佐藤が

きいた。

「ああ、何か感じるんだ。何かが近くにいるような」

「でも、山賊たちは全員、警備隊に捕まったはずですし、他にもコーキマから逃げた囚人がいる

のですかね」

「んー、それとは違う感じだな。とにかく、油断はしないでくれ、敵がどこで俺たちを狙ってい

るか分からんからな」

 

 美香が風呂のところまで来ると、ちょうどフーミが出てきたところに出くわした。

「ああ、フーミ様、今出られたところですか?」

「ええ、ミカさんが次に入られるのですか?」フーミは濡れた髪を布で拭いているが、その姿は

二十歳そこそこなのに妙に色っぽいと、女の美香でも感じるくらいだった。

「は、はい。あの、何か変なことはありませんでしたか?」

「変なこと?いえ、別に。何かありましたか?」

「いえいえ、それなら、いいんのですが」前沢にあらぬ容疑を掛けるにはいかないので、彼のこ

とをきくのはやめておいた。

 美香が入り口の戸に手をかけるとフーミが後ろから言ってきた。「ミカさん、トゥリダンの涙

をお持ちですか?」

「トゥリダンの涙?ああ、竜玉ですか。ええ、持ってますけど」

「そうですか、でしたら、お風呂の時まで身につけておくことはできないでしょうし、脱衣所に

置いておくのも万が一ということもありますから、コトブーに預かってもらった方がいいのでは

ないでしょうか」

「はい、そうですね。それはうかつでした。来るときに預けておけばよかったですね」

「それならば、私が持っていきますわ」

「そうですか、それじゃあ、すみませんが」美香はポケットから二つの竜玉を取り出し、手渡し

た。

「それでは、ごゆっくり」フーミは竜玉を手にすると、踵を返すように歩いていったが、美香は

彼女の様子の変化に全く気付いていなかった。

 

 前沢がそろそろテントに戻ろうかと立ち上がった時、湖岸から離れた森の方に誰かが歩いてい

くのが見えた。

───誰なんだ?

 前沢は好奇心にかられ、その人物の後を追ってみることにした。月明かりのせいで夜の帳の中

でも視界は比較的よくきく。ゆっくりと歩く人物を前沢は小走りにしかも、音を立てないように

近づいていき、それがフーミであることが確認できた。

───一体、どこにいくんだろう。それに、あの歩き方、ちょっと変だな。

 フーミをよく見るとおぼつかないようなふらふらした足取りであり、時々、月に照らされる彼

女の顔もどこか虚ろで、視点が定まっていない、つまり、夢遊病者のような感じがしたのだ。

───変だな。

 そう、前沢は思ったものの、フーミに直接声を掛けることも出来ない。今までも見ていた彼女

とは全く別人のようで、何か接してはいけないような雰囲気が前沢を慎重にさせていた。フーミ

が突然立ち止まったので、前沢もその場にあった木の陰に潜み、様子を伺った。

 フーミの前方から二つの小さな青白い光が近づいてくる。それは徐々に大きくなっていき、木

々の間を通り抜けていくと、本体であるその姿の輪郭が見えてきた。姿というよりはそれは単な

る影のようで、月明かりで照らし出された光の中に、黒い部分を作り出していた。そして、その

影が言葉を発した。

「ケッケッケ、来たな、人間。トゥリダンの涙は持ってきたか?」

 フーミはその言葉に反応してうなずくと、竜玉を握った手を上げた。イサカは静かにフーミに

近づき、竜玉を奪おうとしたが、その時、彼女の名を呼ぶ声が森の中にこだました。

「フーミ様!駄目です!」

 

 美香は風呂から上がって気持ちよさそうな顔付きをしながらテントのところまで戻ってきた。

「ああ、さっぱりした。これで落ち着くわ」

「美香さん、フーミ様は?」祐子が何気なく尋ねたが、その言葉に美香はきょとんとした。

「えっ、フーミ様、まだ戻られていないの?おかしいわね。私がお風呂に行った時、ちょうど出

られたところよ。それに、私が持っていた竜玉をコトブーさんに渡すって仰ってたのに?」

 美香の返事をきいてコトブーが立ち上がった。「何だって!竜玉を持っていっただと・・・。

何か変だな?ん?」コトブーの敏感な五感が何かを聞きつけた。「しまった、敵にやられたな」

「はあ?どうしたんですか、コトブーさん?」コトブーのセリフをきいて佐藤は驚いた。

「フーミが危ない。何かが迫っているようだ」コトブーはそう言うと同時に置いてあった弓矢の

袋を取り、森の方に向かって疾風のごとく走りはじめた。

「コトブーさん!」美香たちも何が起こったのか把握できなかったが、コトブーの後を追いかけ

ていった。

 

 前沢の言葉を耳にして、フーミは我に返った。閉ざされていた意識が覚醒したが、自分がどこ

にいるのか、なぜこんなところにいるのか咄嗟に判断がつかなかったものの、目の前にいる黒い

影の存在にはすぐに気付き、それが、昨夜、川のほとりで見たものと理解できると、逃げなけれ

ばという本能が動き出した。

 イサカはフーミが催眠から覚めたことに気付いたが、竜玉を持ってこさせる彼女の役目は既に

終わっていたため、竜玉を奪うことしか念頭になかった。「トゥリダンの涙を渡せ!」イサカは

影のような腕を伸ばしフーミに襲いかかってきた。

 蛇に睨まれた蛙のごとく、フーミは凍り付いてしまった。イサカの呪縛が完全に解けていない

のだ。イサカの黒い手がフーミの顔に目掛けて振り下ろされようとした瞬間、前沢が彼女を押し

のけた。空を斬ったイサカの指先が前沢の髪をかすめ、前沢は血の気が引く感触を味わった。

「きさま、邪魔をしおって、一緒に死にたいか!」イサカは怒りの声を上げ、前沢を恫喝した。

 

 フーミは地面に転びながら叫んだ「マエサワさん!」

「フーミ様、早く逃げてください。竜玉を持って早く!」

「でも・・・」

「いいから、早く。ここは何とかします。コトブーさんたちを呼んできてください」前沢の声が

大きく森の中に響いた。

「はい」フーミは躊躇しながらも立ち上がり、湖の方へ逃げようとしたが、イサカはそれを見逃

していなかった。

「逃がすか!」イサカの足元の地面が盛り上がりながら、フーミ目掛けて突き進んでいった。そ

して、フーミの足元から黒いツルのようなものが現われ彼女の足首に絡み付き、フーミをなぎ倒

した。素足のフーミには粘り気のある気味の悪い感触だった。「キャー・・・」

「フーミ様!」前沢は振り返ってフーミのところに行こうとしたが、彼の足首にも既にツルが巻

き付いていおり、前沢は勢いよく頭から倒れていった。

 二人に絡んだツルは彼らを引きずるようにイサカの下へ引き戻す。盛り上がった土からツルの

本体が現れるとそれは、イサカの背中に繋がっていた。

 前沢は手元にあった木の根っこをつかみ、引きづられる事に刃向かって、彼の目の前を滑って

いく、フーミの手を握って、彼女をイサカから引きはなそうとしたが、ツルの力の方がはるかに

強かった。足に引き千切られんばかりの痛みが走り、フーミを握る手も木の根を握るても力を無

くした。ずるずると引き寄せられる二人を、イサカは「ケッケッケッ・・・」と笑いながら待ち

構えている。二人はもがきながらも必死に抵抗したが、敵の力には適わなかった。

 二人はイサカの足元まで引きずり込まれた。前沢は迫り来る死を覚悟し、最後のあがきとも言

えるように、フーミを庇うようにして彼女を体で覆った。

「マエサワさん!」

「すみません、フーミ様を救えなくって。僕に力がなくて、何もできなくて」

「御免なさい、私のために・・・」フーミは前沢の顔を見つめて、苦しそうな顔をした。

 イサカは二人を捕らえようと再び手を伸ばした時、何かが自分に向かって飛んでくるのを感じ

取った。気付いた瞬間にはその矢はイサカの体を貫いていたが、矢はそのままイサカを通り抜け、

向こう側の木の幹に突き刺さった。

「誰だ?こんな愚かな武器を使って私を倒そうとするのは?」

 イサカが矢の飛んできた方向に青白い瞳孔を向けると、そこには弓矢を構えたコトブーが片膝

をついて構えていた。「やっぱり、普通の矢じゃ、効かないようだな。すると、お前は魔女の仲

間ということか?」

「ケッケッケ、そうとも、カーミの分身、イサカだ。私にそんなものが通じるとでも思っている

のか!きさまも返り討ちにしてやる」

「じゃあ、これはどうだ、シーゲンの矢だぞ」コトブーは、背中の袋から別の矢を一本取り出し

て、構え直した。

「何!シーゲンの矢だと!きさま・・・」イサカもその事には少しだけひるんだ。だが、卑劣な

魔女の分身は、ツルに絡めた前沢とフーミを自分の体の前に持ち上げて楯にした。「さあ、どう

する?こいつらごと俺を射抜くか?」

「ちっ、魔女の片割れだけあって、考え方も卑怯な奴だ」コトブーは矢を身構えたまま、その場

に留まるしかなかった。すると、息を切らして佐藤たちがやってきたが、この硬直した状態に彼

らも息をのむだけだった。

「コトブーさん、何です、あの化け物は?それに、前ちゃんたちが・・・」美香はコトブーの背

中に隠れて敵の姿を覗き見た。

「魔女の手下だ。しかし、フーミたちが人質になってはなあ?下手に動けないぜ」

 祐子たちにもどうすることも出来なかった。緊迫した時間が流れてはいるが、前沢たちは苦し

そうな顔色を覗かせ始めていた。

「ケッケッケ、こいつらを死なせたくなければ、きさまの矢を置け!」イサカはそう言い寄って

きた。イサカは二人に絡めたツルを蛇のように動かし、体中を取り囲むようにじわじわと絞め始

めた。

「チッ・・・」コトブーは仕方がなく、構えの体勢を解き、ゆっくりと弓矢を地面に置こうとし

た。

 喘ぎの声を出す二人には容赦無くツルが絞められていく。苦しみのあまりフーミの手が力を無

くし、二個の竜玉が地面に転がった。

 美香と祐子はそれに気が付くと同時に走り出した。だが、イサカの方もそれを察知し、別のツ

ルを伸ばしていく。少し傾斜のある地面の溝を転がり続ける竜玉に向かい、二人の女性とイサカ

のツルが突き進んでいった。緩い速度になり、竜玉が止まりかけると美香と祐子はそれぞれ、竜

玉を手に取ろうとヘッドスライディングのように飛び込んで、竜玉の表面に触れた。それと、同

じくしてイサカのツルが到達し、彼女らの手の上から竜玉ごと包み込もうと絡みはじめた。

 しかし、竜玉を握った二人はすでにその力を放出しだしていた。彼女らの手の中からは眩しい

ばかりの光が溢れ始め、二人の体を巻き込もうとしていたツルの動きを鈍化させると、女性自身

の力で絡みつくツルを断ち切った。

「ギエー・・・」体の一部であるツルを引き千切られ、今度はイサカが苦痛に喘ぎ始めた。

 美香と祐子はすかさず光の放出を強め、前沢とフーミの体を通し、イサカに向け光の帯を放っ

た。二人の体を貫通した竜玉の光はもろにイサカの体に放射され、イサカの動きを封じてしまっ

た。すると、フーミたちを捕まえていたツルの力も弱まり、二人とも地面に転げ落ちていった。

 コトブーはこのチャンスを逃さない。目にも止まらぬような速さで、目の前に置いた弓と矢を

取り、構えの姿勢で動きを止める間もなく、すぐさまシーゲンの矢を射った。矢は祐子たちが放

った竜玉の光の中を通り抜けると、矢自身も強烈な光を放ちだし、そのままイサカの動体に食い

込んでいった。

 ツルを断ち切られた以上の激痛がイサカの体に走った。その痛みを完全に感じる間もなく、イ

サカの体は青い炎に包み込まれ、「ケッケッケ・・・」不気味な笑い声を残し、崩れていった。

 美香と祐子は燃えるイサカの状況に呆然としていたが、佐藤はすぐにも前沢とフーミのところ

に駆けつけ、コトブーもくすぶる炎の中からシーゲンの矢を拾い出して、二人を見に行った。

「怪我はないか、前ちゃん」、「大丈夫か、王女さん」

 前沢は何とか意識があるようで、佐藤に大丈夫だと目で合図をしたが、フーミの方は時々呻き

声を上げるだけで完全に気絶していた。

「フーミ様は、無事ですか?」祐子と美香が近寄ってきた。

「まあ、気を失ってはいるが、大丈夫だろう。一日寝かしておけば気が付くさ。ひとまず、テン

トに帰って手当てをしよう」とコトブーは診断した。

 コトブーがフーミを抱きかかえ、佐藤が前沢に肩を貸して彼らは湖の方に向かっていった。

 

         4

 

 フーミは闇に閉ざされたいばらの中に巻き込まれ身動きがとれなく、それに締め付けられるよ

うな苦痛に喘いでいた。息のできない苦しさ、刺が体に突き刺さる激痛、そして、自分が一人き

りだけだという孤独からくる精神的な痛み、それらが彼女の体を蝕んでいくように取り囲んでい

く。助けを求めようとしても、かすれたような声しか出ずそれだけでも息が苦しかった。

 絶望感に打ちひしがれていると目の前が小さな明かりの点が見えてきた。暖かな光が徐々に大

きくなっていき、彼女を包み込むと、取り囲んでいたいばらがバラバラに砕け、体が解放される

と共に全ての苦痛から解き離れた。

 闇だった世界が眩しいばかりの光の世界に変遷し、心も体も潤うような心地が充満し始めると

今までの苦痛が嘘だったかのように心の安らぎを覚え、それと同時に自分を守るために戦ってく

れた男のことが思い浮かんできた。

───マエサワさん・・・

 その時、光の中から腕が現れ、フーミに向かって伸びてきた。彼女も無意識のうちに自分の手

を伸ばし、その手を握ると、体が宙に浮くような感覚で光の中に吸い込まれていった。

 フーミが目を開けても、眩しい光が瞳に差し込んでいた。まだ、夢の中の世界にいるのかと、

錯覚していたが、テントの隙間からこぼれている陽の光が彼女の顔を照らしていた。

「気が付きましたか、フーミ様」その声は祐子だった。

「ええ、ここは・・・?」フーミは昨夜での記憶が混乱していて、今の状況がよく把握できてい

なかった。「あっ、私、変な化け物に襲われそうになって・・・、そして・・・、そして、マエ

サワさんに助けられた・・・、マエサワさんは、マエサワさんはどうされましたか?」フーミは

徐々に記憶を取り戻していき、自分を救ってくれた前沢のことが念頭に現れてきた。

「前ちゃんは大丈夫ですよ。もう、起きて元気にしています」

「そう、そうですか。よかった」

 フーミの声を聞きつけたのか、コトブーや美香たちがテントの中に入ってきた。

「どうやら、気が付いたようだな。大丈夫か?」コトブーは穏やかな表情で横になっているフー

ミを覗き見た。

「ええ、ちょっと体が痛いですけど、気分はいいですよ」フーミは体の節々が痛いことを感じて

いた。よく見ると、体中に紫色の痣が残っている。

「良かったわ。一時は意識を取り戻さないかと心配しましたよ」美香はフーミの耳元で安堵の声

を上げた。

「このおてんば王女様がそんな簡単にぶっ倒れる訳がないだろう?」コトブーは鼻で笑った。

「コトブー・・・」フーミはコトブーをじろりと睨んだ。「でも申し訳ないわ、いろいろご心配

をおかけして」

「まあ、こうして無事だったからいいじゃないですか」佐藤が陽気に声を掛ける。

「ありがとうございます」フーミは素直に詫びた。そして、佐藤の背後に立っている前沢を目で

追った。「マエサワさん、本当にありがとうございました。あなたがいらっしゃらなかったら、

どうなっていたか。心から感謝しています。体の方はどうなのですか?」

「いえ、まあ・・・」前沢は照れて頭を無造作にかいた。彼の顔や腕にも無数の痣が残っている。

「体の方はまだあちこち痛いですけど、大丈夫です」

「前ちゃんも、綺麗な人だと張り切るんだから、もし、私なんかが化け物にとっ捕まっても、ど

うせ無視するんでしょねー」美香が皮肉ぽく言うと、前沢は余計照れくさそうにして、目をきょ

ろきょろし始めた。

「ぼ、僕は桑原さんでもきっと助けますよ」

「本当?まあ、信じてあげるわよ」と美香は瞳を輝かせて笑った。

「さあ、これで王女さんも懲りたろ。もう、こんな外の世界に出るようなことはしないだろうな

?」コトブーはシニカルな笑みを浮かべて声を張り上げた。

「いいえ、そんなことはありませんわ。こんな胸がワクワクするようなことって今までにない経

験です。これからも、もっと外に出たい気分ですけど」フーミは高らかに答えた。

「ったく、しょがない王女さんだ。でも、次の時は一体誰が面倒を見るっていうんだ。俺は遠慮

するぜ、ヒロチーカだけでも手一杯だからな」コトブーは膨れっ面して、手を払う仕種をした。

「それなら、今度もマエサワさんにお供してもらいますわ」フーミがそう前沢を見つめて言うと、

彼はまた照れた顔をした。

「前ちゃん、もてるわね。このまま、ここに残ったら!香織ちゃんには、ちゃんと言っておくか

ら」祐子は前沢の方を向いて、からかった。

「えっ、それは・・・、ちょっと」前沢は単におどおどして、行き場に困り果てている。

 佐藤たちはそんな前沢の様子を見て大笑いし、フーミもつられて微笑んだ。そして、愉快な笑

い声が湖の方までこだましていった。

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このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください