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トゥリダンの逆襲

 

    第 十 一 章      絆

 

         1

 

 ジーケンイットの隊も野営の支度に取りかかっていた。軍隊仕込みの警備隊はあっという間に

もテントなどを張り終え、藤井たちが手伝う間もなく準備を整えてしまった。普段彼らもキャン

プなどをするが、のらりくらりの緩慢な行動力とは比較にならない。ある意味で軍という機構の

統率力のような心身の鍛練は、彼らのような適当派の人間には必要かもしれない。

 さすがにジーケンイットは手伝いなどしない。むろん、兵たちがそんなことをさせるわけがな

いが、ジーケンイットは自分のことは自分でやりたいような顔をしていた。王子らしからぬ王子

だ。

 夕食は昨日の城での晩餐とは比べ物にはならないが、それでも地球とは違う食べ物に藤井たち

も満足ではあった。ただ、味噌汁が恋しいなという名古屋人の嗜好は少しだけある。兵たちはジ

ーケンイットとは少し離れたところで食事をしていた。それが、彼らの礼節であり、伊藤たちも

そうしなければいけないのかとも思ったが、ジーケンイットは逆に彼らを呼び、途中からは兵た

ちも交えて気さくな話をしてくれた。

 ジーケンイットという人物には誰もが好感を持っていた。王子という身分にありながらも奢る

ような態度は決してせず、臣下の者を平等に扱っている。藤井たちに対しても、客人という立場

であるのだが、変に仰々しくしたりせず、身近な存在として接してくれる。藤井たちの方も、悦

子から王子と聞かされ、少しびびっていたのも事実だ。だが、昨夜の晩餐からは彼らの考えも変

わっていった。もともと礼儀正しい人間たちではないが、彼らもそんな王子に対し無理な敬い方

はせず、自然に付き合うことにした。その方が彼らにとっても気が楽でもある。

 大人たちの輪の中にはまだ子供に等しい少女が戯れていたる。一時もじっとなどしていないよ

うで、ジーケンイットのところにいたと思えば、奈緒美のところに行ったりしている。ジーケン

イットは「おとなしくしていないか」と、ヒロチーカを叱ってはいるが、その顔は決して怒って

などいない。ジーケンイットにしてみても、ヒロチーカとこうして旅に出ることが久し振りだっ

たので、楽しかったのだ。最近は政務に忙しく構ってやる時間がほとんどなかった。そのことは

ヒロチーカに対しすまないと思っていた。

 ヒロチーカとて、そのことは充分理解している。しかし、両親や兄弟のいない彼女にとり、ジ

ーケンイットは肉親以上の存在なのだ。だから、今のこの時間はふたりにとってとても大切なも

のであった。ヒロチーカも少年の振りをしていたことを思い出したのか、城にいる時以上にはし

ゃぎ廻っていた。

 そんな中でも伊藤はまだ晴れない顔つきをしている。仲間たちの会話に入っているようで、半

分は上の空のようだ。今日一日、歩きながらいろいろ考えていたが答えは見つかっていない。そ

れ以前に何が問題なのかも分かっていなかった。今の自分の心境というものが何なのかそれが理

解できない。普段持ち合わせていなかった複雑な感情というもが、胸の中で渦巻いているような

感じだ。心理学的に言えば鬱病的な状態になっているのかもしれない。そんなことに陥った事の

ない伊藤には、それに対してどう対処すればいいのかというのも分からなかった。何気なく、ジ

ーケンイットとヒロチーカが楽しそうに話している姿を見つめた。その彼らの微笑みの中にいつ

か見たことのある情景が重なっていた。ジーケンイットのような笑顔を自分がしたことがある。

そして、ヒロチーカのような笑顔を彼女がしていたことを・・・。それは、なぜか遠い記憶のよ

うにも思えた。そんな昔のことではないはずなのに。

 

 夕食を終え、眠るにはまだ時間が早いので誰ともなくその辺を散歩した。野営した場所は小高

い草原で、周囲を森に囲まれているような場所であった。夜空を見上げれば、公害などまったく

存在しないこの世界には、プラネタリウム以外では望めない満天の輝きを見せつけている。しか

し、小学生の時に勉強した数々の星座を見出すことはできない。そのことが、自分たちが異世界

に来ているのだなということを実感させている。あの星のどれかが、自分たちの故郷である太陽

なのかと思わざるをえない。それは以前、悦子がこの地に来たときと同じ感傷でもあった。

 奈緒美は一人草原の中に座っていた。さっきまでは仲間たちと談話を楽しんでいたが、潮が引

いた時に一人ぶらぶらとキャンプを離れた。仲間たちといる時間は現実というものを忘れさせて

くれる。だが、こうして一人になると、その現実を思い出さないわけにはいかない。彼女にとっ

ての現実とは夫が側にいないことだ。居酒屋では隣りどうしに座っていたのに、今彼女の両隣に

は虚しい空間しか存在しない。どうせ、こんな世界に引き込まれるのなら、酒井と一緒の方が良

かったに決まっている。運が無いというか間が悪いというか、互いに噛み合わないところが、彼

女にはおかしくもあり、悲しくもあった。今ごろ家で何をしてるのだろうか?ちゃんと食事をと

っているのだろうか?自分がいなければ何もできないような彼だ、いろいろ気になってしょうが

ない。

 奈緒美には彼が近くにいるような感覚があった。実体としての感覚ではなく、心の存在のよう

な思いだ。それは違う方向に進んでいる列車がすれ違った時に、向こう側の列車に誰か知ってい

る人間がいたかのような一瞬の出来事だった。奈緒美は立ち上がり掛けだした。通り過ぎていっ

た酒井の面影を追いかけるように。だが、異なる方向に進む列車はもう二度とは交差しない。走

ったところで追いつくことはできないのだ。

 奈緒美は諦めて歩調を緩めた。気がつくとそこには小さな川が流れていた。水かさは膝下ぐら

いでそれほどの深さもなく、十歩も歩けば向こう岸につけるような幅だ。さっき、警備隊の兵が

水を運んできたのがここからのようだ。森に囲まれた辺りには電灯のような明かりはない。ただ、

二つの月が照らしだす明るさが川の流れに反射して、ちらちらと輝いている。水のせせらぎだけ

が、耳には届いている。その自然の音階の中に「ポチャン」という水の跳ねる音が聞こえた。月

明かりに目を凝らすと川辺に人が座っているのが分かった。奈緒美は、誰だろうと静かに近づい

た。

「古井さん、ここで何しているんですか?」

「うんー」古井はゆっくり顔を傾げた。「なんだ、脇田さんか。見てのとおり、釣りだよ。ちょ

っと、気晴らしにやっていたのさ」古井の顔は半分だけ影に隠れ、寂しそうに笑っているのを消

している。

「釣りって、古井さん、そんな趣味あったんですか?それに、釣り竿なんてどこから持ってきた

んですか?」奈緒美は少し呆れた口調で尋ねた。

「ああ、竿はその辺の枝を拾ってきただけだし、糸は城で晩餐の時に給仕してくれたマーリとい

う女性にもらったんだ。衣料店みたいなのを営んでいるとか言っていて、たまたま糸を持ってい

たから。針はさっきヘアピンをもらったろ、それで作ったんだ」

 古井は食事の時、奈緒美から彼女のピンをもらっていた。

「器用なんですね」

「うん、何かいろいろ考えたい時には釣りをするんだ。のんびり糸を垂らしながら水を見ている

と何となく落ちつく。日曜なんか暇になると近くの池によくいくんだ。最近は忙しくてあんまり

行ってないけど。だから、さっき川を見つけたんでそんな気になってね。夜釣りなんか滅多にし

ないけど、月明かりの下でこうしているのもいい気分だよ」

 奈緒美にとっては普段あまり見かけない古井の姿だった。トリオの仲間といるときは先頭を切

るように騒ぎまくっている。まるで、鮫が泳ぐのを止めたら死んでしまうかのごとく、いつでも

口が開いているような状態だ。そんな彼が一人、釣り竿を垂れているというのは意外でもあり、

納得もできた。いつもはしゃいでいる人間は案外にも寂しがり屋なのかもしれない。いつも口を

動かしている反動が一人の時にどっと押し寄せてくるのだ。古井とて、自分一人の時までしゃべ

り続けているような変人ではない。

 奈緒美には古井がここで何を考えているのか分かっていた。多分、自分や他の仲間たちと同じ

なのだろう。例え、知り合いが一緒にいるとしても、家族や別の友人のことを気にかけないはず

はない。

「心配しなくても大丈夫だよ。きっと、地球には戻れるさ。それまで、酒井君には苦労させてお

けばいいさ。脇田さんの有難みというものを実感させるいい機会だと思えば」古井には似つかわ

しくないセリフであったが、その言葉は奈緒美にとって心を和ませる言葉であった。奈緒美も何

か慰めの言葉でもかけようかと思ったが、なぜか浮かんでこなかった。しかし、古井は何も言っ

ていないのに「有り難う」と静かに言って、糸を引いた。

 

 伊藤は藤井と森の中で座っていた。「おい、タバコ吸うか?もう、これが最後だけど。お前、

もう切らしているんだろ」藤井はタバコの箱を叩きながら最後の一本を取り出し、ライターで火

を付け、一服してから伊藤に手渡した。

「すんません。頂きます」伊藤は一礼してそれを受け取り、胸一杯に吸い込んでから、大きく息

を吐いた。「もしかしたら、これが最後のタバコかもしれませんね」

「うん。ああ、そうかもな、やっと禁煙ができるっていうことかな」

「はっはっは」

「伊藤、結婚生活はうまくいっているか」

「何ですか、唐突に、そんなこと聞くなんて。まあ、それなりにやってますけど」

「人間、家族というものを持つと、何もかもが変わってしまう。それまでは自分さえよければい

いという安直な考えだけで暮らしてこれた。それが自由だと本人は思い込んでいる。そして、結

婚したら自由は束縛されるとかいう考えを持つ。確かに家庭というものを持つからには責任とい

う新しい重荷がのしかかってくるのは事実だ。それが自由気儘という個人主義の虚像を無くして

しまう。結局それを捨て去ることが出来ずに別れてしまう奴も多いが、それは本当の幸せという

ものを知らない愚か者なんだ。伊藤なら分かるだろう。奥さんもいれば子供もいる。そのことが

どんなに幸せか」

「ええ、まあ」伊藤は曖昧に答えた。

「お前は一体何を悩んでいるんだ。聞いて欲しいことがあるなら言ってみろ。何か家庭に不満で

もあるのか?」

「いえ、別に。ただ、自分でもよく分からないんです。何が心に引っ掛かっているのか、何が俺

を悩ませているのかもさえ・・・」

「うん、お前の言いたいことは何となく分かる。男は時々そんな感傷に陥ることがあるんだ。自

分は何の為に働いているのか、何のために結婚したのか、家族は自分のことをどう思っているの

か?俺も、そんな時期があった。だから、結婚が遅くなったかもしれない。だけど、俺はその難

問を解決した。というか、乗り切ったのかな。お前はちょっと結婚に関して問題があったから、

そういった考えに捕らわれるのが遅くなったのかもしれない。だけど、中年を過ぎてから、そう

なるよりはましだがな」

「じゃ、俺はどうすればいいんですか?藤井さんはどうやって解決したんですか?」伊藤は藤井

を覗き込むように言った。

「それは自分でみつけなくちゃいけない。俺がどうこう言うことはたやすいがそれでは何の意味

もないんだ。時間が解決しくれるかもしれない。だから、この旅はいい機会なのかもしれないな

「・・・・・・」

「酒飲むか?」

「酒って、そんなものどこから?」

「昨日の晩餐で飲んだ酒が美味かったから、ミーワという人に頼んで少し分けてもらったんだ」

藤井は懐から筒状の酒入れを取り出した。筒の一方に栓があり、それを抜いて口に流し込んだ。

「伊藤も飲め。よく、眠れるぞ」

「ええ、しかし、昨日もあんだけ飲んで、今夜もよく飲めますね」

「いいじゃないか、折角こんな世界に来たのだから」

 その時、背後から人が近づいてくる足音が聞こえ、二人は振り向いた。ジーケンイットが木の

枝を手でよけながら中腰で歩いてきた。

「何をしているんです。誰も野営地にいないもんだから、探しましたよ。おや、酒ですか」

「あっ、いえ、これは・・・」伊藤は慌てて隠そうとしたが、ジーケンイットは笑った。

「いや、何も気にすることはない。別にそんなことを咎めようとは思っていないですよ。それよ

りも私にも一口飲ましてもらいたい。警備隊の連中は一様任務中なので、酒など持ってきていな

いからな」

「はっはっは、それなら、どうぞ」伊藤は筒をジーケンイットに手渡した。

「ずるいな、大人たちだけそんなことをして!」彼らの目の前の草影から声がすると、同時にヒ

ロチーカが飛び上がった。

「ヒロチーカ、何をしているんだ。もう、眠る時間だろ」

「だって、誰もいないから、つまんなくて、ジーケン様の後をこっそり付けていったらこんなと

ころでお酒飲んでいるなんて」

「いや、それは、なー。とにかく、もう寝る時間だ。それに、何でも言うことをきくと約束した

ろ」

「そういう時だけ子供扱いするんですね。だから、大人って嫌なんだ。でも、約束だから野営地

に戻ります」ヒロチーカは弱みを握られているので不貞腐れながらもジーケンイットの言葉に従

おうとした。

「じゃ、俺も戻るよ。少し酔いが廻ってきたみたいだから。ヒロチーカちゃん、一緒に戻ろう」

「うん、お兄ちゃん」藤井がヒロチーカに手を伸ばした。ヒロチーカは藤井のところに歩み寄ろ

うとしながら、伊藤の顔をジーッと見つめた。

「何だい。顔に何かついているか?」

「うーん、お兄ちゃんがお姉ちゃんのご主人さんなんだなーと思って」ヒロチーカはそう言って

微笑んだ。「ジーケン様、お休みなさい」

「ああ、お休み。フジイー、よろしく頼みます」

「OK、王子様」二人は手をつなぎながら去っていった。

「ヒロチーカにも困ったものだ。旅に付いていくと言いだしたり、わがままばかり言っている始

末だ。私の育て方に間違いがあったのかな。男の子として育てていた時はそれなり、厳しくして

いたのだが、女の子に戻ってからは、自由にさせすぎたのではないのだろうか」

「でも、いい子じゃないですか?素直だし、優しさもある。王子さんの育て方には間違いはない

と思いますけど」伊藤は正直に言った。

「そうかな?ただ、あの子には親がいない。そのことはエツコから聞いているかい?」

「ええ、聞きました」

「幼いころ子供専門の人身売買のところにいて逃げだした。その後、街で孤児のような生活をし

ていたのを私が預かったのだが、所詮、私は仮の親でしかない。本当の親の愛情というものをあ

の子は知らない。それが、可愛そうでね。城でも両親の消息を見つけようとしたのだが、何も手

掛かりがなくては到底無理な話だったからな。唯一、あの子が幼いころから持っている指輪だけ

があるのだが、それだけでは・・・」

 伊藤はヒロチーカが指に指輪をしているに気付いていた。宝石の付いたものではなく、ただの

金属のリングである。「それでも、あの子は幸せなのではないのでしょうか?あなたのような方

と一緒に暮らしているのですから、身分とか財産という事ではなく、人間としての生活において

は、その辺の不埒な大人たちの子よりは幸せだと思いますけど」

「有り難う、そう言ってもらうと、私も嬉しい。幸せと言えば、ケンジー、あなたも本当に幸せ

な人じゃないですか?」ジーケンイットは伊藤の顔を見つめて口許をほころばせた。

「わ、私がですか?」伊藤は王子にそんな事を言われて驚いた。

「違うのかね。だって、あなたはエツコという素晴らしい女性をめとっている。それが幸せじゃ

ないというのかね?」

「・・・・・・」

「エツコは私にとって命の恩人だ。彼女がいなければ今の私はもちろん、トーセさえもこのよう

な繁栄を迎えていない。それに、もしエツコ以外の人間があの時、トーセに来ていたとしても同

じようにはならなかったと思う。エツコだったからこそ、竜玉の力を導きだし、信じられぬよう

な奇跡を起こしてくれたのだ。その奇跡は竜玉の力ではない。竜玉はそれを持つ人の力を強くさ

せるだけで、持つ人によっては何の力も発揮しないものなのだ。エツコが奇跡を起こしたのも、

彼女が真に優しさに溢れ、思いやりがあり、愛に満ち満ちている女性だったからだと私は思って

いる。そんな女性をケンジーは妻にした。それが幸せでなくて何が幸せなのかね」

 伊藤は黙ってジーケンイットの言葉を聞いていた。他人に自分の妻のことを言われているが、

嫌な気分ではなかった。かと言って褒められているから嬉しいというわけでもない。今、伊藤は

本当の幸せというものを探そうとしていた。今まで見つからない答えを探そうと。

「エツコがなぜあんな力を出せたのか分かるかい?それはケンジーのことを片時も忘れなかった

からだ。エツコは記憶喪失の状態でこの地に来た。しかし、名前以外のものは忘れていても、心

の中にはきっとケンジーのことを思い浮かべていたのだろう。竜玉に願いを込める時でも、心の

奥にはケンジーに対する思いがあり、それが竜玉の力を導き出していたんだと思う。私もあの戦

いで『愛』というものを知った。それもすべて彼女が教えてくれたようなものだ。『愛』を知ら

ない人間が『愛』を教えられるはずもない。戦いの後、突然、この地を去ったが、それも記憶が

戻り、すぐにでもケンジーの元に帰りたかったのだと思っている。彼女は人の立場に立って物事

を見れる人だ。自分がその状況になったどうするのか?そういった見地のできる人だ。人の心を

分かる人間こそ、本当の人間なんじゃないのかな」

「そうですね」伊藤は一言だけで答えた。けれども、彼の心の中はもやけていたものがすべてき

れいになったようなすっきりした気持ちであった。妻の自分に対する思いというものが心に染み

た。自分は一体何にこだわっていたのだろう?さっきまでの不可思議な考えが嘘のように無くな

っていた。伊藤はある事が分かった。それは人を信じること、それが大事だといういうことを。

家族は互いに責任を持つとともに、その責任の鉄鎖として信頼というものがあるのだ。人間は心

を持つ生き物。人と人との結びつきはその信頼によって強固なものになる。家族という絆は一度

結ばれれば決して切れない、切ってはいけないものなのだ。むろん、その絆を断ち切ろうと見え

ない魔手は様々な形で襲いかかってくる。それを打ち砕くのもまた、互いの絆なのだ。強いはず

のつながりがほどけようとすることもあるだろう。信頼が無ければそれは糸のように簡単に切れ

てしまう。だが、信頼が大きければそれは鋼鉄よりも堅いものになる。目には決して見えないそ

の力が人間を人間として存続させていく源になる。

「じゃ、そろそろ、我々も戻ろうか。明日もまだ進まなければいけないからな」

「ええ、そうしましょう」伊藤が立ち上がると、ジーケンイットが言った。

「ケンジー、酒を置いていってはいけないな。明日の楽しみがなくなる」

「ええ」伊藤は足元の筒を拾って、歩きはじめた。

 

         2

 

 翌日もジーケンイットたちの隊は奈緒美が持つ竜玉の光に向かい道なりを進んだ。伊藤たちは

本当にこの光を頼りにすればいいのだろうかと、わずかながらの疑いを持っていたが、ジーケン

イットは確信に満ちた表情で先頭を歩いていく。数時間後、二つの太陽が真上に昇りきったころ、

休息でもしようかと、ジーケンイットが立ち止まった時、奈緒美が声を張り上げた。

「ジーケンイット様、竜玉の光がわずかですけど明るくなりましたが」

「本当かい?見せてくれ」ジーケンイットは奈緒美の握る竜玉を見つめた。確かに今までと光の

加減が異なっている。明らかに光の強さは増していた。

「どっちの方向なのだろう?ナオミー少し動いてみてくれ」

 奈緒美がゆっくり回転を始めると、ある方向になった時、光の強弱がはっきりと波打った。

「あちらにの方には、ゴウトの集落がありますが」警備兵の一人が言った。

「そうか、ではひとまずそのゴウトに行ってみよう。そこで休息を取りながら竜玉のありかにつ

いて調べてみることにする」

 ジーケンイットの指示に従い、一行はその集落へ向かった。トーセの中心街とは比べ物になら

ないが、人の往来はかなりあり、カウホースが行き交ったり、大きな荷物の荷車を運ぶ商人風の

男たちが多く見受けられる。隣街・ヨーダトとの交易によって栄えているようで、道端で市を開

いている光景も見られた。警備隊の姿を街の人々が見つけると、何なのだろうという好奇の目を

示している。ジーケンイットはあまり身分を公にするのも騒ぎになるのではないかと懸念し、顔

を布で覆って隠していた。

 街の中心まで来て、ジーケンイットは警備隊の兵たちに、この地の分隊と連絡を取るよう指示

し、彼らとは別行動をとることにした。また、兵の一人にその分隊からこの街の宿がどこにある

か尋ねるよう指示した。その兵が戻るまで残った六人はその辺をうろついていた。

 伊藤は古井と物珍しそうに、辺りを見て廻った。街の中心には様々なものが商品として売られ

ている。生活必需品から食べ物まであるが、現代文明に毒されている彼らには妙にレトロなもの

のように見えた。伊藤は脇見をしていたので、その女が店から出てくるのにも気付かず、ぶつか

った時には遅かった。女の荷袋が地面に落ち、中から旅の携帯用品やお金などが飛びだしてしま

った。

「あっ、すいません。横見をしていたもので」伊藤はすぐにしゃがんでそれを拾い上げた。

「いえ、こちらこそ。ごめんなさいね」女は笑いながら一緒にこぼれた物をかき集めている。四

十手前ぐらいの中年の女性だが、スマートな体型で化粧などないこの世界にしては美しい人に見

えた。

 伊藤はその女性の指にある指輪を見て、おやっと思った。

───どこかでみたことがあるな?

「ありがとうございました」女は丁重に挨拶して、その場を去った。

 伊藤少し気になり、ちょうどその女が出てきた店の人が現れたので尋ねてみた。「すんません、

今の女の人、何しに来たんですか?」

「ああ、何でも、昔、生き別れになった娘を探しているとか言っていたね。私が行商人だという

のをどっかで聞いてきたらしいよ。大陸中を旅するから、どこかでそういう人がいなかったかと

尋ねてきたけど、私にも心当たりはないんでね」

「そうですか、どうも」伊藤は礼を言って、すぐにもその女を探したが、人込みの雑多の中に紛

れたらしくもう見つけることはできなかった。そして、古井がちょうど現れ、「王子さんが出発

するって、行こうぜ」と言ってきたので、仕方なくその場を離れた。

 兵の連絡でもう少し行ったところに、この街の宿場があるのを知り、六人は向かった。そこは

貿易商人を相手にしている街宿で、今夜遅くなることも考えここで一泊することに決めた。ジー

ケンイットは当然身分を偽り、藤井たちもチーアの人間に見えるので商売のため大陸を渡ってい

ると宿には説明しておいた。

 西部劇にでも出てきそうなバーが一階にあり、二階が宿泊施設になっている。部屋にはベッド

が二つずつあるだけで、他には何も無い素っ気無さだ。城の豪勢な客室と比べようもないが、ひ

とまず、屋内で眠れるので文句は言えない。奈緒美はヒロチーカと、伊藤は古井と、藤井はジー

ケンイットと同室になった。

 一息ついてから、六人は階下に集まり、竜玉探しを再開した。奈緒美の持つ竜玉はこれまでに

ない明るさを保っている。この近くに探し求めている竜玉があるのは間違いない。慎重に方向を

定め、一行は街の中をうろついた。単純に誰かが所持しているのかと、ジーケンイットたちは思

っていたが、竜玉の光がある地点から衰え出したのに気がついた。すでに道は街から離れはじめ

民家などは無くなっている。

「おかしいな、こっちの方にはないようだ。戻ってみるか」ジーケンイットは立ち止まって言っ

た。

「ですが、ここに来る途中にはあまり家などがなかったような気がしますが」古井はジーケンイ

ットに答えた。

「とすると、その辺に転がっているのかな。埋まってたりしてたら大変だな」前髪を触りながら

藤井は言った。

 ジーケンイットたちは今来た道を逆戻りしていった。確かに、そうすると竜玉の光が再び明る

さを増していく。だが、周りに人が住む気配はない。田畑のように耕された土地と、道沿いに木

々が点在しているだけである。

「この辺りが一番明るくなりますね」奈緒美は見た目の明るさのことを言っているというよりは

竜玉を握る手から伝わる暖かみの度合いを感じていた。

「しかし、やはり何もない。あるのは目の前の大きな木だけだ」ジーケンイットがそうつぶやく

と、ヒロチーカは何気なく上を見上げて言った。

「ジーケン様、もしかしたら、この木の上じゃないですか。だって、あそこで何か光っている様

にみえますけど」

 目前の大木は役十一バルク(十五メートル)はある高くて四方に枝が伸びたものだ。何の木か

はよく分からないが、幹の太さから考えても樹齢はかなりある。枝からは新緑の葉が覆い茂り、

太陽に光さえ届かせないほど鬱蒼としている。木の下まで歩き、上を覗くと太陽とは異なる眩し

い光が見える。

「この木、何の木、気になる木・・・。っていう感じの大木ですね」古井が口ずさんだ。

「間違いないな。たぶん、あそこで光っているのが竜玉だろう。鳥か獣が餌と間違えて運んで行

ったのかもしれない。だが、困った、木の上では取りにいけないな。何も装備をしていないし」

ジーケンイットが腕を組んで唸った。

「それなら、登って取るしかないな。古井、行け!」藤井は古井の肩を叩いた。

「ちょ、ちょっと、待ってください。俺、木登りはあんまり得意じゃなくて、都会育ちですから

」古井は逃げ腰気味に言った。

「安城が都会かよ。お前んちの近くは田んぼばっかじゃないか?じゃ、伊藤は?」

「ええ、私も都会育ちですから・・・・・」

「情けない奴らだ」

「じゃ、藤井さんがいけばいいじゃないですか」奈緒美が痛いところを突いてきた。

「えっ、一宮は大都会だからな、こんな大木がなくて、それに俺は子どものころは勉強しかして

いなかったから、木登りなんてなー」藤井は笑って誤魔化そうとしたが、古井たちは白い目でジ

トーと見つめた。             ざ ごと

「私が行ってきますよ」ヒロチーカが大人の戯れ言に呆れたのか名乗りを上げた。

「でも、大丈夫?そんな、女の子がしなくてもいいことよ」奈緒美は心配そうにきいた。

「任せてよ。これでも、昔、男の子の頃はよく木に登って遊んでいたんですから」そう、言うと

ヒロチーカはすぐに幹の周りを見渡し、登れそうな位置を判断して、飛びついた。口でいうだけ

あってヒロチーカはロッククライミングのように手足を掛けられる場所を見つけてはするすると

登っていった。

「さすが、元男の子。軟弱な都会の子どもとは違いますね」と、奈緒美は皮肉ぽっく、言葉を発

したが、男たちは聞こえない振りをして澄ましていた。

 ヒロチーカの姿はすぐに緑の葉で見えなくなった。そして、すぐにも上空から彼女が叫ぶ声が

聞こえてきた。「ありましたよ。確かに竜玉です。鳥の巣の中にひかっかってます」

「ヒロチーカ、気を付けて降りてきなさい」ジーケンイットも叫び返した。

 ヒロチーカは上る時とは対照的に慎重な動作で降りてくる。竜玉を服の胸の中に入れたのか、

そこから明かりが漏れているのが分かった。彼女の姿が完全に視界にとらえられ、もう少しのと

ころまで来ていたのでホッと一安心した時、藤井たちの後方から何か影の様なものが飛来してき

た。それは、カラスほどの大きさでグレーの羽色した鳥だった。その鳥は真っ直ぐ、ヒロチーカ

目掛けて突き進んだ。

「きゃー、危ない」と奈緒美が叫んだのに反応し、ヒロチーカも後ろを振り向いた。鳥が嘴で彼

女をつっつこうとしたのを、ヒロチーカは体をねじらせてよけた。鳥は空中に滞空できないので、

飛んできた勢いのまま、幹をかすめて向こう側に飛びだした。だが、態勢を崩したヒロチーカは

足場を無くし、幹につかまる力も無くしたため、落下し始めた。あっと、誰もが思ったが、ジー

ケンイットさえでも咄嗟に身動きできなかった。重力に任せるまま落ちていくヒロチーカ。ジー

ケンイットは動きはじめたが、どう見ても間に合わない。目前に迫るヒロチーカに手を伸ばしが

届かなかった。

 「駄目ー!」と奈緒美は思い、一瞬目を両手で覆った。

 だが、ドタっと、落ちる音はしなかった。奈緒美が恐る恐る手をどけてみると、肩膝を付いて

藤井がヒロチーカを受け止めていた。

「藤井さん!」

「おっと、危ないところだったな。危機一髪だったぜ」藤井はヒロチーカの重みは両手に響かせ

たため、少し苦痛の表情をしながらも笑って言った。

「ありがとう、お兄ちゃん、もう駄目かと思ったけど、フー・・・」ヒロチーカは大きく溜め息

をついた。

「ヒロチーカ、大丈夫か?それに、フジイーも、大した俊敏性だな」ジーケンイットは感心して

いた。

「ええ、昔も同じように女の子を助けたことがありましてね、それ以来危険を察知するようにな

ったんですよ」

「鳥の奴、卵を取られたと思ったみたいですね」伊藤が言った。

「まあ、とにかくよかった」

「あのー、あんまりよくないみたいですけど・・・」古井は声を震わせながらそう言い、木の下

から逃げようとしていた。「さっきの鳥がまた来るみたいですから、早く逃げましょう」

 消えたと思った鳥は再びこちら目掛けて突進してきた。一目散に逃げだした古井に続いて藤井

たちも後ろを振り返らず、走りだした。

 ヒロチーカは走りながらも、胸から光る竜玉を取り出した。「はい、ジーケン様、竜玉です」

「御苦労だった。ひとまず、ここは逃げるのが先決だから、仕舞っておきなさい」

「はーい」

 六人は脇目も振らず街へと走り去った。

 その姿を森の奥から覗いているモノがいた。木の枝の上にいるモノは身動き一つせず、彼らの

行動を見つめていた。

「どうやら、トゥリダンの涙を捜し当てたようだな、カッカッカッ。それでは、今夜いただきに

あがろうか、カッカッカッ」

 モノは宙に浮かんでいるがのごとく、物音一つ発てずに森の中に消えていった。

 

         3

 

 その夜は宿で祝杯を上げた。宿の料理はお世辞にもおいしいとは言えなかったが、今の彼らに

はそんなことを気にするような気分ではなかった。一階の飲み屋のワンテーブルを陣取り、楽し

く食事をしたあと、藤井とジーケンイットの部屋に場所を変え、酒を少しかわすことにした。

「では、乾杯といこうか!」ジーケンイットが音頭を取った。

「私も、お酒飲みたい?」一人だけ果実水を飲んでいるヒロチーカは羨ましそうに不平を言った

が、ジーケンイットは「子供は駄目だ!」と、全く聞き入れようとはしない。

「ふん、私が木に登って竜玉を取ってきてあげたのに!もういいわ。私、お風呂に入ってくる」

と、不貞腐れて部屋を出ていった。

「いいんですか?ヒロチーカちゃん、怒っちゃいましたよ」奈緒美が心配そうに言ったが、ジー

ケンイットは「大丈夫ですよ。たまにはきつく言っておかないと、甘やかしてはいけないからね

」と、奈緒美からしても大人の倫理でものごとを言っているような気がする言葉だった。

 階下から持ってきた酒がなくなると、「ケンジー、昨日のお酒はまだ残っているかい。折角だ

から皆で飲もう」ジーケンイットはほろ酔い気分で言った。

「わっかりました。すぐに」と、伊藤は敬礼する真似をしてから自分の部屋に入り、鞄に入れた

酒筒を持って戻ろうとした。その時、向かい側の部屋から昼間出会った中年の女性が出てきて、

目があった。

「あれっ、あなたもこちらにお泊まりだったのですか?」伊藤は上機嫌で余計なことをきいてい

た。

「ええ、今夜はこの街で泊まることにしたもので・・・」女は丁寧に言った。

 伊藤は昼間の事を思い出し、ずっと気になっていたことを切りだしてみた。「失礼ですけど、

あなた、確か娘さんを探しているとか・・・?」

「はい、そうですが、そのことを御存知で?」

「いえ、ちょっと、昼間のあの時、耳に入ったもので」

「そうでしたか」女は戸惑った表情でうつむいた。

「あの、そのことでちょっとお話があるのですけど、今いいですかね」           31

 女は顔を上げ、目を見開いた。「えっ、何かお心当たりがおありですか?」

「ええ、まあ。ですから、一緒に来てもらえますか?会わせたい人がいますから」伊藤はそう言

って、女をジーケンイットの部屋に案内することにした。

「伊藤遅かったな、酒あったのか?おや、その人は?」藤井は酔いどれの口調で言った。

「王子さん、ちょっとお話があるのですが、いいですか」伊藤は真顔でジーケンイットに進言し

た。

「ああ、いいが、その方は?」

「私は、オーミナという者です。こちらの方からお話があるとうかがいまして」

「話?ケンジー、どういうことだ」ジーケンイットも酔いを覚まし真剣に尋ねた。

「実は、この人、娘さんを探しているそうです。それで、少し気になったもので、お連れしたん

ですが」

「娘を探している?ま、まさか・・・」ジーケンイットは伊藤の言わんとしていることをすぐに

悟り、驚いた表情をした。

「オーミナ、あなたは本当に自分の娘を探しているのですか?」

「はい、そうです。その子が幼い、まだ赤ん坊の時に生き別れたまま、今日まで来ました」

「うんー、それで、その子は今も生きていれば何才になるのかね?」

「今年で十五になるはずです」

「十五・・・・・・!」ジーケンイットは深く考え込んだ。「その子の名前は?」

「リーノです。リーノ・カージマというのが正式な名前です」

 ジーケンイットは少し迷った。名前が違うのはよくあることだ。赤ん坊の時別れたのでは、そ

のまま名前が伝わらないこともある。

「では、何か探している子が自分の子だという証になるようなものは持っているかね」

「いえ、そのー・・・」女は考えだした。

「王子さん、そのオーミナさんの指を見てください。この指輪を・・・」伊藤はそう言ってオー

ミナの手をジーケンイットに見せつけた。ジーケンイットもそれを見ると、彼女の手を握って、

前に乗り出した。

「この指輪はどうしたのかね」

 王子が間近に迫って、オーミナも少し驚いていた。「こ、これは私の先祖から伝わるものです。

価値などは全く無いただの金属ですが、夫の母から受け継いだ大事なものです」

「この指輪は一つしかないのかね」

「いえ、これは結婚の時にいただくものですから、夫と私に一個ずつあります。ですが、今はこ

れ一つしかありませんが」

「ならば、これがもう一つあったとしたら。もう一つはどうしたのかね」

「もう一つの指輪は娘を預ける時に一緒に・・・、では、この指輪に心当たりがあるのですか?

」オーミナはジーケンイットを見つめて、声を震わせた。

「ああ、そうだ。この指輪をした女の子を私は知っている」ジーケンイットは彼女の手を取り、

微笑んだ。

 その言葉にオーミナは目を潤ませた。「本当ですか。本当にこの指輪の持ち主を。今、どこに、

生きているのですか?」

「ああ、元気にしている。元気すぎて困るぐらいだ」

「あ、あのー、あなたは一体どなたなのですか?」オーミナは急に現実に戻った。

「ん?、ケンジー、私のことは話していないのか?」伊藤は、にやけて首を上下に振った。

「申し遅れた。私はジーケンイット、今、ある問題のため、この地にきている」

「ジーケンイット?えっ、まさか、ブルマン王朝の王子、ジーケンイット様ですか?こ、これは

知らぬこととはいえ、失礼いたしました。なにぶんにもトーセに定住しておりませんので、ジー

ケンイット様のお顔もよく存じておりませんでしたので、申し訳ありません」オーミナは急に恐

縮しだし、床にひれ伏した。

「まあ、そんなことはしなくていい。私も今は旅の者としてここにいるだけなのだからな。それ

よりも、すぐにでも娘さんに会わせて上げよう」

「えっ、では、リーノもここに?」

「そう、一緒にここまで旅をしてきた。ナオミー、ヒロチーカを呼んできてくれ、もう風呂から

は上がっているだろう」ジーケンイットは奈緒美に頼んだが、彼女が立ち上がった時、部屋の扉

が勢いよく開いた。そこには、両頬に涙を流すヒロチーカが立っていた。

 オーミナもその音に振り向き、ヒロチーカを見つめた。例え十五年離れていたとしても、自分

の娘だということはすぐに判別できた。

「ヒロチーカ、立ち聞きしていたのか?本当はよくないことだが、まあ、今回はいい。ヒロチー

カ、聞いての通り、お前のお母さ・・・」

 ジーケンイットの言葉を無視してヒロチーカは涙声で怒鳴った。「そ、そんな人、知らないよ。

そんな女の人が、お、おいらのお母さんだなんて、そんなことはないよ。おいらはみなしごなん

だ。親なんていないんだよ!」

「ヒ、ヒロチーカ、何ということを言うんだ。お前のお母さんが見つかったというのに」ジーケ

ンイットは彼女の思わぬ反応にびっくりした。

「そうよ、ヒロチーカちゃん、間違いなく、この人はあなたのお母さんなのよ」奈緒美もそう言

ったが、ヒロチーカの怒気は収まらない。

「何が、親だよ。子供を、子供を売る親がこの世にいるもんか。そんなの親じゃないよ。そんな

の・・・」ヒロチーカは涙で言葉に詰まっていた。

「子供を売る?それは、何のことだ。オーミナさん、どういうことなんです」藤井がたまらず、

尋ねた。

 オーミナの方も動揺していた。ヒロチーカに予想外のことを言われて当惑しきっていた。「な、

なぜ、その事を知っているの。あなたは、まだ、言葉も話せないほどの小さな赤ん坊だったのに

「おいら、見たんだ。あんたと男の人が、髭面の男の人に、赤ん坊を売るのを。赤ちゃんだって、

目と耳があるんだ。全部知っていたんだよ」それは半分嘘で半分本当であった。赤ん坊とて生き

ているのだから、そういったことを体験していないとは言い切れない。ただ、子供の頃の記憶と

いうものは大人になってからはほとんど思い出せないのだ。しかし、ヒロチーカは五年前の魔女

との戦いにおいて、「真実の部屋」で見せられた幻影のことがずっと頭にこびりついていた。魔

女たちは人間の心の奥底に持っている恐怖や不安を見つけ出し、それを目の前に見せつけて、精

神の均衡を奪おうとしたのだ。ヒロチーカはその時、子供を親に売る悪夢を見せられた。それが、

自分のことなのか、それとも孤児だということから魔女が見せたのか判断はできなかった。忘れ

ようとしても、決して忘れることのできない幻影だった。自分が子供を人身売買している所から

逃げだしたということは覚えている。だから、悪夢の信憑性というのも疑ってはいなかったのだ。

「確かに、ヒロチーカは悪質な人身売買を裏で行っていた施設から逃げている。オーミナ、今ヒ

ロチーカが言ったことは本当なのか?」ジーケンイットはオーミナに詰問した。

「そ、それは・・・。リーノ、私を許して、あの時はそうするしかなかったの。そうしなければ

私たちはおろか、あなたも生きていけなかったの。施設でもいい、なんでもよかったから。あな

たが生き続けることさえできればいいと、その時は思ったの、だから、だから・・・」オーミナ

は号泣してヒロチーカに近づこうとした。

 だが、ヒロチーカはそんな母親の謝罪も拒否した。「そんなの、許せないよ。絶対に許せない

よ。大人なんて皆勝手だよ。自分の都合で子供を売るなんて。そんなの、そんなの、勝手すぎる

よ」ヒロチーカは泣きながら部屋を飛びだし、下に通じる階段に向かった。

「ヒロチーカ、待て!」ジーケンイットは彼女を追いかけようとしたが、藤井が立ち上がった。

「私が行ってきます。王子さんはここで待っててください。何とか、なだめてきますから」藤井

はそう言いながらも部屋を出ていった。彼に続くように奈緒美も「私も行ってきます」と、藤井

の後を追った。

 オーミナは床に倒れ込み「リーノ、御免なさい。リーノ、私を許して・・・」と泣きじゃくる

ばかりで、残った三人の男たちも途方にくれていた。

 

 宿から外に飛びだしたヒロチーカを追って、「ヒロチーカちゃん、待つんだ、戻ってくるんだ

」と藤井が叫び、奈緒美も「ヒロチーカちゃん、待ってちょうだい」と大声で言った。

 ヒロチーカはなりふり構わず走り、街の外れまできてやっと歩調を緩めた。

「はあ、はあ、ヒロチーカちゃんは早いな。さすが、元男の子だけはある。はあー、はあ」藤井

は走り疲れて息を切らした。タバコはやめるべきだなとつくづく思っていた。

 しばらくして、奈緒美も駆けつけた。「ヒロチーカちゃん、どうして逃げるの?やっと、お母

さんに巡り合えたのに」

「あんな人、お母さんじゃないよ。おいらを、私をお金に換えたんだよ」ヒロチーカはまだ目に

涙を一杯溜めている。

「ヒロチーカちゃん、それにはちゃんとした理由があってのことだったと思うよ。子供を見捨て

る親なんて決していない。でも、どうしてもやむにやまれぬ事情というものがあったんだよ」藤

井は彼女をなだめようと必死に説明した。

「そんな、大人の都合で子供を売るなんて、私には分からない。私の事を可愛いとは思っていな

かったはずだよ」

「そんなことはないわよ。お母さんはヒロチーカちゃんのこと決して可愛くないなんて思ってい

ないわ。もし、そうなら、こうして娘さんを探し廻っている?」奈緒美も説得を続けた。

「そうだよ。お母さんはきっと、ヒロチーカちゃんを手放した時からもずっと君の事を考えてい

たはずだよ。事情はよく分からないけど、あの人、君を探すためにあちこち旅していたんじゃな

いかな」

「・・・・・・」ヒロチーカもやっと落ちついたのか、静かに二人を見上げた。

「ねえ、お母さんを許してあげて、こうして再会出来ただけでも幸せと思わなきゃ、生きて会え

たのだから、ね」

 ヒロチーカは自分の指にはめている指輪を見つめた。これをずっと付けていたのは、いつか両

親と再会できる日がくるのではないかと、思っていたからだ。ところが、その母が目の前に突然

現れると、喜びよりも怒りがこみ上げてきた。再会の意味の中に自分を捨てたという恨みが籠も

っていたのだ。ヒロチーカは蜘蛛の巣に絡まってしまったような、身動きの取れない心境であっ

た。だが、どうしても母を許すことができなかった。例えそれがどんな理由であろうと、子供を

手放すことは決して許すことができない。この十五年間の孤独を癒すことはできない。ジーケン

イットたちと暮らしたこととは異なる、肉親の愛情というものに彼女は飢えていた。ジーケンイ

ットは自分に対し、父や兄の気持ちで接してくれた。だが、それも血のつながりがない事実がど

こか彼の態度の中に見え隠れする。そして、ヒロチーカは母親の愛情を欲していた。母親とは何

かを知りたかったのだ。

「やっぱり許せないよ。おいらは、私は・・・」ヒロチーカは藤井の腕を払いのけ、また走りだ

した。

「ヒロチーカちゃん、待つんだ」藤井は彼女を追いかけようとした。だが、突然その動きを止め

た。

「キャー」という悲鳴と共に、ヒロチーカの体が宙に浮いた。だが、浮いたと思われた彼女の背

後の闇が前に乗り出してきて、その一部に青白く光る二つの光が現れた。ヒロチーカはそのモノ

の腕に捕まっていた。

「何だ、お前は!そ、その子を離せ!」藤井は突然のできごとにも動じず、冷静に言ったが、奈

緒美は怯えて藤井の背中に隠れた。

「カッカッカ、俺はカーミの分身、トウカ。このガキは預かった。返してほしければ、お前たち

が手に入れたトゥリダンの涙とコーボルの剣を持ってくるんだ。

「何だと、きさま、魔女の手先か!」藤井は怒りがこみ上げてきたが、どうすることもできない。

ヒロチーカが人質であるし、相手が魔女の下僕では下手に手出しもできない。

「卑怯な!・・・仕方がない、脇田、王子さんのところに言って、知らせてきてくれ」

「ふ、藤井さん」奈緒美は藤井に縋ろうとしたが、藤井は「行くんだ、早く」と彼女を突っぱね

た。奈緒美は前を見たまま、後退し距離が離れてから一気に走っていった。

「お兄ちゃん!」ヒロリーカは叫んだが、藤井は身動きしないまま「大丈夫だ、きっと助ける」

と額に汗をたらしながら勇気づけた。

 トウカは「カッカッカ・・・」と不気味に笑い続けている。

 

         4

 

 オーミナはジーケンイットに今までの経緯を全て話した。傍らでは伊藤、古井が黙って二人の

会話を聞いている。確かにオーミナはリーノという生後間もない赤ん坊を人に預けていた。今か

ら十五年前、オーミナは夫の商売がうまくいかず、夜逃げ同然で大陸をさまよっていた。二人に

は産まれたばかりの女の子がいて、何とか新しい生活をみつけようとしていたが、お金も底をつ

きだし、窮地に陥っていた。このままでは家族全員野垂れ死にの状態になりかねない。その時、

一人の老紳士が近づいてきた。その赤ん坊を私に託せば、お金を差し上げるという申し入れをそ

の男はしてきた。オーミナは子供を手放すことだけはしたくなかったが、そうしなければ全員が

死んでしまう。彼の条件をのめば、リーノは何とか生きていけるし、自分たちも彼のお金で最出

発できるかもしてないと夫は考え、オーミナの拒否も無視して赤ん坊をその男に手渡したのだ。

その後二人は男からもらったお金で何とか新しい生活を始め、苦労の末、新天地で商売を再開で

きるまでになった。その後は順調で二人の生活は軌道にのっていた。そこで、オーミナは子供を

取り戻そうとあの時の男を探した。すでに七年が経過していた。やっとのこと男を見つけ出せた

が、孤児院を逃げだしたリーノの消息は全くつかめなかった。それからは仕事の合間に大陸の各

地を歩き回り、娘の手掛かりや消息を探したが、なかなか容易には見つけることはできなかった。

その後、夫は体調を崩し、三年前に亡くなった。オーミナは夫亡き後も一人で娘を探し続けてい

たのだ。

 今度はジーケンイットがオーミナに説明した。ヒロチーカと出会ってから、男の子として育て、

トゥリダンとの戦いで女の子に戻ったことまで。

「それではジーケンイット様がリーノをお育てに。何と感謝すればよいのでしょうか」

「私もあの子と過ごせて楽しかった。弟というか妹のようなつもりで接していたからね。ただ、

私は母親や父親の代わりにはなれなかった。その事だけがずっと気掛かりで。城の方でも彼女の

親の消息を探ったのだが、あなたとは行き違いばかりだったようだ。オーミナもまさか自分の娘

が城にいるとは思ってもいなかっただろうし、五年前まではヒロチーカは男の子として城では通

っていたから、無理もない」

「ジーケンイット様、あの子、私を許してくれるでしょうか。こんなひどい母親を」オーミナが

また泣きだしたので、伊藤が自分のハンカチを手渡した。「すみません」

「私が言うのもなんだが、ヒロチーカは立派に成長しています。おてんばではあるが、人の心が

分かる優しい子だ。今は確かに突然のことで驚いたり、気持ちの整理ができていないから、あの

ような事を言っているが、しばらくすれば、きっとオーミナを受け入れるでしょう」

「えっ、そうでしょうか?」

「大丈夫ですよ。ヒロチーカちゃんはとってもいい子ですから」古井も彼女励ました。

 階段を駆け上がる音が聞こえ、すぐに部屋の扉が開いて奈緒美が走り込んできた。

「ナオミー、どうした血相を変えて、ヒロチーカは?」ジーケンイットは倒れ込んだ奈緒美にを

抱き起こした。

「そ、それが、大変なんです。藤井さんとでヒロチーカちゃんを追っ掛けたら、暗闇の中から変

な化け物が出てきて、ヒロチーカちゃんを捕まえちゃったんです」

「えっ、リーノが、リーノがですか」オーミナも驚きを隠せない。

「化け物?それは、もしかして魔女か?」ジーケンイットは目の色を変えた。

「ええ、魔女の分身とか言ってました。それで、ヒロチーカちゃんを返してほしければ、竜玉と

剣を持ってこいと」

「何だと!魔女の奴め、汚い手を・・・。よし、すぐに行こう。案内してくれ」

「はい」

「俺たちも行こう」伊藤は古井と立ち上がった。

「オーミナはここで」ジーケンイットはそう提言したが、彼女は「私も行きます」と毅然とした

態度を示した。それは自分が母親だということを誇示しているようで、ジーケンイットも無理に

は止めなかった。

 

 藤井はトウカと睨み合ったまま数分を過ごした。一度前に動こうとしたが、トウカはヒロチー

カを捕まえていない方の手を伸ばし、その指先から針のような鋭いものを藤井の足元に投げつけ

ため、藤井も下手に動けなかった。緊張の汗が顔中に広がる。無力な自分を藤井はどやしつけた

かった。

 ヒロチーカも無理には騒がず、今は静かにしている。反撃の機会を待ち、力の消耗を最小限に

することを彼女は知っていた。

 一分が数時間に思えてならなかった。奈緒美が去ってから無限の時間が流れているようで、藤

井の心の中は焦っていた。───早く来てくれ、王子さんよ!

 背後から人が数人駆けつけてくる気配がした。藤井は安堵しつつも、前を向いたまま声を掛け

た。「待ってたぞ。ヒロチーカちゃんはまだ無事だ」

 ヒロチーカもジーケンイットたちの姿を見つけると、急に元気を取り戻し、「ジーケン様」と

叫んだ。

「ヒロチーカ、大丈夫か」ジーケンイットもそれに答えたが、状況の厳しさを実感している。

「リーノ!リーノを離して」オーミナは泣き叫ぶようにトウカに突き進もうとしたので、伊藤と

古井が取り押さえるのに苦労していた。

「来たか、ジーケンイット、トゥリダンの涙とコーボルの剣は持ってきたな。カッカッカ」トウ

カは目を光らせ一歩前に出た。ジーケンイットよりもはるかに巨体のトウカは黒い布をまとって

いるようで目の光しか見えない。

「ああ、ここに持ってきた。その子を離せ!」

「カッカッカ、では剣を前に置け、そしてトゥリダンの涙も置くのだ、いいか、下手な真似はす

るな。このガキの命は俺が握っているのだぞ」

 ジーケンイットは仕方なく、トウカの指示に従った。剣の先を下に向けて柄を握り、数歩前に

出てから地面に権を突き刺した。

「よし、今度はトゥリダンの涙だ。女が持っているのか?同じように剣のところに置け、いいか、

光らせたりするな。そのまま置くんだ。カッカッカ」

 奈緒美は二つの竜玉を両手に乗せ、ゆっくり歩み寄り、突き刺さった剣の下にそっと置いた。

わずかに光っていた竜玉が彼女の手から離れると、その光の放出を止めてしまった。

「それでいい」トウカは宙に浮いたまま前に進み、片手を剣に向けて伸ばした。後、少しで竜玉

に触れようとした時、一個の竜玉が突然勢いよく飛び上がった。トウカは予想しなかったできご

とに瞬時動きを止めた。それと同時に、ヒロチーカを捕まえていたもう片方の手の力も緩んでい

た。

 竜玉はきれいな放物線を描いて、奈緒美の方に飛んでいく。暗闇の中、月の明かりしかないの

で、トウカの目には見えなかったのだが、竜玉には細い糸が巻き付けられ、その糸の先は最後尾

にいた古井の後ろ手に隠している竿に繋がっていた。古井は巧みに竿と糸を操り、竜玉を奈緒美

の手の中に戻した。その瞬間、竜玉は眩い閃光を放ち、トウカに向けて突き進んだ。光はコーボ

ルの剣に反射し、鋭い光の矢となってトウカの目を貫いた。

「ギエー」トウカは目をやられ苦しみだした。その時、ヒロチーカもトウカの腕の中から抜け出

し、ジーケンイットたちの方に掛けだした。ジーケンイットもコーボルの剣を取ろうと、同時に

動き始めた。

「おのれ、逃がすか」トウカは苦しみもがきながら片手を伸ばし、指先から針をところ構わず飛

ばした。ジーケンイットは剣を取り、それを交わしたが、別の針が逃げるヒロチーカの背中を狙

っていた。

「しまった」ジーケンイットはそう叫んだが、もう間に合わなかった。飛びだした針は一直線に

ヒロチーカに向かっている。彼女はそのことにも気付かず、走り込んでいた。

「ブスッ、ブスッ」という鈍い音とともに「ウッ」という苦痛の声がヒロチーカの耳元で聞こえ

た。

「えっ」とヒロチーカは自分の体の周りに誰かが覆いかぶさっているのを感じた。それは、オー

ミナであった。

 ジーケンイットは怒りに震え、剣をかざし、まずトウカの腕を鋭い剣さばきで切り落とした。

「グエー」目を潰された以上の苦しみにトウカは悶絶した。ジーケンイットは間髪をいれず攻撃

を続け、巨体のトウカを脳天から真っ二つに叩き切った。

「グオォォォー」と断末魔の雄叫びを上げながらトウカの体は青白い炎に包まれ、一瞬にして蒸

発してしまった。

 ヒロチーカは突然の事に茫然としたままだった。何が起こったのか把握できずにいたが、背中

にいるのがオーミナと分かり、そして彼女の苦しそうな顔を見て全てを悟った。

 伊藤たちが駆けつけ、トウカを倒したジーケンイットも来てオーミナの背中から三本の針を抜

き、彼女を抱き起こした。「大丈夫か、オーミナ」

「あっ、リーノは、リーノは無事ですか?」

「ええ、無事ですよ。怪我もしてません」伊藤がそう言ってあげた。

「良かった・・・」オーミナは苦しそうに言葉を吐いた。

 ヒロチーカは苦痛に喘ぐオーミナを見て、呪縛が解けたように抱きついた。「お母さん、死な

ないで、お母さん」

「リーノ、私のことをお母さんって呼んでくれるの?私のことを許してくれるの」オーミナは震

える瞼を持ち上げヒロチーカを見ようとした。

「お母さん、御免なさい。お母さん!」ヒロチーカは泣き叫んだ。

 ジーケンイットは二人を見れず、オーミナが犠牲になったことを悔しんだ。だが、ふと昔のこ

とを思い出した。「ナオミー、竜玉の力を導き出してくれ、私を生き返らせたことができた竜玉

だ。何とかなるはずだ」

「竜玉の力?」奈緒美は悦子からの話を思い出した。しかし、自分にも同じ様なことができるの

か不安でもあった。だが、今は躊躇している暇はない。奇跡の力を信じなければならなかった。

奈緒美は竜玉を強く握り念じた。それにつられ伊藤や古井たちも念じた。そして、ヒロチーカも

こころから願った。母が良くなることを。奈緒美の手からこぼれるように強烈な光がほとばしっ

た。その光は手の中からあふれだし、オーミナの体を包み込んでいく。奈緒美は竜玉のパワーを

感じ取っていた。今まで竜玉を探していた時の暖かさとは違う、心が洗われるような、心が震え

るような力だ。奈緒美は確信した。竜玉はその真の力を今全開にしているのだと。

 奈緒美がそう思った通り、光に包まれたオーミナは目を開き、穏やかな表情になった。

 ヒロチーカは彼女を呼んだ。「お母さん、大丈夫、お母さん!」

「ええ、不思議ね、なぜか痛みが無くなったわ、背中に針が刺さったのに」

「やった!怪我がなおったぜ!」古井は歓喜して叫んだ。

「また、竜玉の奇跡に救われたな」ジーケンイットは立ち上がってそうつぶやいた。

 奈緒美も嬉し泣きをして、顔を少し背けた。

「リーノ、御免なさい。私を許してね、もう二度とあなたを辛い目にはあわせないから」意識を

取り戻したオーミナはヒロチーカを強く抱きしめた。

 その腕の中でヒロチーカも「お母さん、会いたかったよ。お母さん」と、十五の少女のままに

母に甘えた。

 オーミナは念のため、街の診療所に運ばれた。竜玉の力のおかげで、何の障害もなく、すぐに

でも元気になると診断された。

翌朝、全員がオーミナのもとに集まった。

「ヒロチーカ、どうする。このまま、ここに残ってお母さんと一緒にいてもいいんだぞ」ジーケ

ンイットはヒロチーカの肩を叩いて優しく言った。

 ヒロチーカは母の顔とジーケンイットを見ながら、困った顔をしている。

「リーノ、あなたは私の娘だけど、城でお世話になったことを忘れてはいけないわ。だから、あ

なたは自分の思っていることをしなさい。もう大人でしょう。私にはいつでも会えるから」オー

ミナはヒロチーカの頬を撫でた。

「お母さん・・・。ありがとう、お母さん。ジーケン様、今はトーセにとって大事な時です。私

も城で育った者ですから、一緒にこの危機を乗り越えたいです。ですから、私も戻ります」

「そうか、分かった。オーミナもそれでいいですね」ジーケンイットがそう言うと、オーミナも

軽くうなずいた。「戻ったら、城の者が、迎えにくるよう手配しておくので、後から城に来てく

ださい」

「ありがとうございます。何から何まで」

 ジーケンイットはヒロチーカが大人になったことを知り、嬉しかった。今までのやんちゃでわ

がままなヒロチーカとは違う芯のしっかりした大人の女になったことを。そして、自分のヒロチ

ーカに注いだ愛情が間違っていなかったことも。

「では、行こうか。皆が我々の帰りを待っている」ジーケンイットはそう声を張り上げた。

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