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トゥリダンの逆襲

 

    第 十 六 章      霧 の 森

 

         1

 

 美和子たちは浜松の駅に降り立った。明確な理由があるわけでもないのに、なぜか六人はこの

浜松を目指していたのだ。しかも、その目的を持つのは彼女らだけではなかった。ホームから改

札口に向かって階段を降りていくと、反対側の階段から見覚えのある二人の女性にかち合った。

 真里が最初に彼女たちを見つけた。「あれっ、向こうから降りてくるの榊原さんと臼井さんじ

ゃないですか?」

「本当に、榊原さんだわ」と幸子が言いながら、二人の方に駆け寄った。「榊原さん、臼井!」

 呼び止められた方の二人もその声に気づき、驚いたように振り返った。

「あらっ、大北さんじゃない、それに光永さんに古田さん、佐藤さん?」みゆきは目を見開いて

嬉しそうに笑った。

 続いて啓恵も「竹村に中嶋さん?どうしたの?こんなところで会うなんて」

「それは、私たちの方もききたいのですけど、お二人は一緒に名古屋から?」美和子が尋ねた。

「ええ、名古屋からこだま号に乗ったら車内で偶然榊原さんを見つけて、何か同じ目的のようだ

から、一緒に行こうって・・・、もしかして、竹村たちもそうなの?」啓恵は不思議そうな顔を

した。

 和子が答えた。「そうよ。私たちも皆、名古屋駅で偶然会ったの、だから一緒にって・・・。

皆昨夜同じような夢を見たわ。臼井や榊原さんも見ましたか?」

「そうなの、私も臼井さんも夢を見たわ。霧の掛かった森の風景を。それじゃ、私たちが行かな

ければいけない所って、やっぱり実在するのね」みゆきは確信を持てたように喜んでいる。

「だと、思います。どこにあるのかはまだ分からないですけど、この浜松で降りたということは

きっと、この近くにあるはずだと・・・」そう、真里は言いながらも、本当に夢の場所が存在す

るのか半信半疑ではある。ただ、自分一人だけがそれを見たのなら、まだ信じ難いが、多くの友

人が同じ夢を見ていることを無視することはできない。あると信じるしかないのだ。

そこにもう一人仲間が現れた。「あのー、もしかしてトリオの方たちですか?」

 そう声を掛けられ、八人が同時に振り向くと、そこには細面の男が微笑みながら立っていた。

「た、谷口君じゃない?どうしたの?・・・、ああ、ここに来た理由は分かっているわ。私たち

も皆同じ夢を見て、ここに来たのだから、谷口君もそうなのね」美和子が言った。

「そうなんですか?自分でも何で浜松に来たのかよく分からなかったんですけどね。何か急に名

古屋の方に帰りたくなって、それも、浜松停車のひかり号に乗ってしまったのが不思議でしょう

がなかったんです」

「あれっ?名古屋から来たんじゃないの?」と、かおるがきいた。

「いえ、私は埼玉の方に単身赴任しているんです」

「そうだったの。大変だったわね」真里はそう言いながらも谷口がいろいろ苦労しているのかな

と、薄くなりかけた彼の頭を見てつい思ってしまっていた。

 九人は改札口を抜けて外に出たが、目的の場所に行くにはどうすればいいのか、途方にくれて

いるような状態だ。

「ところで、あの夢の中の場所にはどうやって行けばいいのですか?具体的な場所を知っている

方はいるのですか?」前を歩いていた谷口は振り返ってきいた。

 女性たちは難しそうな顔をしてかぶりを振っているだけだった。

「ここから北の方角だという感覚はあるだけね、そちらの方に向かうバスにでも乗ってみましょ

うか」幸子がそう言うと、みゆきはリーダーシップを取って彼女らをまとめようとした。

「バスでは時間が掛かり過ぎるし、自由に動けないわ。それに人数もこれだけいるからタクシー

で行きましょう。何とか心の中に抱かれている方角を説明すれば行けると思うの」

「分かりました。そうしましょう」谷口が返事をして、九人はタクシー乗り場に急いだ。

 二台の車に分乗することにし、前にはみゆき、孝江、谷口、かおるが乗り、後ろに幸子、和子、

啓恵、真里、美和子が乗った。

 タクシーの運転手が行き先を聞くと、後ろの車では「前の車に付いていって」と言うだけで済

んだのだが、前の車ではそうはいかない。

「えーっと、森のある方に行ってもらいたいんですで・・・」バックシートに座った谷口がそう

説明したが、運転手は「森って、森町ですか?森の石松の」と静岡らしい答えを返してきた。

「いえ、そうじゃなくて、山にある森なんですけど」

「はあ?そんな曖昧な仰り方されても、よー、分からんですけど。一体どこの山に行きたいんで

すか?」運転手は変な客だなという顔をして後ろを振り返った。

 そこで、助手席に座っていたみゆきが説明を始めた。「すみませんが、とにかくここから北の

方に向かってください。私たちもよく道が分からないので、車を進めながら案内はしていきます

から・・・」

「ええ、そんなら別にいいんだけど、それじゃひとまず、北の方に向かいますわ。そっちの方角

に行けば確かに山はありますしに」運転手は金さえ払ってもらえる客ならば、それに従うという

態度で車を進めた。

 浜松駅のロータリーを出て、車は山の方角に向かい北上していった。

 

         2

 

 竹内の車は宇利トンネルを抜け、静岡県に入った。三ヶ日インターを過ぎると前方に浜名湖が

望めてくる。

「もうすぐ、浜名湖サービスエリアだけど、休憩するかい?」静まっていた車内に竹内が話しか

けた。

「いいえ、先を急いだほうがいい気がしますから、順子ちゃんはいい?」香織は落ちついて言う

と、順子も「うん」と軽くうなずいた。

「分かったよ。じゃあこのまま行くね」

「ところで、竹内さん、どこまで行くんですか?愛知県を出てしまったのでは、私の管轄外なん

ですがねー」筒井は正面を見据える竹内の方を向いた。

「高速は次で下りるつもりです」

「次って言うと、浜松西インターですか?でも、どうして?」

「それは、私にも分からないんですが、ここで下りろと何かが訴えてくるんですよ。香織ちゃん

たちもそうなんだろ?」

「はい。私もそう感じています。次で下りればいいと・・・」

「んー、本当に、あなたたちはどうなっているんですか?」筒井はますます困惑しだしていた。

 浜名湖を後にすると、すぐに浜松西インター出口の案内が現れる。車は高速から外れ、減速し

て料金所に向かった。筒井は警察という特権を使うために手帳を見せて、料金所をただで抜けさ

せてくれた。

「すみません、筒井さん」竹内は恭しく礼を言ったが、筒井は大したことないような態度で笑っ

てみせた。

 インターを出ると車はすぐに左に曲がった。

「浜松の方向ではないんですか?浜北の方に向かうみたいですけど・・・」

「そうです。こっちの方が正しいようです」竹内は当然のごとく言い放った。

 バイパスのような快適な道を進んでいったが、途中で一部未完成のところにぶちあたりそこか

らは、一旦旧道に出て、再び広いバイパスに戻る。道路上の案内に国道一五二号線というのが現

れると、竹内はその方に車を向かわせた。

「このまま、行くと天竜市ですか?」筒井は行き先が気になって仕方がないようだった。

「ええ、ですが、そこも目的地じゃない気がします。もちろん、方向だけは間違っていませんが

」竹内は言い切った。

 国道一五二号線もバイパスの道で交通量も少なく、快適に車を走らせることができた。しばら

く進むと旧の一五二号線に合流し、そこからは比較的狭い道を進む。右側には遠州鉄道があり、

正面には浜名湖鉄道の鉄橋が道路上を越えていた。すると、目の前に大きな橋が見えてくる。そ

こは静岡県内でも有数の河川の天竜川である。川を越えるとすぐ天竜市の市街地に入ったが、車

はそのまま天竜川の支流沿いの一五二号を進んでいった。

 市街地を抜けると天竜川最下流の船明ダムに出た。そこからは天竜川沿いを上流に向かって車

を走らせていく。

 道の先を探すために地図を見ていた順子が何気なく言った。「このあたりは『竜』の名が付く

地名が多いんですね。天竜川に、天竜市、隣は龍山村ですし、その先には竜頭山なんてのもある

し、天竜川の下流には竜洋町っていうのもあるから」

「それは、天竜川という存在が周りの地名に影響を及ぼしているんでっせ。『天竜』という言葉

は元々仏教上で作られた文字でんねん。仏教の伝来の中で親書が持ち込まれた時、その中に『天

竜八部衆』というものがあるんですわ。その名が何らかの理由でこの川に付けられ、それが固定

化されるようになって、あちこちに『竜』という名が出てきたんだと思いますわ。まあ、この天

竜川は昔からよく氾濫を起こすんで、その様が竜に見立てられたちゅーのが一般的な考え方でし

ょうがね」宮崎は真面目腐ってそういった。

「ほうー、あんたでもそんな博学なことを知っているんですな」筒井は少し厭味を込めて言った。

「これでも、仏教を学んでいる者でっせ、そんなことぐらいは常識でんがな・・・」と宮崎は笑

いながら「竜」という言葉に何かを感じた。

───竜?竜って一体何なんやろな。実在しない生き物、それが人間を脅威にさらしたり、敬わ

らせたりする?

 宮崎はその「竜」という言葉に思考を引き込まれていった。

 車は天竜川沿いを進んでいき、秋葉ダムを過ぎると佐久間町に入った。

「佐久間まで来てしまいましたね。そのまま天竜川を上るのですか?」筒井はまた竹内にきいた。

「それは違う気がします。このまま北の方へ向かう方が正しい感じがするのですが」

「すると、ミズクボ町に行くのですか?」地図を見ている順子が言った。

「それは、ミサクボでしょう。水に窪ですが、さっきから見ている案内板の表示にはローマ字で

ミサクボと書かれていますから」筒井が説明をした。

「水窪?私たちはそこに向かっているのですか?そのまま、北へ行くと、この一五二号は途中で

途切れ途切れになりながら、長野県に入ってしまいます。飯田の方ですけど」

「飯田?それだとおかしいな。飯田に行くのなら初めから中央道に向かっているはずだ。わざわ

ざ遠回りする訳はないし、すると、やはり目的地はその水窪ということになるのかな?」竹内は

そう判断した。

「それはそうですね。でも、水窪にはこの地図を見るかぎり何もないような気がするんですけど、

山に囲まれているみたいで、水窪ダムというのはありますが、あとは森林しか・・・?」

「森林・・・、でも、俺たちの見た夢には森が出てきただろ、だから、それで正しいのじゃない

かな?」

「そう、確かに森ですね。でも、夢の中の森はどこにでもありそうな森でしたけど・・・」香織

はそう言葉を添えた。「でも、きっと私たちには分かるのでしょうね」

「ああ、そう信じているよ」

 竹内が言ったように、車は佐久間ダムの方に向かう四七三号線には向かわず、そのまま、一五

二号線を北上した。道は天竜川から支流の水窪川に変わったものの、今まで通り川伝いに走って

いるのだが、ここからはかなり道幅も狭くなり、カーブなどでは対向車の事を気にしなくてはな

らなくなった。

「竹内さん、もう少しスピードを落としてもらえませんか?一応私も警官ですから、道路交通法

は遵守しないと」筒井は怪訝そうに言った。

「ですが、今は急いでいるんです。それほど、交通量も多くないですし、ここは大目に見てくだ

さいよ。赤色灯でもあればいいんですがね」

「はあ・・・。まあ、見通しの悪いカーブだけは気を付けてくださいよ」筒井もあまり強くは言え

ない。時折上空に鉄橋が見えたりしては山の中に消えていく。豊橋からつながるJR飯田線が通

っているのだ。それに伴い、駅も道沿いにあるのだが、完全なローカル無人駅であり、自分たち

が山の奥に来ているのだなということを実感させていた。すなわち、駅の近くを除いては民家な

どまったく無い地域であった。この辺りまで来ると山の紅葉もかなり濃くなっており、車はその

光景の中、水窪川の谷間を縫うように進んだ。

 道は狭いがその分通行量も少ない。対向車さえ五分に一台くらいのもので、時折ダンプのよう

な大型車ともすれ違うが、後は地元の人達が乗っているような感じの車ばかりだ。だが、後方か

ら竹内の車に追随してくる別の車に宮崎が気づいた。

「竹内さん、後ろの車さっきからずっと付いきますけど。何なんでしょうな」

「地元の人じゃないのか」竹内はドアミラーをちらっと覗いた。

「ちゃいまっせ、三河のナンバーでっから、愛知の人でっしゃろ」

 そう言われて香織は振り返って見た。「どこかで見たことのある車ね・・・。あれは、確か千

尋ちゃんとこの車じゃないかしら、和田さんの!」

「和田さんとこ?」竹内は反芻してからしばし考えた。「確かめて見よう。車を止めるから、誰

か後ろの車も止まるように合図してくれ」

 竹内が車のハザードをつけて減速すると、それと同時に、窓際にいた順子がウィンドウを下ろ

し、そこから身を乗りだして後方の車に合図を送った。

 後ろの車もその合図が分かったのか、竹内の車に続いて速度を落とし、比較的道幅のある路上

に二台の車は止まった。

 香織たちが車を降りると後ろの車からも二人の男女が降りてきた。

「香織ちゃん、神谷さーん」千尋は喜びながら二人のところに駆け寄ってきた。その後ろを和田

はゆっくり歩いてきて、竹内を見つけると軽く笑ってみせた。

「やっぱり、千尋ちゃんだったのね」香織は彼女と抱き合って言った。

「私たちも前の車の事がずっと気にはなっていたの。でも、香織ちゃんや神谷さんが乗っていた

なんて・・・、竹内さん!」千尋は竹内を見つけると、感嘆の声を上げた。

「加藤さんも来てくれたんだ。君も夢を見てここに来たのかい?」

「ええ、そうです。昨日皆が私たちを呼んでいる夢を・・・竹内さんもなんですか?」

「ああ、そうだ。だからこうして、皆でここまできたんだ・・・」

「久し振りでんな。お嬢さん」竹内たちを割って宮崎が顔を覗かせた。「平和公園でのデートが

まだでしたな」

「あ、あなたはあの時の、生臭エロ坊主!」千尋は随分前だが、前沢が霊に取り憑かれた時の事

件でこの宮崎に会っていた。

「生臭エロ坊主はないでっしゃろ。でも、相変わらずお元気そうでんな」

 その時、夫である和田が千尋にきいた。「知っている人かい・・・?ああ、トリオでいろいろ

と問題を起こしている坊主というのは、あなたの事だったんだ」

「はっはっ、そないにわても有名なんでっかね。えっ、じゃあ、あんたさんはこのお嬢さんの旦

那さんでっか?ああ、それはちょっと残念でんな」旦那がいたのでは宮崎も手が出せなかった。

「おいおい、こんなところで世間話をしている場合じゃないんだけどな。とにかく、目的の場所

はまだ先だ。急いで行こう」竹内がそうせき立てると、全員再び車に乗り込み出発した。

 天気は徐々に悪くなりだした。浜松北インターを出たころはまだ晴れ間があったのに、気がつ

けば一面雲に覆われている状態だ。特に、前方に見える山の方は雲が濃く、それは車の中の人々

にとって心の不安を映し出されているような気分であった。

 佐久間との分岐点から十キロほど走ると、集落らしい町並みが現れる。国道の両側に商店や民

家が並び、町の中心地に来たようだ。

「役場はもう少し、先の方にありますね。JRの駅も川の対岸にあるようです」順子が地図を見

ながら言ったが、その地図もローカル過ぎて大きな尺度のものしかなく、細かい町の位置などは

よく分からない。

 林業が中心のような町で、ここから望める山々には木々が伐採された後が見える。水窪などと

いう地名もきいたことがないので、観光としての産業はほとんどないようだ。国道から見えると

ろには、椎茸や水窪茶の看板がある程度で、有名な名物などもないらしい。

 一旦集落から離れ、再び水窪川の谷沿いを進む。前方にはこの町の中心地らしい建物の集まり

が見えてきた。その手前にこの町に入ってから初めての信号が目に止まった。信号のある交差点

にはそれぞれの道がどこへ向かうかという小さな案内板がある。

 筒井たちはどちらに向かうのだろうかと、その案内板を注視していたが、竹内はその手前で急

に車を止めた。

「竹内さん、どうしました?」筒井がびっくりして尋ねた。

「いえ、ちょっと行き過ぎたもんで」

「そうです。あそこを曲がらなきゃいけなかったんですね」香織も竹内の考えに付け加えた。

 竹内は車をバックさせ、数メートル後方まで戻った。そこにはボーッとしていると見過ごして

しまいそうな小さな横道がある。右手の水窪側に流れ込む小川の橋の手前から道があり、その橋

のところに「池の平」と書かれた看板が立っていた。和田の車はそこに入るのが当然だと言うが

ごとく、竹内の後方で停止している。

「竹内さん、こっちの道に行くのですか?池の平って、白樺リゾートみたいな名ですな」

「そう、池の平!ここが僕らの目的地のような気がします」

「私も」、「私もです」順子と香織も同調した。

 竹内はハンドルを切り返し、その狭い道に入っていた。山の方に登っていく林道のようで、舗

装はされているが車一台しか通れないほどの狭い道だ。山の沢から流れ込む小川を二・三度横切

って三分ほど進めると、前方の路上に数台車が止まっている場所に行き着いた。

「おや、車が止められているな、しかも、名古屋や岐阜のナンバーばかりだ」筒井は不思議そう

な顔をした。

「やっぱりここですね。私たちだけじゃなくて、他の人たちも来ているみたい」香織は嬉しそう

に言った。

 竹内は少し車を進め、小川と道路の間にある空き地に車を止めた。和田の方ももう少し先まで

いって同じように駐車させると、全員が車から降りて集合した。

「さて、どこに行くのですか?この車の人たちの姿も見えないようですが、池の平とかいうとこ

ろに皆さんも行くのですか?」

「あそこに看板がありますけど」順子が少し戻った木を指差した。そこには山の方に向かってい

る狭い道もある。

 七人はそこまで歩いていった。看板には大きな写真があり、その下に案内の言葉が書かれてい

る。その写真を見た時、筒井を除いた者たちは一様に驚きの声を上げた。

「こ、この写真、夢の中に出てきた風景にそっくり・・・」千尋は思わずそう口にしたが、誰も

が同じ感想を抱いていた。写真は森の景色を写したものであるが、その木々は緑かかった水の中

から伸びている。エメラルドグリーンの水面に反射した木々が映し出され、神秘的な情景だ。

「ああ、まさにこの写真の通りの景色を昨日見た。もっと、霧のようなものが掛かってはいたが、

この水の色は間違いない」和田は震えるように言った。

「──池の平──遠州七不思議の一つ。七年に一度、山の頂上の窪みに満々と水を湛えるが、数

日の間に忽然と水は消えてしまう」筒井が写真の下に書かれている説明書きを読んだ。「本当で

すか、そんなことがあるんですかね」

「けれど、こんな写真があるのだから本当の事なんでしょう。だが、僕らには今そのことの真偽

は関係ないんです。とにかく、この池の平というところまで行かなくては」竹内は言った。

「ですが、見てくださいよ。池の平までは二時間って書かれてますよ。これは控えめな時間でし

ょうが、普通で行ったって一時間半はかかるようなところじゃないですか。それに、我々は登山

の用意なんかしていませんし、しかも、女性の足ではかなりきついかと」

「いや、それでも僕らは行かなければいけないんです。僕らに呼びかけた人たちが待っているか

もしれないんですから。けど、筒井警部さんの言うように女性にはきつい道かもしれない。皆は

どうする、無理にとは言わないが・・・。ここで待っててもいいとは思うけど」竹内は三人の女

性に向かって言った。

「いいえ、私も行きます。ここまで来て、待っていることはできません。どんなに険しい道だろ

うと私は行きます」千尋はきっぱりと答えた。それに追随するように順子と香織も「私たちも」

と続いた。

「分かった。それなら、一緒に行こう。ただ、筒井警部の言うように登山の用意なんかしてこな

かったからな。天気も随分悪くなってきたみたいだし、雨具だけでも持って行かなくては」空の

様子は先程よりかなり悪化している。もう太陽の光は直接照っておらず、灰色のどんよりした雲

が空を覆い尽くしていた。雨がいつ降ってもおかしくない状態だ。竹内は自分の車に戻り、トラ

ンクから傘やレインコート、タオルなどを持ってきた。よく、近くの友人とキャンプなどには行

くのでそれぐらいの装備は車の中にあったのだ。

「それじゃ、行こうか。筒井警部はどうします?まだ、付き合いますか?」

「ええ、ここまで来た以上しょうがないでしょう。それに、山で事故でもあったら大変ですから

私も付いていきますよ。いざと言う時には、無線で地元の警察を呼びますから」

「すみませんね、とんだことに付き合わせて。よし、では出発しよう」

 七人は林道から池の平に向かう山道に足を踏み入れた。

 竹内たちが登り始めた数分後、二台のタクシーも水窪の町まで来ていた。

「水窪に来たところで、今は何もないですよ。秋の祭りは終わってしまったし、池の平の現象も

今年は結局起こらなかったですから・・・」

「池の平?」みゆきはその言葉に何かを感じた。「その池の平というのはどこなんですか?」

「どこって、お客さん、そこは山の頂上にあるんですけどね、麓から歩いても一時間半はかかり

ますよ、まさか、そこに行くつもりなんですか?単なる森ですし、この天気じゃ危険ですよ」運

転手は驚きをあらわにした。

「とにかく、そこに向かってください」

 タクシーは先に来た者たちと同じように小川の手前にある小道に曲がり、林道を登っていった。

「もうすぐ、池の平に登れる登山道ですが、本当にここでいいのですか?あれっ、一杯車が止ま

っているな、どうなってんだ?」運転手は小首を傾げていた。

 二台のタクシーが登山道入口の前に停車すると、九人は一斉に車を降りた。みゆきが料金を払

うと運転者は「帰りはどうするんですか?駅まではちょっとありますよ」と親切に言ってくれた

が、「何とかしますから大丈夫です」みゆきは丁寧にお礼を言った。

 二台のタクシーは慎重にバックしながら戻っていくと、九人は竹内たちと同じように入口の案

内板のところまで進み、それを見上げた。

「ここですね。夢に見た場所!」美和子がそう言った。

「間違いないわ、ここよ」真里が続く。

「でも、ここから二時間もかかる山の頂上ね」和子は案内を読んでつぶやいた。

「でも、行かなければ、いけないのね」かおるの言葉には力がこもっている。

「ここにある車は名古屋の方から来たみたみたいね。きっと、私たちの他にも向かっている人が

いるんだわ」幸子は震えながら笑った。

「では、行きましょう。あまり時間が無いような気もしますから」谷口がそう言って、登山道を

登り始めると、女性たちも気を引き締めて彼の後に続いた。

 

         3

 

 登山道というだけあって、その道程はかなり厳しい。林道の入口から始まるこの道は山の中に

向かうだけが目的のような完全な山道で、観光用のものではなかった。最初は比較的緩い登り坂

であったが、五分も進むとさっきの林道がかなり下方にあるぐらいの高さまで登っていき、その

道も木々で見えなくなっていく。道幅も極端に狭いところばかりで、広くても対面の通行ができ

るくらいの幅しかないところがほとんどだ。道の険しさは登れば登るほど、きつくなっていく。

登り初めは軽い気持ちで歩調も軽やかだったが、十分も歩き続けると、もう息が苦しくなってき

た。秋のうえに、こんな山奥まで来たのだから、気温は低いはずなのだが、体のほうはそれに反

して熱を帯び、額から汗が止まることはない。心臓の方も胸に手を当てなくても分かるくらい動

悸が激しくなっている。ものの数分でこんな状態ではあと一時間ほどの行程を無事完走できるの

かと、不安の気持ちの方がすでに大きくなってきた。

「いやー、こりゃしんどいでんな。ほんまにここをいくんでっか?」宮崎は一番若いわりにはす

でに弱音を吐いている。

「おい、お前は修行僧じゃないのか?行脚とか言ってあちこち歩いているんだから、これぐらい

何ともないんじゃないのか?」竹内はへばりだした宮崎の後ろから言った。

「それりゃ、まあ、歩きには慣れてますが、登山はね。身延山の修行が思い出されてたまりませ

んわ」

「ええ、確かにこの坊さんの言う通りですよ。急にこんな山道を登ろうとしても、我々にはきつ

いことじゃないですか?」最年長の筒井警部も音を上げだした。

「それは、分かりますよ。でも、僕らは行かなきゃいけないんです。ここで弱音を吐いて諦める

訳には。ところで、香織ちゃんたちは大丈夫かい。あまり、無理しなくてもいいよ。疲れたなら

休み休みいけばいいから」竹内は後ろに続く女性陣に言ったが、彼女らもかなり疲れているのは

間違いない。

「ええ、きついですけど、大丈夫です。まだ、半分も来ていないんですから、がんばらなくっち

ゃ」千尋はそう言って笑ってみせたが、笑顔も半分引きつっている。

「私たちには目的があります。だから、どんな苦労にも負けません。竹内さんたちの方こそ、無

理しないでくださいね。私たちよりは歳なんですから」

 香織の言葉に竹内も負けるわけにはいかない。「歳のことを言われるときついな。普段の不摂

生がこんなところで影響してくるとは思ってもみなかったけど」

「あのー、登山はいいんですけど、時々、トカゲが横切るのが怖くて・・・」順子はそう怯えて

言った。

 山の中には完全な自然が残っている。鬱蒼と茂る木々の中を進むと、ブヨのような虫が汗に感

応するのか羽音を立てて寄ってくるし、人間の気配を感じてトカゲなどの爬虫類が山道や崖のと

ころを張って逃げていく。熊などはいないだろうが、もしかすると、冬眠にはまだ早いので、マ

ムシやアオダイショウぐらいはいるかもしれない。ところどころ木々が伐採され森の中から抜け

ることがあり、そんな時には無数のトンボが飛び回っている。と、思うと地面には都会では決し

て見ることのできない長い脚の蜘蛛が張っていたりと、まさに彼らにとっては前人未到の道を進

んでいるようだった。

 山道は一気に登ることが出来ないので、斜面に沿ってジグザグに道を折れていったが、前方に

大きな山が見えだすと、道は沢伝いに真っ直ぐ続いていくのが遠くまで望めた。

「まだまだだな」最後尾の和田は一度立ち止まり汗を拭ってそうもらした。

 天気が良ければ周りには紅葉が近くなってきた美しい山脈の景色が見えるはずなのだろう。雲

が山の頂上付近まで降りて来て、もやの掛かった状態が今は目に映るだけだった。

 山道は静かだ。車の音や人間の声など一切聞こえない。耳を澄ませば、木々の枝に隠れて見え

ない谷底の沢の音が微かに聞こえる。だが、そんな自然を満喫している気分ではない。沢伝いの

道はかなり狭い。ちょっと油断をすれば足を踏み外して、谷の方に落ちていかねないほどだ。そ

ればかりではない。道と言っても単に人が通れるようにしただけなので、小石がごろごろしてい

る所や、木の根っこが道の土を盛り上げている場所が無数にあり、真剣に足元を注意していない

とつまずいたり、足首を挫く可能性もある。時には、道が途絶え、木の板が渡り橋として掛けら

れているところもあり、単純な観光用の道でないことがよく分かる。登山を目的とした装備をし

ておかなければ、本来登れないような道なのだ。

 三十分も歩いただろうか、誰の顔にも汗が吹き出し、疲労の色が濃くなりだしている。ただ、

道は上りであっても、それほど傾斜はきつくなくなってきた。ゆっくりめに歩いて、体調を整え

ることを皆が心掛けている。その時、前方に何か人影のようなものが見えた。

 誰がいるのだろうと先頭の竹内は用心しながら近づいていったが、それは地元の林業を営む人

たちのようで、登山道にはみ出ている木の根を掘り起こしていたのだ。四人の初老に入りかけた

男女が作業をしていた。

 七人が近づいていくと、その人たちは作業を続けながらも彼らをじっと見つめた。

 竹内は「池の平までは、まだありますか?」と何の気も無しに尋ねた。

 すると、一人のおばさんが答えてくれた。「ああ、まだ、だいぶあるけど。ここが中間地点ぐ

らいじゃないかね」

「そうですか」その言葉に竹内たちは、余計に疲れを感じた。

「でも、池の平になんか行ってどうするんですか?今は水も出ていないし、もうすぐ天気も悪く

なって、雨でも降ってきたらどうするね?」

「ええ、ちょっと、どうしてもその池の平に行かなくっちゃいけないんで・・・」

「そうですか、気を付けてくださいね。でも、今日は変な日だねー。あんたたちの前にも何人か

池の平に向かっておったけど、何か集まってするのかね」おばさんは山で悪さでもされたらたま

らんという表情で言った。「僕たち以外にも、誰か行っているのですか・・・。それじゃ、どう

も先を急ぎますんで」竹内たちは軽く会釈してその人たちの脇を通っていった。

「私たちの他にも、登っている人がいるのですね」香織がすぐに声を掛けてきた。

「ああ、そうみたいだ。あのメッセージは僕らだけじゃなくいろんな人のところに届いているよ

うだね。何か不思議なモノを感じる。皆の意思のようなものが一つに集まっていくような」

「けれど、それは何か大きなモノが待ち受けているということにも、なるんかもしれまへんな」

宮崎の言葉は妙に重みがあった。

 沢伝いの道がしばらく続くと今度は沢とは離れて、山の斜面を登っていく峠越えの道に変わっ

ていった。急な山肌の斜面に平行するように、急勾配の道がジグザグに続いていく。一旦、息も

落ちついてきたのに再びハードな上り坂を登らなくてはならなく、一同は大きくため息を吐いた

が、すでに時間は麓から登り始めてから一時間になろうとしていた。

「この峠を超えれば、後少しなのでしょうね。そうじゃなきゃ、もう限界ですけど」筒井は言っ

た。

 二三度右左に登っていくと、平坦な場所に飛び出した。周りが森に囲まれており、空が曇って

いる以上に薄暗さを感じる。

 少し進むと、この登山道に入って初めての分岐点が現れた。お手製の小さな案内板がこのまま

進むと「池の平・十分」、左に曲がって上り坂に向かうと「亀の甲山頂上へ」という矢印を出し

ている。その案内板の反対側にある木立に影に、人間がいるのを竹内は気づいた。

「寺村さんじゃないですか?どうしたんです?」

「た、竹内君か、久しぶりだね。おや、香織ちゃんたちも来ているんだ」そして、後方にいる和

田を見つけると「和田君、間に合ったんだね」と声を掛けた。「いやー、ここまでは何とか登っ

てこれたんだけど、一休みしないときつくてね。ここで一服してたんだよ。俺も歳だな」寺村は

苦笑まじりに微笑んだ。「竹内君たちも夢を見たのかい?僕や和田さんだけじゃなかったんだ」

「ええ、そうみたいですね。多分、池の平まで行けば、誰かいるかもしれないし、僕らの後にも

きっと来るでしょう」

「そうだな、俺もそう思うよ。じゃ、そろそろ行こうな。何とか一段落したし。竹内君たちはど

うする。少し休むかい?」

「いいえ、あまり時間がないような気がしますので、このまま一緒に行きますよ。彼女らは若い

ですからまだ元気ですし」竹内はそう無理をして言ったが、内心は休みたかった。それは後ろに

いた筒井も同じようで、引きつった笑みを浮かべていた。

 寺村は重そうな腰を上げて歩きだし、竹内たちも追随した。

 この地点が峠のようで、ここからは下り坂になっていく。沢伝いの山道ではなく、鬱蒼と繁る

森の中を蛇行しながら進む道だ。地面も周りが杉の木のため、その落ち葉が積もりクッションの

ような柔らかい感覚が足に伝わっきて、足の疲れが取れていく思いがした。空気の湿りけを感じ

る。うっすらと霧がかかっているようで、視界も徐々に悪くなってきた。さっきの峠からは十分

と書かれていたが、本当に行き着けるのかという思いも湧いてくる。このまま、道に迷ってしま

うのではないか?だが、そんなことも杞憂に終わろうとしていた。

 微かなもやの中に周りの森とは異なる景色が見えてきた。森には変わりないのだが、どこか違

う感じがするのだ。下り坂を一気に降りると、その光景が徐々にはっきりと見えてくる。そこは

山の中であるが、そこだけ周りが高台になっており、中央が窪んでいる形状になっている。その

窪んだところにも、間隔をおいて杉の木が何本も立っているが、その地面は周りの森とは違って

雑草がほとんどなく、苔が覆っている程度の平地になっていた。

「ここが池の平か・・・。そう、夢に見た景色と同じだ」竹内は信じられないという思いでその

風景を眺めた。

「本当に、夢で見たのと一緒だわ」千尋もそう言葉をもらしている。

「でも、ちょっと違う気がするわ。・・・何かが無いみたい。そう、水がないわ。夢の中のこの

景色には水が引かれていた気がする」香織は記憶を辿っていった。

「そう、確かに夢の中のこの森には水が池のように満ち満ちていたな」寺村も鮮明に記憶を呼び

覚ましていた。

 ひとまず、竹内たちはその窪みのある森の方へ歩いていった。峠から降りてきた道はちょうど

その窪みの切れ目に突き当たる。そこからは湾のように高台の陸地が左右に広がっていった。そ

の高台を目で追っていくと、その一番高く、平坦になっている部分に巨大な一本杉がそびえ立っ

ている。竹内たちはそこに登れる道を見つけ、高台の方に上がっていった。台地状になっている

その場所には、切り倒され放置されたままの材木が無数に横たわり、長い年月の証か、ぼろぼろ

に朽ち掛けた表面に緑色の苔が張りつき、中には白い茸も生えている。また、その切り落とした

後の切り株も所々にあった。そして、その切り株に座り込んでいる人物がいた。

「荻須さんじゃないか」

「竹内さんたちか!遅かったね。でも、その分休めたからよかったけど」体力のある荻須もさす

がにこの登山は応えたようで、憔悴しきった顔をしている。

「竹内君、来てくれたんだな」巨木の影からもう一人男が現れた。

「白井さ〜ん」千尋が嬉しそうに声を掛けた。

「バイクでなんとか、ここまで来たけど、久しぶりのツーリングはさすがにえらいな。それにこ

の山、普通なら絶対に登らないけど、今日は特別さ」つかれている顔だが、竹内たちに会えた事

を心から喜んでいる。「それから、佐藤君の奥さんも来ているよ」

 白井の後方を覗くと、ひとみが竹内に向かって笑顔を見せてくれた。

「これは、お久しぶりです。佐藤さんと御結婚されたそうで、おめでとうございます。・・・、

なんていう挨拶をしている場合じゃなかったんですね。すみません」竹内は軽く頭を下げた。佐

藤が彼女と結婚したことは人伝てにきいていたが、「写魂鬼」の事件以来、会っていなかった。

「いいえ、そんなことはありませんよ。ここに竹内さんや主人のお友達の方がみえたなんて、ど

んなに嬉しい事でしょう。竹内さんには昔の一件以来のような気がしますが、あの時は本当にお

世話になりました。そして、今度のことでもここで再会できるなんて、感謝いたします」

「いえいえ、そんな、僕のほうこそひとみさんをはじめ、白井さんや荻須さんがいてくれた事は

嬉しい限りです。一緒に登ってきた香織ちゃんたちも含めて、昔の仲間が集まるなんて、不思議

な事ですが、今はそれが必然のように思えます。そして、まだ、僕らの後にも誰か来るはずです

」竹内がそういうと、千尋や順子たちも互いに挨拶を始めた。だが、ひとみであっても宮崎の顔

を見ると、少なからず反応を示した。

 宮崎もさすがにバツが悪いのか簡単に会釈だけして、大木の周りをうろついてみた。大木から

窪みへ降りる道の途中に大きな観光案内の看板があった。そこには登山道の入り口に掲げられて

いた案内板と同じような事が書かれている。

「池の平───遠州七不思議に数えらている。七年に一度、山の頂上の窪みに満々と水を湛える

が、数日の間に、何処へともなく水が引いて、元の窪みに戻ってしまう。伝承によると、佐倉が

池(浜岡町)の龍神が信州諏訪湖に行く途中、池の平で休息していくと言われているため、龍の

休憩所とも伝えられている」

 ───龍の休憩所?ここにも竜の名があるんか?何か因縁めいたものを感じるな?何でこんな

に竜が気になるんや?

 宮崎がその案内板を見つめて考えこんでいると、竹内が寄ってきた。「どうした、宮崎さん、

何か深刻そうな顔をしてるようだけど?」

「いえ、別に。ただ、ここの案内を見てただけですわ」

 竹内も目で案内板を追って言った。「なる程ね。突然水が湧く不思議な場所ということか?す

ると、夢の中に出てきた情景というのは、水が出てきた時のものなのかな・・・。あの、大きな

木の影に小さな祠があったけど、あれもこれと関係があるのかな」

「祠ですか?」宮崎は興味を持って、竹内とその祠へ行ってみた。大木の根元に小さな祠がある。

バラックで組み立てられた雨よけが外側を覆っているだけで、こじんまりとしたものだ。二人が

それを見つめているとひとみが話を始めた。

「これは、『おかわ地蔵』と言うみたいです。窪みの方にもここの案内板みたいなものがあって、

水が出てくる事や龍の休憩所の話、そしておかわの伝説の事も書いてありましたから」

 おかわとは永禄の時代、水窪町の今は城跡しかない高根城にいた民部少輔貞の奥方であり、戦

乱の時、おかわは敵に追われ、この地に逃げてきて討たれた。その時に流した血が池となり、水

が溢れるのだという話だった。

 竹内は高台から窪みの方を見た。中央部辺りに五メートル程の白い木の棒が立っている。その

棒には五センチ単位の刻みが書かれており、この池に水が張った時の深さを計るものらしい。

「隣の県に住んでいながら、こんな場所があるなんて知りませんでしたわ。水が突然出てくると

いうのは本当みたいです。下の案内板にも昭和五十七年と平成元年に水が湧き出たと書かれてい

ます。この窪み全体が池になるようで、直径も五十から八十メートル、深さも三メートルにはな

るそうです。嘘みたいですけど、本当のことのようですね」ひとみがそう説明した。

「しかし、妙に静かでんな。まあ、山の中でっから静かなのが当たり前ででっしゃろが、虫の音

一つ聞こえんていうのも変ですな」宮崎は深刻な表情をしている。

 彼の言うとおり、この山の中は物音一つも聞こえない。風も無いおかげか、木々の葉が揺れる

音さえしなかった。今いるところがすり鉢状になっているせいもあるだろうが、彼らが小声で話

しているのにも関わらず、声が響いている。もっと大きな声を出せば、こだまするような感じだ。

───嵐の前の静けさか。

 竹内はそんな感傷的なことを思っていた。

「竹内さん、誰かが来るようですけど」順子が竹内たちのところに来て伝えた。

 竹内は登山道の方に視線を移した。繁った木々に見え隠れしながら二人ほどの人間がやって来

るのが見える。最後の坂を駆け降りてくる彼らを竹内たちは快く迎えた。

「加藤君と森君か、よく来たね」

「た、竹内さん、それに榊原さんや神谷さんたちも・・・、皆さん、来ていたんですね」加藤は

疲れているにも関わらず、嬉しそうに微笑んだ。

「森君も久し振りね。元気にしていた?」千尋が声を掛けると、森は「ええ、まあ、どうもです

」と、照れてるように答えた。

 彼らが再会の歓喜に耽っていると、すぐにも次の仲間が現れた。十名ほどの団体がいっぺんに

やって来たのだ。

「古田さんに、佐藤さん、それに榊原さんまでも、それと・・・、えっと、大北さんに、竹村さ

ん、中嶋さんに、光永さん、臼井さんと谷口」竹内はその時まで忘れていた人物の名を次々と思

い出していった。

 集まった人たちが互いの再会を喜び合っていた。ほとんどの人間が今はトリオに在籍しておら

ず、それぞれ異なる人生を歩んでいる。会社という枠の中では毎日のように顔を合わせ、共に仕

事をし、時には飲んだり休日を一緒に過ごしたりと、楽しくもあり苦しくもあった日々を過ごし

てきた。それでも、退職という過程で各々が別れていき、いつしか部分的な親交のみしか交わさ

ないようになっていくのが現実だ。もちろん、相手のことを忘れてしまうようなことはない。学

校とは違う社会という機構の中で出会った彼らには、単なる友達とは違う結びつきというものが

残っている。年齢差や入社順という隔たりがあるにも関わらず、それを感じさせないものが皆の

中には宿っている。こうして、多くの昔の仲間が集まった事がその証明である。

 二十人もの人間が騒いでいると、この池の平を目指していた仲間が続いてやって来た。竹原と

江口が現れると、そこでも懐かしの声がこだまする。

「竹原さん、お久しぶりです。江口君もよく来てくれたね」竹内は温かく彼ら迎えた。

「山道の途中で江口君に追いつかれてね、一緒に来たんだ。それにしても、こんなに一杯の人が

いるなんて驚いたな。夢の御告げは俺たちだけじゃなかったんだ」竹原は感動したように言葉を

もらした。

 そして、今度は裕予と酒井が下り坂を降りてきて、仲間たちを見つけると駆け出すように飛び

込んできた。

「み、皆、もしかして、夢を見てここにきたの?そうか主人だけが現れたんじゃんないんだ。脇

田さんが酒井君のところに来たように、皆のところにも他の人たちが来たのね」裕予は感極まる

表情で自分を囲む人々と見回した。

「よかった。僕と渡辺さんだけだっらどうしようかと思って・・・。こんなに大勢の人が来てい

るなんて」酒井も震えていた。

 竹内はここに集まった人々を眺めて口を開いた。「どうやら、消えてしまった人たちからのメ

ッセージは昔の仲間の人たちに届いたみたいですね。正直言って、僕もこんなに多くの人が集ま

るなんて思ってもいませんでしたよ。それよりも、あの夢自体が僕には半信半疑だったんです。

でも、香織ちゃんたちが僕を訪ねて来てくれたおかげで、夢じゃないっていうことを理解できま

した」

 竹内の思いは誰にも共通していた。自分たちの仲間が失踪した事実を知っている者、知らない

者を問わず、あのような不可思議なメッセージを見ただけでは、やはり夢だとしか思えないだろ

う。だが、彼らは互いの心の中に見えない結びつきを持っていたのだ。その見えないものが作用

して、彼らを導き出している。偶然にも電話をしたり、途中の道程で出会ったりしたのがその証

なのだ。

「しかし、こうした状況下で皆さんと再会しなければならないというのはちょっぴり残念です。

けれど、逆に言えば、こういった状況で出会ったことは、例え、会社を辞めて今は離れ離れにな

っていても、共に働いてきた人たちのことをずっと大切に思っていてくれたからじゃないでしょ

うか。僕はそう思います。確かに僕もトリオを辞めてからは、皆さんのことを少しずつ忘れてい

ってしまったような気がします。恥ずかしい限りですけど、人の記憶の忘却は止めることができ

ないと言い訳を言わせてもらいます。でも、昨夜のような夢の中の呼びかけを目の当たりにする

と普段の記憶の中で忘れていても、心の奥底では決して忘れ去ることはできないんだなとつくづ

く思いました。もし、完全に記憶から消し去っていたら、あんな夢は見なかったでしょう。そし

て、僕が夢を見れたということは、メッセージを送ってくれた人たちも自分のことを思っていて

くれたのだなと今実感しました。無線機はいくら送信側が伝達を送ったところで、受信側の無線

機が送信が来る心づもりで電源を入れてなければ、意味がありません。それと、同じように、メ

ッセージを送る者、受け取る者が互いに相手のことを心に描いておかなければ、あんな奇跡は起

こらなかったはずです。消えてしまった人たちが僕を含め、ここにいる皆さんにメッセージを送

っていたという事実に僕は今、感動しています」

 竹内は雄弁に語った。普段ならこんな事を大勢の人間の前でいうことなどないはずなのだが、

今はどうしても言いたかったのだ。心の内にこみ上げてくる衝動を抑えることはできなかった。

しかし、竹内の気持ちはここにいる者たちに共通した思いであった。誰もが竹内の言葉を自分の

思いとして汲み取り、この不思議な巡り合いを素直に受け止めていた。

「竹内君、ありがとう。そして、ここに来てくれた人たちも。私は主人の呼びかけでここまで来

たのだけど、皆もここに来てくれたなんて、嬉しいし、頼もしいわ。こんな嬉しいことって、生

まれてから始めてよ。あの人と結婚した時以上の感激だわ」裕予は涙にむせびながらも、皆に礼

を言った。

「僕も同感です。こんな奇跡みたいなことってあるんですね。僕は奈緒美の事だけを考えていま

した。だけど、今は僕らに呼びかけてくれた人たち、全員の事を心に描いています。今、僕は短

い期間でしたけど、トリオという会社に入社したことに感謝し、誇りに思っています」酒井も裕

予に続いて朗々と語った。

「竹内さん、一体全体どうなっているんですか?私にはますます理解出来なくなってきましたよ

」筒井はただ唖然と彼らを見ているだけだった。「そして、消えてしまった人たちはどこにいる

んです?こんな山奥まで来て、一体どこに・・・?」

 筒井の言葉に喜びと感激に湧いていた人々も現実に立ち返った。夢のお告げでここまでは来れ

た。だが、ここに来て、消えてしまった人たちと、どのようにして再会を果たすのだろうか?麓

から一時間以上もかかるこの山頂に人間などいるはずもないのに。

「ええ事と、悪い事をお伝えしましょか?」宮崎が唐突に彼らの集まる輪の中に入ってきた。「

まず、ええ事からですけど、もうすぐ、消えてしもうた人たちの消息が分かる筈です」宮崎はそ

う言いながらも、何かを体と心で感じ取っているようであった。真剣な眼差しが辺りの様子をう

かがっており、話しながらも耳を澄ましているようだ。「そして、悪い事の方でっけど、それは

でんな、その消息がはっきりするということは途轍もないことが起きるという事でんな」

 宮崎が話し終えるのと同時にしてその異変は起こり始めた。気がつけばいつの間にか雨が降り

だしている。森が大きな傘の役割をしていたため、誰も気付いていなかったのだ。静寂だった森

に雨の滴の音が微かに聞こえ、それに混じって風に揺れる木の葉の音も聞こえてきた。一同が何

か異様な感触を察知しはじめた時、耳をつんざくような「ドーン」という響きが山の中にこだま

した。

「な、何だ、何が起こるんだ?」竹内はその音に驚き、辺りを警戒した。

 上空の雲が下りてくるかのように、突如周りが霧に包まれ始めた。森のあちらこちらから生き

物のように霧が発生しだし、この窪みの中心目掛けて集まってくる。竹内たちは霧から逃げよう

と高台の方に登っていった。

 霧が完全に周辺を取り囲んでしまった。互いの顔さえも見えないぐらいに霧は濃くなり、彼ら

は声だけと体に感じる感触だけで、互いの存在を感知している。

「皆さんがた、離れたらあきまへんで!」宮崎はそう呼びかけた。「チャンスや」と宮崎は女の

子の手を握ろうとしたが、相手はごっつい手をした筒井警部だった。「何でやねん」

 そんな、宮崎のおふざけも問題視せず、霧は充満したまま、止まった。雨が前よりも激しくな

り、木々の下にいても体が濡れだした。

「宮崎さん、どうなったんだ?」竹内は見えない宮崎に声を掛けた。

「さあ、わてにもさっぱり。何も見えへんし、霊視もきかんのですわ」

 だが、不思議なことに今度はその立ち込めた霧が一瞬にして、消滅しだした。さっきとは逆に

今度は霧が山の中に吸い込まれるように引いていった。雨の霞だけが残り、周りの人の顔も確認

できるようになって、彼らの周囲の木々も見えるようになっていった。

 しかし、彼らの目前の景色は一変していた。この高台から見えた窪みはすでにない。いや、窪

み自体はあるのだが、その窪みの中にはなぜか水が満々と溢れていた。透明度の高い水が彼らの

足元に充満している。水の中から飛びだしている木々はさきほどと、全く変わらない様相だが、

水にはその木の姿が反射して映っている。エメラルドグリーンに見えるその湖面は神秘的な美し

さと溜め息がでそうな魅惑の輝きを見せつける。そして、この情景こそが、彼らが見ていた夢の

中の絵だったのだ。

「夢で見た景色よ。この景色・・・」みゆきは思わずそう言った。

「確かに、そうだ。この姿こそ、昨夜みた夢の中の情景・・・。美しい、そして、不思議だ」竹

内はまた夢を見ているのかと自分の目を疑ったぐらいだ。

「見、見て下さい。水の中に誰かがいます。あれは、あれは・・・」湖面に近づいていた香織の

言葉を聞いて、竹内たちも水面に近づいた。窪みの底にあった白い水深計の棒は二メートル半ほ

どのところまで水がある。透明な水を覗き込めば、水の底が見えるはずだと誰もが思っていたの

だが、彼らの目には信じられないものが映っていた。水の底に小さな人影が、多くの人の姿があ

り、その人影は水の底の向こう側からこちらを覗き込んでいる。

「居たわ。あの人が、そして、皆が・・・」裕予はそう言って、水の中を指差した。

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