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トゥリダンの逆襲

 

    第 三 章        異 境 の 街

 

         1

 

 飲み屋にいたはずなのに、光に包み込まれた次の瞬間十五人と一人の赤ん坊は不思議な空間に

放り込まれた。上も下も右も左も判別のつかない、まるで無重力のような感覚だ。真っ暗のよう

で周りには細かい光の粒子がもの凄い勢いで流れていく。宇宙空間に漂っているのかと思う者も

いた。だが、それも違う。この空間は時間と次元の狭間であり、彼らには理解できない世界なの

だ。十六人は何とか一箇所に固まろうとしたが、重力を感じないこの空間では身体を意思のまま

動かすこともおぼつかない。

 美沙希は悦子の手から離れた竜玉のペンダントを取ろうと、身動きしたため抱いていた彼女の

腕の中から抜け出てしまった。

「美沙希・・・」と悦子が叫んでも思うように身体が動かない。

 美沙希はペンダントをつかみ、そのまま流れていった。それに気付いた伊藤は何とか態勢を整

え、美沙希が進む方向に身体を向けることができた。海の中を泳ぐようにもがきながらも、 伊藤

は娘の方に身体を走らせ、なんとかキャッチする事ができた。だが、その瞬間この不可思議な空

間が動きだしたかのように、強烈な風を彼らは感じた。それは吸い込まれていく感覚であり、暗

闇の先に光があるのが見えた。十六人はその光の中に引き込まれていった。だが、光は三つあり

それぞれの光に向かって十六人は離れ離れに吸い込まれていった。

 

         2

 

 ターニは少しだけ虚しさを感じていた。こうしてスウーイに墓の前に立つと自分が、今生きて

いることの意義を疑問に思う。特に近頃ではその思いがより一層大きくなりつつあった。ジーケ

ンイットに仕え七年以上が経ったが、当初ジーケンイットに仕えていたころとは何もかも変わっ

ていった気がする。それはジーケンイットがただの王子から街や大陸を統制できうる君主になっ

たことが大きな起因かもしれない。ジーケンイットがまだ若いころは傍若無人にこの世界を駆け

ずり回り、ターニもその従者として彼の後ろを追っていた。だが、ジーケンイットが政治的・外

交的手腕をみせだしたころから、以前のような冒険をする機会も少なくなった。街を治める当主

としての役目にジーケンイットは奔走し、ターニもそのボディガード的な役割を担うようになっ

たのだ。だが、その役割も最近では形骸化しつつある。ワミカとの和平により平穏が訪れたこの

世界では、ターニのような存在は意味が無くなり始めているのかもしれない。

 すべてはトゥリダン退治の時から変わったのだ。今思えばあの時が一番生き生きとして気がす

る。確かにトゥリダン退治の道程は辛く厳しいものであった。だが、あの戦いで得た高揚感とい

うものは、それ以前に味わったことのない心の昂りでもあった(むろん、その感情もトゥリダン

に負わされた怪我により命を失わなかったからではあるが)。

───結局、俺は戦いの中でしか生きていけないのか?

 ターニは自分の悲しい性分に苦笑した。産まれた時から、まっとうな生き方をせず、裏街道の

道を進んでいった。いつしか、それが自分の安心して眠れる世界になっっていった。だが、その

中で芽生えた人間としての生き方、スウーイとの出会いが彼の岐路を変化させた。しかし、それ

までの罪は彼を許しはしなかった。スウーイの死と共に、ターニも死を迎えようとした。それを

救ったのはジーケンイットである。それ以来ターニはジーケンイットの為に生きることにした。

そして、その新しい生き方は彼を人間としての道に導いていたのだ。

 そろそろ潮時なのかもしれない。ターニは一生ジーケンイットに従うつもりであっが、今はそ

の気持ちも変わりつつあった。ジーケンイットの成長は著しく、すでに剣術の技量もターニ凌ぐ

ほどに達している。ジーケンイットの護衛の役目もすでになくなっていた。それ以上に彼は統率

者としての力を蓄積している。ジーケンイットには自分の存在はもう必要ない、もしくは不適合

な存在だとターニは感じ始めている。警備隊が彼につき、政務省の役人が彼のサポートをすれば

すべて事が済むのだ。自分のような粗野な人間が近くにいられるような存在以上の大きな人にな

ったのだ。ターニは、また一人で旅に出ようかと思い始めた。結局、自分は一匹狼なのだ。どこ

か、誰も知らない街を墓場にしスウーイのところへでも旅立とうか・・・?

 今日はスウーイの命日である。ジーケンイットは今日も諸用で隣街に出掛けているが、何年振

りかの休みをもらい、ここまで来たのだ。朽ち果てたこの墓場には雑草が多い茂り、訪ねる人が

いないことを表している。途中、道端に咲いていた花をちぎり、それを彼女の墓前に供えた。石

でできた小さな墓石には何も刻まれてはいない。だが、その中にはターニの最愛の女が静かに眠

っている。ターニ自身の贖罪のために命を落としたようなものだ。

 ターニはもう一度目を閉じ、首に賭けられているネックレスを握った。スウーイがいつも身に

つけていたこのネックレスは、ターニが彼女の亡骸を見つけた時に、引きちぎったものだった。

───また、来る。いや、もうここには来れないかもしれないが、お前にはいつか必ず会いに行

く。

 ターニにはあまりのんびりしている時間はなかった。コーキマで起きた事件のことはターニも

知っている。ジーフミッキが動きだした事、そして、背後に魔女らしき存在がある事は、再びト

ーセの街が災禍に見回れるような危惧が募りつつある。トーセに今起こりつつある不穏な気配は

ターニの覇気を甦らせていた。

───俺も不貞な男だな。平和より荒波が起こることを望んでいるなんて。しばらく忘れていた

戦いを俺は欲している。これが、俺の最後の舞台になるかもしれない。だが、それでもいい。俺

は結局争いの中で死んでいくのが一番いいのだ。

 ターニは墓地を出て、城への帰路についた。ここからは山の麓の平原を進めば、二時間で戻れ

る。墓地のある小高い丘を降り、来た時と同じ道を進んだ。草原は緑のプールのようで、弱い風

に流され、波のような波形を繰り返している。

 ターニは風の中に何かを感じた。普通の人間にはほとんど感じないような微振動を敏感なター

ニの全身はそれを感知している。ゆっくりとした歩みで、腰に納めてある剣に手をかざし、臨戦

体制を取った。周りの気配に神経を集中させ、何が来るのか見定めようとした。

 ターニは背後にそれを感じ取った。素早く振り返り、剣を鞘から半分ほど抜きかけた時、彼の

目の前の空間が炯々と明るく光りだした。その光を遮ろうと剣の柄を持たぬ手を額にかざし、瞳

を細めながらその光を見つめていると、その中から何か大きな物体が落ちてくるのが見えた。光

りは一つではなく、五つほどある。遠くの光の方向でドスンと鈍い音がすると「痛ってー」とい

う物音が聞こえた。ターニはその声に反応し、剣を抜きながら俊敏な動きでその物体の間近まで

迫った。その時にはさっきまでの強烈な光は消え去り、平常の空間に戻っていた。

 ターニはおもむろに剣を構え、その物体に向けた。だが、その物体は「キャー」という悲鳴を

上げたのだ。

 

 渡辺史子が不可思議な空間から再び光の中に包み込まれ、次に目を開けた時には目の前に剣を

かざした見知らぬ男が立っていた。そんな、予想外の展開にか弱き(?)女性である史子が怯え

ないはずがない。剣をかざす男は彼女が昔見た外国歴史映画の中世時代の様な扮装をしている。

鎧ではないが甲冑のようなものを身体の周りに付け、脚にはタイツのようなものをまとい、膝ま

でのブーツのような長い靴を履いている。肩からは黒いマントで覆われ、騎士のようないでたち

だ。                      おのの

 その突発的な出来事に史子は何が何だか分からない戦きをあらわにした。さっきまで夜の飲み

屋の座敷にいたのに、今ではなぜか昼最中の草原の中にいる。その急激な周りの変化に頭が付い

ていけなかった。

───みんなはどこだろう?

 それが、まず、最初にわき起こったまともな考えであった。あの不可思議な空間の中では飲み

屋にいた仲間の姿が確認できた。そして、この見知らぬ世界に落ちたのは自分だけなのだろうか

?それが、不安を一層大きなものにしていった。目の前の男は剣をかざしたまま身動きいとつし

なかった。二人の間の時間が凍ったように止まった。男は史子をじっと見つめたまま、瞳だけを

震わせていた。その止まった流れを打ち破るように彼女の近くから声がした。

「誰かいるか、みんな、大丈夫か・・・」それは青山の声だった。史子はその声で我に返り、「

青山さーん」と叫んだ。

 すぐに草をかきわける音が聞こえ、青山が史子の真横から飛びだした。「史ちゃんか、大丈夫

か・・・」青山は彼女の前に立つ男に気付き、言葉が止まった。

 

 ターニは実は混乱していたのだ。光の方向に走り、その中から女が現れた。その事態も驚きで

はあるが、その女の姿にターニは驚愕したのだ。

───スウーイ、なぜお前が・・・。

 ターニとり、史子の姿はかつての恋人スウーイにそっくりであったからだ。むろん、着ている

装いや髪形、そして肌の色などは異なっているが、彼女の顔だちはスウーイそのものであった。

その口許、その目元、その瞳、まさに目の前の女はスウーイ、そのものであった。

───生きていたのか、スウーイ、お前は生きて・・・?

 ターニは彼らしくもなく冷静沈着な判断を無くしていた。スウーイは彼の目の前でかつての仲

間であるグッチによりその命を絶たれている。その事実をターニは受け入れていたはずなのに、

今はそれが嘘だったのかと途方もない考えを持ちはじめていた。しかし、その時、別の男が現れ

た事でターニは普段の思考力を取り戻した。

───スウーイが生きているはずがない。この女は違うのだ。

 

 ターニは剣の向きを飛びだしてきた青山の方に変えて、始めて言葉を発した。「あなたたちは

何者だ?どこから来たのだ・・・。光の中から突如現れたところを見ると、只者ではないな・・

・、そうかお前たち魔女の手先か?」

 青山は相手が何を言っているのか理解できず、戸惑った。いきなり剣を突きつけられては、さ

すがの青山も軽口の一言もない。「お、俺たちは怪しいものじゃない。俺たちもなぜ、こんな所

にいるのか分からないのだ」

「・・・・・・」ターニは相手の動向を探った。確かに彼らはトーセの人間ではないようだ。肌

の色や服装からして違う。どちらかというと、チーア大陸のゴヤナ人に近い。

───おやっ、何か同じ様な経験が昔にもあったな・・・?

 ターニがそう感じた時、草の中からまた別の人間が現れた。「青ちゃん、どこにいるの?」美

香はその時の状況も分からず、声を上げながら出てきて、青山と同じように声を止めた。

「史ちゃん、青山さん・・・」前沢もそれだけ言って言葉に詰まった。誰もが自分たちに何が起

こったのか全く分かっていない。そして、最初に出会った人物が時代錯誤の騎士なのだから、余

計何が何だか分からなくなっていった。

 戸惑ったのはターニの方も同じだ。次々と異人とも思える人間が現れ、敵か味方か判断できな

い。なにしろ、今はジーフミッキが脱獄し、魔女も動いているという最中だ、これがやつらの策

略ならば、油断をするわけにはいかない。だが、ターニはもっと驚くことを見つけるとともに、

彼らの正体を知った。美香と前沢の背後には伊藤が立っていた。そして、その伊藤の腕の中には

彼の愛娘が抱かれている。ターニはその赤子を見たとき、その子が握っている物を直視した。

───あ、あれは、確か・・・、竜玉!

 ターニは剣を鞘に納め、ずかずかと伊藤の方に歩きだした。美香と前沢は襲ってるのかと思っ

て、身を翻したが、伊藤は子供を抱いているため身動きが取れず、その子を庇うように立ちはだ

かった。

「な、何だ、何か用か?この子には指一本さわらせないぞ」伊藤は怯えながらも虚勢を張った。

しかし、わが子を守る意思は堅い。

 ターニは伊藤の顔を見つめてから、子供に目を移し、竜玉を握る手を持ち上げた。

「な、何をするんだ、この子に・・・」

「この竜玉はどこで手に入れた?」

「竜玉?竜玉ってこの子が持っているのものか?そ、そんなの知らないよ」

「それは、その子が持っていたものです。たぶん、悦ちゃんのものだと思うけど」美香が伊藤を

助けようと後ろから言った。

「エッちゃん?それは、何者だ。この子の母か?」ターニは振り向き美香を見つめた。

「ええ、そ、そうですけど・・・」美香はこの男が質問の矛先を自分に替えるのではと思い、緊

張した。

「そうか、あなたたちは『エツコヤマダ』を知ってるのか?」ターニは急に穏やかな顔をして尋

ねた。

「エツコヤマダ・・・?」美香は一瞬何を言っているのかと思ったが、すぐにその事が理解でき

た。相手は外人なのだろう。「はい、エツコヤマダ、今は、エツコイトウですけど、彼女なら知

っています。私たちの昔からの仕事仲間で、それに、その男の人が彼女の夫であり、その子が娘

です」と、美香は伊藤を指差した。

「そうか、それは大変失礼した。知らぬこととはいえ、御無礼をお許しください」ターニはあら

たまった態度で伊藤に礼を捧げた。この街の挨拶である、胸の位置に右腕を真横に置くポーズを

とった。

 伊藤たちも目の前の強靱そうな男の態度の急変に困惑しつつも、何とか命だけは安全だと悟り、

ひとまず一安心した。

「ところで、そのエツコ様はどこに?」

「それが、判らないんです。我々は突然不思議な空間に吸い込まれ、次の瞬間にはここに降り立

った。その時、そこにいる人の姿は視界にあったのですが、悦ちゃんを含め、他の人の姿は見え

なかった」青山が相手が安全だと分かり説明をした。

「僕はちらっと見たんですけど、他の人たちもあの不思議な空間の中から光の中に吸い込まれた

見たいですよ。僕らと同じように。だから、どこかこことは違うところに飛び出たのではないで

すか」今度は前沢が話しだした。

「エツコ様だけでなく、まだ大勢の方がいるのですか?」

「ええ、そうです。ですから、皆を探さなくては・・・」美香は他の仲間のことに気付くと、急

に心配になってきた。

「そうですか?だが、大丈夫でしょう。エツコ様なら、この街にも詳しい、城で待っていればき

っと現れるはずです」

 五人はターニの言っている事がよく理解できなかった。悦子がこの街を知っている?城で待て

?「城って何なのです?」気分が落ちついた史子がたまらずきいた。

「城を御存じない?ブルマンの城ですよ。・・・、まあ、ひとまず城に案内しましょう。それか

ら先の事は考えてもいいのではないのですか。城にエツコ様が現れなかったら、街に探しにいけ

ばいい。とにかく、城へ行き靴を差し上げましょう」そう言ってターニはおかしそうな笑顔を見

せた。

 そう言われて五人は自分たちが靴を履いていないのに気付いた。男たちの靴下は泥で汚れ、史

子たちのパンストも破れていた。

 ターニは五人を促し、城の方へ向かった。

 ターニは悦子が再来したことを悟った。トーセに降りかかろうとする暗雲が広がりだした時、

我らの願いが叶ったのだ。そして、ターニにとり、その事実は自分の生きる目的をまた見つけた

ような気になっていた。彼の胸は大きく高鳴った。

 

 彼が善人か悪人か分からないが、伊藤はこの異境の地において、最初に出会った男に従うしか

なかった。だが、彼は悦子を知っている。その事だけでも、信頼していいのではないだろうか?

しかし、なぜこの見知らぬどう見ても日本人でない男が悦子を知っているのだろう。彼女がヨー

ロッパに出掛けた時の知り合いか?じゃ、ここは欧州なのか?そんな馬鹿な?伊藤の頭は混乱を

極めた。悦子からこのことを聞いたことなど無い。自分が知らない世界が彼女にはあったのだろ

うか?伊藤は少し、妻に対し深く考え始めた。

 

 五人の中で史子が一番この男を信頼していた。自分に剣を突きつけた男なのに、なぜかそう思

えた。伊藤悦子を知っているという事だけではなく、自分を見つめた時の男の目は見て決して悪

人ではないことを察したのだ。史子にも今の現況は全く理解できない。だが、この男なら頼って

もいいと史子は今までにない思いにかられていた。

 

         3

 

 ヒヨーロは複雑な気持ちのまま剣を振りかざした。心に乱れがあるのか今日の剣の鍛練には冴

えがない。それもしかたがない。かつての軍務宰相であり、そしてヒヨーロの父であるジーフミ

ッキが脱獄した報を知ったからだ。父の罪は彼女にとり相当のショックであった。軍務宰相とし

ての父を尊敬し誇りに思っていたのに、王家を欺く陰謀を画策していた事実は父への尊厳と依頼

心を崩壊させていった。むろん、彼女は最初信じることができなかったが、意義を唱えることは

できない。生贄選出を画策し、ジーケンイットの命を狙った、ブルマン王朝に対する反逆は明ら

かにされた。ヒヨーロは死にたいぐらいの悲しみと惨めさを感じ、父の刑罰決定と共にトーセを

去ろうと決意していた。彼女には父であるジーフミッキ以外身寄りがない。母は彼女を生んで死

んだときかされ、母の親類もヒヨーロは知らない。それに父の親類も彼女は全く知らなかった。

ジーフミッキは自分の過去を誰にも一切告げておらず、ベールに包まれたままなのだ。父を亡く

したのも同然である彼女は失意の渦に巻き込まれ、立ち直れないほどの精神の衰弱が広がりつつ

あった。王家のフーミやリオカは彼女を何とか慰めようと努めたが、彼女らの心遣いがよけいに

ヒヨーロを苦しめ、返って彼女の心を閉ざす形になり始めた。

 それを救ってくれたのはコトブーとの出会いであった。トゥリダン退治の祝賀会のおいて、彼

女に声をかけてきた唯一の男であった。物心立ってから山で暮らしているコトブーは人と接する

機会がほとんどなかった。たまたま、その宴でヒヨーロを見つけたコトブーは孤立の影を覆って

いる彼女に興味を持った。むろん、彼女がどういう人間か彼は全く知らない。それゆえ、彼女に

対する態度は同情や慰めだけのおざなりなものではなく、初対面としての運命的な心の触れ合い

があった。粗野ではあるが、素朴で純粋なコトブーに彼女はひかれ、心の痛みを忘れだした。ヒ

ヨーロはコトブーも天涯孤独の身であることを知り、何か共鳴するものを感じた。そして、これ

からは人に頼らず自分で生きていくことを新たに決意した。

 ヒヨーロは城を出て、街外れの森に家を建てた(当然、コトブーの協力のもとに)。今まで軍

務宰相という権力を持った父の下で、自由に暮らしていたが、それを全て捨て新しい人間として

生きなくてはならなかった。リオカたちは城に留まるよう説得はしたが、彼女の決意は固かった。

その後、ターニに頼み込み、剣士としての習練を積みはじめた。女が一人で生きていくためには

身体も心も鍛えなくてはならない。生きてく知恵をコトブーから授かり、心身の鍛練をターニか

ら享受した。彼女は見る間に、立派な大人として成長していった。長かった髪もばっさり切り、

以前のひ弱でガラス細工のような少女からは完全に脱皮していた。だが、彼女の美しさはかえっ

て広がり、心と身体を鍛えた彼女は実に神々しくなった。

 しかし、まだ完全な騎士にはなっていない。コーキマで起こった騒動を聞かされると、心はす

ぐに動揺した。ジーフミッキがコーキマに流刑されてからは一度も父には会っていない。刑罰が

決まり、この城の拘留場から連れだされる姿を見たのが最後であった。その時には、彼女は新た

な人生の生き方を決めていたので、父のことはその日限りで忘れようと努めた。精神と身体の習

練により、確かにその成果は上がった。だが、こうして父の事を聞かされると、彼女の心は揺ら

ぎ始めていた。

───父は何を考えているのだろう。まだ、自分の野心を捨てていないのだろうか?ジーケンイ

ット様に対し復讐でも企てているのか?

 考えれば考えるほどヒヨーロは辛く悲しかった。あんなに優しく、立派だった父がなぜこうも

変わってしまったのだろうか。五年前のあの出来事のころからジーフミッキは徐々に変わってい

った気がする。軍務における権力もしだいに増していき、軍務宰相という最高位の地位にまで登

り詰めた。そのことが、父の心を変えていったのだろうか?

 ジーフミッキが何を考えているのか分かるよしもない。しかし、必ず行動を起こすことは彼女

にも分かっていた。できるなら、その前にジーフミッキに会い、父を諭して罪の償いを続けるよ

う説得したかった。そして、それでも父が王家に反旗を翻すようなら、その時は自分が・・・。

 こうして、剣術を会得したのもこの事が心の片隅にあったのだろうか?父と対峙するなどとは

絶対にあってはならない。しかし、人間としての道義を忘れた父を討つのは自分の義務なのかも

しれないとヒヨーロは心の中で自分を呪っていた。

 彼女は剣を握る腕を休め、今いる丘の高台から街を眺めた。父はすでにトーセの街にいるのだ

ろうか?ヒヨーロは父の面影を追い払おうと努力した。

 

 コトブーはヒヨーロを迎えに丘を登っていった。城からの伝達で彼女を探しに来たのだ。今、

こうして思うと彼女との付き合いが随分長いことに気付いた。最初出会った時、孤独そうなその

姿に自分と同じ様な身の上なのだなと直観で感じ、外界の人間とは付き合う気が全く無かったは

ずなのになぜか声を掛けてしまった。ずっと、一人で山に住んでいたコトブーにとり、人と接す

ることはたいした意味はなく、あえてそうしようとも思わなかった。だが、山の中で出会った異

郷の女をきっかけにコトブーはブルマン王朝の人々と関わるようになっていった。

───あの女が俺を変えてしまったな。

 コトブーはその事を思うと苦笑せずにはいられない。けれども、彼女に対しては感謝をしてい

る。彼女がいなければ自分は変わりばえもせず、山で山賊どもと張り合っていただけの生活で終

わっていたかもしれない。それと、確かに人と話をしたり、戯れるのもいいものであった。今ま

での自分がなんと狭隘な視野しかもっていなかったかという事が良く分かった。山に一人こもり

自分の世界だけを構築していてはいけないのだ。コトブーは孤独というものを恐れたことは一度

もない。そんなやわで軟弱な人物ではなかった。しかし、人は誰かと共に生きていくのが自然な

のだと、仲間というものを築いたほうが自分の為にもなるということを、コトブーはやっと悟っ

た。特に、ヒヨーロとの出会いは彼にとって重要なことであった。

───巡り会わせか・・・。

 コトブーは柄にもないことを考えまた苦笑した。自分が異性に声を掛けるなんて、いまさら考

えても信じがたい。これもあの女の影響なのだろうか?あの女は人の心を変えてしまう魔力でも

あったのだろうか?彼女こそ本当は魔女だったのかもしれない。コトブーにはそう思えた。

 だが、その魔力でコトブーはヒヨーロに巡り合えた。声をかけた時、相手がジーフミッキの娘

だとはコトブーは知るよしもなかった。自分がこの女の父を矢で狙っていたなどとはよくよく考

えてみると、とんでもないことである。彼女が沈んでいた理由も後で分かったのだが、コトブー

にとりそんなことは関係なかった。コトブーはヒヨーロという彼女自身に好意を抱いたのだ。

 彼女も最初は怯んでいた。心の衝動も冷めやらぬ時に、全く見知らぬ男、しかも、どう見ても

街の人間ではない粗野な男が声を掛けてきたのだから。しかし、ヒヨーロはコトブーを人目見て

決して悪い人間ではないことだけはすぐに見て取ったようで、彼女も心を許してくれた。最初は

あまり話をしないおとなしい少女であったが、徐々に心を開きだし、いつしか完全に打ち解けて

いった。そして、ある日彼女は城を出るとコトブーに告げ、一人立ち出来るようコトブーに援助

を求めたのだ。コトブーもそのことには驚いた。こんなお嬢様お嬢様が一人で生きていけるのか

?当初は無理だと説得しようともしたが、彼女の決意は固く、諦めさせることはできず、彼女の

為に力を貸した。ヒヨーロはコトブーが思っているよりも芯のしっかりした女性で、城を出ると

同時に剣術の習得を始め、コトブーにも弓矢の扱い方を教えてほしいと願い出たぐらいだ。コト

ブーは驚きつつも、彼女の変貌に対し畏敬の念を抱き、そしてそれまで以上に引かれていくもの

があった。ただ、コトブーは恋愛というものがどういうものかよく把握していない。幼いことか

ら一人で生きてきた彼にとり、「愛」というものが何であるかは分かりようもなかった。ヒヨー

ロに対する想いも、彼には理解しがたい感覚なのだ。それでも、コトブーはヒヨーロと過ごす日

々にあらたな人生の意味を得ていた。

 コトブーは人間と付き合うようになったものの生活自体は全く変えていない。いまさら、街の

生活に戻れるはずもないし、山での暮らしの方が性には合っている。ジーケンイットなど当時は

まだ存在した軍務の官僚にならないかと、薦めてくれはしたが自分の柄ではないと丁重にお断り

した。それでも、ジーケンイットとの付き合いはその後も続き、時折、弓矢の競技をしたりもし

ている。それに、王家に養われているヒロチーカがことある毎に「おじさん、おじさん」と言っ

て遊びにくる。特に、最近ではジーケンイットが公務で忙しいため、暇を持て余しては山に来る

のだ。始めは煩わしくもあったが、今ではヒロチーカとの戯れも楽しみの一つになっていた。五

年の間に街や王家は変わってしまった。それがよい方向であったのだから、言うことは何もない。

 しかし、今回の騒動は只事ではない。ジーフミッキが動きだした。しかも、背後には死んだは

ずの魔女の影が・・・。ジーフミッキの事を取りざたせば、自ずと彼女の事を思わずには入られ

ない。彼女にとって大きな試練が待ち構えているような気がコトブーには感じられた。そして、

いまこそ彼女の為に自分が成すべきことをしなければいけないと強く念じていた。

 

「痛ったったー、たっく、ここは一体どこなんだ」藤井の第一声はいつものぼやきだった。突然

の光に包み込まれ、不思議な空間に放り出されたと思ったら、すぐにまた別の光の中に吸い込ま

れた。そして、気付くとなぜか森のなかに転がっていたのだ。藤井は一瞬、またタイムスリップ

したのかと思った。

───こんどは一体いつの時代なんだ?

 しかし、それも違うような感じだ。あの時のようなスリップのきっかけが地震ではなく、謎の

発光によるものであるし、名古屋の繁華街であったのが、急にこんな森になるはずがない(原始

の時代にでもいったのなら別だが)。

───じゃ、何が起こったんだ。それに、他の連中はどうなたんだ?

 藤井も不思議な空間の中で居酒屋にいた連中が自分と同じように光の中に吸い込まれるのを見

ていた。藤井は起き上がり、周りを見回した。太陽の光も覆いかぶすような鬱蒼とした森林の中

に彼は立っている。

「オーイ、誰かいるか?」藤井は試しにと大声で怒鳴った。

 しばらくすると、すぐ背後から落ち枝を折る音が聞こえ、「藤井さんですか」とか細い声が聞

こえた。祐子が姿を現し、すぐ後ろには浩代もいた。

「真野ちゃんたちか。良かった、無事かい」

「ええ、何とか。でも、ワンさん腰を打ったようで、ちょっと痛いみたいね」

「大丈夫?ワンさん?」

「うん、大したことないわ。でも、藤井さん、一体ここはどこなの。何でさっきまで喜多満にい

たのに、今はこんな森の中にいるの?」

「それは、俺の方が聞きたい・・・」

 その時、背後で物音がした。藤井たちが警戒すると、そこには佐藤と奈緒美が木々の間から顔

を出していた。

「藤井さん!良かった。誰もいないんじゃないかと思って不安になってたんですよ」奈緒美は興

奮した声で藤井に駆け寄った。

「佐藤も無事か?」藤井はゆっくり歩いてくる佐藤に言った。

「ええ、大丈夫です。けれで、何が起こったんです?どうしてこんな山の中に・・・?」

「ああ、そのことは、今俺たちも話し合っていたところなんだが、たぶん、誰も分からないだろ

う。他の連中はいないのかい」

「はい、そうみたいです。僕らはもう誰にも会ってません」

「オーイ、誰かいるか?」藤井はもう一度大きな声を森に響かせた。だが、それに対する返答は

もう無かった。

「どうやら、俺たちだけみたいだな。さて、これからどうする?右も左も分からないこんな辺鄙

なところにいて。まあ、佐藤がいるからアウトドアに関しては心配ないけど・・・」

「藤井さん、何にも道具が無ければ、私でも無理ですよ」

「佐藤、そんな悲観的なこと言うなよ。もう少し、元気づけるようなこと言ってくれ」藤井は眉

間に皺を寄せ、感嘆気味に言った。

「す、すいません。それなら、とにかく、ここを出ましょう。森を出れば街ぐらいはあるでしょ

う。そこで、ここはどこか聞けば・・・」

「そうだな。ここにいても仕方がない。ひとまず、進んでみるか」

「でも、藤井さん、歩くのも難儀ですよ、ほら」祐子は足元を指差した。パンストを履いている

もののそれでは裸足と変わらない。奈緒美は靴下を履いていたが、浩代にいたっては素足のまま

であった。

「それじゃ、歩くのも大変だな。とりあえず、俺の靴下を貸しておくよ。おれはまだ、足は丈夫

な方だから」そう言って、藤井は自分の靴下を祐子に手渡し、佐藤も浩代に自分のを渡した。

「藤井さん、水虫ないでしょうね?」祐子は靴下を履く手を止め、藤井に言った。

「大丈夫だ。随分前にポリカインで治したから」

「藤井さんったら、もう」

「佐藤君も大丈夫でしょうね」

「僕は大丈夫ですよ。でも、ちょっと臭いかもしれませんが」佐藤は笑いながら言ったので、浩

代は二の句がつげなかった。

 森はどこまでいっても途切れないようであった。もしかしたら、富士の樹海にでも紛れ込んで

しまったのかと思うほどであった。一向に太陽の光を拝むことができない。覆い茂る木の葉の狭

間に眩しい光が洩れるだけだった。

 

「ヒヨーロ、ここにいたのか、探したぞ」コトブーはヒヨーロのところに辿り着いた。

「コトブー、私を探していたのですか?」ヒヨーロは剣を振る手を止めた。

「ああ、今城へ行ってきたのだが、重大な話があるそうだ。ジーケンイットが間もなく戻るので

それまでに来てほしいと言われた」

「コーキマの事なのでしょうか?」彼女は陰鬱そうに尋ねた。

 コトブーは少しだけ躊躇いがちに答えた。「たぶん、そうだろう。ジーケンイットはその事で

情報を集めようと奔走している。お前を呼べとは言われてないが、俺は話を聞いておいた方がい

いと思って探しに来たんだ。後で、恨まれてはたまらんからな。それとも、迷惑だったかな?」

「いえ、そんなことはありません。父の事なら気をつかってもらわなくてもいいです。私も今で

はトーセのために戦う者の一人だと思っています。ですから、このような危急な時には私も参加

させて欲しいと思っています」ヒヨーロは力強く言った。彼女にはすでに意志が固まっているよ

うであった。

「それなら、いい。では、急いで帰ろう。森を突き抜けるぞ」コトブーはすぐさま歩きだし、ヒ

ヨーロも続いた。

 コトブーには庭のような森である。どこをどう行けばいいか、考える間もなく自然に足が進ん

でいった。だが突然、コトブーは足を止めた。

「どうかしたのですか?コトブー」急に立ち止まった彼にぶつかりそうになりながら、ヒヨーロ

はきいた。

「声を抑えろ」コトブーは小声で制した。「誰かがこちらに来る。気配を感じないか?」

「ええ、そういえば、向こうの方に動きがあるようですね。話声も聞こえます」

「お前も、だいぶ鍛えられたな」

「しかし、誰でしょう。こんな山の中に人がいるなんて。もしかしたら、またあの山賊どもでし

ょうか?」

「それは、違う。ワイカたちは随分前に街へ行った時に、警備兵に捕まり、コーキマに投獄され

たからな。今回の騒ぎで脱走したかもしれないが、あいつらの気配とは違う。とにかく、様子を

みよう。時機が時機だけあって、用心に越したことはない」

 コトブーは近くの木の影に隠れ、ヒヨーロは怪しき者の背後に廻るため、大きく静かに迂回し

ていった。

 

「藤井さん、どこまで歩けばいいんだろ?さっきから全然周りの様子が変わらないですよ。迷っ

たんじゃないですか?」佐藤は一行の最前列から後尾の藤井に声を張り上げた。女性たちを挟む

形で彼らは進んでいた。

「そうは言っても、俺だって方向が分からないんだよ。佐藤よ、コンパスでも持っていないのか

?」

「今日はそんなもの持っていませんよ。会社の帰りですし、持っていたとしても鞄が無いのです

から」

 三人の女性は疲れと不安で黙したままであった。

 佐藤はその男が目の前に現れ、驚くというよりも助かったという思いが先にこみ上げてきた。

しかし、山の中で人に会うなんてよく考えれば恐ろしい事なのだ。

「お前たちはどこから来た。見かけない者のようだし、オリワの人間でもなさそうだな」男は立

ちふさがるように獣道で弓矢を構えた。

 佐藤の制動に後ろの者も急停止し、藤井は背後に気配を感じたので後ろを振り返るとそこにも

剣を持った美しい女が立っていた。

「我々は道に迷っただけで、街への道を探しているのですが・・・」

「迷うと言っても、なぜ、こんなところに入り込んだのだ?」

「それは、我々も分からないのですが・・・突然、光に包まれて・・・」佐藤はしどろもどろに

言葉を発した。

 その時、コトブーは彼らに対し、何か不思議な感覚を覚えた。以前、どこかで接触したような

異質の感覚だ。「お前たち、前にどこかで会ったか・・・?そうか、あの女、エツコと出会った

時の感触だ」

「エツコって、悦ちゃんのことですか」浩代はその言葉に反応し、咄嗟に尋ねた。

「エツチャン・・・?」

「伊藤悦子のことですけど・・・」祐子が今度は言った。

「エツコヤマダなら知っているが?」

「そう、そうです。エツコヤマダです。あなたは彼女を御存知なのですか」佐藤は共通点を見つ

け、嬉しそうにきいた。

「ああ、知っている。随分前に出会って、俺の生き方を変えた女だ。では、お前たちはエツコの

知人なのか?」

「はい、彼女の友人ですけど」

「そうか。で、彼女はどこに・・・?」

「さあ、それは分かりません。私たちも彼女を探しているのですが、別の光に吸い込まれたので、

どこに行ったのか・・・?」祐子は心配そうな顔をした。

「なるほど、ならば、城へ来るがいい。エツコもそのうち現れるだろう。私が案内する。おっと、

言い遅れたが、私はコトブー、後ろの彼女はヒヨーロだ。怖がる事はない。安心して付いてきて

くれ」

 コトブーは彼らの答えも聞かずに藤井たちがいま来た方向に歩き始め、ヒヨーロが後ろに付い

た。藤井たちはこの男に従っていいものか迷いはしたが、こんな山の中では誰かにすがるしかな

い。それに、どういうわけだか悦子のことを知っているのだから、その点だけでも信頼していい

だろうと思えた。すぐに誰とでも仲良くなれる悦子の長所を知っている彼らだが、こんな異邦人

にまで知り合いがいるとなると、彼女の交流関係はどうなっているのか不思議に思えてくる。そ

れと、藤井と佐藤はこんな美しい女性がいることだけでも彼らを完全に信用していた。

 

         4

 

 悦子にも何が起こったか分からなかった。光に包まれたと思ったら居酒屋から不可思議な空間

に放り込まれ、再び光の中に吸い込まれた。だが、彼女にとり、その尋常でない出来事より、娘

と離れ離れになったことの方が大きかった。あの空間で美沙希が伊藤に受け止められたことはか

ろうじて確認することはできたが、その後は光に吸い込まれどうなったか分からない。しかし、

そんな感傷に耽っている間もなかった。

 光から飛び出ると、硬い板張りの所に着地したことはすぐに分かり、どこかの建物の中らしか

った。床に足を打ちつけたと同時に、悦子は視界に入るものをすべて見て取った。目の前には椅

子やテーブルがあり、奥のほうにはカウンターのような造りのものがある。そして、その向こう

側には棚の中にぎっしり並べられた瓶が置かれていた。そして、自分がステージのような広くて

椅子などがない場所にいることが分かった。

───どこかしら、ここは・・・?でも、どこかで見た記憶があるわ?

 そう、思っていると背後に何かが落ちてくる気配がし、「ワッー」とか、「痛ってー」という

声がした。振り向いてみると、そこには枡田と美砂、古井、それに土田が床に転がっていた。

「みんな、大丈夫?」悦子は這いながら、彼らに近づいた。

「大丈夫ですけど。背中を打ったみたいで、ちょっと痺れてますよ」土田が渋い顔で言った。

「おいおい、ところでここはどこだ?どうみても、喜多満じゃないな」古井は立ち上がり、周り

を見てみた。「なんか、西部劇に出てきそうな酒場みたいだな」

 悦子はそう言われて、ここがどこか徐々に記憶が明瞭になってきた。そして、それを確信させ

る声が聞こえてきた。

「騒々しいな、誰かいるのか?」ステージの端に真っ暗な部屋へ続く入口があり、そこから男が

出てきた。「何だ、お前ら、どっから入ってきた」男は恫喝するような意気込みで悦子たちを見

つめた。「ん・・・?、お前どっかで見たことあるな、確か・・・?」

 男がそう言ったのと同時に悦子も相手が誰か咄嗟に思い出した。───確か、この男、どこか

で会ったはず・・・?名前は・・・?そう、ジリノー。ジリノーとか言ったわね。えっ、じゃあ、

ここはもしかして、トーセなの?

 悦子はその記憶の覚醒に驚愕し始めた。その驚愕が相手にも移ったのか、ジリノーも「お前、

思い出したぞ。随分前に砂漠で拾った女だな。何でまたここにいるんだ?そういや、あの時の礼

がまだ済んでないな!」

「山田さん、何かよくない雰囲気みたいですね」美砂は怯えながら小声で言った。

「そうね」悦子には何かデジャビューを見ているような錯覚に見えた。

 再び、ジリノーが出てきた入口の奥から声がした。「なーに、騒がしいわね。ジリノー何をし

ているの?」その声は女言葉であるが、声の質はどう聞いても男であった。そう、まるでミスタ

ーレディの美人じゃない版のような。その声の主が闇から姿を現すと、悦子は一層驚いた。

「どうしたの?ジリノー」

「はい、ノーマツ様、こ、この女が、また現れました」

「女?」ノーマツは床に倒れている悦子を凝視し、相手が誰か判別すると、顔面に怒気を満ちさ

せた。「あんた、あの時の女ね。よくもまあ、またここへ来れたものだわ」相手の人物は見たと

ころ男の様相を示しているが、話し方、仕種がなよっとしていて、女みたい、つまり、オカマな

のだ。

 悦子は最初そのオカマが誰か分からなかった。

───私のことを知っているなんて・・・?オカマに知り合いはいないはずなんだけど・・・?

ノーマツ・・・、そうかこの間ここに来た時にいたあの男!

 悦子が意外な顔をしたのを見とり、ノーマツは不敵に笑った。「やっと、思い出したようね。

あんたのおかげで、私はこんな身体になっちゃたのよ。まあ、それはそれでいいこともあるけど、

うんっっ、だけど、あん時の痛みは決して忘れないからね」

 以前この地に来た時、ジリノーに連れられこの店に来たのだが、彼のボスであるこのオカマこ

とノーマツに危うく手込めにされそうになったのだ。悦子は隙をついて、ノーマツの股間を膝蹴

りし、騒ぎに乗じて街へ逃げ、ジーケンイットに救われた。その時の結果がこの厳めしい男を変

えてしまったとは、悦子にも信じられなかった。

「あのー、それは申し訳ありませんでした。こんなことになっているとは知りませんで」悦子は

低姿勢な態度で引きつった笑みを浮かべた。

「あんた、ふざけてんじゃないわよ。このおとしまいどう付けてくれんのよ」女言葉とは裏腹に

憤怒した顔は気味が悪いほどの色合いだ。「今日はお仲間もいるようね。男たちは私のタイプだ

から、後で楽しめるよう、程々に扱いなさい。女は売り物だから顔には気を付けて、捕まえてお

きなさい」

「お、奥さーん、何か非常にやばい状況見たいですね」土田が小声で悦子に囁いた。

「そ、そうね・・・」

「なんかお知り合いのような感じですけど、あんなオカマと付き合いがあったのですか?」古井

が不思議そうな顔で尋ねた。

「ええ、まあ、ちょっと、昔にね・・・、それよりも、ここを逃げなきゃだめね」

「に、逃げるったって、こんな強面の人たちから逃げられるんですか?」枡田も近づいて来たが

普段見せたことのない真剣な顔つきだ。

 いつのまにかノーマツの背後には五・六人の不精そうな男が立っている。こちらにも男が三人

いるが、頼り甲斐があるような不屈タイプの強者ではない。どちらかと言えばこのような状況の

中では、美砂の方が頼れる存在かもしれない。その推考に男たちも賛成のようだった。

「こうなったら、松浦さんを先頭に突っ切るしかないですね」古井が閃いた表情で言い始めた。

「なんで、私なのよ。あんたたち男でしょ、何とかしなさいよ」

「そんなこと言われたってな、俺たちよりよっぽど松浦さんの方が強そうだから、そう言っただ

けだよな。松浦さんの鉄拳さえあれば、恐いものなしですよ」土田は美砂の力を喚起させようと

して言った。

「ちょっと、いい加減・・・」

「何をごちゃごちゃ言ってやがる。おとなしくしていれば、手荒な真似はしないから、ゆっくり

立ち上がれ」ジリノーが痺れを切らし、怒鳴った。

 五人はその言葉にびっくりし、話をやめた。仕方なさそうに立ち上がり、美砂を先頭にしてス

テージから降りた。美砂はなんで自分がこんな目に会わなきゃいけないのかという恨めしそうな

眼差しをジリノーに向けた。

「気の強そうな女だな。いい商品になるかもしれん」ジリノーは美砂の顎を持ち上げ、顔を自分

の方に向けさせた。

 その瞬間、癇癪玉の切れた美砂の鉄拳がジリノーにとんだ。「触らないでよ!」

それと同時に後ろにいた枡田、土田、古井が周りにある椅子を持ち上げ投げつけたり、振りまし

たりした。突然の暴挙に居合わせたノーマツの部下も油断し、防御する暇もなかった。飛んでき

た椅子に身をかがめ、椅子の脚に顔面を叩きつけられて、男たちは怯んだ。

「よし、今のうちに逃げよう、出口はどっちだ?」古井は壊れた椅子の背もたれを持ったまま、

叫んだ。

 悦子は昔の記憶を思い出し、出口を求めた。「あっちよ。急いで」指を示して皆を促したが、

逃げる悦子の前にノーマツが立ちふさがった。

「あんた、今度こそは逃がさないわよ!」たとえ、女のようになっても元々持っている腕力は変

わらず、悦子の肩を押さえる力は強くて、身動き出来なかった。だが、自由に動く脚を振り上げ

て、ノーマツの股間を蹴り上げた。

「ギャー」と悲鳴を上げ、ノーマツはその場にうずくまった。悦子はノーマツを飛び越して出口

に向かった。

 悦子が遅いので、土田が戻ってきた。「大丈夫ですか?」

「ええ、行きましょう」

 二人が走りだそうとすると、二人の前に小柄な男がいた。「お、お前、あん時の女?」ハーヤ

は驚く間もなく、土田に一発見舞われ後ろに吹っ飛んだ。

「人は殴ったことがないけど、今のは何となく気持ち良かったな」土田は走りながら言った。

 出口に辿り着くと、美砂たちが待っていた。「大丈夫ですか、遅いから心配しましたよ」

「この人たちは?」彼女たちの側に二・三人の男がうずくまっている。悦子はその中にズーノと

いう以前にも悦子を追いかけた男を見つけた。「いやー、松浦さんの手が早いのなんのって、次

々と男たちはぶっ倒していくんだから」枡田がそういうと、美砂は「私、何にもしていないわよ

」と、惚けていたが信じられる筈がない。

 建物の中から人が走ってくる音がする。「とにかく、ここから逃げましょう。あいつら、まだ

追いかけてくるみたいだから」

「でも、奥さん、どこにいけばいいんです。それより、ここはどこなんですか?奥さんは何か知

っているようですけれど、逃げるあてはあるんですか?」土田が矢継ぎ早に質問してきた。

「詳しいことはあとで話すから、早く行きましょう。それから、私のこと奥さんって呼ばないで。

まだ、そんな歳じゃないんだから」悦子は文句を言いながらも皆を誘導した。

「すいません、どうも今のバイト先での口癖が出るもんで・・・」

 悦子はとにかく走った。以前逃げた道筋を辿っているようで、記憶にある町並みが目に映る。

人の往来が激しいマーケットのような道を、歩く人をかき分け進んで行った。後ろの方ではジリ

ノーに引きつれられた男たちがきょろきょろしている。その中の一人が悦子たちを見つけ指を指

すと、「どけどけ」と言って、ジリノーが突き進んできた。

 あの時は、このあたりでジーケンイットとターニに出会ったのだが、そんな偶然が続くはずも

なく、彼女の期待は甘かった。相変わらず、ノーマツの息が掛かっているせいか、街の人々は助

けようとしてはくれない。彼女がトーセを救った女神だということさえも誰も知らないのだ。

 とにかく、悦子たちは走ったが、途中で枡田が転んでしまい、すぐに起き上がったが、足を挫

いたようで片足をひきづっていた。

「枡田さん、大丈夫ですか?」古井が言ったが、枡田は苦痛の表情を示した。土田と古井が肩を

貸し、枡田を持ち上げたが、逃げるのに不利なことは間違いない。

 悦子たちは道が十字路になっているところに来て、そこを左に曲がった。枡田の影響で逃げ延

びる事が困難に思えてきた。悦子が辺りを窺い、ちょっと行った先にある店が目に入った。何か

布切れや衣服を扱ってる洋裁店のようで、台に乗った商品が道の方まで並んでいた。その店先に

若い小柄の女性がいたので、悦子は近づきながら声を掛けた。

「すみません、ノーマツの手下に追われているのです。どうか、助けて下さい」

 悦子は「ノーマツ」と言ったことに後悔した。その名を出せば怖がって無視するかもしれない

と思ったからだ。しかし、その女性は案外にも悦子の言葉を聞き入れ、こっちに来るよう手招き

した。

「みんな、急いで!」悦子は声を出し、土田たちをその店先へ行くよう指示した。枡田も引っ張

られるように連れていかれ、全員が店に入ると、女性は商品が置かれている台の下に隠れるよう

言い、台を覆っている布をまくり上げた。女性が慌てて布を下ろしたのと同時に、ジリノーたち

が店の前で立ち止まった。古井は布の切れ間から息を殺して外を眺めた。ジリノーたちは懸命に

悦子たちを探している。

 ズーノが店の中に入り込み、その女性に問いただした。「おい、今ここにチーアの人間が来な

かったか?」

「ええ、四・五人くらいのゴヤナ人がその先を曲がって行きましたよ」女性が、そう誤魔化すと

ズーノは「逃げ足の早いやつらだ」と捨てぜりふを残して立ち去り、ジリノーに報告してその場

を去った。

 しばらく様子を探ってから古井が「もう、大丈夫みたいですね」と言って、台の下から這い出

た。

 悦子もそこから出ると、女性に向き直り「本当にありがとうございました」と深々と礼を述べ

た。

女性は「いえ、いいんですよ。私たちもノーマツたちにはひどい目に遇ってますから・・・、

」と言いながら、不思議そうな顔をした。「あの・・・、どこかでお目にかかりませんでしたか

?」

「えっ?」

「あなたは、もしかして、エツコ様ではありあせんか?」

「ええ、そうですけど・・・」今度は悦子の方がきょとんとした顔になった「あのー・・・、あ

らっ、あなたは確かお城にいた方、フーミ様のお付きの人で、ミーワさんね」

「そうです、ミーワです。私のこと覚えていてくださいましたか」

「ええ、もちろん」悦子にはトーセで体験した全ての出来事が甦っていた。ミーワという名も覚

えていたというよりは自然に浮かんできたのだ。

「エツコ様はお元気でらっしゃったのですか?突然城から去られてしまい、私どもも残念で仕方

がなかったのです」

「ご、御免なさいね、いろいろとあって・・・」

 その時、店の奥からもう一人ミーワと同じ様な歳恰好の女性が出てきた。「ミーワ、何かあっ

たの?表が騒がしくてお昼寝もできないじゃない」

「マーリ、こっちへいらっしゃい、大変な方がみえているわよ」

「なーに、誰?」マーリは寝ぼけ眼でミーワのところにきた。だが、その眠気も悦子を見るなり

吹っ飛んでしまった。「エ、エツコ様、お久し振りでございます。マーリです」

 悦子はマーリのこともすぐに思い出した。「マーリさんもお元気で」二人の女性が悦子に対し

謙遜した態度を見せるので、悦子も困っていた。それを見ている四人もどうなっているんだとい

う顔つきで呆気に取られていた。

「お二人とも、城の方にはもういらっしゃらないのですか?」

「はい、私たちの城でのお務めは終わりました。街に戻り、私の兄が開いていた店を任され、マ

ーリと一緒に切り盛りしているのです。兄も一度エツコ様にお会いして礼が述べたいと常々申し

ておりました。エツコ様から頂いたアイデアのお蔭で、この店も大繁盛し、兄は別の店を持てる

ようになったのです。本当にありがとうございました」ミーワが手を胸元で広げ感謝の意を表し

た。

「アイデア?」悦子にもそのことには全く記憶がない。

 マーリが店の中から、そのアイデアの商品を持ってきた。「これで、ございます。砂漠用の目

隠しとマスクです。トーセではこれが大流行しまして、他の街にまで波及したぐらいです」マー

リは商品を両手に持った。それは大きな三角形の白い布が縁で結ばれたものと、てのひらサイズ

で楕円の形をしたカップのようなものが二つ繋がり紐が付いているものだった。

 悦子たちにはそれがブラジャーとパンティに見えた。悦子はあの時、風呂に入っている間に二

人が洗濯してくれたのを思い出し、少し頬を赤らめた。土田たちも妙な顔をして照れているが、

悦子の方がもっと恥ずかしい。こんなものがこの街で流行っていたなんて、穴があったら入りた

いぐらいだ。

「エツコ様、こうして、またチーアからトーセに来られたというのは、コーキマの事を察してで

ございますか」マーリが話を変えて悦子を見つめた。

「コーキマ?」そう言われても、何のことか分からない。

「ええ、コーキマの流刑地で脱走事件がありまして。詳しいことはまだ、城からも発表されてい

ませんが、噂では何か凄い化け物が脱獄に手を貸したという話もあります」

「そうなの・・・?」悦子には何か引っ掛かるものがあった。むろん、化け物という名を耳にし

たからだが、それ以上に何かがあることが予感でき、それが今回の訪問と関係があるような気が

していた。

「ところで、これからどうされます?いつまでもここにいたのではまたジリノーたちが現れるか

もしれません」ミーワがきいてきた。

「そうですね、どうしましょう。ジリノーたちからも逃げなきゃいけないし、それに、ここにい

る人たち以外にもトーセに来た私の仲間がいるので、探さないといけないんだけど」

「それならば、ひとまず城まで参りましょうか。我々が御案内しますから」

 悦子はしばし考えた。このまま、当てどもなく仲間や娘を探すこともできない。ジリノーたち

がうろついているし、この街を知っているのは自分だけだからだ。ます、城に行きジーケンイッ

トたちに助けを求めたほうがいいかもしれない。

「では、お言葉に甘えて、城までお願いします」

「そうですか、では、裏口の方へへ廻ってください。そこに、カウホースと荷台がありますから、

街を出るまで荷台の布を被っていてください。じゃ、案内してマーリ、私は出掛ける支度をする

から」

 マーリは外の様子を伺ってから安全を確かめると悦子たちを導いて、店の裏に廻った。そこに

はのんびり草を食べているカウホースが二頭いた。

 美砂たちは見たことのないカウホースという動物を目の当たりにして、やっとこの世界が自分

たちの世界でないことを認識し始めていた。

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このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください