このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

トゥリダンの逆襲

 

    第 八 章        旅 路 の 果 て に

 

         1

 

 伊藤を含め、ほとんどの者が大きな勘違いをしていた。現代社会に生きている彼らにとり、旅

と言えば車か電車、船か飛行機と乗り物に乗っていくものという当たり前の観念があった。だが、

このトーセにはそんな文明の力など存在しない。唯一の乗り物と言えばカウホースという生き物

だけで、それも、今回の旅では荷物運搬用として使われているのである。江戸時代の旅人ではあ

るまいし、ずっと自分の脚だけで旅路を進むということは、よく考えると途方もないことであっ

た。ジーケンイットたちは歩くのが当たり前という常識しか持っていないし、それなりに旅にも

慣れているので全く気にかけていないが、伊藤たちにとっては死活問題になりかねない。普段か

ら運動不足ですでに三十近くなっている面々にとっては、歩くという単純な動作にもすぐに疲れ

を感じる。一時間しか歩いていないのに、すでに一部の人間はへばってきた。ジーケンイットな

どは疲れたらカウホースの荷台に乗ればいいと言ってはくれたが、それをすぐさま実行に移すの

も少し情けない。今日一日ぐらいはなんとかなるだろうが、明日になれば当然筋肉痛という必然

的な現象が起こり、もっと大変だろう。探し求める竜玉がどこにあるかは分からない。ただ、手

元にある竜玉の導きに従うしかなく、その方向に向かえばいつかは巡り合えるのだろうが、それ

が明日になるのか何日もかかるのかは見当もつかない。できるだけ、早く見つかることを祈るし

かなかった。成り行きというか、勢いで竜玉探しに協力すると大見栄を張ったものの、先を考え

ずに行動する愚かさを悟った次第だ。だが、乗り掛かった船だ、いまさら後には引けない。とに

かく、見つかることを願いつつ前に進むしかなかった。

 

 ジーケンイットの隊には奈緒美が竜玉を持ち、ナイトとして藤井、伊藤、古井の三人が付いて

いた。惚けたり騒いだりと笑いだけには事欠かないグループであり、今のところは疲れを表面に

は出さないで、まだ喋り続けている。

「藤井さん、まだ昨日の酒が残っているみたいですね。少し酒臭いし、まだ、気分がハイみたい

ですよ」古井がずっと下らないことを言っている藤井に言った。

「そうか!今日の俺そんなに変か?そんなつもりじゃないんだけど。でも、昨日の酒は美味かっ

たからな、喜多満でも飲めない美酒というところか。で、ちょっと飲みすぎたきらいはあるけど、

何かこんな事態だろ、気分もハイにならなきゃやってけないぜ」

「まあ、そりゃ、そうですけど、脇田さんも呆れ返っていますよ」

「ワキター、何だ!そんなふうに思っているのか?」

「いえ、別に、そんなことは思っていませんよ。ただ、私は藤井さんのお話しをしっかり聞いて

いるだけですから」奈緒美は慌てて否定し、酔っぱらいの相手を自分に振らないでと言いたげに

ちらりと古井を見たが、彼は気付いてない。

「まあ、滅多に経験できない事だ、いろいろ見聞きするのもいいだろう。脇田も酒井への土産話

を作っておかなきゃな。まあ、帰ったところで信じてくれそうもないがな、あの頑な酒井じゃ」

「ええ、ゼッタイに信じてくれませんよ」さすが先輩だけあって夫のことをよく知っていると奈

緒美は感心した。

「それにしても、伊藤はやけに静かだな。お前も二日酔いか?」

 一歩後ろに下がって列に付いてきた伊藤は藤井に声をかけられ我に返ったような表情をした。

「えっ、何ですか?何か言いました?」

「おお、何だ本当にボーッとしてたのか?置いてきた悦ちゃんのことでも気になるのか、娘さん

のことも。やっぱお前もパパなんだな」

「いえ別に、どうせ、家にいても同じように二人のことはほったらかして、出掛けてますから、

変わりありませんよ」伊藤は少し強がりなことを言った。

「そうなのか?だめだぞ、そんなんじゃ。俺はちゃんと家のことはきちんとみている。男たるも

の家庭ぐらいはしっかり見なくてわな・・・」

「藤井さん、嘘ついたら駄目ですよ。そんなわけないでしょ」古井は横槍を入れた。

「んー、何だ、ばれたか?」

「分かりますよ。藤井さんと長く付き合っていれば」

「はっはっは・・・」と皆が笑っていた時、四人の側に見慣れない人物がするすると近寄ってき

た。「あれ、あなたは・・・、確か、城にいた女の子?」奈緒美が最初に気付き、伊藤は「ヒロ

チーカとか言ったね、確か。何でこんなところにいるの?」

「へっへっ、暇だったから、付いてきたの」ヒロチーカは四人を見上げて言った。「あのー、タ

ーニはどこですか?ターニなら後ろにいると思ったのに、いないから。先頭にいるのですか?」

「ターニ?ターニさんなんか、ここにはいないわよ。ターニさんは別の隊を率いて違う方向に行

ってしまったのよ」奈緒美が不思議な顔をして答えた。

「えっ、ここはターニの隊じゃないんですか?じゃ、誰が・・・コトブーおじさん?・・・もし

かして、ジーケン様?!」ヒロチーカは急に形相を変え、歩調がのろくなり、どぎまぎしだしたが、

時既に遅しであった。

「ヒロチーカ、何でこんなところにいるんだ!」ジーケンイットがヒロチーカの後ろから怒鳴っ

た。「何か、後ろの方で聞き覚えのある女の子の声が聞こえるなと思って見に来たら、お前とは、

どういうことなんだ?」

「いえ、その・・・、ちょっと、旅のお供でもしょうかなとか、思って・・・」ヒロチーカはも

じもじとしおらしく言った。

「うんー、あれほどもう男の子の真似はやめろと言ったのに。最近はおとなしく習学しているか

と安心していたが、まだ男の子気分を捨てていなかったのか?」

「別に・・・、男の子の気持ちじゃないんですけど、最近あんまし、こういったことしていなか

ったから、たまにはと」

「だがな、我々は遊びに行くのではないぞ。竜玉を探すという大事な目的があるのだ。昔のよう

な街巡りとは違う。今、すぐにでもここから城に帰りなさい」ジーケンイットは叱りつけるよう

に言った。

「やだよ、おいら、一緒に行きたいよ」

「駄目だ、帰りなさい」

「・・・・・」ヒロチーカは少し涙目になってきた。こう言った点だけは女の子らしくなってい

た。

「王子さん、横から口を挟むのは何ですけど、別にいいじゃないですか?もう、ここまで来てし

まったんだし、今から帰れって言うのも酷な気がしますが」藤井がみかねて言葉を添えた。

「フジイー、しかしな、ヒロチーカが加わるといろいろ迷惑がかかる気がするんだが。この子は

結構おてんばで向こう見ずなところがあるから、何をしでかすか分からないしな」ジーケンイッ

トは眉をしかめて、口をへの字に曲げた。

「私たちなら別に迷惑とは思っていませんよ。女は私一人しかここにはいないから、ちょうどい

いんじゃないですか?それにヒロチーカちゃんがいれば楽しいかもしれませんし」奈緒美もヒロ

チーカを庇おうと助言した。

「そ、そうですよ。お姉ちゃんの言うとおりですよ。それに私、おとなしくしていますから、食

料も私の分は自分で持ってきましたし、お願いしますよ」ヒロチーカは強い味方が加わったと思

い、懇願した。

「分かった、分かった。しょうがない子だな。いいか、皆の迷惑になるようなことは決してしな

いと約束しろ。それが守れるなら、一緒に付いてきてもいい。いいな」ジーケンイットもついに

折れた。

「はい、約束します」と、さっきのなきべそはどこかに飛び去り、笑みを浮かべた。

「良かったな」と、藤井がヒロチーカの頭を撫でると、「ありがとう、お兄ちゃん」と、藤井に

抱きついた。

 ジーケンイットは諦め顔で前に行こうとした時、ヒロチーカは小さくつぶやいた。「もう、フ

ーミ様め、後でとっちめてやる」

「ヒロチーカ、今フーミのこと言ったか」とジーケンイットが振り向いたので、ヒロチーカは慌

てて「いえ、フ、海まで行くのかな、とか思っただけです」と適当に誤魔化した。

 

 ヒロチーカが本当は付いていきたかったターニは列の後方で一人歩いていた。先頭には警備隊

のエーグがいる。彼は警備隊の中でも優秀な兵士であるので、ターニは彼に任せていた。ターニ

にしてみればいつもジーケンイットの後ろを歩いてきた身だから、後方の方がどことなく性にあ

っている。ターニの隊には青山と土田、美砂と史子がおり、竜玉は史子が握っていた。

 美砂は、昨日竜玉が光らなかったことが悔しいのか、時々史子からそれを借りては光れと念じ

ていた。しかし、史子が握っているときは微かながらも淡い光を照らしだしているのに、美砂が

握った瞬間竜玉は光を放つのをやめ、冷たい石に戻ってしまう。

「どうして、私が握ると光らないの?変よこの石、絶対に変よ」美砂は頭に血が登ったように不

平を吐いている。

「松浦さん、そんなに興奮したら光るものも怯えて光らないじゃないですか。そういうものはデ

リケートなんですから、もっと優しい気持ちで接しなきゃ」土田が慰めにもならないことを言っ

た。

「分かっているわよ。でも、この玉、きっと差別しているんだわ。でも、私と史ちゃんのどこが

違うって言うの。口があるんだったら聞いてみたいわ」

 似ているところを探す方が難しい気がしたが、鉄拳の恐怖に苛まれるのにはこりごりしている

土田は口にするのをあえて我慢した。

「まあ、松浦、そう気にするなよ。このグループに加わったのも、男手が足りないんでだろ。本

来の目的が違うんだから、いいじゃないか」青山はそう言ったが全然、美砂の気持ちを落ちつか

せる気が無いようだ。

「青山さん、それ、どういう意味ですか。青山さんでも承知しませんよ」美砂はギロリと青山を

睨んだ。

「わ、悪かった。俺が謝る。殴るならツッチーにしてくれ」青山は両手を上げて、美砂の行動を

止めた。

「青山さん、僕に振らないでくださいよ。こうなったら、ターニさんに頼んであの大きな楯を借

りてこなくちゃならなくなるじゃないですか?」

「うーん、確かに。あれなら、松浦の鉄拳も防げるかも。竜の炎も跳ね返すんだからな」

「青山さん、本当にいきますよ」松浦の両拳はすでに振るえていた。

「わ、悪かった。俺が謝る。そんなに怒ると魔女が現れたと思ってターニさんが飛んでくるぞ」

「・・・・・・」

「青山さんも土田さんもいいかげんにしたらどうですか!」史子が呆れて言いだした。「そんな

に女性を苛めると、ろくなことになりませんよ。ターニさん見たいに少しは静かにしていたらど

うです」

「はい、確かに。少し悪のりが過ぎました」と土田が最初に謝った。

「まあ、冗談だよ、冗談。でも、史ちゃんはターニさんみたいな人がいいのかい。今の口ぶりは

そんなふうに聞こえたけど」青山はすぐに違う話題をぶつけた。

「はあ?そういう意味で言ったんじゃないんですけど・・・。でも、ターニさんみたいに無口な

人も素敵だと思いますよ。私の周りにはうるさい人しかいませんから、特に今回の出来事に関し

ては」

 そう言われると青山も返す言葉がない。「史ちゃんは、彼みたいな寡黙な人がいいんだ。なら、

俺もしばらく黙っていようかな」

「青山さん、無理なことは言わないほうがいいですよ。別に寡黙だからっていい人だとは思いま

せんし、ターニさんにはどこか他の人とは違う雰囲気みたいなのが、あるようですから」史子は

自然に感じたままを言った。

「そうね、史ちゃんの言っていることは何となく分かるわ。私も本当は王子様の隊に加わりたか

ったんだけどね。ターニさんが一緒に行くと昨日決まって少し、残念だったわ。でも、ターニさ

んも結構恰好いいし、王子様じゃないけど、少しワイルドな魅力を感じるわね。王子様とは違う

感覚で憧れるタイプかも」美砂も史子の意見に同調した。

「そういうもんですかね、青山さん」土田には女の気持ちが分からないという面持ちで青山に言

った。

 青山は、「んー、俺は寡黙だからそのことに関してはノーコメント」と、ターニになりきって

いた。

 

 佐藤と前沢は祐子と美香と共に歩いていた。こちらでも話は先頭を行くコトブーのことになっ

ていた。

「俺たちの隊はコトブーさんか、美香さんたちにとっては、王子さんじゃなかったから、残念だ

ったね」佐藤はコトブーには聞こえない程度の声で言った。

「そんなこと言ったら失礼よ、私たち別にそんなこと思っていないわよ」美香は平然と答えた。

「それに、あなたたちの方が、ヒヨーロさんがいなくて残念がっているんじゃない」祐子が的を

得たこといい、佐藤たちもわざとらしく視線を逸らせた。「本当に、二人とも妻帯者か恋人持ち

でしょ、ちょっと離れているからって、すぐに他の女の人に目が行ってしまうんじゃねー、やっ

ぱ男だわ」祐子は辛辣な言葉を続けた。

「いえ、そんな・・・」二人の男はますます身を小さくし、隊の選択を誤ったかと悟り始めた。

だが、思わぬ好機が巡ってきた。

 コトブーが隊の先頭からゆっくり下がってきた。

「どうかしました?」前沢が尋ねると、コトブーは険しい表情で答えた。

「誰か俺たちを付けている者が後方にいる。さっきから、気配を感じるんだ。あなたたちはそし

らぬ様相を保っていてくれ、俺は少しずつ背後に廻って、そいつを捕まえる」コトブーは前を見

たまま、周りの美香たちに話した。

「ええ、分かりました」美香たちは少し緊張した面持ちで、歩くことを続けた。

 コトブーは徐々に隊の横にずれていき、歩調を微妙に遅くしていった。それと同時に背中に携

えている弓と矢にゆっくりと両手を持っていき、それらをつかんだ瞬間、後方に翻って素早く矢

を放った。矢は一直線に飛び、数バルク後ろの木の幹に突き刺さった。その瞬間、「キャー!」

という女性の悲鳴が聞こえ、佐藤たちもついつい振り返ってしまった。

「誰だ、そこにいるのは!分かっている、出てこい!」コトブーは恫喝した声で言った。

 しかし、矢が当たった木の影から出てきた女性を見て、コトブーは驚いた。

「王女さんじゃないか、一体こんなところで何をしているんだ」コトブーは隊を止め、彼女のと

ころに近寄り、佐藤たちも随行した。

「コトブー、びっくりさせないで、いきなり矢を放つなんて、もし当たったりでもしたら、どう

するの!」フーミは驚いたあまりに涙が出そうになっていた。

「俺は当てるつもりなどない。そんなやわな腕じゃないからな。それに、そちらがこそこそと後

ろから付いてくるのが悪いじゃないのかい?」

「そ、それは、ちょっと、急には出づらかったから、様子を見ていて機会があったら行こうかと

・・・」フーミはしおれた表情になっていた。

「でも、どうして我々のところなんかに来たのだ?これから竜玉を探しに行くというのに。それ

を承知で来たのか?城には何て言ってきた?ははん、どうせ、城の者には何も言わず、こっそり

出てきたんじゃないのか?昔のジーケンイット見たいに」コトブーは図星なことを言い、フーミ

は返す言葉がなかった。

「全く、ジーケンイットもジーケンイットなら、王女さんも王女さんだな」

「コトブー、いいじゃないの。たまには私もこうして外の世界を眺めて見たかったのよ。城の者

にはそれは・・・、何も言ってないわ。言えばきっと反対されるに決まっていますから。でも、

こんなことしているのは私だけじゃないし、食料も自分で持ってきましたから、心配しなくても

大丈夫です」フーミは王女である威厳を取り戻し、気丈に振る舞った。

「あなただけじゃないって、ははー、そうか、ヒロチーカのやつもきっと他の隊にくっついてい

ったんだな。しょうがない子だ。・・・んー、分かったよ、別に俺は王女さんがついてこようが

何とも思わないが・・・、あんたたちはどうなんだ?王女さんが一緒に付いてきても構わないか

い?」コトブーは美香たちに尋ねた。

「ええ、別に構いませんけど。王女様のような方でしたら一向に、それに・・・」美香は佐藤た

ちをちらりと見た。

「はい、僕らも構いませんよ。旅は大勢いたほうが楽しいですしね、真野さんたちも女性が少な

いんでは可愛そうですから、ねー、前ちゃん」佐藤は嬉しそうに言葉を発し、前沢も「はい、は

い」と佐藤の意見に賛成していた。

「それじゃ、皆の意見もそろったことだから、仕方がないな。まあ、気を付けてくださいよ。そ

れと、一様はトーセの王女なんですから、それなりの気品は保つように、旅先では城みたいには

いかないですからね」コトブーは皮肉とも言える口調で言った。「では、行きましょうか」

 コトブーは隊の先頭に戻り再び進行を始めた。

「皆さん、どうぞ、よろしく」フーミは笑顔を振りまいて佐藤たちの中に入った。

「いえ、いえ、こちらこそ。『旅は道連れ世は情け』といいますから?」と佐藤は言ったが、日

本の諺を言ってもフーミには分からなかった。

 

         2

 

 三つの隊がそれぞれの旅路を進んでいるころ、城では残った悦子と浩代と枡田、そして、美沙

希が午後のお茶に呼ばれていた。

 午前中、四人はノーマの案内で城の中を見学した。政務省から、元軍務省の省舎や街の代表者

たちが集まって行われている議会など王室以外のところを見て廻ったのだ。悦子も前回来た時は

いろいろ騒ぎに巻き込まれたためにゆっくり城を見学する時間などなかったので、今回はのんび

りと、城中を見て廻り、あらためて発見することも多かった。特にトーセの掟の象徴として残さ

れている塔、生贄にされる女性がその日まで閉じ込められる塔を見た時には、胸が締めつけられ

る思いであった。多くの若き乙女がこの塔の中で悲しみにふけ、恐怖に怯え、死を待った。今は

全く使われていないこの建物はどこか寂しげで、悲しさが漂っていた。それとともに女性たちの

怨念もたちこめている感じがして、悦子は少し背筋が寒くなる思いもした。浩代たちはトーセの

掟を実感していないからあまり感慨深げには見ていないが、最後の犠牲者になろうとしたリオカ

のことを知っている悦子にとっては、トーセの表と裏を見せられたようで、辛い気分にもなって

いた。

「ノーマさん、この建物はずっとこのままにしておくのですか?」悦子がたまらずノーマに尋ね

た。

「はい、確かにこれが残っていることによって辛い人もいるでしょうが、ジーケンイット様の意

思とされましては、これを永久に残しておくおつもりなのです。あのような悲劇を二度と繰り返

さないことへの戒めなのでしょう。将来において、あのようなことを繰り返さなければいけない

事態、つまり、街の人々を犠牲にしてまでも王家を継承するような愚行は決してしてはならない

というジーケンイット様の決意の表れなのです。人があっての街であり、街があっての王家であ

ることをジーケンイット様はお考えなのです」

「そうなのですか?こんなことを言うのも恐れ多いかもしれませんが、ジーケンイット様は随分

ご立派になられたのですね。五年という歳月においてこうも変わられるとは思ってもいませんで

した」

「確かにエツコさんの仰る通りです。私の目から拝見しましても、ジーケンイット様は本当に変

わられました。どこの街の王朝にもいる王子とは違い、まさに名君となられる方だと私も思って

おります」ノーマは控えめだが、自分が仕えている君主のことを話す事に、誇りを持っているよ

うだった。

「それに、お変わりになったといっても、ジーケンイット様が本来持ち合わせている優しさや勇

気は一向に変わってませんね。そこがまた素晴らしいところで、尊敬できる方です」悦子は素直

な感想を述べた。ジーケンイットの成長は悦子にとっても嬉しいことであった。

「それも、これも全てはエツコさんのお陰だと私を含め、五年前の出来事を知っているものは常

々思っております。あの時にエツコさんがいらっしゃらなかったら、今のトーセは存在していな

かったかもしれません。今こうしてトーセが発展していることもエツコさんあってだと・・・」

「ノーマさん、そんなふうに言わないでくださいよ。別に私はそんな大それたことしたわけでも

ないのですから」悦子は照れて、ノーマの賛辞を消そうとした。

「悦ちゃんって、この街の人にとっては本当にすごい人みたいね。ノーマさんもそうだけと、王

子さんまでもが頭を下げるぐらいなんだもん」浩代はノーマの言葉に続いて、悦子をに言い寄っ

た。

「ワンさんまでも、そんなこと言わないでよ。たまたま、私が来ただけであって、もしかしたら、

ワンさんや枡田君がその時に来たのかもしれないのよ。単なる偶然の重なりよ」

「そうですかね、山田さんだったから出来たことじゃないんですか?秋山さんは、まあ、別とし

ても、他の人がもし来ていたら、そんなうまくいかなかったと思いますけど」今度は枡田までも

が言いだし、悦子は返す言葉もなくなってきた。

「じゃ、ノーマさん、おなか空きません?そろそろ、お昼にしましょう。この子も多分そうでし

ょうから」と子供のせいにして、その場を離れようとした。

 

 今は、リオカに呼ばれて王室の客間にいた。ノーマとミヤカが午後のお茶と、デザートになる

ケーキのようなパンを運んできた。悦子たちが入ってきた時、部屋にはリオカとヒヨーロ、そし

て、リオカの息子ミーユチッタがゆりかごの中にいた。客間は質素で清潔感漂う白が基調の気持

ちが落ちつく内装で、旅に出た者には味わえない悠々な思いであった。運ばれたお茶は以前悦子

が飲んだことがある、葉は紅茶に似ているがコーヒーをブランデーで割ったようなまろやかな味

のもので、浩代と枡田も気に入ったらしく、コーヒーのCMの味の分かる男みたいな顔をしてい

る。美沙希は悦子に細かく崩してもたっらパンをほおばりおいしそうにしていた。

「この子がリオカさんのお子さんですか、可愛らしいですね。でも、男の子ですか?もう、何才

なのですか?」悦子はついついきいてみたくなった。

「はい、男の子で名前はミーユ、ミーユチッタといいます。まだ、一才にも満たないですけど」

「ジーケンイット様も男の子が産まれたことで喜んでおられますわ。跡継ぎができたことで、ト

ーセの街の安泰も間違いありません」ミヤカは自分のことのように嬉しそうに言葉を添えた。

 浩代も見てみたくなり、ゆりかごに寄った。「本当、可愛らしいお子さん。さすが美男美女か

ら産まれてくる子は違うね」

「ワンさんも、お子さんがいらっしゃのですか?」リオカは浩代に尋ねてみた。リオカは浩代の

ことを『ワンさん』と呼んでいるが、皆がそう呼んでいるため、そういう名前なのだと思ってい

るらしい。浩代もそう呼ばれたところで別に気にしていないので、そのことには何も言及しなか

った。

「はい、故郷の方で預けて有りますけど、一人います」

「やはり、そうですか。お姿を拝見していてそうではないかと思っていました。母親になると、

誰が母親で誰がそうでないかすぐに分かるようになりますね、母性というものは不思議ですわ」

「そうですね、子供が産まれたことで自分の人生というものは全く変わってしまいます。結婚と

言うものももちろん、そうですが、女が母親になり母性に目覚めるということはとても大きな事

だと思います。それは女にしか分からない事かもしれませんが・・・」悦子は母親になったこと

の感想を自然に述べていた。

「エツコさんの仰ることはよく、分かります。子供ができたことで自分自身も変わりますが、ま

た、家族というものも大きく変わるものですね。子供が産まれたことで本当の家庭というものが

できたのだと思います。ジーケンイット様もミーユの誕生でまた、変わられましたから」

「ええ、そうですね・・・」悦子は昨日の伊藤との会話を思い出していた。子供が出来たことで

確かに家庭と生活は変わった。しかし、夫自身は全然変わっていない。悦子はそのことを無意識

に表に出していたのだろうか、その事が伊藤にあんな考えを生み出させていたのだろうか?伊藤

だけが変わっていないことが、逆に悦子が変わってしまったと伊藤は錯覚しているのかもしれな

い。

「ヒヨーロさんはまだお子さんを作らないのですか?」枡田は話のついでとヒヨーロに振ってし

まった。

 急にそんなことを言われて、ヒヨーロも戸惑ってしまった。「いえ、私はまだ結婚もしていま

せんし、そのような予定もありませんが」

「枡田君、それは失礼よ」浩代は枡田の言葉に怒った。

「あっ、いえ、すいません。ちょっと、口が滑って・・・」枡田も申し訳なさそうにしてお茶を

すすった。

「いえ、マスダーさんの言われることにも一理あります。ヒヨーロさん、コトブーさんとの事、

そろそろきちんとした方がいいのではありませんか?」リオカもここぞとばかりにヒヨーロを問

い詰めた。

「はあ、それは・・・、そうですが・・・。コトブーがそのー・・・」

「分かりましたわ。コトブーさんの方がはっきりしないのですね。あなたにはそれなりの気持ち

があるのに。んー、コトブーさんでは難しいかもしれませんね。あの人はそう言った面では不器

用な人かもしれませんから。ヒヨーロさん、なんなら、ジーケンイット様かターニさんを通じて

コトブーさんのことを探ってみましょうか?」

「いえ、いいんです。そんな、まだ、慌てていませんし、今は一緒にいれればそれだけで」ヒヨ

ーロは恥ずかしそうに言って断った。

「分かりました。もうしばらく様子を見させてもらいます。ただ、なるべく早く決めてください。

ヒヨーロさんもお子さんは欲しいのでしょう?」

「は、はい」彼女は小さくうなずいた。

 その時、客間の扉をノックする音が聞こえ、リオカが「どうぞ」と声を掛けると、執事長であ

るシーラが顔を覗かせた。

「失礼いたします。あのー、こちらにヒロチーカはおりませんか?」恭しくシーラが尋ねた。

「いいえ、ヒロチーカはいませんけど、今朝から全然見てませんわ。午前中は習学の時間ではな

かったのですか?」

「はい、それが、ヒロチーカは本日全く出ていないのでございます。それで、先程から講師の方

に探すよう言われているのですが、城のどこを探してもおりませんので・・・」

「それは、変ですね・・・」

「リオカさん。もしかしたら、ヒロチーカ、竜玉探しに付いていったかもしれませんね。あの子

昨日から妙にそわそわしているというか、どこか変だった気がするんですが」悦子が過去を振り

返ってそう思いついた。

「そうですね、その可能性はあるかもしれません、あの子、最近誰も構って上げてませんから、

外に出ることも無くなってきましたし・・・」

「あのー」シーラがまだ何かあるような言いぶりで話を割った。「実はフーミ様の姿も今朝から

拝見していないのですが・・・」

「あらっ、フーミ様もですか?まさか、フーミ様までも・・・」悦子は今度は驚いた。

 しかし、リオカは落ちつきはらって言った。「そういえば、朝食の時からお目に掛かっていま

せんね。お茶にお呼びするようミヤカにも言ったのですけれど、お部屋にはいらっしゃらなかっ

たので変だなとは思っていたのですが・・・。すると、それも可能性はありますわ。何て言った

って、フーミ様はジーケンイット様の妹様ですから」

 その言葉に悦子も納得してしまった。

 

 シンジーマーヤとアズサーミの前にはシーラとテムーラがひかえた。フーミとヒロチーカのこ

とはすぐにでも城中に広まっていった。

「申し訳ありません。私の責任です。ただ、まさかフーミ様が出掛けられるとは私も思っており

ませんでしたので」テムーラは深く詫びた。

「まあ、お前の責任ではない、それほど気にはするな。しかし、ヒロチーカなら分からないでも

ないが、フーミもとは・・・、ジーケンイットの妹だけはある」シンジーマーヤは苦笑してみせ

た」

「誰に似たのでしょうかね」アズサーミは王の方を横目で見て吹き出した。

「んー、それはどう意味かね。アズサーミの血も半分はあるのだが・・・?」

「それは、失礼しました」アズサーミは笑顔で頭を下げた。

「それでは誰か警護の者を使わせましょうか?」シーラがいつもの無表情な顔で尋ねた。

「いや、それはいい。どこの隊に行ったのかは分からないが、ジーケンイットなりターニなりが

いるから心配はないだろう」

「はい、承知しました」

「シンジーマーヤ王、フーミ様はどうやってこの城を出たのでしょうか?どの門からもそのよう

な気配はありませんでしたし、やはり、以前からジーケンイット様が使われていた秘密の通路を

通り抜けたのでしょうか?ヒロチーカもいなくなっている事から判断してもそれが濃厚と思われ

ますが・・・。いまだに私はその抜け道を見つけられないのですが、一体どこにあるのでしょう

か?」テムーラはジーッと王を見つめた。

「さあ、私も知らないな。ジーケンイットにも聞いてみたことがあるのだが、絶対に教えてくれ

ないのでな」実はその抜け道はこの部屋の一部の壁に隠されている。元々は城に不測の事態があ

った時の抜け道であったが、そのことに利用されることもなくなり、今は誰もその存在を知らな

い。ただ、王だけは先祖代々そのことを知らされ、シンジーマーヤもジーケンイットに教えてい

たのだが、フーミまでもが知っていたとは驚きであった。

「ひとまず、このまま見ておこう。今はトーセにとって大事な時だ。あらぬことで騒いでいては

いかん」王はそう言って二人を下がらせた。

 二人が部屋から去り、シンジーマーヤも自室に戻ろうとした時、アズサーミが真顔で尋ねた。

「シンジーマーヤ王、あの事はもうお決めになりましたか?」

 立ち上がった王は、王妃を見つめた。「ああ、むろんだ。今度の事が解決すれば何もかもおさ

まるというものだ。もう、私の時代は終わった。あとはジーケンイットに任せる。アズサーミに

は異論があるのか?」

「いえ、私にはございません。ただ、これからのあなた様との生活をどうすればよろしいのかと

ふと思いまして」

「何だ、もうそこまで考えているのか。まあ、気長に考えればいいことではないか?」

「そうですわね」

 シンジーマーヤ王はアズサーミの手を引き、部屋に戻っていった。

 

         3

 

 秋の伊良湖岬は夏とは違う賑わいを見せる。夏には広大な太平洋と海の幸に溢れる伊勢湾を眺

めに多くの人間が集まる。恋路が浜には家族連れやカップルが波と戯れ、鳥羽に向かうハイカー

はフェリー乗り場に群がる。

 秋にもむろん観光シーズンとなれば人が集まり、観光地としての渥美半島は休む暇もない。だ

が、この時期、人間様よりも多くの方々がここを訪ねる。それは、冬を南洋の島で暮らす渡り鳥

たちだ。南下する渡り鳥たちはこの渥美半島上空を通って海を超えていく。詳しいことは分から

ないがこの伊良湖岬には上昇気流のような空間があり、鳥たちは大地の上を飛んできてから、こ

こで一服、そして、海を超えるためにその気流に乗って上空に舞い上がっていく。

 そんな光景が毎年のように秋から冬に掛けて見ることができた。だが、今年は少し違っていた。

それは地元の人でも見たことのない異様な現象だった。秋晴れの青空の筈である空はまるで日食

のように暗くなっていた。無数の鳥の群れが空を覆い尽くし、太陽の光は疎らにしか地上に届か

なかった。まるで、ヒッチコックの「鳥」かスティーブン・キングの「ダーク・ハーフ」を見て

いるかのような錯覚に陥る。これだけ多くの鳥が群れを成して飛んでいくのはなぜなのか?これ

だけの鳥が日本にいたというとは有るかもしれない。しかし、渡り鳥たちは順番を待つように小

さな群れを作って、少しずつ旅立っていく。だが、今の鳥たちはその日本中にいる全ての鳥が一

気にここから去ろうとしている、離れようとしているとしか見えなかった。その大群が海に去り、

太陽を拝むことができるようになると、鳥の姿は一羽も現れなくなった。それは、鳥たちが何か

を察知して大地を見放そうとしているようだった。

 

 トリオシステムプランズの月曜日の朝は毎週朝礼が行われる。今日もいつもと変わらぬ週の始

めを迎えようとしていたが、その日はいつもと違っていた。八時四十分になって七階に社員が集

合したが、普段より心なしか人が少ない。そして、八階から降りてきた社長たちの表情を見てか

ら、何かあったのだなということが誰にでも看破できた。

 木下社長は今朝もいつも通り出社してきた。月曜日だという思いもなく普段通りの早い出社だ。

八階に総務部の女子社員がすでに朝当番として、机などを拭いていた。「お早う」と挨拶をして

自分の席に付いたとたん電話がなった。今年入ったその新入社員の女の子は慣れた動作で電話を

取り、総務部らしい語り口で応対した。

「社長、竹内さんという方からお電話ですが?」

「竹内・・・?」木下は一瞬考えてからすぐに思い出した。木下にとって決して忘れることので

来ない元社員の一人だ。「ああ、竹内君かな。でも、何だろう?とにかく、まわして」木下は電

話の転送をしてもらうとすぐに受話器を取った。

「はい、木下ですが」

「あっ、どうも、私、以前そちらに勤めていた竹内と申しますが・・・」

 木下は声を聞いて自分の推測を確認した。「はい、竹内君ね、これはお久し振り」木下にとっ

て竹内正典という男は生涯出会った中でも突出した人物だった。このトリオシステムで起こった

様々な事件に関わり、それを解決した男だ。数年前の専務殺害事件を始め、乗鞍の偽装心中事件、

福島での社員拉致事件、それに、忌まわしい事件であった知多半島の事件など、どれも竹内の存

在が大きく事件解決に作用していた。これほどいろんな事件が起きる会社も希有であるが、その

会社に竹内のような男がいたのも希有以上の偶然の賜物であった。竹内がいなければ、今のトリ

オの存在もなかったかもしれない。むろん、バブル崩壊後、ソフトウェアー業界全体が不景気に

落ち込み、トリオにおいてもそれは例外ではなかった。人員整理や経費削減など種々の改革を行

い、なんとか消滅の危機だけは避ける事ができたが、竹内がもしトリオにいなければ、それ以前

に数々の事件の影響で信用と功績を失い、失墜していたのは間違いない。それを救ってくれたの

が、竹内なのだ。具体的に彼がどう事件に関わり、どう解決したかそれは木下も知らない。竹内

自身、それを自慢げに話したこともないが、 竹内がそれらに寄与していたことは重々承知してい

た。これという感謝も出来ず、竹内が退職する時は偲びなかったが、バブル崩壊期であり、また、

竹内の人生を無理に止めることもできなかった。だが、竹内という男の存在だけは決して忘れる

ことはなかった。

 その、竹内から電話だ。しかも、こんな朝早くに掛かってくるとは、様々な実績があるだけに

木下は少し不安な思いにかられた。

「どうも、御無沙汰してました。もう、辞めてから三年ぐらい経ちますけど、覚えててくれまし

たか」

「ああ、もちろんだとも、竹内君のことを忘れようなどとは無理な話だ。君は会社にとっても私

にとって、大きな存在だったからね」

「いえ、そんなにまで言われるほどのことはしていないんですけど」竹内は照れくさそうに言っ

た。そういった面は変わってないと木下は思えた。

「ところで、今日は何なのかね。こんな朝早くから電話とは・・・?」

「ええ、実はですね・・・」竹内の声がトーンダウンしだしたので、木下も気になり始めた。

「あのー、警察の方からはまだ何も連絡は無かったのですか?」

「警察?」竹内の口から、”警察”とう言葉を聞くと、木下でもドキリとする。また、誰かトリ

オの人間が事件に巻き込まれたのか、それとも何かをしでかしたのか?木下は少し緊張した面持

ちで答えた。「警察からは何も連絡などは無いけど、何かあったのかね?」

「そうですか、まだ、警察からは・・・。あのですね、先週の土曜日、私がいたころのトリオの

社員の人たちが久し振りに集まったんですよ」

「ああ、それは知っているよ。藤井君か誰かが、そんなようなことを話していたのを人伝に聞い

たから」

「それで、その席で不可思議なことが起こったんです。木下社長にはちょっと理解できな事かも

しれないのですが・・・」

「うんー?それはどういうこかね、いいから話してください」木下はもったいぶる竹内の話し振

りに少し苛立った。

「はい、ですから、その酒の席に出席した全員が消えてしまったんです。跡形もなく」

「消えてしまったって、それはどういうことなのかね、透明人間じゃないんだから、人間がそう

簡単に消えるのかい」木下は竹内の予想通り理解に苦しんでいた。

「ええ、ですから、文字通り忽然と消えてしまったんです。私は遅れてその場所に行ったのです。

ちょうど同じように遅れてきた荻須さんと店の前で会って二人で入ろうとしたんです。その時、

部屋の中で何かが起こり、次の瞬間私たちが部屋に入ったら、誰もいなくなっていたんです」

「つ、つまり、本当に彼らが消えたと、何らかの理由で失踪したということなのかね」

「はい、ただ、私が考えるところでは彼らの意思で消えたわけではないようです。そういったこ

とは考えられませんし、現場の状況から言っても不可能です。ですから、何らかの要因で皆はそ

の部屋から消えてしまったと思うのですが、私にも本当のところよく分からないんです」

 竹内に分からないことが木下に理解できるはずもない。だが、人間が消えてしまったことは事

実として受け入れなければいけない現状であることは木下にも分かり始めていた。

「それで、その消えたメンバーの中に、今でもトリオに在籍している藤井さんや、古井君、枡田

さんや前沢君もいるので、彼らが今日会社に現れないだろうということの説明をしたかったので

す。多分、もうすぐ、彼らの家族の方からも連絡が有るとは思いますが、私や警察からの説明で

もこの現象を理解されていない方が大半ですので、その方たちから木下社長が話をきかれても余

計理解できなくなると思いまして、こうして私が先に連絡しようと思ったわけです」

 木下は渋い表情で薄くなった髪を頭になでつけた。「なるほど、そうですか。確かに今の話を

家族の方からさても、会社を休むために訳の分からない事を言っているのだろうとしか、判断で

きないだろうね。こうして、竹内君から先に説明があったことはよかったかもしれない。ただ、

私も全部が全部理解できた訳ではないが」

「ええ、それは構わないのです。とにかく、今日来ない人たちがいることを、それも、彼らのせ

いでないことを知らせておきたかっただけですから」

「んー、それじゃ、消えてしまった人というのは藤井君たちだけじゃないのかい?」

「ええ、そうです。あとは、青山さんや桑原さん、伊藤君や山田さんに、松浦さんや土田君など

全員で十五人とそれから伊藤君の娘さんです」

「えっ、そんなに多くの人が・・・」木下はショックだった。どの名前も懐かしくも印象に残っ

ている人たちばかりの名だった。社長とは言っても、名古屋本社では総勢五十名もいない。社員

の一人一人のことを把握できるほどの中小企業であるから、大抵の社員のことは覚えている。特

に、今名前の上がった面々は仕事の業績においてはもちろん、会社の中での活動も目立ち、個性

的な者ばかりで去っていってしまった今でも、鮮明に記憶に残っている。社長という地位にあり、

仕事や会社の関連で多くの人間と出会い親交を保つが、やはり自分の会社の社員の事が一番気に

なる。現在、彼らがどこで何をしているのかは分かりようがないが、今でも元気に生活していて

くれるならそれで木下は充分であった。風の頼りでその社員同士が結婚したなどと聞くと、父親

のように嬉しかった。だが、竹内から聞かれた話はその思いをも打ち崩されるような衝撃である。

「とにかく、有り難う。その話を知らせてくれて。竹内君には感謝するばかりで、何もしてあげ

られなくて申し訳ない」

「いえ、いいんです。まだ、この事がどういう展開になるかは皆目見当も付きませんけど、私は

私なりに調べて見たいと思います。警察の方には私の方から知らせてあります。もしかすると、

そちらの方にも電話があるかもしれませんが、担当はあの時の筒井警部ですので、何とかしてく

れると思いますよ」

「筒井警部ね」木下にとっても苦い思い出を湧き起こす人物の名だ。

「それでは、また、何か分かったり、消息が判明しましたら、木下社長の方にも連絡をいれます

から、それほど心配をしないでください」

「はい、分かりました。いや、本当に有り難う。それでは、また、何かあったらよろしく頼みま

す」木下は静かに受話器を置いた。

 神妙な顔つきに総務の女の子に「どうかされましたか?」と声を掛けられたが、木下は「ああ、

何でもない。何でもないんだ。そろそろ時間だな」と独り言のようにつぶやいた。

 時計は八時半を指し、階下から野尻部長、早野部長、水野課長が上がってきて、同時に是洞部

長が出社してきた。今から朝の会議である。竹内から聞いたことをどう説明するか、さすがの木

下も言葉を失ってしまった。

 

 朝礼はいつものように一般社員からの話で始まり、次に管理職の話しに進行していった。今日

は野尻の番であったが、急遽木下社長が話をすることになった。

「お早うございます。今日は朝から少々話しづらい事をお伝えしなければなりません。気付かれ

た人もいるかと思いますが、今日は藤井君や月曜日には会社に来る古井君などがいません。ただ、

彼らは休みを取ったわけではないことを分かってもらいたいのです。さきほど、ある人からその

ことについて連絡がありました。彼らを含め、また、前沢君や枡田君も、そして、まだ一二年目

の人は知らない、以前ここの社員だった人たちが突然姿を消したということです」

 今日はたまたま、白井孝好と和田健一が朝からここにいた。白井はトリオの中でも管理職につ

ぐ古株であり、木下が言ったことに何かピンと来るものがあった。白井は美香からお誘いがあっ

たものの、その日用事があったので出席はできなかったのだが、土曜日に昔の仲間たちが飲み会

を開いたことを知っていた。何があったのだろう?白井は不安と好奇にかられた。

 和田も白井と同じ様な思いであった。美香からのお誘いは和田と妻で元トリオの社員であった

千尋にも来ていたからだ。二人とも土曜日は実家に用事があったので出席できなかった。和田は

中途採用だったので白井よりも年上であったが、同期には佐藤や枡田などがいた。彼らが出席す

るということはきいていた。和田にとっても捨てておけない話であった。

 木下の話は続いた。「何があったのか、なぜ姿を消したのか、その点については分かっていま

せん。私もその人の話を聞いただけではよく理解できないような話でした。しかし、彼らがいな

くなった事だけは事実のようで、その事を皆さんにお知らせするかは逡巡しましたが、ひとまず、

事実だけはお伝えすることにしました。このことは今のところ公にはなっていないようで、警察

のほうもまだ、本格的な捜査をしていない模様です。何分、状況というものがつかめていない状

況であり、誰も事の真意を分かっていない事だからです。皆さんも心配だとは思いますが、しば

らくは事の成り行きを見てもらうしかありません」

 木下は一息ついて、事務所にいる全員を見舞わした。「皆さんも知ってのとおり、この会社で

は過去に様々なことがありました。それは会社の存続にもかかわるような大きな出来事で、世間

からも注目された時期があったのです。ですが、今こうしてトリオという会社は存在し、皆さん

もこの会社で働いているのです。その影には今もトリオに在籍している人や、既に退職してしま

った皆さんの先輩たちの努力があったからです。会社は社員一団となって、大きな障壁を乗り越

えていきました。そして、今またその大きな波が来ようとしてます。ですが、皆さんはその荒波

に呑まれないようにお互いの力を会わせて乗り切ってもらいたいのです」

 木下は今までにない熱弁をふるった。その力のこもりようは社員の一人一人に何か大きなもの

を訴えかけている。「私は信じています。今、行方が分からなくなってしまった人たちが必ず帰

ってくることを。彼らは大きな試練を乗り越えてきた人たちばかりです。決して諦めるような、

くじけるようなことをしない人たちです。ですから、皆さんもそのことを信じてください。人は

心から念じれば、心から信じれば、何でも可能だと私は思います。そのことを皆さんも受け止め

てください」

 言葉が途切れ、クーラーの風でなびく残りわずかな髪を額になでつけた。「月曜日の朝から、

このような話をしなければならないことは私も心苦しいです。これから仕事に打ち込めと言われ

ても難しいかもしれません。でも、それでいいです。今消息がつかめない人たちの事を少しでも

心の片隅に抱いてくれればそれだけで、願いが通じるというものです。とにかく、辛いでしょう

が、今私の言ったことを思いながら、仕事に頑張ってください。私からは以上です」

 木下の話は終わり、朝礼も終了して各々が自分の席に戻った。白井はすぐに和田のところへ行

った。

「和田君も桑原さんからお誘いがあったよね」

「ええ、ありましたが、家の用事でいけなかったんです」

「そうか。僕も行けなかったのだが、社長の話からすると、飲み会に出た人たちが皆いなくなっ

てしまったという事みたいだね」

「そうですね」

「誰が、出席したのかは僕もよくは知らないが、藤井さんたちや青山さんたちが出ていたみたい

だね」

「そうですね、うちのが桑原さんから連絡を受けたらしいのですが、前ちゃんや渡辺さんも行く

というふうに言ってましたから、皆がいなくなってしまったということですかね」和田は、難し

い顔をした。

 白井は背後を野尻が通るのに気付き声を掛けてみた。「部長、先程の社長の話は本当なんです

か?」

 野尻は普段と変わらない澄ました顔で答えた。「うん、ああ、そうみたいだよ。今朝連絡があ

って、さっき私も知って驚いたんだ」

「連絡って、誰からです?」和田がきいた。

「ああ、何でも、昔ここにいた竹内君らしい。彼もその席に出る予定だったらしいんだけど、遅

刻をして難を逃れたようだね」

「竹内!」二人は同時に言葉を発した。その名前を聞いて二人は暗闇の中に一点の光を見つけた

ようであった。

 

 藤井たちの後輩である若い社員も小声で話をしていたが、誰もことの真相など分かるはずもな

い。その中で、岡崎という三年目の男があることを思いついた。

「確か藤井さん、携帯電話を持っていたな。試しに掛けてみたら。もしかしたら、繋がるかも・

・・」

 その言葉に二課の社員はホワイトボードに書かれている藤井の連絡先の番号をプッシュした。

だが、その行為も虚しいものでしかなかった。「電波の届かない場所におられるか、電源が入っ

ていないためかかりません」というメッセージだけが繰り返されていた。

第九章へ   目次へ ホームページへ


 

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください