このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
その店は、なかなか感じの良い店であった。
なんとなく上品で、なんとなく古風で、言葉では説明しきれない雰囲気なのだ。
店の中には、なんとなく上品で、なんとなく古風な曲が流れている。どこかで聴いたことがあるようにも思えたが、何という曲か思いだせない。たぶん聴いたことがないのだろう。でもなぜか懐かしい感じのする曲だ。
実は、わたしはこの店にひとりで来ているのではない。連れがいる。連れといっても、連れて来られたのはわたしの方なのだが。
ウェイターに案内され、わたしたちは席に着く。客はわたしたち以外にはいない。渡されたメニューを見る。
メニューを開いてすぐに、わたしはあることに気づいて、メニューを閉じる。オーダーはすべて彼に任せる約束だったのだ。
彼はしばらくしてからメニューを閉じると、ウェイターに合図をした。
彼はウェイターにいくつかの品を注文した。何を注文したのかはわからない。彼らは日本語で話していなかったからだ。何語かもわからなかった。店の感じからするとフランス語か何かだろうか。しかし確信はない。
やがてわたしの前に皿が置かれた。食前酒は運ばれなかった。彼は酒を注文しなかったのだろうか。それとも酒を置いていない店なのだろうか。
皿の上には球体があった。その表面は水分を充分に含んでおり、青かった。しかし、ところどころが緑がかっていたり、褐色がかっている。
わたしは、傍らのナイフとフォークを取ると、左手のフォークで球体の天辺を突き刺そうとした。
ところが球体は、ごろと重そうな音を立て、皿の上をフォークから傍らに逃れる。
二、三度球体に逃げられ、だんだんじれったくなったわたしは、ついに球体の天辺を、動かないように指で押さえ付けた。指には表面のざらとした感覚と、冷たい水の感触があった。
そこに球体の横腹へフォークを突き刺す。多少の抵抗を受けつつ、フォークはずずと奥へ入る。
球体から指を離し、その指についた水分をなめてみる。少々濃い塩味だ。塩漬けみたいなものだろうか。
次に、指を置いた球体の天辺にナイフを突き立てる。少し力を入れ、ナイフを下に下ろす。
球体は、ぞりぞりという音を立て真二つになり、ゆっくりと左右に別れた。それと同時に、中から赤黒いペースト状のものが皿の上へ流れ出てきた。
これは生焼けだ、わたしが少し驚くと、彼は、その状態が美味いんだ、熱いうちに食べなさい、と言った。
しかし、このままでは大きくてわたしの口に入らないので、もう少し細かく切ってから、断片の一つを頬張った。
口にはがりという歯ごたえと、濃いめの塩味が広がり、さらに煙っぽい味がした。燻製だろうか、と彼にたずねてみた。
それは燻製じゃない、大気汚染のせいだ、と彼は答えた。
それをきいてわたしは少し残念だったが、予想以上に熱くて舌を火傷しそうになり、それどころではなかった。
あわてて水を流し込み、少し落ちつくと、今度は口の中を鋭い酸味が刺激した。
わたしがあまりにむず痒そうに口を動かしているのを見て、彼はわたしがたずねる前に、その酸っぱさは酸性雨のせいだ、と教えてくれた。
正直なところ、あまり美味なものではなかったが、せっかく食事に誘われたのに、残すのも彼に悪いので、少々我慢してすべて平らげた。球体の傍らには、それよりもかなり小さい、灰白色のでこぼこした球体が添えられていたが、それなどはまるで水分がなく、ごりごりしてまったく美味しくなかった。パセリの方がまだましであったくらいだ。
彼の方はといえば、オードブルの十六個の小球体を食べ終えた時点で、満腹気味になってしまったらしく、さすがにメインディッシュは少し残してしまっていた。それでもわたしのよりはるかに大きかった彼の球体は、冷やして食べるものなのか、そのまわりを細い氷の輪が覆い、色はマーブル・チョコのようで、少なくともわたしが食べたのよりは美味しそうに見えた。
もうあの店も材料が手に入りにくくなっているらしい、店を出て、夜の街をふらふらと歩きながら彼はそう呟いた。
今度はわたしが彼を食事に招待しよう、わたしは心の片隅でそんなことを思った。
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