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*****ミニ・ストーリー*****
*****雑文など*****
*****駄文篇*****
掲示板に書き込もうと思ったんですが、長いのでupしました(2002.11.21)
最近、自分の中でものの考え方がどんどん「保守的」になっていってます。
もっとも私の場合、以前は、革新、だとか、進歩的、と言われていた事を、先に容認していた、という既成事実があって、その上で「これは革新前の状態の方が、良い」と考えるので、正確には「保守的」という言葉よりも、「復古的」とでも呼んだ方が合っているように思えますが。
保守① 自民党
現代日本の政治が、政党政治である以上、「無党派層」という態度は、政治をしていく上ではかなり消極的な態度であって、実際、今の日本国民に蔓延っている「政治無関心」の態度も、どうもこのあたりに理由がありそうです。
もっとも私自身も、現在自民党支持に傾いているのは、野党があまりに情けなく、支持に値する政党が、現在政権を握っている最大与党しかないという、だいぶ消極的な考え方から来てはいるのですが。
今政界を動揺させている、「石原新党」に今後、期待したいと思います。
保守② 男尊女卑
まあ私の場合は職場に、どうみても「女だから」という理由で年上男性からめくら滅法甘やかされている女性がいて、本人ももうその状態に浸りきっているものだから、結果として、
●私自身の仕事に、支障をきたしている
●職場全体の雰囲気が、なあなあ、まあまあで、緊張感がない
という現状を目の当たりにしてしまっているのです。
「これじゃあ、男と互角に、いや男以上の働きをしようと死闘を繰り広げている、キャリア・ウーマンは、いつまでたっても浮かばれないな」と思ってしまいます。
仕事場において、「女だから」と甘やかす態度を持ち込む男は、言語道断なのですが、甘やかされて図に乗る女はもっと問題で、こういう人は今後世の中の「働く女たち」全員を敵にまわすことになります。
しかしそれ以上に問題なのは、今までの男女同権運動も女性運動も、「男あっての女」ということを前提にした、男に依存した上での運動であるという点は否定できません。まずそこから脱却しない限り、現状の男女格差はいつまでたっても埋まらないと思います。
まず男性のいない、女だけの世界というのを想定して、そのような世界は成立しうるのか、男でないとできないことがあるのではないか、また女でなければできないことはないか、そういった事を考慮した上で男女同権を求めるのは、何の問題もないと思います。
しかし男と女は明らかに違うもので、社会における役割が分担されてくるのは当然の事です。しかしこれはあくまで「区別」であって、「差別」ではありません。なかにはこの「区別」を、明らかに「差別」と取り違えている人がいて、必ずといっていいほど怒り出します。それはあまりに大人気ないと思います。
保守③ 父権
「封建的な父権」ということばがあります。漫画家の小林よしのり氏が考えたのだそうですが、以前はこのことばが古臭くて、滑稽に思えました。ワガママで、古臭くて、高圧的で、岩のように頑固な父親像をイメージするのですが、現代日本にはもう、こういうお父さんをあまりみかけなくなりました。こういうオヤジが生まれる土壌がなくなってきているのです。
結果、自分のワガママで家族を縛り付ける父親像は影を潜め、家族一人一人がただ同居しているだけ、という家庭から、「私ひとりが大事」という「私」人主義が生まれ、それが「個人主義」と同義であると勘違いしている人が多いので、他人は何も言うことができず、結局家庭を基盤として成り立っている、地域も学校も弱体化し、ニヒリズムな私人主義者に対して何の打開策も打ち出せていない。ここまできてまだ「父権」はいらん、と言うか。
家庭教育は大切です。家庭自体が社会の基盤であり、家庭教育こそあらゆる教育の原点だからです。徹底した家庭教育のために、まずは家庭の崩壊を食い止める、絶対的な父権の復権が今、求められています。
酔いどれ日記。 投稿者:京終 投稿日:10月12日(土)20時18分23秒
いつもより酒を飲んで部屋に帰って、何とはなしにラジオを点けると、浅草キッドが教育問題について、あれこれ言っている。コイツ等はコメディアンの癖に教育問題とか政治問題とか、そういう問題に首突っ込みたがる変な奴等だ。東京都知事の石原慎太郎とテレビ番組やってたりする。
しかし「教育」という言葉を聞くと、いつもは飲んだくれのおれも釈迦力になる。
国立の教育大を出て教員免許まで持っていながら、教師になるどころか普通のサラリーマンになりきることもできず、なんとなくふらふらしながら、今は親父が道をつけてくれたちっちゃな会社で何とかやっているおれがである。
正直言って今のおれの姿を、学生時代教育実習で一緒に過ごしていた子ども達に見せることなんかできない。自分の姿を彼らに見せる資格なんかちっともないことは、自分でもよくわかっている。
しかし子どもはかわいい。本当にそう思う。独身だから自分の子どももいないが本当にそう思う。
だからマスコミとかで教育問題を取り扱っていたりなんかすると、どうしても見過ごすことができない。だから言う。
「ゆとり教育」だとか「総合的な学習」だとか、やたら抽象的な言葉でもって示される教育が、今ブームである。この間改訂された学習指導要領にも、このことばが盛り込まれた。
異常である。
論理性すら育まれていない、目の前に拡がった風景だけが全てである子ども達に、こんな抽象的なことばでもって教育に取り組んでいいものだろうか。
学校完全週五日制。家族で旅行に行くから学校を欠席させてくれと申し出る親たち。
今の教育は、子どもの「管理」が甘い。
もっとも親ですら、自分の子どもの「管理」なんかロクにできていないから、学校にそれを求めるというのはちょっと酷かもしれない。ただでさえ子どもと接する時間が少ないのに、さらに一週間のうち、まるまる一日子どもと接する時間を、文科省の小役人にはぎ取られてしまったのだから、現場の教師が子ども達とコミュニケーションをはかろうなんてのは、今では至難の業だろう。
本当のことをいうと、子どもを徹底的に「教育」しようと思うのなら、徹底的に「管理」するのが一番効果的である。
全寮制にして共同生活をさせて、子どもの一日を一分一秒こぼすことなく「管理」していた方が徹底した教育ができる。
かつてのナチスドイツの様に、「アドルフ・ヒットラー・シューレ」のような官僚養成学校をつくって、「我々アーリア民族が世界を征服する。『千年王国』を創ることができるのは我々だけだ。ユダヤ人は世界から抹殺されなければならない」という明確な目標をもって、子ども達を教育しようとするのであれば、徹底的に「管理」して、洗脳するのがもっとも効率的で、手っ取り早い方法だ。
子どもは放っておけば、いくらでも時間を無駄に浪費する。若いから、時間は無限に存在するものだと思いこんでいる。徹底した教育に、「放任」は敵だ。
しかし、現代はどうだろう。現代日本はどうだろう。
子どもはおろか、大人ですら徹底的に「管理」するに値するだけの、「目標」を失っている。
大人ですら一生をかけていくことのできる「目標」を探すのに手探りだ。
ましてや子どもに「目標」をもって生きることを求める資格なんか到底ないだろう。
今まで妄信的に信奉されてきた「学歴至上主義」も、不景気に陥って、大企業も銀行もぐしゃぐしゃ潰れていく現実の前には、何の力ももたない。
「目標」がない。自分が生涯を捧げられる、命を賭けられる「目標」がない。
私だって、今はどうにか「目標」の後ろ姿がかすかに見えてきただけだ。
今、「教育」ということについては、政治家も、官僚も、現場の教師達ですら、迷走状態である。
どうしたらいいだろう。答えはない。見えない。
こうして偉そうに長々書いてきたおれですらわからない。
おれは自分のことだけで精一杯なんだ。自分で考えろ。
ただの飲んだくれのおれに、他人のことなんか考えられる余裕なんてあるもんか。
……、また酒に逃げた。
「歴史 history 〜世間は歴史教科書問題で騒がしいですが〜」(2001.07.**)
「一番面白い劇は何か、と訊かれたら、私はたちどころに『歴史』と答えるだろう」(『迷路と死海』)
歴史とは、飽くまで主観的に、
個々人が感じとるものであること、
客観的な歴史などは
あり得ないということ
そして歴史とは、
時代の流れ、自己主義、自己満足、自己欺瞞、国家の政略、他国の干渉…etc.
そのようなものによって、如何様にも捩じ曲げることが容易であること、
「歴史の敵は、現在である」(『黄金時代』)
そのことを悟ることができない限り、
歴史など、学ぶに値するものではない、と私は言いたい。
「歴史について語るとき、事実などはどうでもよい。問題は伝承するときに守られる真実の内容である」(『幸福論』)
(引用は、全て寺山修司)
「夏蜻蛉」(2001.07.20)
夏蜻蛉 疑惑の虚空に とどまれり
縁側に胡座をかいて煙草に火を点けた。
ぼんやりとそらに煙を吐き出すと、一匹の蜻蛉が宙に浮かんでいた。
一瞬不思議に思ったのは、羽根を少しも動かしていないことだった。
まるで魔術にかかったかの様に、蜻蛉はぴくりとも動かずに
眩しい夏の青空の中に、留まって居た。
やがて彼が魔術にかかったのを事実だと、私は知った。
蜻蛉の居る虚空の、左後方から蜻蛉を魔術にかけた魔術師が、
観客である私の喝采を受けようとするかの如く、
そろそろとあらわれた。
魔術師の登場に、蜻蛉はようやく羽根をはためかせた。
蜻蛉は前に進むことができなかった。
軒の蜘蛛 愛しく 蜻蛉抱き締めり
「職人」(2000.10.**)
今日の帰りのバスは乗っていてとても気持ちが良かった。発進時の「発車します」右左折の「右(左)に曲がります」信号停止時の「信号が変わるまでお待ち下さい」降車ボタンを押したときの「次停車します」はもちろんのこと、乗ってきた客に対して「こんにちは」の挨拶、混んできたときには「中の方へお詰め下さい」「降りるお客さんに通り道をあけて下さい」「バスが停車してから席を立って下さい」など、五月蝿いくらいの細かい乗客への配慮。お役人直営のバスにもこんな親切な運転手がいたのか、ととても驚いたが、考えてみると東京のバスに乗るとこのような配慮をしてくれる運転手は結構いるし、水戸に住んでいたときにも運転手は乗客に対して色々な声をかけていたものだ。東北だからなのか公営バスだからなのか知らないが、いっつも利用するバスは運転手はむっつり、降車ボタンを押しても知らんぷり、急発進急カーブ、客にぞんざいな態度で応対する、酷いのになると客が運賃を支払ってバスを降りても「ありがとう」の一言もない。そしてそれが当たり前になってしまっている。最近は利用者数が激減しているらしいが、その理由はマイカー族が多いばかりではなく、そういったところにも原因があるに違いない。しかしそれでもぼくが路線バスの運転手に憧れる。それは、運転手と言う職業には「職人」的な側面があるからだ。自分が運転する全ての路線を把握し、車掌がいなくなってからは運転ばかりでなく乗客管理、運賃精算、車内アナウンスと一人で何役もこなし、さらにきめ細かな乗客への配慮を怠らないとなれば、これは職人と言わずしてなんであろう。ぼくにとっての職人とは、「他の誰にもできないことをやるひと」の意味を持つ。バスの運転手さん達には自分の仕事と腕に、もっと自信と誇りを持っていてもらいたい。結局この公営バスは赤字が嵩み、近い将来競合している民間バス会社に全面移管される。今日のあの運転手さんは一体何処へ行くのだろう?
「私的スポーツ考」(2000.09.**)
ごく一部の、健全に自分の能力に磨きをかけて自分自身との戦いを繰り返している紳士淑女的スポーツマンには大変申し訳ないことだが、ぼくはスポーツを、とくにスポーツで喰っている人間にロクなのはいないと思っている。スポーツはなにかと言うと健全で爽やかなイメージで語られているが、オリンピックは金とドラッグで塗れているし、裏金は飛び交っているし、スキャンダルや交通違反を起こしても周りで揉み消して平然とした顔をしているし、とにかくドス黒い。考えてみれば学生時代ぼくを苛めていた奴らもみんなスポーツ万能、体育の授業では花形ばかりだった。「健全な魂は健全な肉体に宿る」などと言う言葉は、彼らが彼らの都合の良い様に勝手に造り上げた言葉であり、虚偽である。信じてはならない。
「松本人志」(2000.09.**)
松本人志には常に「おれの才能がもし今枯渇したらどうやって生きていこう」って、怯えながら生活していてもらいたい。べつに松本人志が嫌いなわけじゃない。彼のこと好きだし尊敬に近いものもある。だからこそ。彼から「お笑い」を取ったらもうなにも残らないと思う。きっと自殺するしかない。頭悪そうだし子ども時代絶対いじめられっ子だったに違いないし、あんなのがふつーのサラリーマンに、というよりカタギでやっていけるはずがない。そこまでの窮地に追い込まれてはじめてあの凄味のあるお笑いが生れてくるんだとぼくは信じている。
「お笑い」とかコメディってある意味、命を賭けてやらないと上辺だけで真髄なんかに到達できないと思う。
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