このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


 ぼくの読書(2002.12.29)
 最近ようやく、趣味は読書です、と胸を張って言えるくらいの読書家になってきた。以前から会う人会う人、ぼくのことを「読書家」みたいに言うのだが、実はこれまでぼくはあまり読書をする方ではなかった。ところがこのところにわかに読書欲が増し、人に対しても「趣味は読書」などと公言するようになると、今度は「ではどんなのを読むの?」と訊かれて、答えに困る。とりあえず現在は「何でも読む」と答えるようにしている。まあこの答えはだいたい的を得ている。本当に何でも読む。ジャンル・作家は問わない。あ。時代小説はまだ読んだことがないが。要は系統的に読書をした事など一度もないのだ。日本製SFに一時期はまったり、ショート・ショートに凝ったりしたことはあったが、今はほとんど読まない。たしかに「何でも読む」のだが、それでも過去に読んだ本を遡れば、自分にどういった読書傾向があるのかわかるのではないか。そこで今回は僕のお薦めの本を紹介しつつ、自らの読書観をみつける旅に出る。

「あゝ、荒野」寺山修司(河出書房新社)
 一時期寺山に没頭した時期があって、生地青森へ旅したこともある。彼は幼い頃から短歌、俳句、詩、東京へ出てからはラジオドラマ、随筆、評論、そして演劇と、多彩な才能を発揮したが、小説はこの「あゝ、荒野」が唯一である。寺山の作品にはジャンルを越えて、一貫してその根底に流れているものが、二つある。ひとつはどんよりと曇った鉛色の故郷と(=青森)と、もうひとつは母親への愛憎である。「あゝ、…」では特に前者がクローズ・アップされている。「ボクシング」「吃り」「東北訛り」は寺山作品には欠かせないテーマである。それを土台に、「裏町」に棲む、ドロップ・アウトした人間たちの生きざまが描かれていく。

「アンネの日記(完全版)」アンネ・フランク(文芸春秋社)
 「アンネ…」を読んだということ自体、ぼくらしくない読書であるような気がする。ちょうどその時世間の注目を浴びていたから、という動機で読んだからだろう。ぼくはベストセラー・ロングセラーの類は、滅多に読まないのである。「アンネ…」はいわゆる思春期の、多感な一人の少女の物語である。母親への激しい憎悪、同居人ペーター少年への秘かな恋心。この物語には一貫して、思春期特有の「屈折」とでもいうべきものが流れている。それは誰もが通る時期に一度は味わい、そして誰もが心の片隅に秘かにしまっておく、「あの」苦い屈折である。アンネはこの「屈折」を、自らの「屈折」をもって読者の目の前に、生々しく突きつける。

「長い道」柏原兵三(中央公論社)
 映画「少年時代」がヒットしたのはたしか、ぼくが中学生の時だ。ぼくはこの映画がとても気に入っていて、繰り返し観ていた時、画面に「原作・藤子不二雄A」と字幕が出た。その時原作が漫画であることを知った。すぐさま書店に走り、「愛蔵版」を所望した。厚さ五センチはあった。夢中で読み、あとがきに目をやると、この「少年時代」のもとになった作品がある。と、藤子氏が綴っている。その作品が柏原の「長い道」であった。前述の「アンネの日記」が思春期の屈折を緻密に繊細に描いているのに対し、「長い道」は少年時代の屈折を、豊かな自然を舞台にワイドに描いている。そして両者ともに「戦争」の影が見え隠れするのは、おそろしい偶然である。

「蒼氓」石川達三(新潮社)
 「蒼氓」とは一言でいうと、移民のことである。石川達三は我が故郷秋田県の出身である。秋田市の図書館でやっていた特別展で彼を知ったのが、「蒼氓」を読むきっかけとなった。ブラジルへ移住した日本人の中には、秋田を含む東北地方出身者が多い。石川も移住経験者である。閉鎖的で雪深い、どんよりとした東北地方で、新たな未来を切り開こうと、東京に思いを馳せたのが寺山修司ならば、海外へ思いを馳せたのが、石川達三だった。新天地へと旅立つ蒼氓の姿を、地味ではあるが、刻々と力強く描いている。


 今年の正月休みはどこにも行く予定がないので、ずっと家にいて、読書三昧の日々を送っています。いろいろと雑文を書き散らしながらなので、読書の方は、十冊以上買い込みながらなかなか進んでいません。酒を飲むと眠くなる方なので、読書のために控えようと思うのですが、ついつい飲んでしまいます。まあこんなぼくですが、来年もよろしくお願いします。良いお年を。

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