このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


 横断歩道の刑罰 京終 京三・作

 おれは、ちょっとしたミスで、課長に例のごとくねちねちと責められながら、同時に取引先との商談の時間にじりじりと追い詰められていた。
 なかば強引に課長から解放されると、おれは商談用の書類を鷲掴みにして会社を飛び出した。
 おれの会社は裏路地の雑居ビルの三階にあり、走って三十秒で大通りに出る。大通りを左に曲がれば駅に行く。
 大通りは歩行者と車でごった返し、通り沿いの店から垂れ流されるBGMが耐え難いほどの騒音を産み出している。
 これだけ五月蝿いのに、今日はその五月蝿さに異変が生じているのを、おれの耳はそれとなく捕らえていた。
 今日に限って、いつもの騒音の中に、大勢の人間の悲鳴のような音が混じっていたのだ。
 それは今おれが向かっている駅の方向から聞こえてくる。イベントか何か行われているのかもしれなかったが、おれにはそれ以上詮索している余裕はなかった。
 おれはさらに足を速めた。
 駅の数十メートル手前には、おれが今歩いている通りと交差する通りがあり、当然駅へ到達するためにはこの通りを横断しなければならない。
 しかし、おれとこの通りとはかなり相性が悪いのだ。というのは会社の行き帰り───つまり一日に最低二回はこの通りを横切るわけだが───おれがこの通りにたどり着いたとき、ここの信号が青であったためしがないのだ。しかも急いでいるときに限って、信号がたった今赤に変わったばかり、という最悪の事態に陥る。待っているのは遅刻、課長の厭味、というお決まりのパターンである。
 歩道橋もあるにはあるのだが、それも横断歩道から五十メートル程ずれた位置にあり、これを利用すると百メートルは余分に歩かなくてはならない。
 さて、問題の信号は───おれは数十メートル先の横断歩道を見つめた。
 信号は、青だった。
 おれは、少し安心して歩調を緩めた。
 しかし、その安心もほんの束の間だった。信号の青灯があわただしく点滅を始めたのだ。
 おれは泡喰って走りだした。ここで信号待ちを喰らえば、また長いこと待たされ、電車も一本乗り過ごすことになるだろう。
 全速力で走ったにもかかわらず、横断歩道の直前で信号は赤灯に変わった。
 しかしおれは足を止めなかった。というより止められなかった。走った勢いを急に鎮めることなどできなかったし、だいいちおれは急いでいるのだ。車道側の信号が変わるまでのブランクも考え、おれはそのまま横断歩道に突っ込んだ。
 ゼブラの背に足を踏み込んだおれ。五、六歩を進んだのち、おれは足元を失った。
「きあああああああ」
「ぎええええええええええええ」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおお」
 「わあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」同じく禁を破った数人の歩行者とともにひとしきり叫びあったのち、おれはようやくさっきの悲鳴の源を知った。
 底のない漆黒の闇に沈み込む直前、上目遣いの彼方に見た歩道橋がおれに後悔を迫った。

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