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いやあ、参った。
またエロスを感じてしまった。
こないだ、営業の仕事で街中を歩いていたら、エロスを感じてしまった。
道を歩いていて、向こうからやってくる女の子が、アメリカン・ドックをむしゃむしゃ食いながら、歩いてくるのだ。
ぼくは街中とかで、平気でものを食っている女性を見ると、とてつもないエロスを感じるのだが、その食い物がアメリカン・ドックだったら、ぼくでなくとも、そのへんのオヤジでもエロスを感じるだろう。なにしろアメリカン・ドックだからね。
しかしここで誤解のないように言っておくと、この場合において、ぼくの感じるエロスと、オヤジさんの感じるエロスとは、言葉がまったく同じだが、違う。たしかにぼくのエロスとオヤジのエロスと、ある部分共通しているところはあるのだが、それはこのふたつのエロスが同一の源流から発していること、そしてぼくだって、オヤジさんのエロスには共感できること、そのふたつの理由からです。ぼくだってある意味オヤジなんです、はい。
何でこんなことをここで強調しておかなければならないのかというと、それはぼくが自分のオヤジ性を正当化したいわけじゃなくて、現代において使われている「エロス」という言葉が、オヤジ的な部分ばかりクローズ・アップされて、ぼくがひとたび「エロス」などと口にすると、周りからいやらしいものを見る目つきをされるからなのだ。
この「エロス」という言葉については、ぼくは前々からひとこと言いたいと思っていたので、今日はそのことを書く。
かつてぼくは「ハッチポッチ雑文」なる文書を書いていて、いつかまた再開したいと思っているのだが、機会がなくてそのままになっている。その雑文のひとつに『悪人志願』というのがあって、そこにはぼくの「悪」に対する憧れというか、共感みたいなものが綴られている。その一方で、現代のように価値が相対化してしまっている世の中では、善や悪ですら相対的に規定されてしまい、したがってこのような場合、純粋な善人も、そして純粋な悪人も生まれ得ない、と書いている。
さて。ここでぼくが感じていた、「悪」というものへの憧れ、これが実は「エロス」なのだ。
信じられないでしょう。まあきいてください。
「エロス」について、初めて提唱されたのは古代ギリシア時代、提唱した人は、ソクラテスの弟子で自身も大哲学者のプラトンだった。
彼は師・ソクラテスが求めた「真の知」に対する具体的な概念として、「イデア」を提唱した。「イデア」とは、一言で言えば「理想」のことなのだが、プラトンは現実の世界においては、どれだけ努力してもこの「イデア」にはたどりつけない。だからこそ人はこの「イデア」に憧れる。この理想に対する憧れこそが、「エロス」なのであると。
だからぼくの「悪」に対する憧れは、まさしく「エロス」なのだ。もっともこの程度の憧れも、暴走族に憧れる不良少年と何ら変わりがない、と今では思うようになってしまった。
さて、時代はかなりくだって、再度この「エロス」が提唱された時期がある。それは近代に入ってから、かの精神分析学者フロイトが規定した。
ここでの「エロス」は、「生の本能」、または「性」の本能と訳され、後者で書くと、冒頭で述べたオヤジさんの感じる「エロス」に近いものがある。このあたりが、ぼくが自分のエロスと、オヤジのエロスとで共通点があるといったゆえんだ。
しかしぼくがもの食う女性に感じるエロスというものは、フロイトの定義にもとづくならば、同じ「エロス」でも、「性の本能」ではなく、「生の本能」であり、字も違うし、とらえ方も違う。
フロイトのエロスは、表面的には種族保存の本能だと言っていいが、その根底には、種族保存の本能を全うするために、自分自身も生き抜かなければならない、という大前提がある。
種族保存のためにはどうしたってセックスしなけりゃならないが、それは「エロス=性の本能」、つまり性欲の領域。しかし、腹がへっては戦=セックスができない。つまり生命維持が必要で、こっちは「エロス=生の本能」であり、おもに食欲の領域だ。
このようにしてみると、フロイトの「エロス」というのは、人間が生き長らえていくための、「欲」のことだといっていい。食欲や性欲は、あくまでその「欲」の分類に過ぎない。もっとも最近では、後者の欲の方の意味ばかり強調されているが。
こうしてみると、「エロス」って言葉の意味が、とっても壮大で、奥深いものだって解ったでしょ。
ぼくもこの「エロス」について、こうして言いたいこと言わしてもらったので、今後は何の臆面もなく、「エロス」という言葉を公言させていただきます。
…たぶん。
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