このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

湯河原と周辺の簡単な歴史プラスα

〜その①古代から鎌倉時代くらいまで〜

奈良時代に編纂された歌集「万葉集」にこんな歌が詠まれています。

「足柄の 土肥の河内に 出ずる湯の よにもたよらに子ろが言はなくに」

この歌は巻十四の東歌の中の相聞歌として、相模国の歌として詠まれた12首中の8首目に詠まれている歌です。ここに詠まれている「土肥の河内」という場所こそが、今現在「湯河原」と呼ばれている地域を指すものというのが定説らしいです。奈良時代とは西暦でいうと710年〜794年の間になるのですが、この頃から既に湯河原が温泉場として広く知られていたというこの事実!!どうだ!!

また、湯河原に何故温泉が湧き出すかという説明を簡単にしておきましょうか。古代よりもず〜っと昔の話。実は湯河原は火山地帯だったんです。しかも、箱根山が活発に活動していたのと同じ時代に湯河原火山も活発に活動していたわけです。実はその時の名残が温泉なわけですよ。今は死火山となってしまった湯河原火山ですけど、実は同じように今や死火山となってしまった古代火山が伊豆半島には幾つか存在していて、今も温泉が湧き出している箇所も珍しくない、ということです。そして現在も箱根一帯は活発に活動中なのは噴煙があがっている箇所があるのを見れば一目瞭然なわけですよ。

ではでは、湯河原に湧く温泉を誰がいつ発見したのかという伝説は幾つか残っています。加賀国からやってきた入植者達で二見加賀之助をはじめとする一団が湯河原の開拓を行った時に偶然発見されたという説が一番信憑性のある説だと思われます。他にも湯河原に住んでいた村人が三島からの帰り道に迷った時に美女に化けたタヌキから教えてもらった、等の伝説があります。また、伊豆山権現(神社)の発展の為に訪れた時に、湯河原でも修行していた空海(弘法大師)に発見された、とか、箱根の山中で乞食に姿を変えた薬師如来から湯河原にあった温泉とその効能を教えられて、御堂を建立し如来像を安置し、そこを薬師の湯として信仰するようにした行基によって広まったとされている説もあります。

日本史を少しでもかじった事がある方はご存知でしょうけど、行基と空海は当時の文化人としては超一流の人物です。何故そんな人達がこの地を訪れ巡礼や修行を行ったのでしょうか、というところに注目しなければならないのです。箱根権現(神社)は万巻上人という山岳修行僧が「仏菩薩の教えを直接聞ける霊場はどこか」という問いを十方の諸仏に祈り続けていた時に夢の中で箱根山とお告げがあり、そのまま箱根山に入り後に3体の神様を「箱根三所権現」として奉ったのがはじまりといわれています。実はこの話は奈良時代のお話なのです。ってことは、当時、箱根を中心とする湯河原や伊豆山権現(神社)周辺地域の山岳地帯は山岳信仰の密教的な文化が根付いている地域だったということです。そんなことから箱根山一帯に地蔵信仰があり、信仰することにより亡くなった方の霊を救ってくれると信じられていたようです。又お地蔵様にお願いすると亡くなった人と会話が出来る、という事が信じられていたようです。今青森の恐山なんかで見られる「イタコ」みたいな伝承もあったようです。

実はこうした信仰文化は現在でも残っています。熱海に日金山という場所があります。この山に亡くなった方の霊が必ず降りてくるという言い伝えがあり、身内で亡くなった方がいた時の初めてのお彼岸の時に、ここに登り戒名をかいて供養してくる、という行事があります。場所は熱海の十国峠のちょっと先です。そんなわけなので、十国峠や熱函道路のトンネル付近は近くに火葬場もあるということで、霊感の強い人はビンビン感じる心霊スポットです。まぁおまるみたいな人には何にも感じませんけどね。

話をまとめると、このあたりは密教系信仰者達の修行場だったわけです。この文化はず〜っと後まで続いていきます。そうした中で世の中では武士が生まれていきます。湯河原も土肥氏という一族が支配するようになります。後に源頼朝に従軍する土肥実平という武将がこの土肥氏当時の棟梁になります。実はこの土肥実平の活躍がなかったら、歴史は大きく変わっていました。頼朝が石橋山の合戦で破れて敗走します。その時湯河原で追っ手に捕まり堀口(今の湯河原町の城堀地区のどこか)というところで合戦になりますがここでも頼朝軍は敗戦します。この後箱根山中に逃れる訳ですが、この時実平が頼朝と共に身を隠していた場所や行動などから、実平はこの地域で修行していた山伏軍団の棟梁だったのではないか、と考えられなくもない事があるそうです。それだけ彼等が身を隠しながら移動した場所はこうした密教文化と繋がりの深い場所だったようです。

後に頼朝は勢力を盛り返し、鎌倉に本拠を置くようになると箱根権現と伊豆山権現に参詣する「二所詣」を行うようになり、併せて三島明神(現在の三島大社)へ参詣することもあったそうです。また、箱根権現は東国武士達から特別で重要な存在だったようで、「起請文」と呼ばれる武士同士の取り決めを書き、神仏に誓いを立てる証文があるのですが、この時に誓いを立てる神として列記されている神仏として「国中の神々」「八幡大菩薩(源氏の氏神)」「摩支利天(武士の守り本尊)」らと共に「箱根権現」が列記されているわけで。頼朝にとっても、武士にとってもこの地が如何に重要な地だったかを思わせるエピソードですね。こうして歴史上でも重要な地点としてその名を刻んでいくようになるわけですね。

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