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湯河原と周辺の簡単な風土記プラスα
〜その②室町時代から江戸時代〜
そんなこんなで、戦国時代以前に湯河原の地方を治めていたのは大森家で本拠は小田原にありました。そして伊豆地方を治めていたのが駿河の守護職でもあった今川様でした。大森家にとっては箱根連山の一角として湯河原を捉えていた節があるらしく、小田原を守る防衛ラインとしての拠点として湯河原を保善院を中心にし結束させていたようです。何故そんなことが分かるかというと、大森氏が建立した曹洞宗大雄山最乗寺(南足柄市関本)の十代目住職が政治的手腕を高く評価されていた人物らしく、大森氏がこの頃全盛だったのも彼の影響と言われるくらいであるらしい。そうした住職が布教活動を行いながら、当時影響のあった地域の有力の寺を曹洞宗に改宗させていき、布教と同時に政治的な支配も強めていったとされています。湯河原にある当時の寺もやはり改宗させられています。
また、戦国時代に入ると大森氏に代わり小田原を本拠として関東一円に大勢力を築いたのが北条氏でした。湯河原をはじめとして伊豆箱根地域は全て北条氏の支配地となりました。また、小田原はこの北条時代に大発展をしていき、有数の城下町として栄えることになります。軍事的にも伊豆半島は重要な地点として栄え、北条家の水軍の本拠が下田に置かれていたこともありました。
豊臣秀吉の天下統一事業が遂に関東の北条討伐で終わるという時に、やはり伊豆箱根近辺でも激しい合戦が行われています。三島と箱根の間にある山中城の攻防戦は特に有名になっています。また、伊豆にある韮山城でも篭城戦が行われています。この時に豊臣軍で先陣を勤めて山中城戦に参加していた堀秀政らの軍が日金山を通り湯河原まで抜けて小田原に進んだ時に「火を放ったり乱暴はしない」などと約束した禁制書が保善院に残っています。秀吉が天下を取り、関東は徳川家康の領地となります。小田原一帯の地域は譜代であった大久保家の領地となり、その後同じ譜代の稲葉氏の所領となり、再び大久保氏の所領となるように、領主がコロコロ変わっていきます。
江戸時代、小田原藩と呼ばれていたこの地域はとても重要な地域でした。まず小田原〜箱根〜三島間が東海道の難所の一つであったことは有名です。また、箱根にあった関所では厳重な検問体制を敷いて「入り鉄砲に出女」と呼ばれたように、武装者への取り締まりと女性の通行手形不携帯者への取り締まりは特に厳しく行われていました。この当時関所破りは大変な重罪で磔の刑にされたとされる記録が幾つかあります。また、当時の裏街道とされていた道路にも5箇所の裏関所が設置されており、小田原から熱海へ抜ける「熱海往還」にも根府川に裏関所が置かれていました。小田原と箱根は宿場町として発展していきます。小田原の元禄時代の記録として、当時のオランダ商館の医者ケンペルが書いた「江戸参府紀行」に小田原の町の記録があります。当時の江戸の華やかな文化とは違い、活気に欠けているとされています。当時は天候不順や酒匂川の氾濫、大地震による被害が大きいものであったことが想像できます。また、当時の小田原藩の財政も余裕のあるものではなかったことが、当時の藩の資料から想像できます。
そんな中湯河原は江戸時代も温泉地としては有名だったようで、江戸時代後期の1817年に紀州(和歌山県)の熊野本宮を行司として相撲番付をマネて「温泉番付」というものが作製されています。この番付は、熊野本宮が、古来、温泉の神様とされ、江戸時代は伊勢詣り、熊野詣りが盛んだった事から、熊野本宮之湯を立行司に見立て作製されたようです。これによると、湯河原温泉は「豆州湯小原湯」として東の小結に位置付けられています。番付の最高位が当時の相撲の最高位は大関までということなので、横綱がない時代の事ですから小結は立派だといえますよね。また当時の近在者は温泉を酒樽に入れて持ち帰ったということもあったそうです。又、箱根にも既に湯本、芦の湯の温泉場が鎌倉時代には存在しており、その後堂ヶ島、宮ノ下、底倉、木賀に温泉場が発達し、江戸時代になって塔ノ沢にも温泉場ができ、箱根七湯と言われるようになります。
ちなみに、今では温泉は観光目的のものになっていますが、温泉が観光として取り上げられだしたのも江戸時代なってからのお話になります。それまでは温泉入浴は持病を治す「湯治」という立派な治療法だったわけです。従って、温泉宿に宿泊するのは一泊、二泊という単位ではなく「一廻り(ひとめぐり)、二廻り」という単位でした。一廻りが7日間で、湯治になると三廻りで21日間が常識だったそうです。そう考えると江戸からこの近辺で湯治をしようと思っても往復で約1週間、湯治期間で21日と一ヶ月もかかるわけですから、その費用と時間を考えると簡単にできるものではなかったわけです。
そこで、江戸時代の後期に「一夜湯治」というものが生まれます。これは当時の旅行形態が、お伊勢参りや富士山などの霊山登山であったり、京都・奈良への本山参りといった20〜30人くらいの講集団で旅行するようになります。通常の旅人が箱根越えをする時には早朝に小田原宿を出発してその日のうちに箱根を越えて三島宿か沼津宿まで行くのが普通でした。しかし、講集団の人々は小田原宿に泊まらずに東海道を反れて温泉のある箱根湯本や芦の湯などに泊まるようになります。このような旅の途中で温泉に入る事を「一夜湯治」といいます。湯治と言っても一晩だけの入浴なので、今のような温泉観光に近いものと考えられますね。このことが流行すると小田原宿は宿泊客が減少ししてしまいます。文化2年(1805)に小田原宿の旅籠主達が「一夜湯治と称して講集団を宿泊させることは、幕府道中奉行の出した『東海道五十三駅の宿場以外で旅人を宿泊させてはいけない、東海道を行き来する旅人は脇道にそれて旅をしてはいけない』というお達しに違反している」として箱根湯本の湯宿主達を幕府に訴えている記録があります。結局この時の論争で一夜湯治が幕府から公認されるようになりまして、参勤交代で東海道を使う大名の中にも一夜湯治を行う人も現れるようになり、箱根は温泉地として賑わっていくわけです。
温泉からちょっと離れてみると、この地域は良い漁場だったということで、アジは有名らしく当時から干物が名産品として出荷されていたらしい。そしてカツオやマグロも水揚げされていたというからオドロキですね。他にもこの地域ではボラ漁が盛んだったらしく、わざわざボラ漁をする為に真鶴に代々出稼ぎのような形で入植していた人もいたらしいとのこと。そして伊豆地方の漁業で忘れちゃいけないものが「イルカ」です。あの水族館でかわいくショーなんかをやってしまうあの「イルカ」です。このあたりの地域では立派な栄養源なんです。伊東の川奈で追い込み漁を行っていました。冬場が旬の食べ物です。今でもこの地域じゃ冬場に魚屋さんでイルカが売ってます。是非是非ご賞味くださいな。
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