このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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東条英機が誤解される理由

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世界の有名なファシストや侵略者の名前の中で、ドイツのヒトラーと同じくらいの悪玉として名前を挙げられている人物が東条英機です。日米戦争の開戦時の首相であり、陸軍の実力者としての地位にあった為に、彼がいかにも日米開戦に積極的であったように語られています。しかし、これは大きな間違えです。彼が何故首相になったのかというと、日米戦を回避させる為に東条が選ばれているのです。実は東条が首相になる以前に日本はアメリカと開戦する決定をしていました。中国問題や石油問題などでアメリカとの打開が見出せなくなっていた9月の御前会議で11月開戦が決定します。この時の首相は近衛文麿でした。この会議の時に昭和天皇が戦争に反対という態度を表明したのです。東条も後に東京裁判に提出している「口供書」の中で、日米戦については反対だったという態度を示しています。この口供書の中で、戦争をするかしないかは政治が決めることであり、軍人が口にすることではない、という態度をとります。しかし、中国からの撤退問題で、アメリカ案に真っ向から反対していたのが陸軍であり、そのトップが東条だったのです。その為、東条がいかにも開戦派の筆頭に挙げられてしまいますが、実際には彼もアメリカとの戦争には反対していた一人だったのです。

なんとかして戦争を避けたい日本側としては、内閣を変えることにより、前内閣の決めた開戦決定を覆すという方法をとったのです。こうした理由で誕生したのが東条内閣でした。教科書や参考書などでは、東条がいかにも開戦に積極的で、少しでも早く開戦する為に近衛内閣を倒したと記されている物もあるのですが、そんなことはまったくありません。その為東条は内閣を組織した後すぐに、昭和天皇の意思を汲むかたちで11月開戦を白紙に戻す措置を行います。しかし、無常にもアメリカからの「ハル・ノート」が提示されてしまい、交渉という形ではどうにもならなくなってしまったのです。

結果的には東条が開戦時の首相ということで、いかにもアメリカ戦対応内閣のように思えます。しかし、東条が首相となってアメリカと戦争をすることになったのは、それまでの経緯としてどうしようもないことでした。元々アメリカとの対立する直接的な原因になった中国戦にしても、満州問題にしろ、そのほとんどの問題は過去の内閣で起してきた問題でした。東条が首相にならなかったとして、他の誰が首相になったとしてもアメリカとの戦争になったことは誰もが予想できることだと思います。

それでは何故彼が開戦派の先頭となっていたかのような印象を与えてしまったのか。それは当時の陸軍の主流派が開戦に積極的だったからです。戦争に反対していた東条も国家としての指針がアメリカと一致できなければ戦争も仕方ないというように口供書で述べています。彼は陸軍のトップとして、自分の意見を黙殺し、部下の意見を尊重するという典型的なリーダーとして振る舞っていました。もし、東条が「戦争反対」論を唱えていたら、恐らく東条も歴史から抹殺されているほどのクーデターが起こっていたでしょう。陸軍が1部の将校達によって牛耳られていていた為、東条自身も自由に意見が言える環境ではなかったのです。

また、東条は無類の天皇絶対の考えの持ち主で、天皇の為ならばなんでもやる人でした。首相の大命降下があった時にも、開戦回避の勅命があった時も、また負けると分かりながら開戦した太平洋戦争にも、彼は完璧にやって成果をあげる為にやりすぎるくらいの事をやりました。強引な憲兵政治を行ったのもその表れです。また、時代背景から見れば、彼のような政治家、軍事家が生まれてしまうのは必然的だったかもしれません。

戦争後、世界は彼を犯罪者として評価します。日本も例外ではありません。内政的な評価は低い物が多いかもしれませんから、政治家としては高い評価はないでしょう。しかし、国を思う気持ちから起した行動の数々は全てが否定される物ではないと思います。彼が決死の覚悟で臨んだアメリカ戦への決断は今の日本の政治家ではできない選択だと思います。真剣に日本を救おうと考えて行動して時代の波に葬られてしまった指導者を我々日本人は犯罪者としてレッテルを貼って語り継いで良いのでしょうか??

 

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