年月 | 最高速度 | 車両 | 試験運転区間 | 昭和23(1948)年 4月 | 119km/h | モハ52+クヤ16+モハ52 | 三島−沼津 | 昭和25(1950)年 3月 | 100km/h | 80系 | (営業運転) | 昭和29(1954)年 3月 | 123km/h | 80系 | 三島−沼津 | 12月 | 129km/h | C62形蒸気機関車 | 木曽川橋梁 | 昭和30(1955)年 2月 | 125km/h | 80系 | 静岡−浜松 | 昭和32(1957)年 9月 | 145km/h | 小田急3000形SE車 | 大船−平塚/函南−沼津 | 10月 | 135km/h | 90系(のちの 101系) | 大船−平塚 | 昭和33(1958)年10月 | 135km/h | 20系(のちの 151系) | 大船−平塚 | 11月 | 110km/h | 20系(のちの 151系) | (営業運転) | 昭和35(1960)年11月 | 175km/h | クモヤ93 | 金谷−藤枝 |
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錚々たる名車が居並ぶなか、小田急3000形SE車が異彩を放つ。これは連接車方式による電車高速列車の可能性を追求するため、小田急の車両を借り入れ、国鉄路線上で試験運転したという空前絶後の事例である。達成した最高速度をみればわかるとおり、小田急3000形は101・151系をも凌ぐ高性能を発揮している。
これを鉄道史上の珍事、と評するのは簡単である。ところが、事実はもっと奥が深い。小田急3000形は実は、小田急と国鉄(鉄道技術研究所)の共同開発による車両なのである。さらにいえば、国鉄路線上での試験運転は小田急側からの申し出だった、というから驚きだ。島技師長はそれを国鉄側からの要請という形にして、高速電車列車(≒東海道新幹線)に対する期待を高めるプロパガンダを展開したという。学者肌の気質と評されることが多い島秀雄ではあるが、なかなかの策士ではないか。
しかしながら、結果として連接車は国鉄では採用されなかった。理由は必ずしも明らかではないが、1〜2両単位で分割できるボギー車方式と比べ、編成単位で運用するしかない連接車は、列車編成組成やメンテナンスなどに制約が生じることは明らかだ。それが現場サイドから嫌気されたのだろうか。
後知恵の結果論でいえば、電車特急は編成単位での運用が多く、しかもローカル特急や付属編成を除けば短い編成は少ない。だから連接車導入は実は必ずしも困難ではなかった、……かもしれない。
■E993系電車
時代はぐっと下がり半世紀近くを経て、国鉄の後を襲ったJRにおいて、試作車ながら連接車が導入される日がやってきた。JR東日本が平成14(2002)年に導入した、E993系電車(ACトレイン)がそれである。
ACトレインE993系
尾久車両基地公開日にて 平成15(2003)年撮影
E993系電車には試験・試行的技術があまりにも盛り沢山に搭載されたため、奇を衒った車両というのが率直な当時の印象だった。連接車という一部分をとってみても、他の車両が全てボギー車であるわけだから、運用が硬直的になるのは必然であり、使いにくい車両にならざるをえない、という印象も受けた。
ACトレインE993系
尾久車両基地公開日にて 平成15(2003)年撮影
今にして顧みればそれは鉄道会社の問題意識を知らない軽薄な思いこみであった、……かもしれない。
■鉄道車両はなぜ高価なのか
話題をぐいっと転換しよう。鉄道車両はなぜ高価なのだろうか。
JR東日本が新津工場で自社製作している経済車でさえ、一両あたり0.7〜1.0億円ほどのコストがかかるといわれている。私鉄の新車の場合は、スペックとロットにもよるが、少なくとも一両あたり1.2〜1.5億円程度は要するらしい。
鉄道車両はほぼ全てがフルカスタムの注文生産、という事情を考慮したとしても、所詮は鋼材を組み立て、電子機器を置いて配線するだけである。そう特殊な技術を用いているわけでなく、車両組立だけを考えればむしろ一般的な技術によるとさえいえる。大型バスの単価が一両あたり0.1〜0.2億円程度にとどまるのに比べれば、定員と耐用年数の違いを差し引いてもなお、法外に高価といわざるをえない。
ACトレインE993系の連接部
尾久車両基地公開日にて 平成15(2003)年撮影
車両組立が必ずしも高コストでないならば、高価な部品に原因を求めるべき、と連想が広がる。真っ先に思い浮かぶのは ATSなど鉄道独自の電子機器であるが、もう一つ重要な鉄道独自の部品がある。それは台車である。構造そのものは難しくない一方、メーカー数が極端に少なく、寡占状態で単価が高止まりしているらしいのだ。新規参入を図る会社が現れないから、競争原理など働きようがないという現実がある。
ACトレインE993系の連接台車
尾久車両基地公開日にて 平成15(2003)年撮影
島秀雄は昭和26(1951)年、最初に国鉄を辞した後、住友金属の取締役に就いている。このあたりの消息に、「電車」メーカー(鉄道車両メーカーではなく)が島秀雄の影響を多大に受けていたことがうかがえる。台車は電車と軌を一にする発展を遂げ、独特の要素技術となり、重要な部品となっていった。
■E331系電車
高価な部品の数を削減できれば、間違いなくコストダウンにつながる。単純な話である。
型式番号からして明らかに試作車であるE993系はともかく、実用化をある程度意識した型式番号であるE331系に連接車が採用されたのには、率直にいって驚いた。しかしながら、台車の数を知って合点がいく面もあった。
E331系全景
蘇我にて 平成19(2007)年撮影
E331系は 7両× 2の14両編成からなり、これで20mボギー車10両編成に相当する。台車数は合計で16。20mボギー車10両編成では20。数にして 4、比率にすれば20%もの削減である。台車が高価であればあるほど、数を減らすことによるコストダウン効果は大きい。駆動方式にも劇的な改善が加えられているから、量産体制に入れば相当なコストダウンにつながるのではないか。
E331系走行写真
海浜幕張にて 平成19(2007)年撮影
在来車を一気に全て置換すれば、運用上の問題は最小化する。筆者が想像するに、南武線や横浜線あたりに大量投入され、 205系を置換するという展開もありうるのではないか。ただし現状はといえば、京葉線にわずか 1編成が投入されているにすぎない。しかも機器のトラブルで長らく昼寝が続いているという。
台車数削減による大幅コストダウンという遠大な野望を裡に秘めつつ、E331系は再び世に出る日を待っている。……と断言しては、忖度が過ぎるだろうか。いずれにせよ、E331系が革新的な車両であることは間違いない。
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参考文献
(01)「世界の高速鉄道とスピードアップ」(住田俊介)
(02)「写真で見る戦後30年の鉄道車両」(吉川文夫編)
(03)「新幹線をつくった男島秀雄物語」(高橋団吉)
(04)「鉄道車両年鑑2006年版」(鉄道ピクトリアルNo.781)
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください
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