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奥山





 飯場の一日は、忙しい。朝は夜明け前から食事の準備、さらに昼食の弁当まで用意しなければならない。大食の木樵十数名ぶんの食事であるから、鍋釜の中身はいちいち重く、筋骨を駆使し総身の力を出し切らないと務まらなかった。冷えこみの厳しい冬の朝など、身を切られるほどの寒気の中で働かなければならず、まさに苦行となる仕事であった。

 木樵たちの出発を見送り、空になった飯場においても、やるべきことは山ほどにあった。掃除、洗濯、縫いもの、整頓などなど。限られた元手で食糧や日用品の調達もしなければならないし、金の動きを間違いなくしっかり束ね、不正の疑いを招かないよう帳面をつける必要もあった。

 夜は夜で、朝以上の分量の食事を用意しなければならなかった。木樵たちが寝床にもぐりこむ時間となっても、灰神楽の前には片づけるべき食器がうずたかく積まれていた。

 なにもかも初めてのことではあったが、しかし、灰神楽はすぐ慣れた。力仕事にも水仕事にもよく耐え、寒さもこらえ、愚痴ひとつこぼさなかった。

 四六時中忙しい飯場の日々ではあったが、ほんの少しでも暇があれば、灰神楽は舞いを舞った。灰神楽にとって舞いは生き甲斐であり、人生そのものでもあった。

 寸暇を見つけては真剣に舞う灰神楽の姿を、日中たまたま飯場に戻る用事のあった熊吉が目撃している。この女は大事にしなければならない、と熊吉は直感した。しっかり働く得がたい女という以上に、自分たちには決して手の届かない高みにある貴さを感じたのである。

 天与の美貌を傷つけられ、辺鄙な山奥に追いやられたことは灰神楽の不幸であったが、どん底の不幸かといえば必ずしもそうではなかった。灰神楽の気立ての良さは木樵の皆に好かれ、よく可愛がられた。男が女を見るとき、容貌が重要な位置を占めることは確かだが、それだけが全てではないこともまた確かなのであった。

 ただし、皆に好かれたがために、別の微妙な問題が惹起されることは避けられなかった。顔を多福女面で覆っているとはいえ、灰神楽はやはり若い女なのである。からだつきはしなやかで、やわらかな丸みを帯び、しかもかぐわしい香薫がただよっている。木樵たちが男としての欲望を抑えられなくなったとしても、いったい誰が責められようか。

 若い木樵の一人、弥次郎が我慢しきれなくなり、灰神楽のからだを使って欲望を満たしたいと、熊吉に嘆願した。同じ思いを抱いていた多くの木樵が雷同して、熊吉に迫った。しかし、熊吉は手出しを許そうとはしなかった。

「お頭、どういう存念か。皆で回せば、不公平もないというのに。まさかお頭、あんたが灰神楽を独り占めする気ではあるまいな」

 弥次郎の疑念を熊吉は笑い飛ばしたが、それだけで皆が納得するはずもなかった。やむなく、熊吉は酒宴を催すことにした。飯場では酒を呑む機会など滅多にない。肉欲充足と酒宴の楽しみを天秤にかけ、木樵たちはとりあえず引き下がることにした。

 熊吉のねらいは、別のものを与えて木樵たちの目をそらすことではなかった。いうまでもなく、そんな小細工は一時しのぎにしかならない。木樵の誰もが自ら納得できるよう、灰神楽の高貴さを引き出すための舞台をしつらえる必要があったのだ。

 麓の村からいくつもの酒瓶を購い、酒宴が始まった。大きな焚き火を興し、鳥肉を炙りながら、ぐるり車座になり、木樵の全員が集まった。誰の目も血走っている。声が自然と高くなる。脂が焼ける匂い、麹の香り。久しく遠ざかっていた生きる楽しみが、目の前にあった。

 杯が二三巡し、酔いが深く回る前、気持ちが落ち着きかけた頃を見計らって、熊吉は灰神楽に促した。

「灰神楽、おまえここで舞いを舞え」

「ええっ」

 突然の指名に灰神楽は驚いた。酒肉に目を血走らせている木樵たちの前で舞うことへの怯みもあった。

「どうした、灰神楽。自らを助けるために舞え」

 熊吉にそう言われて、覚悟ができた。いまは奥山に封じこまれた下女働きの身、大願を果たすためには自ら懸崖を登らなければならぬ。

「舞います」

 すっと立ち上がり、灰神楽は舞い始めた。演目は“朝陽”、初心者が中級を目指す時の練習舞で、夜明け前の暗き空に明るさが広がり、太陽が昇っていくさまを表現したものである。

 木樵たちの哄笑は、ぴたりとやんだ。なんという美しさ。なんという神々しさ。胡蝶のような軽やかな動きは、まさに太陽の如き光輝さえ帯びているではないか。

 灰神楽が舞い終わった時、拍手は起こらなかった。木樵たちは皆泣き、嗚咽していたのである。人智を超越し、言葉ではいいあらわせない感動があることを、木樵たちは身をもって知った。

「もっと舞ってくれ」

 かろうじて熊吉が木樵たちの総意を口にした。灰神楽が選んだ次の演目は“鰻とり”、これは剽軽舞で、鰻をとる漁師の動作を誇張し、おもしろおかしく演じるものである。木樵たちの気分はすっかりほぐれ、腹を抱えて笑い出す者さえあった。

 さらに舞い継ぐうち、木樵たちはすっかり灰神楽に魅了されていた。誰もが灰神楽に心底から服し、大切な存在であることを認め、余計な欲望など持つことをやめていた。ただ一人、弥次郎を除いて。

「灰神楽よ、俺の伴奏で舞えるか」

 弥次郎はいつの間にか三味線を持ち出していた。手さばきは激しく、速い韻律を刻んでいる。灰神楽の舞いは正統に基づく四拍子の韻律であるのに対して、弥次郎の奏楽は八拍子ないし十六拍子の韻律、いわゆる今日風のものであった。

「如何に」

 挑発するように弥次郎は言い放った。灰神楽は負けじ傲然と言い返した。

「わたしに即興舞ができないとお思いか。受けて立とうではないか」

 その一曲は、まさに見物となった。弥次郎の伴奏も過激であったが、灰神楽の舞いはそれ以上だった。灰神楽の小柄な身体は躍動し、汗が飛び散り、寒空のなかで煙となった。木樵たちは手を叩き、足を踏み鳴らし、歓声をあげ、口笛を飛ばし、二人の掛け合いを楽しんだ。

 何曲舞っても灰神楽は疲れず、むしろ勢いを増すほどであった。三味線の韻律も衰えず、時を追うごとに冴え渡った。酒宴の盛り上がりは、かつてないものになった。あとは収拾のつかないどんちゃん騒ぎになる。羽目を外しすぎ深更まで騒ぎ続けたため、後片付けを翌朝にしなければならないほどであった。

 酒宴を終えて、灰神楽は逆境のなかでも学ぶことはあると実感した。今日風の伴奏つき即興舞、かつて試したこともない課題を与えられ、こなせたのは大きかった。観客である木樵たちの反応を見ながら、逐次舞いを編み出していく経験もできた。なにより灰神楽にとって、初めてのことに挑む気概を持てたのは、自分ながら意外であった。奉行家の姫君として大事にされる生活では、ありえないはずの成長を獲得したのだ。

 今宵の成果に満足を覚え、将来に向けてかすかな光明を見出しつつある灰神楽に、熊吉が声をかけてきた。

「俺は昔、都のある大臣家に下僕として仕えたことがある。俺はある日、舞いをよくする姫君の噂を耳にした。その姫君は舞神女と呼ばれていたそうだ。俺は『たかが童ごときに大袈裟な』と思い、鼻で笑ったものだよ。だが後に、俺は自分の愚かさを思い知らされた。その舞神女様の家に使いに行く用事があったのだ。その家には舞殿があって、一人の美しい姫君が一生懸命に舞いを練習しておられた。あまりにもお美しい姿だったから、俺は用事も忘れ、分もわきまえずに、しばらく見惚れてしまったほどだ」

 熊吉は、多福女面に隠された灰神楽の表情をうかがいつつ、さらに問うた。

「灰神楽、おまえはひょっとして……」

「やめてっ」

 灰神楽は、熊吉に最後まで言わせなかった。

「舞神女と呼ばれた姫は、もうこの世にいないのです。ここにいるのは、皆様にお仕えする下女の灰神楽。それでいいではないですか」

 熊吉は返事を無理に求めることをしなかった。今は言いたくないことが山ほどあるに違いない。灰神楽が実は舞神女であると確信が持てさえすれば、それで充分だったのだ。



 夕食のあと、寝る前に舞うことは、灰神楽の日課となった。早々に眠りに就く木樵もいるため、迷惑をかけないよう、いくら寒い夜でも舞う場所は飯場の外でなければならなかった。灰神楽の舞いには、弥次郎ほか数名の木樵がつきあった。弥次郎の指摘はいちいち厳しく、辛辣で、皮肉でもあったが、灰神楽にとっては新たな教唆を示すものだった。弥次郎は今日風の造詣が深く、不協和音進行や高速変拍子などの芸当までこなせたため、学ぶべき点が多かった。他の木樵たちも、学がないだけにかえって、舞いの良し悪しに対する反応は素朴かつ正当であった。

 毎夜の問わず語りのうちに、灰神楽には木樵たちの身の上がわかってきた。当たり前といえば当たり前のことだが、こんな奥山に好んできた者など一人もいないのであった。例えば、借金を払えず我が身を売らなければならなくなったとか、罪を犯し追捕の手を逃れるため身をやつしたとか、まっとうな職をついに得ることができず流れ流れてきたとか、十人十色の事情があった。

 灰神楽は不幸の身の上となったが、世の中にはもっと多くの不幸があると思い至らざるをえなかった。自分だけではない、という思いは心の支えとなった。誰もが不幸に耐える日々を送っている以上、自分一人だけが不幸に負けるわけにはいかなかった。

 寒月天空に明るき大寒の夜、おそろしい災厄が飯場にやってきた。寒さに凍え、飢えきった狼の群が、飯場を襲ってきたのである。いつものように外に出ていた灰神楽や木樵たちは、あまりにも無防備だった。

 不意を襲われた格好となったが、木樵たちの判断は冷静かつ沈着だった。弥次郎らは灰神楽を囲んで円陣を組み、焚き火を手にとって狼を威圧した。弥次郎は指笛を高く鳴らし、既に眠っている木樵たちを起こすことも試みた。ところが、毎夜賑やかに舞っていることが災いし、助けを求める声は届かなかった。狼はうなり声をあげて威嚇し、牙を月光にきらめかせた。じりじりと睨みあいが続いた。張り詰めた時が、いたずらに過ぎていった。

 狼の一匹が飛びかかってきた。弥次郎は正確に、焚き火を狼の鼻面に叩きつけた。きゃん、と悲鳴をあげて狼は吹き飛んだ。他の狼は反撃を警戒し、じわじわと包囲の輪を縮めてくる。別の一匹が両足立ちになって爪を立てようとした。木樵たちは焚き火を振って対抗する。一進一退。しかしこのままでは、まともな武器のない弥次郎たちが明らかに不利であった。

 そんな状況のなかでも、灰神楽は円陣の中心でしっかり守られていた。狼の牙や爪はもとよりのこと、鼻息さえ浴びることはなかった。弥次郎をはじめとして、木樵たちは灰神楽を守りきることに必死だった。否、木樵たちは必死になっていると自覚してさえいなかった。灰神楽を守るのは義務であり、保護者としての責任という一途さがあった。

 灰神楽は自分だけが特別扱いされるのを好まなかったが、身を守る術を持たないか弱き存在である以上、木樵たちに頼るしかなかった。こうして灰神楽は、自ら道を切り開くだけではなく、人生には流れに身をまかせることもあると知ったのである。

 眠っていた木樵の一人が起き出し、表の異変に気づいたことで、勝負はあっけなく決した。斧や鉈だけではなく、弓矢まで持ち出されては、如何に凶暴な餓狼であろうとも敵ではなかった。あわれ狼の一群は、糧を求めて飯場を襲ったはずなのに、ことごとく殺され我が肉を供する羽目となってしまった。





次章に続く

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