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虹金





 熊吉たちの飯場は、独立自営しているわけではなかった。虹金という男が経営する鉱山の麾下にあり、主に坑道を支える丸太やさまざまな建物に必要な材木を供給していた。

 そのような関係にあったから、年に一度は虹金の鉱山に出張し、近況を報告する義務が熊吉にはあった。その季節は春、同じような麾下飯場の頭が集まる機会が用意されていた。

 飯場頭が一堂に会する議場においては、この一年の推移を報告する義務があり、すぐれた実績を残した飯場は表彰された。虹金という男はたいへんまめで、その場で話を聞くだけではなく、必ず裏づけもとっていたから、姑息な粉飾はまったく通じないのであった。

 虹金とは、白金、金、銀、銅、鉄に水晶と翡翠の宝石を加えた七種の鉱物を指し、それら全てを掌握する鉱山を営む気概を示した名乗りだった。もっとも、よく採れるのは銅と鉄、金は砂金が少々得られるだけ、白金に至っては滅多にあたらずと、願望が先行する名でもあった。

 虹金の面相は虎髭に覆われ、年齢は明らかではなく、生地も両親も不詳と、謎が多い人物ではあった。鉱山を営むだけでなく、隣国を跨いで手広く商いをしており、東奔西走かつ神出鬼没、つかみどころが乏しいという意味でも謎の人物であった。

 虹金が上座から飯場頭たちを見据える厳粛な空気のなか、議事は静かに進行した。熊吉の飯場は今年も表彰から漏れた。しかし、それはやむをえないことであった。なぜなら、熊吉の飯場は鉱山から最も遠い場所にあり、輸送費が嵩むなど、不利な条件が多々あったからである。

 だからといって、熊吉は虹金から遠いわけではなかった。むしろ、飯場頭のなかでは最も近い間柄にあった、ともいえる。もともと熊吉は、自ら虹金に訴え、最も遠い飯場に置かれることを望んだのである。わけあり者が多い鉱山であっても、不利な場所を敢えて希望する者は少ない。虹金は、そんな熊吉を気にとめていた。

 議事を全て終えたのち、熊吉は虹金への面会を願い出た。虹金は多忙であり、それ以上に表彰もされぬ飯場頭の僭越と睨まれるおそれもあったが、願い出るだけの価値と意味はあった。虹金は、はたして面会に応じた。熊吉が通された小部屋に、虹金は大股で飛びこんできた。

「久しいな、熊吉」

「虹金様こそ、御健勝そうで、なによりにございます」

「堅苦しい挨拶は要らぬ。おれになにか願いごとがあるのだろう」

「御明察」

「最遠の飯場頭には、さすがに飽いたか。あそこでは、表彰するのは難しい。もっと近いところ、あるいはこの鉱山に異動したくなったか」

「滅相もございません。拙者は、我が身のことを願おうなどとは思いませぬ」

 虹金は真顔になった。熊吉の固い態度は、あの時と同じではないか。虹金は熊吉の心を知っていた。ある女に深い愛を抱き、けれどその愛の成就はありえないゆえ、人の世から姿を消したい、というのが熊吉の望みだったのだ。

「熊吉、正直に答えよ」

「御意」

 虹金の言葉遣いが真剣そのものになったことを、熊吉は覚った。

「おまえは昔、成就することのない愛を抱いたと言った。おれは、そんなおまえを弱気にすぎると思った。古諺に曰く、成せば成る成さねば成らぬ、と。人たる者、自らの意志を貫き通せば、必ず成就するものだ。おれはそう信じている。だが、おまえはそう思っていない。なぜだ」

「虹金様はまだお若く、そして運命に恵まれているからでございます」

 静かながら、気迫を籠めて熊吉は応じた。

「運命、だと」

「御意。虹金様が仰られるとおり、自らの意志を貫き通せば、拙者ごときの詰まらぬ者でも愛を成就することが出来たかもしれませぬ。しかし、拙者の運命は小さく、かの女の運命はあまりにも大きく、身分違いという以上に釣り合いませぬ。もし仮に、当時の愛を成就させれば、拙者は幸福であったかもしれず、またかの女も小さな幸福を感じたかもしれませぬ。ですが、その女がほんらい持つ運命を阻むことになり、それは天道に対する深い罪となりましょう」

「人生には至るところ岐路がある。その女性の進む道をおまえの側に持ってきては罪だと思った。そういうことか」

「まさに御明察」

「おれは運命など自ら切り開けると信じている」

「そのお強い心そのものが、虹金様の運命なのでしょう」

「言うわ」

「そして、運命は再び拙者の許にめぐってまいりました。なんと有り難いことでしょう」

 虹金は言葉を失った。熊吉はぽろぽろと涙をこぼしているではないか。

「拙者の飯場に灰神楽という女がおります。この女、拙者ごときの飯場に置くには勿体ないほどの才覚ある者。なにとぞ虹金様の御手許、鉱山にて召し使われますよう、お願い申し上げます。商方頭としても存分の働きが出来ましょう」

「鉱山に人多きとはいえ、実は人材が少ない。そのような者を得られれば助かるが」

 表情を険しくして虹金は溜息をつく。鉱山では、能力があっても正しく行使しない者が多い観は否めなかった。特に商方の状況は深刻であった。今の商方頭、飛猿が不正を働き資財を蓄えていることを虹金は察知していた。しかし飛猿は狡猾で、確実な証拠をつかませなかった。不正を暴くために密偵を置いても、飛猿は鋭敏に感づき、決して身辺に近づけさせなかった。

 飛猿は、まさに獅子身中の害虫であった。主と商方頭が相互に警戒しているとあっては、鉱山に波乱が起こる日も遠くないはずだった。

「虹金様の大志、拙者もよく承知しているつもりです。しかし、惜しむらく、志をともにする者が少のうございます。このまま大志を展べることは難しい、と申し上げざるをえません」

「その灰神楽とやらは、おれと志をともに出来るというのだな」

 話を先取りする虹金に、熊吉は力強くうなずいた。

「おまえは、おれをよく知っているであろう。おれの目にかなう女なのか」

 虹金は精力絶倫の男であった。毎晩肉体を満たさなければ眠ることも出来ず、そのためだけに仕える女が常に十名近くいるほどであった。それゆえ虹金は好色な男と認められていた。しかし、それだけの激しさも、虹金の表面にたゆたうさざなみでしかなかった。虹金が真に求めてやまず、怒濤の狂おしさで必要としていたのは、才あふれ、機転がきき、心をも満たしてくれる良き伴侶なのであった。

「御意。もしお目にかなわなければ、この首を刎ねられても苦情は申しませぬ」

 再びの虹金の溜息は、明るい前途を見出した者の溜息だった。他者のため我が身を犠牲にするのも厭わないとは、覚悟と確信がなければ出来ないはずである。虹金はそこに熊吉の気概を感じ、灰神楽の“運命の大きさ”をも感じとったのであった。

「わかった。灰神楽は鉱山に貰おう。そして、おまえの飯場の者も全て鉱山に参集せよ」

「なんと仰せられる。拙者は灰神楽の身を救いたい一心のみ。我が身を救おうとは……」

 熊吉の言上を虹金は乱暴に遮った。それは、運命を自ら切り開こうとする男の真摯さがさせたわざであった。

「わかっている。だからこそ呼ぶのではないか。おまえは今言ったばかりではないか。おれには志をともにする者が少ないと。おれは志をともにする者に渇望しているのだ。熊吉よ、おまえの身を救うためではなく、おれを救うために、鉱山に来い」

 熊吉は恐悦し、平伏した。諭すように虹金は続ける。

「だから抗ってくれるな。これはおまえの運命なのだ」

 そう、運命の歯車は、鉱山を軸に回り始めたのであった。



 雪がとけ、春になって、いよいよ山仕事の本番という矢先、全員が鉱山付になれとの命令は、木樵たちにとって唐突なものだった。しかし、嬉しい命令であることは確かであった。今の飯場は、人煙あまりに稀すぎる絶地にあった。鉱山のような人気が多い場所に戻ることは、木樵たちの宿願なのであった。いうまでもなく、灰神楽にとっても嬉しい出来事であった。

 飯場にしっかりと施錠し、荷をまとめ、灰神楽と木樵たちは隊列を組んで出発した。雪どけの泥濘のため、日に五里も進めない足どりではあったが、一行は着実に歩を刻み、鉱山に近づいた。

 木樵たちの表情は皆一様に明るかったが、一人だけ険しい顔をしている者があった。弥次郎である。木樵たちは鉱山の力仕事に回り、灰神楽は台所方に配されると聞き、弥次郎は焦っていた。このままでは、自分の心を伝えることなく、離れ離れになってしまう。断られるならばまだ諦めも出来よう。なにも言えずに終わるのは、弥次郎にとって切なすぎた。

 鉱山を目前にしたある夕方、一行に寸暇が生じ、灰神楽はひとりで舞いを舞っていた。これが最後の絶好機とばかりに、弥次郎は灰神楽に近づこうとした。しかし、それはかなわなかった。

「行くな」

 弥次郎の前に立ちはだかったのは、熊吉であった。

「お頭、止めないでくれ。確かに俺は最初、ただやりたいがために、灰神楽を求めた。今は違う。あの舞いの天才に、心の底から惚れちまったんだ。振られちまうなら、しかたねえ。でも、告白だけはしておきたいんだ」

「弥次郎、おまえが真剣になったればこそ、俺はおまえを止めねばならぬ」

 熊吉の口吻には、有無を言わさぬ厳しさがあった。しかし、弥次郎にとっても一生の大事なので、踏ん張りどころであった。

「お頭、後生だ。告白させてくれ」

「では弥次郎、考えてみよ。なぜ突如、俺たちが鉱山付になったかを」

 きょとんとして弥次郎は、ぼんやり考えてみた。灰神楽恋しに凝り固まった頭に、考えることは苦痛でさえあった。それでも答は、出た。それは自分が最も望まない答であった。

「まさか、俺たちは灰神楽まるごと、身請けされたというのか」

 それにはまっすぐ応えず、熊吉は訓戒だけを述べることにした。ただし、弥次郎が理解できるように噛み砕くのは、熊吉にしても難しいことであった。

「灰神楽様は、これから大鳳の翼に乗り、天高く羽ばたいて往かれる。我々はその余徳を得て、人の世に還ることが出来るというわけだ。わかるな、弥次郎。我々は既に、灰神楽様から恩義を受けているのだ。それ以上を求めては、罰があたるというものだ」

「そうかい。俺たちの手が届くはずもないお姫様と、一緒に寝起き出来ただけでも幸せに思え、ということかい。切ねえなあ。思い出にするには、灰神楽、あんたの舞いは綺麗すぎたぜ」

 涙を含む弥次郎に、熊吉はさらに過酷な運命を伝えなければならなかった。

「泣くな、弥次郎。それがおまえの運命であり、これからの道はもっと険しいのだ。灰神楽様は、苦難の道を歩まれていかれる。我々は灰神楽様をお慕いしつつ、縁の下に隠れて、黒子に徹して、お支えし続けなければならない」

「わかったよ。ほかの奴ならばともかく、お頭にそう言われては、忍ぶしかねえ。なにしろお頭が灰神楽に惚れたのは、俺よりも数年の長があるからな」

「なにっ」

 弥次郎の減らず口に、熊吉は思わずかっとなり、襟首をつかみあげた。まったく、妙なところで鋭い勘がはたらく男であった。

「安心しろ、誰にも言わねえよ。墓場まで持っていくさ」

 熊吉の手をふりほどき、弥次郎は去っていく。向こうでは、灰神楽がひとり舞い続けていた。その神々しさは、都で見た舞神女の面影そのものであった。





次章に続く

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