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累進





 実のところ、薄野は浮かれきっていて、自分を見失っていた。虹金が部屋に通ってくる頻度が増した喜びのあまり、有頂天になっていた。だから、灰神楽の紙包みの意味など、考えようともしなかった。

 しかし、浮かれる者は高転びに転ぶのが、世の常なのであった。虹金が足しげくなった理由は、薄野への愛に基づいていなかった。薄野の挙措動作の変化に興味を覚え、その背景を解明したくなったからであった。

 詰まるところ、虹金は薄野を見ておらず、薄野に変化を与えた者を見きわめようとしていた。それは薄野にとって小さな不幸といえたが、救いがたい不幸では必ずしもなく、人生の面白さと形容すべきであった。

 今宵も虹金はやってきた。上気した顔で薄野は迎え入れ、熱誠を籠めて応接した。夜が更けてほとぼりが冷め、帰り支度を始めた虹金に、薄野は紙包みを無邪気に差し出した。

「これ、あたしに仕える小頭が、渡して欲しいって言ってた。中身はなにか聞かなかったけど、やたらと重たいし、仕事向きのものかもしれない。どうする、今すぐ持ってくかい。それとも、あとから届けさせようか」

 虹金は目をむいた。紙包みの外からでもわかる。これは帳面の束ではないか。

「ここで読ませてもらう」

 封緘をほどき、内容をひととおり確かめ、まずは読み通してみた。間違いない。飛猿の不正の動かぬ証拠が眼前にあった。包みを再び閉じ、虹金は言った。

「これは持ち帰る。ところで、この包みを寄越した小頭の名はなんという」

「灰神楽、だけれど」

 いかつい虹金の髭面に、満月のような笑みがこぼれた。嬉しかった。虹金が手を差し伸べないうちに灰神楽の方から飛びこんでくるとは、望外の喜びであった。目を丸くしている薄野を置き捨て、虹金は部屋を飛び出した。ほとんど駆け足になって、虹金は執務室に引き返した。そこに影のような男が寄り添ってきた。執事長の井吹であった。

「虹金様、なにごとで」

「おれの部屋に台所方鍋組小頭の灰神楽を呼べ。それから、刑吏を集めて待機させろ」

 虹金の目は爛々と燃えていた。永く続いた悪弊をとうとう一掃できるのだ。勇躍すべき時は、まさに今であった。

 ことは素早く進めなければならなかった。しかし、決め打ちで飛猿を捕縛するよりも、灰神楽の意見をまず聞くべきであった。焦れば仕損じることもある。万全の形で臨みたかった。灰神楽はすぐやってきた。虹金の呼び出しを待っていたに違いなかった。そんな小さな心掛けが、虹金には嬉しかった。

「灰神楽、帳面には目を通してみた。不正があったことは明らかだ。だが、念には念を入れねばならぬ。証拠が偽物と疑われてはならぬ。商人たちの帳面、おまえはどのように入手した」

「日頃の取引のなかで、お願いして頂戴しました。商人たちを呼び出すならば、商方との取引について、喜んで証言に応じてくれるでしょう」

 打てば響くような答だった。

「この証拠では、不正があったと指摘できても、誰がやったかはわからぬ。如何すべきか」

「商方は高々五十名、全員を捕らえるのは難事に非ず。じっくり時間をかけてお調べになれば、首魁は自ずと明らかになるでしょう」

 またも打てば響くような答だった。虹金が発すれば毒になる言葉を、かわりに言い切った機知も素晴らしかった。たいしたものだと感心しながら、虹金は号令した。

「よし、刑吏は急行し、商方の全員を捕縛せよ。翌朝から取り調べを始める」

 まさに電光石火の早わざ、寝静まっているところを急襲されては飛猿になす術なく、逃げる間もなく、抗うことも出来ずに捕らえられたのであった。



 飛猿の手口は狡猾である以上に慎重そのものだった。虹金が直々に取り引きする鉱石や鉱製品の売上にはまったく手をつけていなかった。いくら金額が大きくとも、不正が露顕しやすい資金には触れようとしなかった。そのかわり、食糧や日用品など細々したものを購入する際の支出に狙いをつけていた。一つ一つの金額は小さくとも、万余の人数がいる鉱山で積み上げるならば、莫大な富を得ることが可能になるのであった。

 新年を目前にして、大がかりな取り調べが続けられた。鉱山に出入りする商人たちから証言を得て、帳面が照合された。灰神楽が集めた証拠は氷山の一角にすぎず、鉱山の支出はおよそ四割近く水増しされ、飛猿に掠められていた。

 商方の者たちの証言も集められた。ほとんど全員が飛猿の手先と化していた。中には理非善悪をわきまえず、それが正しい道だと思いこんでいた者さえいた。個別に取り調べたため、相互に疑心暗鬼となって、誰もが簡単に口を割ったため、証拠固めは順調に進んだ。横領された資金が蓄えられた場所もわかった。鉱山一年の総売上をも超える、まさに巨万の富だった。

 飛猿は初め黙したままだったが、動かぬ証拠を突きつけられると、立て板に水を流すかのように喋りまくった。人間は窮地において本性をあらわす。飛猿にしても不幸な生い立ちがあって、それを誰かに知ってもらいたかったのだ。しかし、いくら不幸であっても、悪事を赦免する材料にはなりえなかった。

 晦日、虹金は飛猿を死罪に処することを決めた。長年に渡り我が目を欺き続けてきた飛猿を、虹金は断じて許すことが出来なかった。

 商方の者たちは、脅され無理に従わされていた数名を除き、特に危ない掘方に分散配属させることにした。危険が多く事故がつきまとうため、荒れがちな掘方をなだめるための犠牲であった。虹金の措置は残酷そのものと評するしかないが、働く者たちの心の平衡をよく読みとることは、鉱山の経営にはどうしても必要な資質であった。

 商方の人事には、取調開始直後から手をつけていた。過ちが二度あってはならなかった。資金のやりとりを司る才覚もさることながら、虹金への忠誠心が高い者たちを集め、遅滞なく事務を再建しつつあった。問題は誰を商方頭とするかであった。他方の頭や副頭を充てようにも、帳面の中身すら理解できるかどうか、おぼつかないものだった。台所方の頭と副頭には適任者がいたものの、飛猿に籠絡されていたため、いずれ更迭しなければならなかった。

 さまざまな名が浮かんでは消え、最後に一人だけが残った。否、より正確にいえば、最初からそれが虹金意中の者ではなかったか。

 大晦日、虹金は灰神楽を呼んだ。用件は明快であった。

「灰神楽、そなたが商方頭を務めてくれ」

 実は灰神楽、虹金がそう言ってくると予想していた。信賞必罰の虹金が褒美を用意しないはずはないと読んでいた。しかし、人の倫を歩む者として、受けてはならないことだと思っていた。

「なりませぬ。わたしが商方頭になっては人の倫に外れます」

「なぜ」

 口では咎めつつも、虹金は失望していなかった。なぜなら、潔癖な灰神楽は必ずそう応えると読んでいたからである。これにどう切り返すか考えていたために、決断が大晦日までずれこんでしまったのだ。

「わたしは不正を許せず、商方を告発いたしました。その罪は罪として、わたしは商方の者たちを貶めたのです。そんなわたしが累進しては、朋友を売って高位を得たと罵られましょう。どうか御勘弁願います」

「近う」

 虹金は灰神楽を近くまで呼び、手をとった。ごつごつした手から、ぬくもりが伝わった。

「累進を辞退すれば、そなたの良心は確かに満たされるだろう。だが今、この鉱山に人多くとも、人材は少ない。まして商方五十名を放逐するのは、たいへんな痛手なのだ。そなたは人倫に悖る悪評を恐れているが、そんなもの、このおれが守ってやる。そして、このおれを助けてほしいのだ。おれはそなたの告発に酬いるためでなく、そなたの才覚と力量を見込んだからこそ、商方頭をまかせたいのだ。灰神楽よ、おれの期待に背いてくれるな」

 なんと力強く、そしてやさしく、心の奥まで入りこんでくる男なのか。灰神楽のなかに新たな感情が芽生えた。それは近い将来、愛という大樹に育つはずだったが、うぶな灰神楽はその正体に気づかず、どぎまぎするだけだった。

 明けて新年元旦、灰神楽が商方頭に就くと発表され、新年祝賀の席にて披露された。この人事に驚きを感じる者はいなかった。灰神楽はもはや無名ではなかったのだ。舞いの大才として鉱山じゅうの誰もが知っており、商方の不正を見抜いた慧眼ある者として雷名を得ていた。灰神楽が商方頭になることは、誰の目から見ても自然であり必然でもあった。

 この一件はいくつかの史書に採り上げられているが、史書の堅い記述より民間に広がった童歌の方が、灰神楽への素朴な崇拝を伝えるものであろう。

   むかしむかし
   地の下の大穴に
   一匹の悪い猿がいて
   村人たちが丹精籠めた実りを
   つまみ食いしてました
   村人たちは困ったけれど
   誰の悪さかもわからない
   そこに神女が現れて
   舞いをひとさし舞うと
   あら不思議
   天から光が降り注ぎ
   大穴が露わにさらされて
   悪い猿はつかまって
   火に炙られ罰を受けました





次章に続く

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