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魔法使いナトラ
アルジュばあさんが山に隠れてからはや半年を越える。その間、ばあさんの隠れ家を見つけた者はいない。だから、ばあさんを見つけるまでがひと苦労かと、まずは思った。
ところが、ばあさんの家は簡単に見つかることになる。村の上流、川が山を回り込んだところに広がる湿原のほとりに、その家は建っている。
不思議な家だ。丸太で組み上げているくせに、隙間らしきものが見当らない。これは明らかに人間の仕業ではない。魔法の力なくしてはできないことだ。扉には太陽と月をかたどった紋章が掲げられている。アルジュばあさんのものだ。
扉を叩いてみる。ひとりでに扉が開く。どうやらおれはばあさんに導かれていたらしい。おれは家の中に足を踏み入れる。
「田を分ける者をたわけという。たわけどもがいくら集まったところで、所詮は烏合の衆。賊を打倒することなど及びもつかぬ」
闇の中でばあさんがつぶやいている。
おれは右膝を着き、左膝を立て、右手を胸に当てて、ばあさんに挨拶する。これが魔法使いに対する最大の敬礼だと、ばあさんに教わっているからだ。
「魔法使いアルジュ様。お久しぶりでございます。ハリヤめが、今、まかりこしました」
「ハリヤかい。近う寄れ」
闇の帳が払われる。おれは両膝を着いてばあさんに近づく。
ばあさんは、ばあさんと呼ばれるにふさわしいほど老いていた。髪は真っ白、顔は皺だらけ。去年のばあさんと同じひととはとても思えない。おれの心を読み取ったか、さも恥ずかしそうな声でばあさんは言う。
「ほんとうはこんな醜い姿をさらしたくはなかったのじゃが。どうやら、そんなことを言ってる場合じゃないらしいの」
「はい。昨日の朝、村は賊に襲われました。首領とおぼしきダケマなる男は特に手ごわく、誰もかないませんでした。恥ずかしながら、このおれも、ダケマの体に触れることもできずに敗れてしまいました」
「なるほど。ひどい顔をしているの。どれ、もっと近う寄れやい」
ばあさんはもごもごと言葉を唱えながらおれの顔に手をかざす。痛みがゆっくりと退いていく。ばあさんの魔法はこんなものじゃなかった。以前より効きがめっきり弱くなっている。
「これでよし」
「ありがとうございます。ところで、アルジュ様にお聞きしたいことがございます。このハリヤ、ダケマなる賊には全く歯が立ちませんでした。どうやったらあの賊を退治できるでしょうか」
「おまえがいくら頑張ったところで奴らにはかなうまい。ダケマとやらは腕に魔法を籠めておる。生身の人間がかなう相手じゃない」
「やはり」
村長の読みは当たっていた。ダケマの強さは魔法によるものだったのだ。
「そんな相手に立ち向かうのは勇気に似て勇気に非ず。ただの蛮勇にすぎぬ。殺された者どもは度し難き愚か者ばかりよ」
「言葉もありません」
「じゃが……」
皺の奥でばあさんは目を細めている。
「おまえには巨大な勇気がある。退く勇気。かなわぬ敵と争わぬ勇気。助けを求める勇気。どれもこれも素晴らしい勇気ばかりじゃ。もっとも、おまえにまだ欠けている勇気が一つある。それは、誰かのために身を捨てる勇気じゃ。この勇気を持てない限り、おまえは一人前とはいえぬ」
「はい」
ばあさんの言う通りだ。おれは誰かのために命をかけようとしたことがない。
「気にせずともよい。おまえは命をかけるべき相手とまだ巡り会ってはおらぬ」
「そうなのでしょうか」
おれは確信が持てない。おれは誰かのために命を捨てるような男なのだろうか。
「そうじゃ。いずれ、気づく」
不意にばあさんは咳き込む。
「大丈夫ですか」
慌てるおれをばあさんは制する。
「見ての通りよ。わしにはもう力がない。昔あれだけ充実していた魔法の力もすっかり失せた。今では自分を生かしておくだけで精一杯。とても賊を追いやることなどできぬ」
「では」
「ハリヤよ、南に向かえ。南に赴き、イェドゥア城に行け。そこにわが孫娘がいる。わが孫娘に助力を乞い、賊どもを駆逐せよ」
「娘さんの名は、なんと」
「ナトラという。極めて勝気な娘ゆえ、御するのはなまやさしいことではなかろうが、賊と戦うにはナトラを措いて他はない」
「ナトラ、ナトラ。覚えました。して、ナトラ様はイェドゥア城のどちらにおわすのか」
「あの孫はイェドゥア城でも一二を争う魔法使いと聞く。イェドゥア城まで行けば、労せずともナトラの許に辿り着けるはずじゃ」
「ありがとうございます。では、早速」
「待て」
ばあさんはおれを呼び止めると、しげしげとおれの全身を見つめてくる。あたかも値踏みでもするように。やがて、ばあさんは確信を持ったように破顔する。
「イェドゥア城に着き、最初にナトラに出会った時に『ナトラ』と呼びかけてはいかん。ナトラとは通り名。最初の挨拶では、かの最大の敬礼をもって、ナトラの本名を呼びかけるがよい」
「わかりました。して、ナトラ様の本名は」
「ナトリャッカチ・ナーダ=スァ・フォイエルンベルゲルス」
「はあ」
なんという長い名だ。
「もう一度言う。ナトラの本名はナトリャッカチ・ナーダ=スァ・フォイエルンベルゲルス」
「ナトリャッカチ・ナーダ=スァ・フォイエルンベルゲルス。ナトリャッカチ・ナーダ=スァ・フォイエルンベルゲルス。覚えました。覚えましたよ」
「よろしい」
ばあさんはすっかり満足したように見える。
「扉の脇に金と武器がある。イェドゥア城は遠い。必要なだけ持っていきなさい」
「はい。ありがとうございます」
南方百里の彼方にイェドゥア城はある。その城門の前に立つまでに、おれはひと月を要した。
長かった。途中、色々なことがあった。山賊に襲われたこともある。嵐に遭ったこともある。詐欺に引っかかりそうになったこともある。ようようの思いでイェドゥア城に着いた時、おれはほとんど無一文になっていた。
もし、魔法使いナトラを村に連れ帰れなければ、おれは城の片隅で野垂れ死ぬしかない。それほどまでに、おれは窮迫している。
門の衛士はおれのようにみすぼらしい旅人の来訪を見慣れているようだ。咎めだてられることもなく城内に入る。
凄まじい雑踏だ。城内は人の熱気で溢れている。道の両側には露店が並び、辻毎に大道芸人が芸を競っている。多くの人が行き来する中、おれは自分の意志で道を進むことができないでいる。押され押されて、川の流れに弄ばれる木の葉のように漂っているに近い。
高い塔が見える。尖峰のようなあの建物に住んでいるのは誰なのだろうか。道の両脇に続いている家はことごとくが三階以上の建物だ。平屋しかない村の風景を見慣れた目には重苦しい。
どれだけ歩いていただろう。おれは閑静な街筋に紛れ込んでいる。ここにもいくつか店は出ているが、露店はなく、人通りも少なく、いかにも上品そうな趣がある。旅の垢にまみれたおれには居心地の悪い場所だ。
前から中年の女がやってくる。ともあれ、道を訊ねなければ始まらない。
「あのう、ちょっと道をお聞きしたいんですが」
女は露骨にいやそうな顔をする。不愉快なことだが、ここはこらえるしかない。
「どこまで行きたいの」
つっけんどんに女は言う。早いところおれから逃れたいという風情だ。
「魔法使いナトラの家に」
答えを得ることはできなかった。女は小さな悲鳴をあげ、足早におれから逃げていく。よほど慌てているらしい。角を曲がるところで派手に転んだ。おれを見る目が恨めしそうだが、おれが突き飛ばしたわけではない。
女の行動からわかったことが二つある。一つ、ナトラの家はこの近所である。一つ、ナトラは人に恐れられている。
アルジュばあさんはナトラのことを「極めて勝気な娘」と形容していた。どんな娘なのだろう。早く会ってみたい。
歩くうちにいい匂いが漂ってくる。惣菜屋だ。つられて中に入ってみる。
「いらっしゃい」
景気のいい声だ。奥から恰幅のいい初老の女将が現われる。
「なんにしましょう」
「ええと、この肉の煮物と……」
いかん。腹が減っているものだから、食べ物の方に目がいっている。
「あ、違います。すいません。道を教えてほしいんです」
「あらあら、そうなの。でも、あんた、その様子だと、よほどおなかをすかしてるね」
「すいません。その通りなんです」
「いいよ。ここにおいてあるもの、なんでもいいからお食べ」
「え。おれ、お金を持ってませんよ」
「いいから、いいから。今日のところはおごりにしとくよ」
「ほんとうですか」
女将の好意がありがたい。実は、昨日の朝からなにも食べてなかったのだ。おれは礼を言うと、手が届く範囲のものを手あたり次第に口に入れる。
「満腹したかしら」
女将は熱いお茶まで用意してくれる。行き届いた心配りがとてもうれしい。
「はい。堪能しました」
「よかった。で、あなた、どこに行きたいの」
「魔法使いナトラの家です」
「あら」
女将は丸い目をさらに丸くする。
「ナトラの家ならこの向かいよ」
「そうだったんですか」
われながら間抜けなところで道を訊いたものだ。しかし、女将にとってはよくあることらしい。急に真顔になって話しかけてくる。
「あなたもナトラになにか頼み事があるのかな」
「はい」
「気をつけて話した方がいいよ。あの子、ものすごく気むずかしくて、おっかないんだから」
「御忠告に感謝します。それから、食事を頂いてありがとうございました」
礼を言って通りに出る。
惣菜屋を出た目の前に、紅蓮の炎をかたどった紋章を掲げた扉がある。勝気な娘にふさわしい、派手やかな紋章だ。五段の階段を上がり、扉の前に立ち、来訪を告げる。
「ごめん。ごめん」
扉はひとりでに開く。その瞬間におれは顔を伏せ、右膝を着き、左膝を立て、右手を胸に当て、挨拶の口上を述べる。
「魔法使いナトリャッカチ・ナーダ=スァ・フォイエルンベルゲルス様にあらせられますか」
「えっ」
驚いたような声が降ってくる。しかし、制止はされない。おれはさらに口上を続ける。
「初めてお目にかかります。イナダオク村のこのハリヤ、あなたの祖母たるアルジュ様の紹介にあずかり、まかりこしました」
「よもやわたしの本名を知る者が現われるとは。ハリヤとやら、以後、わたしをナトラと呼べ。面を上げよ。楽にしてよろしい」
ゆっくりと顔を上げるおれの目に、ナトラの姿が映る。
美しい。切れ長の目、よく通った鼻筋、引き締まった口許、抜けるような白い肌、烏の濡れ羽のような豊かな黒髪。なによりも瞳がいい。激しい情熱の炎を秘めた瞳はどこまでも澄み渡っているではないか。
「ばば様の紹介とは珍しや。いったい何用で参ったか」
「実は」
おれはことの経緯を詳しく語る。ダケマを筆頭とする賊に村を襲われたこと、ダケマにはおれを含めた村の誰もがかなわなかったこと、そのため米を差し出さざるをえなかったこと、そして、夜襲をかけようとした四人の兄弟が殺されたことを。
「わかりました。中にお入りなさい」
ナトラに導かれ、家の中に入ったおれは、狭い一室に通される。
「その椅子に座りなさい」
言われるままに、椅子に座る。
ナトラが部屋から出るや否や、猛烈な風が吹き荒れ、おれの着衣は全て引き剥がされていく。抵抗するどころではない。椅子にしがみついているのがやっとだ。風がやむと、今度は強烈な雨。全身が痺れるほどの勢いで叩きつけてくる。雨がやむと再び風。飛び上がりたくなるほどの熱風で、濡れた体がみるみるうちに乾いていく。
風がおさまって、目の前に服が出現する。裸のままでいるわけにはいかないから、これを着るしかない。服を着て部屋の外に出ると、ナトラがにっこり笑って待っている。
「どう、ハリヤ。すっきりしたでしょ」
乱暴な娘だ。たかが水浴びにこれほどおおがかりな魔法を使うとは。近所から恐れられている理由がなんとなくわかるような気がする。
「御配慮、痛み入ります。おかげですっきりすることができました」
おれとしては丁寧な言葉を返すしかない。ナトラはどんなおかしみを感じたのか、身を折って笑い転げている。
「あんたねえ、ばば様から教わったんだろうけど、そんなばか丁寧な言葉遣いはやめなさいよ。もう、堅苦しくて堅苦しくて。肩が凝っちゃってかなわないわ」
こいつはとんでもないじゃじゃ馬娘だ。おれはナトラに安心と信頼を寄せ始めている。そして、好意をも。
おれは広間に案内される。今度の椅子はごくごくまともなもので、ゆったりとくつろぎながら座ることができた。
「今お茶を入れるから待っててちょうだい」
ナトラは台所に入っていく。その途端、なにかが落ちる音、砕ける音。どうやらナトラは家事の方はからきしのようだ。額に汗をにじませて、ようやくナトラはお茶を運んでくる。悪戦苦闘の跡は歴然だ。
広間の円卓をはさんでおれとナトラは向かい合う。会ったばかりという気がしない。茶を一服喫すると、百年の月日を経てきたようなさりげなさでナトラは言う。
「さっきの話でだいたいのところはわかったわ。一つ、気になることがあるの。村を襲った賊の首領の名はなんていったっけ」
「ダケマと名乗っていた」
「あんたが勝てなかったはずよ」
器を置き、面目なさそうな顔でナトラは言う。
「三年ほど前まで、西の都にガガエラという魔法使いの風上にも置けない奴がいたわ。ガガエラは金を貰ってならず者にいろんな魔法をかけていた。あんまり目に余るものだから、ガガエラは罰を受け、成敗されたわ。魔法をかけられたならず者どもは片っ端から捕まえられて魔法の力を消されたけど、何人かはまんまと都から逃げ失せた。その一人がダケマなのよ。ダケマがかけてもらった魔法はかなり高級なもので、動く速さは常人の三倍、力に至っては五倍も出せるようになったって聞いてるわ。普通の人間なんか、とても相手になりっこない」
「そうだったのか。道理で全く歯が立たなかったわけだ」
「悔しいでしょう、ハリヤ」
ナトラは上目遣いにおれを見る。煽るような言い方だ。
「悔しいさ。でも、おれのことなどどうでもいい。とにかく村からダケマたちを追い出さないと。奴らに居座られては村は滅茶苦茶になっちまう。お願いだ、ナトラ。どうかおれを、おれたちを助けてくれ」
「立派な心がけね。いいわ。あなたを助けてあげる。ほかならぬばば様の紹介だし、魔法使いの不心得者が播いた災いを見過ごすわけにはいかないからね。なによりも、わたし、あんたのことが気に入ったわ。わたしのようながさつ者でよければ、喜んで力になってあげる」
「あ、ありがとう」
それ以外の感謝の言葉が見つからない。ナトラはにっこりと微笑んでいる。その笑顔は確かにアルジュばあさんの面影を受け継いでいる。
「さて、まだお昼前だけど、今日のところは体を休めておきなさい。あんたは疲れ切っている。休息が必要だわ」
「そんな。村のことを思えば、のんびりしてなんかいられない」
「いいから」
突き放すように言うと、ナトラはすっくと立ち上がる。
「風よ。来たりてこの者を寝室へと導け」
一陣の風がどこからか舞い降り、おれを寝室へと運んでいく。どこまでも荒っぽい娘だ。おれが寝台の中に担ぎ込まれたことを確認すると、ナトラは次なる魔法を口にする。
「この部屋の温もりよ。この者に安らかなる眠りを与えん」
おれを包んで護るような温もりが満ちてくる。やることなすこと荒々しいナトラだが、案外、根は優しいのかもしれない。
旅の間中熟睡することを知らなかったこのおれが、たあいもなく深い眠りに落ちていく。
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