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「昭和史」につながる鉄道史として
序〜〜「歴史に学ぶ」
人間の歴史というもの
「成長」を求めて
日本史最大の変化点〜〜明治維新
膨張と急縮〜〜日露戦争以降
「就職先」としての受け皿
むすび
追補
■序〜〜「歴史に学ぶ」
「賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶ」という名言がある。たいへん奥行きが深い言葉だと、筆者は受け止めている。経験はどれほど得がたいものであっても、所詮は個々人の主観にとどまらざるをえない。それを体系化し一般化し普遍化することによって、初めて歴史という結晶に育っていくものではないのか。人間の叡智とは、おそらくそういうものであろう。
筆者が長期間に渡り書き継いでいるこの「以久科鉄道志学館」は、論語にいう「志学」を念頭に置いた銘であると同時に、「鉄道志・学館」という切り方をも意識している。「鉄道志」とは「鉄道史」、それゆえ英名には「Historical」という単語が含まれることになった。
歴史を意識するようになると、鉄道という枠組みだけではなく、歴史全体を見渡す興味も湧いてくる。そのなかで筆者には一つの不満がある。日本では未だまともな「昭和史」が編まれていない、ということだ。そして、昭和史を語るためには太平洋戦争を必ず採り上げなければならず、採り上げるからには戦争が起こった原因を分析しなければならない。勿論、今までに優れた研究が数多く呈されていることは確かだとしても、定説となりつつある見解にはいまひとつ納得しかねる要素を感じてもいる。
その典型は「明治の人は立派だったが昭和の軍部は愚かだった」という司馬遼太郎的な歴史観である。参考までにいえば、筆者は司馬遼太郎の著作を多く愛読し、その大部分を支持しているし、さらには文体にも大きな影響を受けている。それでも明治と昭和を対比するレトリックには腑に落ちないものが感じられてならないのである。
昭和の軍部が国政を壟断し、さまざまな局面で愚かな選択をし、結果として多くの国民を死に至らしめたことは事実であろう。その責任者として、特定の個人を挙げることには相応の意味があるといえる(※)。しかしながら、現時点でのその種の批判には「怒り」の感情が多分に含まれており、未だ「歴史」になっていない観がある。司馬遼太郎しかり、半藤一利もまたしかり。私的なことをいえば、筆者の父も同様である。おそらくこれは、その時代を生きた方々ではどうしても感情にとらわれざるをえない、ということなのだと筆者は受け止めている。
※筆者としては、石原莞爾や辻政信などを厳しく批判したい。軍人でありながら、軍人の守るべき道徳をわきまえなかったという意味において、たいへん問題ある人物であろう。ほか、5.15事件や2.26事件を「利用」し、テロリズムという匕首を突きつけながら、国政を壟断した官僚的軍人一派など。
もう一点いうならば、立花隆がいみじくも喝破した、戦前と戦後は断絶した社会であると広く認識されているが実は連綿とつながっている要素もある、ということが重要である。この考え方が正しいと認める限りにおいて、明治聡賢/昭和愚昧との対比には誤りがあると断じざるをえないのではないか。
幸か不幸か筆者の年回りでは当時の実感を持ちようがない。そのかわり、冷静で客観的な見方ができるかもしれない。歴史は自然科学とは異なり、主観や思想に影響される面が多々あるとしても、努めてこれを排しつつ筆を進めようと考える。それはいうまでもなく「歴史に学」ばんがためである。もし本稿が有用な知見とならなければ、それは筆者の力不足ということで、批判は甘受するつもりである。まずは御笑覧頂ければありがたい。
■人間の歴史というもの
人間の歴史を乱暴に要約すれば、財産や権利の争奪・再配分・確認の繰り返しといえるだろう。
劉邦は始皇帝亡き後の秦を攻め落とし、項羽との争いに勝ち、漢帝国を樹立して、功臣を王に封じた。しかし、事態はこれだけでは収拾しなかった。劉邦は功臣の多くを粛清、王としての所領を没収し、自分の一族に再配分した。異姓の王を立てるな、と言ったのは語るに落ちたと評すべきか。財産と権力の独占を図った、ということであろう。
三国志の時代は、曹操・孫権・劉備ら個性ある人物の争いの物語と理解されがちであるが、実は以下のような解釈も可能なのである。国政における財産や権利を宦官が独占的に掌握していたところに、黄巾の乱を契機として軍閥が功名を主張、地方に割拠し、これら軍閥に財産と権利が再配分・再構築されていく過程である、と。
日本の歴史においても、当然ながら、財産や権利の争奪・再配分・確認が認められる。その最初の大規模なものは、鎌倉幕府の成立といえよう。地方に領地を開墾した武装農民(武士)らは、本領安堵(土地領有権・支配権を確認)する権威を求めていた。当初その対象は平家であったが、貴族化した平家の政治には不満が蓄積するようになった。源頼朝の挙兵は武士の不満の受け皿となって、武士が政治の主体となる鎌倉幕府が成立したのである。その後、千葉・比企・畠山など有力な豪族が粛清されたのは、劉邦の事績と相似形である。ただし、財産と権利の独占を図ったのは将軍たる源一族ではなく、執権北条家という違いはあったが。
鎌倉時代の末期には、財産と権利を相続すべき子孫の数がおおいに増え、配分と確認に混乱をきたすようになった。さらに二度の元寇があり、功名を上げても受け取るべき恩賞がなく、武士の間に不満が広がった。その結果鎌倉幕府は崩壊し、さまざまな紆余曲折を経て室町幕府が成立、南北朝統一が果たされることになる。その紆余曲折こそが太平記に描かれた世界であり、名もなき武士にとっては、自分の財産と権利を保証する権威を求め右往左往する時代であった(※)。
※司馬遼太郎は、太平記時代の小説を著していない。その理由として、当時の人物に魅力が少なく、物語としても本領安堵を求める繰り返しで面白くないため、小説にする気力が湧かない、という主旨のことを挙げておられた。事実は確かにそのとおりであるかもしれない。しかし、人間がほんらい持つ宿業を直視しなかった、とはいえまいか。司馬遼太郎の小説は、良くも悪くも英雄譚に傾いているきらいがある。
■「成長」を求めて
以上までの話題はもっぱら中世以前によく見られるもので、現代においても「限られたパイの奪い合い」と呼ばれる現象である。これが近世以降になると、まったく違う展開が試みられるようになる。いうなれば「パイの拡大」、すなわち社会や市場そのものの拡張を図るような事例が発生している。
日本におけるその最初は、豊臣秀吉の朝鮮出兵である。豊臣秀吉は、全世界史的に見ても破格の出世を果たした人物であり、高度成長を前提として部下の人心を掌握する傾向があったとされている。加藤清正・福島正則・石田三成・小西行長などは、豊臣秀吉の麾下でなければ大名になることなど不可能だったろう。足軽や小姓や商人でも累進し、ついには大名になれる可能性もあるという、夢と希望が豊臣秀吉の回りには存在した。その一方、既に織田信長存命時から兵農分離が実現されており、武士は専門職として自立しなければならない状況もあった。
専門職の武士が高度成長を続けるにあたって、日本という「市場」はあまりに狭すぎた。日本を統一していく過程のなかで、積極的に敵対したのは北条など少数の大名に限られ、徳川はじめ伊達・毛利・宇喜多・長曾可部・島津らの有力大名が帰服してきたことから、日本「市場」は短期間で「飽和」してしまった。
そのため、日本の武士が「市場」を海外に求めたことは必然的な流れであった、と見ることも可能なのである。豊臣秀吉なる個性が強すぎる人物の、老衰耄碌あるいは誇大妄想も原因の一つに挙げなければならないとしても、武士が持続的な「高度」成長(主に武功を上げる場)を求めていたという「社会的圧力」の存在は忘却すべきでないだろう。
二度に渡る朝鮮出兵は国力を疲弊させただけの惨憺たる失敗に終わり、豊臣秀吉の死によってようやく中止された。これは当然の帰結であって、そもそも朝鮮出兵という無謀な愚挙などすべきでなかったのだが、その陰で「社会的圧力」がしっかりと温存されたことは見逃せない。関ヶ原の戦いで東西両軍が真っ二つに割れ、戦力的に一時拮抗しえたのは、戦いの本質が徳川家康対石田三成という豊臣政権の後継争いであると同時に、当時の武士層全体にとってまさに「限られたパイの奪い合い」であったからにほかならない。ここで功名を上げれば現状に倍する飛躍が期待できる、というわけだ。
関ヶ原以降、功名を上げるべき場は極端に絞られる。徳川家康が豊臣家をなぶるように挑発し続けたのは、政治家として老獪かつ慎重であったことが主因と考えられるが、豊臣側にいわゆる「負け組」の武士を吹き寄せる意図があったのではないか、との疑いを禁じえない。というのは、豊臣家滅亡後の始末があまりに残酷だったからである。
大阪夏の陣で豊臣側に参じた武士数万名は、一切赦免されることなく、ことごとく処刑されたといわれている。職にあぶれた武士が多数存在し続けることはそれだけで社会不安のもとであり、さらに功名を上げる意図を蔵したままでは反幕府の動きにすぐ乗ると想定しなければならないことから、徳川幕府にとってはやむなき措置であったかもしれない。数万の武士の命を絶つことにより社会不安の芽を摘む一方で、もはや大きな戦は起こらず今までどおりの功名の上げどころがなくなったことをも示した。これは日本史上におけるハード・ランディングの稀有な実例である。
ちなみに、後の島原の乱においても、天草軍に参じた者は鏖殺されている。大阪冬・夏の陣とは背景がまったく異なるとはいえ、ハード・ランディング以外の解を示さなかったという意味で、象徴的な出来事といえる。
徳川幕府のその後の政策は、主要河川に架橋しない、居住の自由を原則的に認めない、さらには鎖国を断行するなど、極めて統制的で、しかも安定を縮小に求める傾きがあった。中世から近世に移行していく過程において、社会の成長はいずれ不可避であったはずなのに、強制的に抑えこもうとしたことは、徳川幕府初期の性格として特筆に値するだろう。
■日本史最大の変化点〜〜明治維新
徳川幕府の支配体制が崩壊し、明治新政府による近代的中央集権体制が布かれたことは、日本史における最大の画期といえる。
人の面からいうと、徳川幕府時代に世襲的行政官僚であった武士(※)の大部分が行政組織から放逐されたことは、社会に大変革をもたらした。明治維新が薩長など諸藩による軍事クーデターであるならば、特権的支配階層が入れ替わっただけの話で終わったはずであるが、国のかたちを近代的な姿に革めたことは後世に残るたいへんな功績であり、当時の当事者の高見がうかがえる。
※特権的な支配階層でもあり、その特権の象徴として帯刀が許されていたとはいえ、戦国時代までの武士、近代以降の軍人、どちらにも相当しない点には注意が必要である。徳川幕府時代の武士の大部分は、武力行使を前提とした職に就いていない。例えば「勘定奉行」といった職名の意味を考えれば、それは明らかであろう。
明治維新は、その過程の随所に悲劇的な場面があったものの、全体的に見れば穏やかに政権が移行したという意味でも特筆に値する。端的にいえば、江戸が火の海になることもなかったし、最後の将軍徳川慶喜が斬首されることもなかった。
もし仮に明治維新(戊辰戦争)が大阪冬の陣と同じ性格を持っていたならば、粛清の嵐が吹き荒れ、多くの武士の首が刎ねられたことであろう。あるいは、階級闘争と権力闘争が複雑に絡んだフランス革命のように、血で血を洗う抗争が繰り広げられた可能性もある。明治維新では戦争という形での衝突と、何件かの報復的粛清があったものの、以上のような極端な事態にはならなかった。
ただし、それが温情に基づく措置かといえば、必ずしもそうとはいえない点が難しい。放逐された武士は職すなわち収入を失い、たちまち困窮に追いこまれたからである。普通の武士にとっては、すぐ殺されずにすんだものの、生殺しに遭ったような状態に近い。
困窮に身を委ね、滅ぶにまかせる者は少ない。多くの者は生き残るための努力をする。明治新政府から放逐された武士あるいはその子弟たちのうち、ある者は主体的に、ある者は受動的に、日々を生きていくため、さらには社会的階層を再び上がっていくために努力した。些か極端な括り方になるが、その典型例を挙げると、前者は兵学校に入り軍で累進した秋山兄弟、後者は映画「北の零年」などで描かれたような半ば命令され北海道開拓に携わった武士団である。
参考までにいえば、明治維新直後には豊臣秀吉の朝鮮出兵とよく似た展開も見られる。征韓論から西南戦争への流れは、西郷隆盛など当事者の動機を必ずしも読み切れない部分が残るものの、前近代の心情を持ち続けた武士らが、武力行使を行うという意味においての「職場」の持続的成長を求めた「社会的圧力」に基づく、という解釈が可能なのである。
軋轢を伴いつつ、徳川幕府から明治新政府への政権交代はソフト・ランディングとして推移した。もっとも繰り返しながら、ソフト・ランディング=温情では決してない。粛清がほとんどなかったというだけのことで、措置じたいはむしろ過酷と呼べる内容であった。例えば北海道開拓を命じられた武士団はどれほどの難事に直面したのか。筆者は既に深名線の記事に表現しているが、厳寒豪雪に耐えながら未開の原野を切り拓く辛苦は並大抵のものではなかったはずだ。「羆嵐」(吉村昭)に描かれたような恐ろしい事件もあったし、史実や物語に残らない小さな悲劇はそれこそ星の数ほどあるに違いない。
このように、社会的に余剰となった人材に未開地をあてがって、糧を得る希望と目標を与えることで、粉骨砕身させる。うまく推移すれば日本社会の版図が広がり、うまくいかなくとも当事者が日本社会から消えるだけですむ。この手法がのちに新政府の常套手段となったのは、新政府の性質と余裕のなさを象徴しているといえよう。
■膨張と急縮〜〜日露戦争以降
今日の資料に目を通す限りにおいて、日露戦争はそもそもよく開戦に踏み切れたと感嘆するし、悪戦苦闘の末とはいえ、勝利のうちに終えられたのは奇跡に近いと思われてならない。その意味において、明治の人は確かに偉大であった。
しかし、後知恵の結果論とはいえ、やってはならない禁忌をあまた犯してしまったことも否定できない。莫大な戦費調達を公債発行によったことがその一つである。勿論、当時その選択しかなかったという状況は理解できるし、勝利を獲得すれば万事うまくいくとの読みがあったことも理解できる。とはいえ、経済というメカニズムは冷酷そのものであり、人間の意図などおかまいなく、入力があれば淡々とそれに見合う出力をしてしまう。
戦費調達を公債発行によると、日本社会という限られた断面において、見かけ上マネー・サプライが急増し、ほんらいインフレーションが進まざるをえない。現実には軍需産業の急伸により市場が膨張したため、経済は安定的に推移した。そして日露戦争は終わった。それが敗戦であれば状況はさらに悪化したであろうが、たとえ勝利であっても、軍需産業が一時にして冷えこむことは避けられなかった。第一次世界大戦により、漁夫の利を得たのも束の間、恐慌発生など不景気の深刻化が進んだ。ここから先に関しては、既に論じたとおりなので、改めて記さない。
ところで、拙論は鉄道という限られた一断面のみ触れている点には留意しなければならない。戦争とは国の一大事、鉄道だけに影響を与えるはずはなく、社会のあらゆる断面に大小の影響を及ぼしたはずである。
明治39(1906)年 日露戦争終結
大正 3(1914)年 第一次世界大戦開戦
大正 7(1918)年 第一次世界大戦終結
大正 9(1920)年 最初の恐慌発生
大正12(1923)年 関東大震災発生
この時系列に、なんらかの関連性が見出せないだろうか。敢えて一点を挙げれば、日本人が「外地」へと進出した時期と符合するではないか。北海道でもより条件の悪い未開地、樺太、千島、南米大陸、南洋諸島、そして満州。日露戦争後の景気悪化により、日本社会からあぶれた一部の人は「外」を目指さざるをえなくなり、また日本社会も「常套手段」としてそれを後押ししたのではないか。そんな想像が働くのである。社会全体を地理的に拡張することにより、膨張の一途をたどりつつあった(しかも正体の見えにくい)経済との調整を図ったのだと、思われてならない。
この流れのなかで、関東大震災が厳しい楔となったかもしれない。震災には復興事業が伴い、かの後藤新平が大々的な復興事業を打ち出したとはいえ、このような社会基盤整備が効能を発揮するまでには時間差が生じる。日常生活を営む産業は、震災で打撃を受けてしまえば、再興するまでに時間を要さざるをえない。より早い再興を図るためには、同じ場所にとどまり続けるよりも、新天地を求めた方がすばやい、という判断が働いた可能性も指摘できる。
日本がこの時期にやってきたことは、歴史のうえでは帝国主義による植民地支配と総括されているが、実態としては「失業対策」として日本という国を地理的に広げた過程、と形容することも可能である。搾取の程度は欧米列強に比べればはるかに軽く、むしろ社会基盤整備などに精を出した。だから、今でも日本の政治家が「日本は良いことをした」と言いたくなる心情は理解できる。ただし、社会基盤整備は実利を与えるものであった一方で、まさに社会のすがたを革める施策そのものであり、儒教的感覚からすれば最も受容しがたい「侵略」であることに留意しなければならない。要は評価軸がまったく異なるのだ。この評価軸の差異について論じることは本稿の目的ではないが、「なぜそのような行いにつながったのか」という社会背景について、日本人自身が的確に認識し「昭和史」を編む必要があるとは考えている。
それにしても、日本人という民族の性根は、やさしいのか酷薄なのか、見えにくい部分がある。今まで権力を執っていた階層を粛清することなく、社会からあぶれかけた階層をすぐ切り捨てることもなく、かといって安定的な立場を得さしめることもしない。今日的感覚でいえば、経営が傾いた子会社への出向人事に近い。君は今本社では必要とされない人材だ、だからこの会社に行き経営を立て直してこい、うまくいけば本社役員に栄転する目もないわけではないぞ、……というような。粉骨砕身を強要する社会的メカニズムを、日本人はよくよく知り尽くしていたともいえるかもしれない。
■「就職先」としての受け皿
以上までは全て仮説であり、これを立証するためには相当に堅固なデータや材料を用意しなければならないだろう。しかしながら、あくまで筆者の直感にすぎないものの、この直感はかなりの部分で正しいはずだと信じている。
その前提として、昭和初期になぜ軍部の行動が支持(あるいは受容)されてきたのか、という疑問を挙げる。今日的視点でいえば、満州事変から5.15事件や2.26事件など一連の流れは、(一部)軍部の暴走に等しい叛乱行為であるはずだが、肯定的評価も少なからず存在する。勿論、テロリズムという現実の脅威を突きつけていた面もあるだろうが、その割に(当時でさえ)軍部は嫌われていない。なぜだろう。
ここで話を一旦横道にそらす。筆者の伯父は海軍の航空整備兵に徴兵されている。祖父は我が子の徴兵を喜んだという。そして、筆者の父はこの点をとらえ、祖父に不快な感情を持っている様子だ。しかし、筆者はむしろ祖父の心情の方が理解できる。当時の祖父の家業は半農半林で、家計はかなり苦しかったはずだ。山奥に居住していたため、就職先も限られていたと想像される。そういう状況にあって、海軍航空整備兵とはかなり魅力的な「就職先」として祖父の目に映ったのではないだろうか。エンジン整備などの技術を身につくことによって、退役してからの選択肢がおおいに広がったに違いない。だから、祖父が喜んだというのもわかるのだ。ただし伯父は戦死してしまったから、その結果をとらえ父が祖父を不快に思うのも理解できるのだが……。
いうまでもなく、学校を出て将校となるならば、立身出世が約束されている。そうではなく一兵卒という立場であっても、職種によっては世に広く通じる技能を身につけられ、将来の糧にできた可能性があるのだ。戦死するリスクがあったとはいえ、高等教育が一般的でなかった当時に、誰にでも機会があり、かつ得られる果実が大きかったという意味において、軍は魅力的な「就職先」として認識されていたのではないか。少なくとも、そのように考えない限り、軍と軍人が好感され支持・受容されてきた背景が理解できないように思われてならない。
満州事変が典型的事例といえるが、軍部の行動は近似値的に、庶民にとっての就職先を確保・拡大する行動として認識された可能性をも指摘できる。
同様に、昭和史の流れは、疲弊した社会のソフト・ランディング先を求めて社会全体を外延化させる試みだった、と形容することもできよう。別の表現をすれば、同胞を生かすための試行錯誤の連続、ともいえようか。しかしながら、結果だけをとりあげれば、その努力の涯が太平洋戦争の敗戦という破滅的なハード・ランディングにつながってしまった。この破滅に至る過程こそが「昭和史」の底流であろう。
敗戦直後の日本社会は急激に縮小した。その一方、戦争を通じて何百万人も死んだ穴は大きく、複雑で難しい調整を短期間で進めなければならなかった。「外地」からの引揚者に生活の場を得さしめる調整は、そのなかでも難度が高いものであった。国鉄の職員数が最大だったのは敗戦直後の時期で、余剰人員と知りながらも引揚者の「失業対策」として、敢えて引き受けたといわれている。もっとも、敗戦から42年後の昭和62(1987)年、国鉄は職員数を大幅削減のうえ分割民営化されてしまった。ハード・ランディングという局面が、舞台を国鉄に変えて再び繰り返されたことの歴史的意味は、かなり深長なものがあると筆者は見る。そして、舞台は国鉄だけでなく、戦後社会の至るところに相似事象が存在する。
戦後の日本は、戦前とは異なり、地理的な「外地」を求めて社会を外延化させるという手法は放棄した。そのかわり経済領域に新たな地平を設定することで、爆発的な経済成長を目指し、かつ果たしてきた(※)。例えばあらゆる製品において、大量生産→大量消費→大量廃棄というサイクルが構築されてきた事績は、新しい経済領域を開拓するとの手法の雛形(いわゆるビジネスモデル)が(たとえ無意識下でも)存在したことの証左である。今日この手法は、資源を濫費するうえに膨大な廃棄場所を必要とするため、行き詰まっているはずことがわかっているはずなのだが、例えば百円ショップの急成長に見られるように、「価格破壊」という別の衣をかぶって繰り返されている。プリミティブな手法は模倣され、繰り返されやすい、と表現することもできよう。
※戦後日本の経済活動をとらえ「軍隊が伴ってはいないがやっていることは戦前と同じ」という東南アジア諸国における評があるらしいが、これはかなり言い得て妙である。
日本人はおそらく、常にソフト・ランディングを目指す心やさしい民族なのだ。しかし、その道筋をつける知恵が十全ではなく、結果としてハード・ランディングに至ってしまう傾向があるのかもしれない。かなしき民族性といってしまえばそれまでだが、歴史が繰り返されている以上、歴史的視点から省みる必要があるだろう。少なくとも、実効ある手法論を伴う反省がなければ、さらに繰り返しが続いてしまう。たとえ戦争という直接的行為が伴わなくとも、ソフト・ランディングを目指した結果、多数の人間が社会から消え去るハード・ランディングに至る事態になるならば、それは「昭和史」の繰り返しと呼ばなければなるまい。
「失われた十年」と揶揄されながらも、バブル経済崩壊という極端な局面からゆるやかに経済を立て直してきた過程は、まさに日本人的手法といえるかもしれない。もっとも、今日では「負け組」を大量生産する「改革」が支持され、ハード・ランディングどころではない経済社会変革が志向されているようにも見える。今日の趨勢はいま少し見きわめが必要なところであるが、もし最初からハード・ランディングを求めるようであれば、日本人の人間性は明らかに変化し始めたと見なければなるまい。
■むすび
改正鉄道敷設法とは、政友会の党利党略に基づく政策の一部であり、利益誘導型の政治手法の端緒となった、という見方は正しい。
戦後ローカル鉄道が続々と廃止になったのは、モータリゼーションの進展に伴い輸送量が減ったからだ、という見方は正しい。
日本が太平洋戦争という勝算の薄い戦争に突入したのは、軍部がテロリズムを脅迫材料にして国政を壟断したからだ、という見方は正しい。
以上のように、ものごとをある単純な一断面に沿って切り取り、分析を深度化し、合理性を持った結論を導くという手法は、きわめて学問的であり、かつ科学的でもある。筆者はほんらい、この手法を支持する者であり、かつ自分でもこの手法によりさまざまな分析に取り組んできている。
しかしながら、このような単純化した断面からものごとを見ている限り、人間の視野が狭まってしまう弊害が生じることがある。以上の例でいえば、改正鉄道敷設法とローカル鉄道の廃止は独立した事象としてとらえられて、まったく別の因果関係として説明されてしまいがちだ、ということである。実際には両者は関連を持っている(
拙論1
・
2参照
)はずなのに、そもそも両者を結びつけて考えるという発想さえ浮かびにくいのだ。だから、筆者の仮説はあくまでも異説としてしか認識されないだろう。
「鉄道史」及び「昭和史」との関連についても同様である。「鉄道史」は「昭和史」に対してきわめて受け身である。ところが、まだ筆者の仮説ではあるけれど、「鉄道史」のなかに「昭和史」を語る重要な素材があると認識されていないのは、不可思議というしかない。否、「昭和史」という対象が大きすぎて、まだまだ切り口を定められない、ということなのかもしれない。
拙論が「鉄道史」と「昭和史」を考える素材になれば幸いである。
■追補
先日、知り合いの御母堂が亡くなられ、その告別式に参列した。告別式の最後には葬儀委員長の御挨拶があり、御母堂の来歴が紹介された。曰く、宮城県に生まれて、移民団の一員として奉天に渡り、のち哈爾賓に移られた。終戦を迎え辛苦を経て日本に引き揚げ、まずは大夕張に居を構え、北海道内を転々とした末に登別で余生を送っていたという。
委員長の話をうかがい、まさに典型的に昭和史を体現するような人生を送られたのだなと、深く思うところがあった。率直にいって知り合いといっても深い付き合いはなく、要は筆者は代表として送られたにすぎないわけだが、以上のように感じさせしめる「めぐりあわせ」にはさらに感慨深いものを覚えた。
昭和を生き抜いた方々は、多かれ少なかれ先の大戦に影響を受けている。だというのに、前述したとおり良質な「昭和史」はまだまだ少ない。また「物語」を通した昭和史の展開はさらに荒涼たるものだ。現段階では感情と主観が濃厚に含まれてしまい、「歴史」への昇華には時間がかかると見なければなるまい。
筆者にその役を担えるかどうか、正直なところ、あらゆる意味で力不足を自覚せざるをえない。しかしそれでも、自分にはその務めがあると自覚せざるをえないのである。道はたいへん遠く、終着駅に辿り着く保証すらない。そうとわかりつつも、一歩一歩ただただ前に進むだけである。
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