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第1章  茨城鉄道の開業から茨城交通への合併まで

 

 

■茨城鉄道の開業

 茨城鉄道の計画は、大正 9(1920)年頃、代議士堀江正三郎氏を中心とする那珂川右岸の有力者の発起により、具体化したものとされている。当時は既に、常磐線沿線諸都市の繁栄が知られるようになっていたが、さらにそのフィーダーとなる私鉄が数多く成立していたことが、計画発起を後押ししたようである。

   竜ヶ崎鉄道(現関東鉄道竜ヶ崎線)   明治33(1900)年全通
   常総筑波鉄道(現関東鉄道常総線)   大正 2(1913)年全通
   湊鉄道(現茨城交通湊線)       大正 2(1913)年勝田−那珂湊間開業
   筑波鉄道(関東鉄道筑波線→筑波鉄道) 大正 7(1918)年全通

 参考文献(01)によれば、計画発起の経緯は下記のとおりである。

「茨城鉄道(株)設立計画には、こうした県内私鉄の営業状況に刺激されるところが大きかった。また、水戸を起点とする内陸部、とくに北部への鉄道がまだ建設されていなかったことも、茨城鉄道(株)設立の大きな理由の一つであった」

 しかし、これは事実を正確に記したものとはいいがたい。なぜなら、大正 7(1918)年までに、水戸鉄道(のちに国有化→現JR東日本水郡線)の水戸−常陸大宮間及び上菅谷−常陸太田間が開業しているからである。那珂川をはさんでいるとはいえ「水戸を起点とする内陸部への鉄道」は既に存在していたし、しかもこれは競合相手になりえる路線でもあった。

 また、茨城鉄道は改正鉄道敷設法別表38「茨城県水戸ヨリ阿野沢ヲ経テ東野附近ニ至ル鉄道及阿野沢ヨリ分岐シテ栃木県茂木ニ至ル鉄道」に合致する路線である。このことは、茨城鉄道の成立及び経営と密接な関連があると考えるべきであろう。しかしながら、参考文献(01)には改正鉄道敷設法に関する記述はまったくない。

 以上にみられるとおり、参考文献(01)の茨城鉄道に関する項目は、事実の記述さえ充分なものとはいいがたい。その内容には充分な吟味が必要である(※1)。

 記述が必ずしも充分でないにせよ、茨城鉄道の発起が「県内私鉄の営業状況に刺激され」た部分は否定できないだろう。常磐線と水戸鉄道(→水郡線)が既に開業している状況で、那珂川右岸地域に未だ鉄道の便がないという事実が、計画発起の背景にあったと考えるのはあながち無理ではない。しかし、茨城鉄道が発起された理由はそれだけにとどまらない、と筆者は推測している。これについては第2章に詳しく延べる。

 大正10(1921)年 2月21日に、茨城鉄道の鉄道敷設特許がおりた。そして、特許が出た後に会社の設立総会が催された事実は、たいへん興味深い。おそらく、特許申請は少数の有力者が出したもので、組織的でなかったのだろう。はじめにまず計画があり、しかる後に資本を糾合する、という段階が践まれたと考えられる。

 茨城鉄道の設立総会は大正12(1923)年 8月16日のこと。総会は石塚町(現在の常北町中心部)の常北屋で、続く第1回取締役会が同町千歳館で催されたというあたり、会社の局地性がよく理解できる。

 なお、茨城鉄道の資本金は設立時 150万円で、全通直後の増資により 250万円になった。茨城鉄道はおそらく、借入金に依ることなく、株主資本をもって開業費用に充てたものとみられる。現代的な常識からすれば、信じがたいほど堅実な投資である(※2)。

 翌大正13(1924)年 8月10日に着工。工事そのものは順調であったが、ここに一頓挫が生じる。常磐村(上水戸付近)での用地買収に難航したのである。これは個人ではなく、衆を挙げての反対だったというから、かなり厳しい。

 憶測になるが、茨城鉄道のローカルな事業のために水戸近郊の優良地を手放したくない、といった反感が働いた可能性がある。居住地の違いによる対抗心は誰しも持ちえるものであるが、ときに峻烈な反発をも惹起しかねない。

 茨城鉄道は当初の起点と目した水戸を諦め、赤塚に起点を変更した。やむなき選択とはいえ、この変更が集客力に重大な影響を与えたことは確実である。茨城鉄道は、上水戸において鋭角に転進するという、異様な線形を採らざるをえなくなった。

 水戸中心部への乗り入れを果たせるか否かでは、客貨ともに利便性に大きな差が生じてしまう。開業する前から、茨城鉄道はきつい足枷をはめられてしまった。

 しかも、泣く泣く起点変更した赤塚付近の用地買収にも手間取ったというから、まさに泣き面に蜂である。茨城鉄道は、足許を見られたのであろう。結局買収が成立したということは、地主らは心情的な理由から反発したのではあるまい。最初に抵抗を示しておけば交渉を有利に進められる(即ち買収価格を高騰させられる)、といった打算に基づく判断が働いたからに違いない。

 それでも茨城鉄道は、買収を進めなければならなかった。起点を定めない限り、路線の存在価値が大きく減じてしまうからである。

 起点側の用地買収こそ難渋したものの、工事に難しい箇所は特になく、資金が枯渇する事態もなかった様子である。赤塚−石塚間(16.6km)の開業は大正15(1926)年10月24日、着工の翌々年であるから、全般には順調であった。

 同区間開業後、石塚−御前山(出願当時赤沢/開業直前に改称)間の延伸が出願された。免許取得後の動きは早く、元号が改まった翌昭和 2(1927)年 2月23日に石塚−阿波山間( 4.5km)が、さらに同年 3月26日に阿波山−御前山間( 4.1km)が開業し、茨城鉄道は全通した。これほど素早く開業に至ったとは、常識的にありえないペースである。即ち、免許取得以前から既に延伸工事を着手していた可能性がある。

 計画発起からわずか 7年にして全通するのだから、茨城鉄道の事業には障害がないように思えてくる。しかし、茨城鉄道の辛苦は開業後からいよいよ本格化するのである。


イラスト−1 開業直後の石塚駅

 

 

■水浜電車の開業

 一方、水浜電車の状況はといえば。大正11(1922)年12月28日、最初の開業区間である浜田−磯浜間が開業した。その後、路線の改廃が複雑に繰り返されるが、この時点で既に路線の根幹がほぼ完成したとみなしてよい。

 水浜電車の経営は順調であった。バスとの競合に手を焼く場面もあったが、水浜電車がバス会社を買収することで決着した。これはM&Aの走りといえるかもしれない。夏期の海水浴輸送など、巨大な需要もあり、全般に好調だった。

 大正14(1925)年 2月26日には水戸局前−大工町間が開業し、水戸中心部への乗り入れが図られる。以下、昭和 2(1927)年 5月27日には大工町−谷中間( 1.4km)が、昭和 3(1928)年 7月10日には谷中−袴塚間( 0.5km)が開業した。袴塚開業により、水浜電車と茨城鉄道は緩やかな連絡を実現した。しかし、この段階ではまだ駅の敷地を同じくしてはいない。

 茨城鉄道と水浜電車とは競合しているわけではなく、むしろ補完関係に近い。それでも明確な連絡を行わなかったのは、両者の性格が異なりすぎたせいかもしれない。茨城鉄道は蒸気機関車牽引の鉄道、水浜電車は路面電車スタイルの軌道、相互の連絡を考えることじたいに無理がある、といえるほどの時代ではあった。

 

 

■茨城鉄道開業後の状況

 茨城鉄道の開業は、確かに時機に恵まれなかった。第一次世界大戦は大正 7(1918)年に終結したが、大戦中の特需はかげり、大正 9(1920)年に最初の恐慌が起こった。大正12(1923)年には関東大震災があり、南関東を中心に大きな被害が発生した。茨城県下の被害は軽微だったとしても、巨大な市場である東京の被害は、様々な経済的影響を茨城にも与えたであろう。開業直後の昭和 2(1927)年には昭和恐慌(金融恐慌)が発生、さらに昭和 4(1929)年には世界大恐慌が始まり、日本経済に深刻な混乱が起こった。局地的に見ると、昭和 6(1931)年、茨城県下は凶作に見舞われた。

 大正期から昭和初期にかけて日本経済は全般に不景気であり、茨城鉄道沿線もその例外でなかった。当時の営業報告書には「農村の病弊依然として深刻」と記されていたという。かような状況において、なぜ、大規模な初期投資を要する鉄道事業が発起され、かつ具体化したかという疑問は残る。


イラスト−2 藤井川鉄橋を走る貨物列車

 茨城鉄道は、開業以来業績不振を続けた。決算は連年赤字で、多くの欠損金が累積した。しかも、茨城鉄道には競合相手が出現していた。それはバス・トラックを保有する自動車会社であった。茨城鉄道は水浜電車と同様、この会社を買収することにより局面の打開を図った。ところが、水害による道路・橋梁の流出、ガソリンや部品の調達が困難化などにより、せっかく買収した自動車業も不振に陥り、社業振興の助けにはならなかった。

 社会が戦時体制へと移行し、鉄道部門では旅客貨物とも輸送量が増加した。その一方、保守・修繕や石炭など支出もまた増加したため、状況好転につながらなかった。

 水浜電車や湊鉄道の場合、夏期の海水浴需要が存在していた。しかし、茨城鉄道の観光需要は皆無に近かったらしい。日常の輸送のみで営業しなければならない分、茨城鉄道の状況は苦しかった。

 発起人代表、かつ初代取締役社長でもあった堀江氏は、昭和 9(1934)年に世を去っていた。茨城鉄道の事業は堀江氏の死後もなお継続したが、その経営は苦しくなるばかりであった。

 昭和15(1940)年、茨城鉄道は債務免除を受け、累積欠損金は解消された。この措置の意味するところは多様である。自助努力による状況改善は不可能と公認されたともいえるし、債権者が茨城鉄道を潰してはいけないと認識していたこともうかがえる。また、債務免除の合計金額は21万 1,168円、資本金の 8.4%にすぎない点にも注意が必要である。

 累積欠損を一掃してもなお、茨城鉄道の経営は苦しかった。茨城鉄道は営業収支ベースでも利益を出すことができなかったのである。

 茨城鉄道の経営陣と大株主は、水浜電車社長の竹内勇之助氏に助力を仰いだ。竹内氏は、経営陣の立替金半額棒引きなどを条件として、茨城鉄道の社長就任を承諾した。参考文献(01)には、「これは個々の重役にとっては大きな欠損を意味したが、会社の倒産にはかえられないとして了承された(実際は後年、抵当財産を全部解除したので、大いに喜ばれた)」と記されている(※3)。

 昭和19(1944)年 8月 1日、水浜電車・湊鉄道・茨城鉄道・袋田温泉自動車が合併して茨城交通が発足した。存続会社は湊鉄道で、経営陣の主力は水浜電車である。この合併は戦時統合のように理解されており、また、その性格が伴うことは間違いない。とはいえ、茨城鉄道の社長は合併前から竹内氏で、実質的に水浜電車の支配下にあった。茨城鉄道にとっては、救済合併の色彩が濃い合併であった。

 この合併と同時に、水浜線光台寺裏−袴塚間廃止のうえ、光台寺裏−上水戸間( 0.3km)が新設され、上水戸における茨城線・水浜線の密な接続が実現した。さらに茨城線赤塚−上水戸( 3.3km)間が電化され、後年には直通運転も行われたから、この時点で既に線路もつながっていた可能性がある。

 4社合併の意義は、経営統合以外の面でも、路線の相互接続というかたちで明確に表現されたといえる。

 

 

■補足:参考文献(01)に関する意見

 参考文献(01)の茨城鉄道に関する記述には、事実関係の遺漏が多い。※1に指摘した点のみならず、改正鉄道敷設法別表38及び実際に着工された長倉線との関連、御前山−長倉間及び阿野沢−玉川村間の免許取得及び失効、いずれの重要事項についてもまったく記述がなく、不正確という以前に不備と断じざるをえない。

 経営不振の分析も、一般的な状況を述べるばかりで、個別事情はまったく触れられていない。人口や租税収入をとりあげるだけでも、地域間・時系列比較を行うことは可能だが、これらデータの記述はない。それどころか、営業成績の記録さえ省略されている。

 ※2については異説がある。参考文献(02)には「株式の払込みは約八十万円にすぎず」「赤字補てんに当てるべき株式への払込みは、遅々として進まなかった」との記述があり、正史と内容が合致していない。正史と通史のいずれを採るべきかは悩ましいところだが、事実関係の記述の正確さは通史の方が上といわなければなるまい。

 ※3についても、竹内社長が「抵当財産を全部解除した」ことじたいは事実であろう。とはいえ、戦後の猛烈なインフレーションにより、債権価値は大幅に下落していたはずである。抵当を解除しても竹内氏に実質的な損はなく、旧経営陣らの心服を獲得できれば、メリットとしてはむしろこちらの方が大きかったといえる。参考文献(01)は、こういった周辺状況に触れず、ただ「大いに喜ばれた」と記しているのみである。この簡潔な記述には、竹内氏の人徳を賞揚する意図がうかがえる。

 これには、茨城交通の会社としての性格に負う部分が大きいと考えられる。既に記したとおり、茨城鉄道は救済合併されたに等しい。茨城交通の名義上の母体は旧湊鉄道、経営陣の主力は旧水浜電車であり、旧茨城鉄道の比重が軽かったこともあるだろう。堀江氏はじめ旧茨城鉄道発起人の多くは世を辞して久しかったせいもあるだろう。参考文献(01)の旧茨城鉄道に関する記述は、編纂時の真摯な目配りを欠くきらいがある。吸収合併された会社の悲哀、ともいえる。

 さらにいえば、昭和30年代後半以降、茨城交通は実態としてバス会社に変化しており、鉄軌道業そのものの比重はごく軽くなっていた。事業の比重が軽いということは、それに対する興味も少なくなることに直結する。

 また、参考文献(01)は「三十年史」と銘されている。即ちこれは、茨城交通発足以降の正史である。その母体となった各会社の記述に重きが置かれていないのは、当然といえば当然といえる。

 以上の諸要素を鑑みれば、参考文献(01)での茨城鉄道に関する記述が的確でないのは、やむをえない面もある。第2章においては、正史の記述のみにはよらず、若干の想像をもまじえつつ、茨城鉄道の経営分析を試みたい。

 

 

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