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第3章  茨城線の合理化と廃止への道

 

 

■いばらの道

 茨城交通に統合(事実上は吸収合併)された茨城線の前には、決して平坦でないばかりか、いばらを含んだ険しい道が待っていた。

 終戦直後の昭和20(1945)年11月26日には、死者 7名・負傷者60名を出す脱線転覆事故が起こった。これは茨城交通の全線・全史を通じて最大の事故であり、強い衝撃をもって受け止められた様子が参考文献(01)の文面ににじんでいる。

 さらに昭和22(1947)年、茨城線はキャサリン台風による水害を被った。岩船−阿波山間 500mの道床流出、飯富−藤井間 220mの道床流出、同区間藤井川橋梁の第2橋脚沈下など、全線に渡り大きな被害を受けた。

 相次いで発生した事故・水害は、茨城線の経営には重いマイナスであった。被害者への補償、被災箇所の復旧、いずれも多大な費用を要するからである。堅調な経営状況の路線であれば、事故も水害も前進への原動力となりえたかもしれない。決定的な不幸は、茨城線の採算が極めて悪い点にあった。稼ぎが乏しいうえに余計な費用ばかりかかる路線、という印象を経営陣が持ったとしても、なんら不思議のない状況になりつつあった。実際のところ、以降の茨城線では明るい話題が影をひそめ、合理化努力ばかりが積み重ねられることになったのである。

 昭和24(1944)年12月、正職員の希望退職を募ったうえで嘱託職員35名が削減された。茨城線の距離及び駅数を考えれば、嘱託職員の数はいかにも多い。敢えて冗員を雇用していたのでは、と第2章にて推測した根拠はこの点につきる。

 要因合理化には労働組合からの反発がつきものであり、参考文献(01)にはこの合理化に際しての紆余曲折が記されている。しかしその後は、経営状況の厳しさを労働組合も認識するに至った形跡が認められる。昭和33(1958)年に要員配転(湊線・自動車部門などへの転勤)が行われ、昭和30年代後半にはさらに配転が繰り返された。


イラスト−4 閑散とした御前山駅

 

■茨城交通の会社としての変質

 茨城交通はこの当時、鉄道会社からバス会社へと性格を改める途上にあり、茨城線のみならず水浜線・湊線を含め、鉄道部門は非収益部門となりつつあった。

 昭和25(1950)年時点で、鉄軌道部門の売上高は自動車部門の倍ほどもあった。ところがそれは、昭和31(1956)年時点で既に逆転した。そして、昭和35(1960)年には自動車部門売上高は鉄軌道部門の3倍以上、昭和36(1961)年には4倍以上、昭和37(1962)年には実に6倍以上にまで差が開いたのである。

 茨城交通は、鉄軌道会社ではなく、バス会社へと大きく変質した。相対的な地盤沈下にすぎないとはいえ、会社としての鉄道経営への熱意が冷却していったことは疑いの余地がない。この状況を鑑みれば、茨城交通はかなり早い段階から、茨城線、そればかりでなく鉄軌道部門全体に対して、見切りをつけていた可能性さえ指摘できる。

 また、昭和20年代にはともかく昭和30年代後半には、自動車部門への配転に対する抵抗感は緩和されていたはずであり、中には積極的に配転を希望する職員もいたと考えられる。なぜなら、いずれの会社においても収益部門が花形であり、花形部門への配属を希望するのが職員としての普遍的な人情だからである。

 

■茨城線の下り坂

 昭和26(1951)年12月 1日、上水戸−大学前間( 1.0km)が電化された。電化といっても、必ずしも前向きの話題ではない。蒸気機関車の燃料(即ち石炭)費が著しく高騰したため、これを置換する必要が生じたのである。既に赤塚−上水戸間が電化されていたので、変電所を新設しなくてすむ範囲内では電化に踏み切れたのであろう。水戸近郊区間の列車を電車に置換し、蒸気機関車の走行距離を短縮することにより、電化のメリットは充分に発揮されたものと考えられる。

 翌昭和27(1952)年には、同様の理由で気動車の増備が始まった。さらに昭和32(1957)年11月、ディーゼル機関車の増備により、無煙化が達成された。このように整理すると、蒸気機関車の衰退は、価格競争力における相対的劣位から導かれる必然的な現象であったことが理解できる。


イラスト−5 新型気動車の投入

 以上のように、戦後の茨城線には明るい出来事がほとんどない。唯一最大の明るい話題といえば、昭和31(1956)年 1月の水浜線直通運転開始(大学前まで)を挙げられるのみである。これは茨城線の歴史の中でも特筆に値する積極策であったが、広島電鉄市内線・宮島線の直通運転のような起死回生を果たすまでには至らなかった。モータリゼーションの急激な進展により、水浜線はその能力を漸次失っていったからである。水浜線の無力化は、茨城線の決定的な不幸であった。


イラスト−6 茨城線唯一の積極策−−大学前電化と水浜線直通運転

 

■水浜線の衰退

 昭和31(1956)年の茨城線と水浜線の直通運転は、相互直通運転というよりもむしろ、水浜線からの片乗り入れという性格が濃かったと考えられる。大学前は市街地の最外縁部に立地しており、市街地内相互の利用者にとって、上水戸での乗換を解消したメリットは大きかったと推測される。

 水浜線の形態は路面電車であるが、その実質は水戸−大洗間の都市間連絡鉄道である。そして、水戸中心部に直通する路線を有していたからこそ、相応の競争力を確保していたといえる。これと類似する路線としては、名古屋鉄道美濃町線、福井鉄道、広島電鉄宮島線→市内線などを挙げることができる。これら路線が中心部への直通路線を失った場合、その競争力が大きく削がれることは確実である。従って、路線を維持するためには、中心部直通路線の確保が必須条件となる。

 ところが、水浜線の併用軌道区間は、極めて強烈なバッシングを受けることになった。モータリゼーションの進展により、水戸中心部では渋滞が頻発するようになったが、その主たる原因者が水浜線と名指しされたのである。水浜線の撤去要請が水戸市議会において満場一致で可決されてしまったあたりに、当時の状況をうかがい知ることができる。茨城交通はその趨勢に対抗する術なく、あるいは対抗するだけの積極的な意志を持てず、水浜線水戸駅前−上水戸間を廃止するに至った。そしてこの廃止は、水浜線残存区間と茨城線の生命をも縮めたのである。


イラスト−7 水浜線沿線の道路混雑

 

■茨城線廃止への道

 茨城線は、茨城交通の経営陣から早い時期から見切りをつけられていた可能性がある。その状況証拠については、既に記したとおりである。

 戦後の爆発的なインフレーションにより、戦前の負債はほぼ無価値化されたはずである。しかし、それでもなお茨城線の経営は好転しなかった。燃料費高騰が経営悪化に直結したという一件は、もともとの利幅の薄さをよく象徴している。茨城線は根本的に、費用過大・収入過小型の鉄道であった。

 昭和28(1953)年 5月、茨城交通の決算役員会において石塚−御前山間の休止が話題にのぼった。これをもとに根回しが進められたが、沿線自治体からの同意を得ることはできなかった。これは単なる鉄道への愛着とかたづけることはできない。茨城線は沿線からの出資により竣功した、いわば「自分の鉄道」なのである。経営権こそ茨城交通に譲渡したとはいえ、出資した事実は決して消えることがない。出資者の感情として、茨城線休止に多大な抵抗を感じるのは、当然すぎるほど当然のことであった。

 しかしその一方、茨城線の経営が厳しい状況に置かれていることは、まぎれもない現実であった。茨城交通は合理化により活路を見出そうとしたが、その効果は赤字幅の減少にとどまり、状況はまったく好転しなかった。参考文献(01)の次なる記述、

「当時の茨城鉄道線の営業状況は、赤字の継続であり、たとえば昭和33年上期の決算においては、総収入約 2,000万円に対し、損失約 900万円を計上し、統合以来の赤字累計は実に 8,200万円を計上している。・・・・・・営業1キロ当たり1日の収入は、昭和33年上期には茨城鉄道全線で 4,360円、石塚・御前山間においてはわずか 1,140円にすぎなかった。これに対し同期の営業費は、茨城鉄道全線で 6,307円、石塚・御前山間においては 3,812円であり、これではいかなる経営努力を払っても到底採算のとれないことは明瞭であった」

 とは泣訴に等しい本音といえ、茨城線の経営継続は困難との認識が如実にわかる文面である。ところが、石塚−御前山間の休止計画は宙に浮き、モラトリアムが続いてしまう。そして、その間に茨城線の経営環境は確実に悪化していくのである。

 

■茨城線の廃止

 茨城線には明るい材料が全くなかった。それでも昭和40年代まで路線が存続したことは、奇跡と呼んでもよい状況であったかもしれない。会社側は廃止の提案を続け、まず組合が同意し、続いて「沿線関係者」(おそらくは旧茨城鉄道出資者)の同意をもとりつけた。ここまで至ると、茨城線は急速に萎縮していく。

 まず昭和40(1965)年、水浜線水戸駅前−上水戸間が廃止された。これに続き、昭和41(1966)年に茨城線石塚−御前山間( 8.6km)及び水浜線大洗−水戸駅前間(14.4km)が同時に廃止された。昭和43(1968)年には大学前−石塚間(12.3km)が廃止された。この時点で茨城線はその大部分を失い、水戸市街地内の路線に特化するかたちとなる。しかし水戸市中心部を経由しない線形とあっては余命を保つことができず、昭和46(1971)年に全廃された。開業から45年で廃止とは短命ながら、厳しい状況下にあってよく健闘したといえるかもしれない。

 

 

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