このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください





転機に臨んで





 平素より拙「以久科鉄道志学館」を御愛読頂き、ありがとうございます。おかげさまでもうすぐ開設以来13周年となります。ところが、ところが。なかなか記事を更新できない。

  ●東日本大震災から二周年の日が巡ってきた。
  ●東急東横線渋谷駅が地上での営業を終えた。
  ●東急東横線と副都心線の相互直通運転が始まった。
  ●上越新幹線 200系が営業運転から引退した。
  ●E5系「はやぶさ」最高速度が 320km/hに向上した。
  ●大船渡線「仮復旧」BRTが運行開始した。
  ●常磐線・石巻線の一部区間復旧及び運行再開した。

 ……三月にはこれだけの大きなイベントが重なったというのに、現地に赴くこともなく、文章をおこすことすらなく、時間がどんどん過ぎている。渋谷駅絡みの話題はネタ不足に喘ぐマスメディアの「塹壕の埋め草」に過ぎないなと冷笑しつつも、自分がなんら書けていない事実は覆いようがない。

 書きたいことはあるのだ。書きかけの記事や、構想が育ちつつある記事は幾つもある。しかし、その優先順位が下がっているのが昨今の筆者である。

 自分で書かないだけでなく他サイトを閲覧する時間まで減っているから、筆者における 「Web離れ」は重篤な域に入りつつあるかのようだ。ただし、筆者にとっての「志学館」の重みは変わっていない。「志学館」を上回ってさらに重要なものが出来し、筆者に変化が生じているというだけのことだ。



 そう。筆者においては、いまがまさに転機であると自覚している。

 転機のきっかけは「 貴志川線の利用者動向と経営判断 」を書いたことである。この記事は実は、現実世界において論文に仕上げ某学会で発表している。この取り組みを通じて、筆者はある失望を味わってしまった。筆者は Web世界でも相応に質の高い記事を提供している気でいたところ、いざ論文への変換を行ってみると、冗漫かつ論旨が一貫しない記述が異様に多いと自覚せざるをえなかった。この虚無感はかなり大きく、自分がやっていることは無駄ではないか、との疑念さえ浮かびかけたほどである。

 現実世界での制約条件としては、資格試験があった。これは「受験する側」「審査する側」双方の断面を経験しており、こなしていくには厳しいものがあった。「受験する側」では新たな資格を確保し、「審査する側」では防災・減災の新たな知見を獲得できたものの、負担が大きかったことは間違いない。

 だいぶ前からの伏線もあった。筆者は平成19(2007)年10月から平成24(2012)年 9月までの間、気持ちが半ば死んでいた。意欲を持てないまま、惰性で生き続けているに近く、心身ともに不健康な状態だった。その筆者を、ある御方のたった一言が救った。その子細は省かざるをえないとしても、五年に渡る低迷から筆者は解放されたのである。

 低空飛行から浮上すれば視点も変わり、心掛けも変わってくる。筆者においては娘との関係が一変した。今まで親の考えを強いる支配的な関係だったのが、天真爛漫な娘の気質を受容する方向に変わった。

 筆者においては、現実世界での論文に時間を割くようになり、一方で娘に尽くす時間が長くなった。 長男坊との関係 も相変わらずである。仕事もあるから、当然ながら、気力・体力は主に現実世界で消耗する。 Web世界にかける時間は短くならざるをえない。

 娘を塾に送る道すがら 200系撮影目当ての路上駐車に出会うと、「この狭い道では邪魔だな」との感想が先に立つほどになった。 200系は思い出深く、最も好きな車両の一つであるはずなのに、趣味よりも家事優先という心境に筆者はなっている。

 さらに先日、新年度異動の内内示を受けた。これは天啓か、と直感せざるをえなかった。客観的には左遷に次ぐ左遷、しかし主観的には「思いっ切りやるぞ!」と意気ごめる行先だった。さらにTAKA様からありがたい一言をいただいた。

「和寒さん、『左遷』の語源は劉邦の落蜀なんですよ」

 そうか、そうだったのか。ならば、近頃では便利な言葉があるではないか。

「漢中王におれはなる!」(^^)v

 妄言と嗤わば嗤え。いまの筆者は敢えて大言したい気分である。自分を鼓舞するためにも敢えて壮語したい気分である。勿論「漢中王」とは言葉の綾にすぎず、帝国の主になるつもりもないし、なれるはずもない。それどころか、陳勝・呉広にすら届かないかもしれない。それでも、燕雀如きに筆者の志は理解できまい、と悲哀・憤懣・諦念がごちゃ混ぜになった感情は確かにあるのだ。

 そうか、そうだったのか。転機とは、環境の変化ではなく心境の変化にあるのか。天空の高みにかけのぼり、筆者は昔の自分自身すら見下している。低迷していた日々のなんと愚かしいことか。悩みも苦しみも、全ては自分自身がつくりだした幻影ではなかったか。爽やかな光と風を受けながら、筆者の心はようやく吹っ切れている。

 筆者は承認の欲求と自己実現の欲求が強い。わが才覚を存分にふるいたい、と切望している。「大丈夫まさに此く如くあるべし」とは劉邦の言葉。そして「此く如く」の具体像は我が胸中にのみひそんでいる。保身に汲々とする(世間ではそれを「大人の心」「常識的な感覚」というのだが)燕雀どもに窺い知ることなど出来ようか。

 筆者はしばらく、上記の実現に力を入れていく。拙「志学館」の更新が遅れてもどうか御寛恕ありたい。





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