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哭 知
あれは確か、平成15(2003)年初頭だったと記憶する。メモをひっくり返せば日付まで特定できるが、今は敢えて記憶のみに頼って記すことにしよう。
当時の筆者は一号機関車に関して調べていた。著作権を侵害しない写真を入手するためには自分で実物を撮りにいくしか方法がなく、万世橋駅跡の高架橋下にあった交通博物館に出向いた。今日の鉄道博物館の盛況からはまったく想像できないだろうが、当時の交通博物館は空いていた。まして、冬場の平日であったから、館内は閑散としたものだった。それでも一号機関車の写真を撮る際には、ブレ防止のためセルフタイマー撮影したため、他の見学客が写りこんでしまい、何枚もの「心霊写真」を撮る羽目になった。
撮影が終わり、展示を一通り見たのち、図書室に行ってみた。なにか文献があることを期待したのである。図書室には岸由一郎学芸員がいた。名刺交換し来訪の主旨を伝えると、岸学芸員は二冊の参考文献を示してくれた。その二冊には筆者の知りたいことが、期待を上回る水準で記されていた。
この一事をもって、筆者は岸学芸員に感心した。他者に書物を示すためには、その内容についてよく知っていなければならない。若いのに(当時は三十路に届いたばかりだったはず)たいした人物だ、と感じ入った。後、二冊の書物はある論文の基礎を構成する重要な参考文献の一つになった。岸学芸員の的確な教示と、一種のめぐりあわせの妙には、今でも感謝している。
交通博物館を辞する際、簡単な挨拶だけですませたのは、いずれまたお会いしたいし、その機会はきっとあるだろう、と期待してのことだった。そのはずだったのに……。
平成20(2008)年 6月14日の朝、岩手・宮城内陸地震が発生した。地すべり……というよりむしろ地形そのものをズタズタに引き裂くような烈しい揺れもあった様子で、滅多にない大災害となった。
この地震で土砂崩れが発生し、駒の湯温泉が被災した。なんと不運なるめぐりあわせであろうか。不幸なる偶然はどうしてかくも重なるのか。駒の湯温泉には岸由一郎学芸員が投宿されていたのである。どれほど下手な三文小説家でも、こんな筋は描けまい。大地を引き裂いたものがいるとすれば、きっとそれは悪魔の仲間に相違あるまい。
岸学芸員はくりはら田園鉄道の車両・資料保存に関する委員会に参加していたとの由。まだ若いというのに、自ら信じる道を進んでいるさなかだったというのに、天災に遭って亡くなられてしまうとは、まったくもって惜しまれてならない。
今はただ、岸学芸員の不慮の死を悼み、ひたすら悔やみ申し上げるとともに、ご冥福を心より祈るばかりである。鉄道界はまこと惜しい方を失った。
平成20(2008)年 6月16日記す
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