このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
東武鉄道根古屋線〜〜消費者の利益は誰のもの?
■東武鉄道根古屋線
さて、根古屋線の話である。
東武鉄道根古屋線は、根古屋から産する石灰石を運搬すべく、大正15(1926)年に開業した。セメント会社の専用線でなく、東武鉄道自前の貨物支線というあたりに、成立年代の古さがうかがえる。東武鉄道は、自らの責任において根古屋線を経営する道を採った。その後成立した貨物支線の多くが専用線になったことを考えれば、貨物輸送にまだ明るい展望を見出せる時代であった。
根古屋の石灰石は、しかし早期に枯渇した。石灰石は無尽蔵とみなせるほど多量に存在するとはいえ、根古屋の地勢は奥深さに欠ける。採掘者は資源を求め、奥地へと進んだ。新しい採掘地から根古屋まで索道がつくられ、さらに奥地に進むとトラック輸送が根古屋線のフィーダーとなった。
最盛期でも月 7,700トンの出荷にとどまったというから、盛業と呼ぶにはほど遠い状況であった。加えて、採掘地が奥地へと移っていったことは痛手であり、鉄道営業の限界はかなり早い段階から見えていた。石灰石の行先は高麗川の日本セメント(当時)埼玉工場、小川町からは指呼の先である。わざわざトラックでフィーダーするならば、そのまま工場まで運んでしまった方が効率がよい。
線形に恵まれなかったことも、貨物支線としては苦しいところであった。根古屋は槻川の流域にあり、隣の川に沿う東上線に合流するには小さな尾根を乗り越える必要がある。石灰石を満載した列車は上り勾配に立ち向かわなければならず、運転にあたってはかなりの苦心が伴ったものと推察される。運転・保守に手のかかる路線の経営は嫌気される傾向が認められるから、こういったことも廃止の遠因になった可能性はある。
東武鉄道が根古屋線の経営に見切りをつけたのはいつか。それはおそらく、東上線貨物列車の電化(昭和34(1959)年)から、根古屋線が切り離された時と考えられる。根古屋線はついに電化されなかった。東上線から蒸気機関車が駆逐された後は、国鉄から機関車を借り受けて運行を続けた。貸借契約は時間貸しだったというから、厳しいコスト意識が働いていたことが如実にわかる。ひょっとすると、貨車は2編成用意され、蒸気機関車は空車編成を牽引して根古屋に行き、即時転線のうえ、満車編成を牽引して小川町に帰ってきたのではないか。これならば往復の所要時間は40分程度(1時間の基本料金!)で済む。そう考えると、借受機種は D51ではなく、旧型機の9600もしくは牽引定数が落ちる C58であったはずだ。もっとも、たとえ9600や C58でも、東武鉄道の在来機と比べればかなりのパワーアップが図られたことになるが。
蒸気機関車牽引時代の根古屋線は、いかにも私鉄貨物支線という趣であったろう。末期の国鉄機牽引時代は、国鉄支線を思わせる雰囲気であったに違いない。二つの顔を持っていたという意味において、根古屋線は面白い路線であった。
根古屋線の廃止は昭和42(1967)年のこと、理由は石灰石の枯渇である。日本の第一次産業が本格的な国際競争にさらされる以前、自らの事由により廃止に至った路線は珍しい。そしてそれは、一種の幸運と呼べるかもしれない。
写真−5 旧大河駅?
駅の場所を確定するには地図がやや粗く、及び腰の推測とはなるが、地形的な条件から判断すればおそらくここであろう。よくわからないのは、なぜここに駅が設けられたかである。短い支線であるから途中に交換設備を必要としないし、近傍では石灰石を産さない。ほかになにか荷があったということなのだろうか。
■消費者の利益は誰のもの?
昨今のセメント業界は、未曾有の不況に見舞われ続けている。バブル崩壊以後の値崩れはなかなか回復せず、各メーカーは価格維持に躍起になっている。大手メーカーの合併が相次いでいるのは、規模の経済追求というよりむしろ、市場価格吊り上げを狙う意図の方が大きい。
合併で大メーカーが出現してもなお、セメント業界が好況に転じる気配は薄い。それは現下の国内経済に影響されている部分もあるが、国際競争にさらされている点も無視できない。
セメントのように極めてドメスティックな産業でさえ、輸入が有利になる状況もある。セメントという材料に関していえば、国内産の方が絶対的に安い。しかし、コンクリート製品になると、人件費の比重が上がるため、外国産品が国産品より安くなることがある。
消費者は、当然ながら自らの利益を追求する。より安価なものを入手するための努力は、普遍的に妥当である。しかしながら、その努力を合成した結果が自国を利さないとなれば、いったいどうすればいいのか。経済理論は、明確な解を与えはしない。答を知っている者は、誰もいない。
明確になってきたのは、消費者利益を追求した結果、深刻な影響がもたらされることもある、ということである。現下の社会において消費者は強者であるが、しかし絶対者ではない。調整が必要な事態もありえるだろう。
誰を守り育てていくべきか。迂闊に道を誤ると、日本は谷底まで転げ落ちていくだろう。回復の余地がないほどの打撃だけは、なんとしても避けなければならない。日本の消費者は、極めて高度かつ微妙な判断を下す必要がある。残された時間は少なく、選択肢はさらに少ない。
日本の進路は、如何に。根古屋の狭小な採掘場跡を見て、そんなことを連想してみた。
写真−6・7 旧根古屋駅
石灰石を産していたとは思えないほど、狭小な空間である。武甲山とはまったく比較にならないし、高本・葛袋と比べてもなお規模が小さい。わざわざ貨物支線を敷設した意義が疑われるほどである。あるいは、槻川沿いに路線を延伸する構想でもあったのだろうか。写真の建物及び梢の隙間から見えるコンクリートの基礎は、おそらく索道の基地であろう。石灰石ほどの重量物を索道で輸送したというあたり、出荷量の少なさがうかがえる。
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