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第2章 御壕の電車

 

■瀬戸電気鉄道御壕に入る

市内路線複数化の形勢
 名古屋電鉄の事業安定と企業的成功を見て、近隣で電気鉄道を計画するものが次々と現れた。
 まず瀬戸自動鉄道が明治39年12月に社名を瀬戸電気鉄道と改め、・・・・・・・・名古屋城の外壕を利用して中心部に乗り入れるという奇策に出て、堀川での舟運との接続を図るとともに市内線への発言権を得た。これは41年 2月に申請され、42年12月に特許を得た後、44年10月 1日に大曽根〜堀川間が開通している。
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 さきに39年12月に熱田〜常滑間を特許申請した知多電気鉄道は、・・・・・・・・愛知電気鉄道と改称し、15年 2月開業の後、名古屋電鉄のライバルとして現在の会社の主要路線を建設してゆくことになる。こうした実力ある同業者の出現は、会社のもっとも苦慮するところであった。
 前期の瀬戸電鉄も42年 2月に大曽根〜精進川間を申請し、外壕線と同様の効果を狙うとともに、愛知電鉄との接続をも指向する姿勢を取った。会社が41年 6月に市と締結した報償契約が早速これを防衛する効力を発揮したけれども、それで万全ではなかった。
 愛知電鉄は名古屋市内の東部道路改良期成同盟会という住民組織と提携し、道路建設費を負担することにより線路敷設の賛同を得るという、名古屋電鉄と同じ手段を用いて参入を図った。これは特許には至らなかったが、大正 2年 2月には熱田〜東陽町間の市内乗入免許を獲得している(着工できなかったため 4年 6月に失効した)。当時の企業間競争の得失は別にして、もしも神宮前から東北部に貫通するような路線が実現していたら、現在の名古屋への出入口が名古屋駅前に集中限定される欠点を是正するものとして非常に興味ある結果を生んだであろう。

 

 ようやく本題に近づいてきました。

 名古屋電気鉄道にとって、ライバルの登場です。

 瀬戸電気鉄道(当時は瀬戸自動鉄道)は、明治38年に瀬戸−矢田間が、翌明治39年には矢田−大曽根間が開業しています。開業当時、中央本線には大曽根駅が設けられておらず、そのほかの要因もあって、経営はかなり苦しかったようです。

 そんな瀬戸電気鉄道にとって、路線を名古屋市の中心部まで延伸することは必須の課題でした。しかし、名古屋市は、名古屋電気鉄道との報償契約締結に向けて動き出しており、市道の占有は難しくなりつつありました。

 瀬戸電気鉄道の着想は極めて卓抜でした。名古屋電気鉄道が「奇策」と驚いたのも無理ありません。土居下まで自力で用地を確保するのはいいとしても、さらにその先は御壕を使うとは。ちなみに、名古屋城を所有していたのは愛知県です。

 日本の土地の所有権には、絶対と呼べるほどの重みがあります。これを故なく侵すことは、決してできない。鉄道事業を進めるうえで、用地の確保が最も重要な部分と目される所以です。日本の鉄道の歴史は、用地確保に四苦八苦する繰り返し、とさえいえます。

 この件で、報償契約の不備が露呈されました。「市域内独占権の保証」とは「市道上の占有は1社限りに保証する」という意味にすぎなかったのです。自力で用地を確保したり、市道以外の土地を占有できれば、名古屋市の中心まで路線延伸ができたのです。「市域内独占権」は、砂上の楼閣に等しい脆いものでした。報償契約は、名古屋電気鉄道にとって、重石と化しました。関係者の歯ぎしりが聞こえてくるようです。

 瀬戸電気鉄道は、かくして御壕の電車となり、名古屋市の中心部に近づきました。それでも真の中心部である栄町には、なお 1kmほどの距離が残されていたのです。

 

 瀬戸電気鉄道は、精進川への路線も企図しました。しかしこれは、市道の占有を前提としたためか、報償契約により排除されてしまいました。報償契約が名古屋電気鉄道のために役立った、数少ない事例といえます。

 南方からの愛知電気鉄道は、東陽町に至る路線の特許取得にこぎつけています。市道の占有ではなく、専用軌道用地を取得する見込みがあったのでしょうか。しかし、こちらも実現には至りませんでした。

 瀬戸電気鉄道と愛知電気鉄道が連絡していれば、「現在の名古屋への出入口が名古屋駅前に集中限定される欠点を是正するものとして非常に興味ある結果を生んだであろう」との記述どおり、名古屋市の交通体系が一変していた可能性さえありました。

 これこそ、公共性と企業利益の相克といえましょうか。報償契約は、名古屋電気鉄道に不利益をもたらしたばかりでなく、良質な鉄道路線網を構築する機会をも失わせたといえます。そして、このことは、名古屋市民にとっての不利益といえるのです。

 

 これは余談ですが。

 今は亡き司馬遼太郎氏の著述によると、明治政府は徳川幕府に縁の深い藩や親幕派の藩に対して、制裁を行った形跡があるのだそうです。制裁といっても、苛斂誅求に勉めたとかの直截なことではありません。廃藩置県後の県名と県庁所在地に、「幕府解体」の意図が見えるというのです。

 この説の立証は不可能です。しかし、なるほどとうなずける面があります。例えば愛知県の場合、県名の元になった「愛知」がどこにあるか、即答できるでしょうか。大抵の方はできないでしょう。愛知という地名はそれほどマイナーであり、そのような地名を県名に冠した明治政府の心理に、徳川幕府あるいは御三家に対するコンプレックスがあったと考えるのは、あながち無理とはいえません。

 同じような県名に、宮城・茨城・栃木・群馬・埼玉・神奈川・山梨・静岡・石川・兵庫・島根・愛媛などがあります。青森・福島・新潟のように、既存の城下町とまったく違う地に県庁所在地を置き、その地名を県名に冠したところもあります。

 このことを考えると、愛知県が瀬戸電気鉄道に対して御壕の使用を許したという出来事の意味を、理解しやすくなります。現在であれば、文化財保護の観点から確実に不許可になる案件です。しかし、明治政府及びその代弁者である愛知県は、徳川幕府の色を薄める仕上げとして、徳川時代の遺産を毀つことに同意したのかもしれません。

 同様の事例は、東京でもあります。JR東日本中央線の前身たる甲武鉄道は、新宿から都心乗入を図るため、江戸城外濠を埋め立て、用地を確保しました。これも現在では到底考えられない出来事です。徳川幕府の遺産の破却、明治時代だからこそなしえた芸当かもしれません。

 

 

■名古屋電気鉄道の鞘当て

市営化の実行
 監督官庁の許可はやや手間取ったが大正11年 6月 5日に手続きが終了、 8月 1日をもって市内線は名古屋市営となった。市長は大多喜から再び憲政会派の川崎卓吉に交代しており、終始政争に揺れた電車市営問題であった。
 名古屋電鉄は 9月27日に臨時総会を開いて事業譲渡と解散手続の件を報告、その承認を得て会社は清算会社に移行し、明治27年 6月の設立認可以来28年間の歴史を閉じた。・・・・・・・・

 

 大正11年、名古屋電鉄の市内線は名古屋市に譲渡されました。

 ここに至るまで、市議会の政争、市民の暴動など、様々な擦った揉んだがありました。車両基地が火災で全焼するなど、名古屋電気鉄道に気の毒な事件もありました。しかし、ここでは冗長になるので、その一々を記しません。

 名古屋市に譲渡された路線図は、図−2のとおりです。これを見て、あることに気づきませんか。

 そうです。名古屋電気鉄道は、瀬戸電気鉄道に対して極めて敵対的な態度をとっていることがわかります。大曽根−堀川間に並行する路線は、瀬戸電気鉄道の利用者のとりこみを図ったのでしょう。その一方、一番の繁華街である栄町−大津町間には路線を敷設していません。これは、瀬戸電気鉄道から名古屋市中心部への移動を不便にするための措置、と疑われても仕方のないところでしょう。

 瀬戸電気鉄道は、森下駅を新設して名古屋電気鉄道との連絡を図っています。とはいえこれは、むしろ相手を利する措置かもしれません。苦しいところです。

 市営化後、名古屋市電は急速かつ積極的に路線網を拡大していきます。栄町−大津町間の路線は、そのなかでも早い時期に完成しています。

 利用者の便利という観点に立つ限り、市営化は大成功といえるでしょう。しかし、都市内交通が民営企業ではいけないと断定できるだけの理由は、実はないのです。報償契約がなければ名古屋電気鉄道はどのような営業戦略を採ったか、歴史に「もし」は禁物ながら、興味深いところです。

 

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