このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 

第4章 今なお続く攻防

 

■飛躍的な発展

 栄町開業を果たすことにより、瀬戸線は大躍進を遂げました。従前の堀川−大曽根間といえば、名古屋都心に近いながら、その実態はローカル線にすぎませんでした。特に堀川−大津町間では利用者数が極端に少なく、ほとんど特定地方交通線なみで、まさしく盲腸区間と形容するにふさわしいほどの状況でした。

 そのような旧態は、栄町開業によりまったく払拭されました。鉄道にとってターミナルの立地が極めて重要な要素であることが、よくわかる一件です。

図−6 瀬戸線各区間の輸送密度の推移

 5年毎のデータ。ただし、昭和45(1970)〜昭和55(1980)年度については各年度毎のデータを掲載。また、昭和53(1978)年度の森下−大曽根間については、栄町開業の実績を踏まえた補正値とした。

 

 栄町−東大手間の利用者数は、堀川−大津町間とは比較にならないほど懸絶した水準に達し、大津町−大曽根間と比べても倍以上に伸びています。

 利用者数の伸びは大曽根以東でも認められます。ここで注意したいのは、図−6の中で、昭和52(1977)年度以前の大曽根−矢田間と翌昭和53(1978)年以後の森下−大曽根間は一本の線とみなしうることです。これは、大曽根以東から乗車する利用者の多くが大曽根で乗り換えていたものが、栄町開業によりそのまま直通するようになったことを示唆しています。利便性の大きな改善が、データとして顕在化した一例といえます。

 さらにいえば、昭和53(1978)年以後の大曽根−矢田間の利用者数の伸びは、栄町開業で利便性が向上したことによる純増分と理解することができるでしょう。中央線や自家用車からの転換か、あるいは瀬戸線沿線に宅地を購入したのか、詳細な理由は定かではありませんが、利用者数が大きく伸びたのは厳然たる事実です。それも1日あたり2〜3万人は伸びたのだから、たいへん大きい。

 栄町開業に伴う名鉄の負担は、決して軽くありませんでした。しかし、この負担に相応するほどの需要の伸びがあったわけですから、事業としては成功したといえるでしょう。

 

 

■今なお続く攻防

 瀬戸線の地位が将来も安泰かといえば、必ずしも楽観できません。

 まず、名古屋市名城線が砂田橋まで延伸されました。これは4号線の一部で、今後さらに延伸され、環状線を形成する予定です。瀬戸線との競合はこれからの延伸区間ではないにせよ、砂田橋延伸では矢田・守山自衛隊前と駅勢圏が競合するため、なんらかの影響があったと考えるのが自然です。

 さらに驚異なのはガイドウェイバス志段味線です。これは瀬戸線と中央線のほぼ中間に整備されるもので、瀬戸線にとって極めて強力な競合相手となることは間違いありません(本稿執筆段階では未開業)。整備主体は名古屋ガイドウェイバス、名古屋市が主導する第3セクター会社(名古屋市の株式保有比率63%)です。同社には名鉄も出資しています(名鉄の株式保有比率10%)が、これは「おつきあい」もしくは防衛的投資とみなすべきでしょう。

 

 これら路線の計画を策定するのは、名古屋市です。いうまでもなく、名古屋市は名鉄と対抗するためだけに新線をつくるわけではおりません。市民のため、交通状況を改善するため、といった目的が掲げられているはずです。特に今まで鉄道空白地帯であった地区の方々にとっては、地下鉄あるいはガイドウェイバスの開通は大きな福音となるでしょう。

 それでも、名古屋市の計画が名鉄に対して競合的であることは否定できません。かたちだけを見れば、名古屋市は今でも攻め続けているといえるのです。そして、名鉄は苦労の末に栄町直通を果たした以外には、有効な施策を打ちにくい状況にあります。

 名鉄と名古屋市の攻防。既に久しく、今なお続き、そして将来さらに続くのでしょう。今後どのように推移していくか、興味深いところではあります。

 

 

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