このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
二本のトンネルの因縁〜〜天塩炭礦鉄道
<完全改稿版>
そのⅠ 天塩の炭礦前史
■日本史における北海道そして留萠
江戸時代までの日本では、地域の力をあらわす指標は石高、即ち米の収穫高であった。石高は動員可能な兵数に比例していたともいわれているから、力(軍事力)を表現するのに最適な指標だったのかもしれない。このように石高で力をはかっていたという事実は、日本が稲作本位制の国であり、日本人が稲作本位の世界観を持っていたことの証である。
冷涼というよりもむしろ寒冷な地である北海道は、江戸時代の日本人にとって、世界観の外側にある地であったろう。なにしろ当時の北海道では稲作ができないというのが常識だった(※)のだから。松前藩という北海道のほんの一隅のみが、日本人の拠点であるにすぎなかった。ただし松前藩は、アイヌとの交易を通じ活動の範囲は広かった。交通不便と危険を冒し、千島列島まで出向いていたというから驚く。これは松前藩にとっての利益の大きさを示す有力な状況証拠であって、アイヌとの交易にはきわめて不公平・不平等な取引が多かったという定説を裏づけている。
※江戸時代における北海道での稲作は、函館−松前付近の狭い範囲に限られていた。
稲作ができなかった以上、北海道は日本人にとって価値の低い土地であったはずだが、状況は次第に変わってくる。ロシア帝国が極東に版図を拡大しつつあり、北海道はロシアとの境界領域となってきた。鎖国下の江戸幕府体制は暗愚・無知蒙昧・頑迷固陋の権化のように描写されることも多いが、一方には実は国際感覚にすぐれていたとの評価もある。実際のところはどうだったのか。
年表−1を見てみよう。文化 4(1807)年にルルモッペ場所(現留萠)を含む西蝦夷地が天領(幕府直轄領)となったあたり、江戸幕府がロシアとの「国境」として、北海道を如何に重視していたかがうかがえる。しかも文化年間には、足かけ15年に渡り間宮林蔵が派遣され、沿岸測量を行った実績もある。江戸幕府はロシアを警戒し、かつ北海道を版図として確保しようとしたわけだ。今日的視点から見ても、実にまっとうな反応ではないか。なお、以下の年表は基本的に参考文献(13)によっている。
年(元号) | 年(西暦) | できごと |
寛永11年 | 1634年 | 松前景広がルルモッペ場所の知行主に |
元禄 2年 | 1689年 | 松前藩工藤家がルルモッペ場所の知行主に |
安永 8年 | 1779年 | ルルモッペ場所の工藤家知行地から松前藩領に |
寛政 4年 | 1792年 | 大黒屋光太夫根室に帰国 |
文化 4年 | 1807年 | ルルモッペ場所含む西蝦夷地が松前藩領から天領(幕府直轄領)に |
文化 5年 | 1808年 | フェートン号事件(於長崎) |
文化 8年 | 1811年 | ゴローニン事件 |
文政 4年 | 1821年 | 蝦夷地が天領から松前藩領に復帰 |
年(元号) | 年(西暦) | できごと |
嘉永 6年 | 1853年 | ペリー艦隊浦賀に来航 |
安政 2年 | 1855年 | 蝦夷地が再び松前藩領から天領に ルルモッペ場所は函館奉行所管轄・秋田藩警護地に |
安政 4年 | 1857年 | ルルモッペ場所詰金井満五郎によるオビラシベ川上流の石炭調査 |
安政 6年 | 1859年 | ルルモッペ場所は庄内藩警護地に |
万延元年 | 1860年 | ルルモッペ場所は天領から庄内藩領に |
慶應 2年 | 1866年 | ルルモッペ場所は庄内藩領から天領(函館奉行所管轄)に オビラシベ川上流の炭鉱開採廃業 |
明治元年 | 1868年 | 明治維新・ルルモッペ場所より庄内藩引き揚げ 増毛商人八川喜七によるオビラシベの石炭試掘 |
明治 2年 | 1869年 | ルルモッペ場所は天塩国留萠郡(当時はルルモエと呼ばれた)となり山口藩支配地に |
明治 4年 | 1871年 | 山口藩によるオビラシベ川上流の炭鉱開採 山口藩支配被免(廃藩置県)・留萠郡は開拓使管轄に |
年(元号) | 年(西暦) | できごと |
明治 7年 | 1874年 | 開拓使雇ライマン(アメリカ人)による地質調査 |
明治16年 | 1883年 | 小樽の大竹作右衛門による小平蘂川流域石炭調査 |
明治20年 | 1887年 | 大竹作右衛門によるヲキナイ上流石炭開採 |
明治27年 | 1894年 | 田中北海道鉱山株式会社による小平蘂区石炭試掘 |
明治34年 | 1901年 | 北海道炭礦鉄道株式会社(後の北海道炭礦汽船)による石炭採掘権所有 |
明治38年 | 1905年 | 大和田で石炭採掘始まる |
明治44年 | 1911年 | 地質調査所による小平蘂川流域の炭田予察調査 |
大正 9年 | 1920年 | 地質調査所による小平蘂川南部炭田調査 |
大正11年 | 1922年 | 地質調査所による小平蘂川北部炭田調査 |
このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |