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二本のトンネルの因縁〜〜天塩炭礦鉄道
<完全改稿版>

そのⅡ  留萠の鉄道黎明期





■静かなる暴れ川

 ルルモッペとはいうまでもなくアイヌ語由来である。参考文献(17)は「静かなる川」という原語の意味に加えて、「此川潮汐溯ること数里、水流ために遅し、故に此名あり」と由来を重ねて説明し、留萠川の地理的特色をわかりやすく解説している。

「下流河口地区は北部日本海漁業の基地として発展してきた。この産業の発展を支えてきたのは港であったが、近隣港と異なるのは留萠川を利用したことである。つまり、河口を深く遡っての陸揚げが可能であり、陸上交通機関の未整備なこの時代には有効的なものであった。
 当時の留萠川は、その蛇行も著しく、水の流れが遅いため、大和田、幌糠と溯り、チバベリからは陸路として内陸への物資輸送を行ったのである」……と、明治初期の留萠川の様相を参考文献(17)は伝えている。

 以上のように、留萠川は天然の良港と水路を形成したわけだが、河口部に深い汽水域を有し、かつ勾配の緩やかな蛇行河川は、難治の暴れ川でもあった。明治中期まで留萠川の水害が顕在化しなかったのは、単純に流域の開発が進んでなかったからに相違あるまい。

 留萠川とその改修工事は、羽幌線と天塩炭礦鉄道の成立過程に少なからぬ影響を与えることになった。河川そのものはともかくとして、近代の河川改修が鉄道の成立に影響した事例は珍しい。また、留萠におけるこの事実について記述した先行文献は存在しないはずだ。よって、本稿での分析には相応の意義が伴うと確信している。





■留萠に鉄道きたる

 留萠本線深川−留萠間が開業したのは開業したのは明治43(1910)年であり、北海道の港湾を擁する都市にできた鉄道としては、比較的早く開業していることがわかる。さすがに小樽・室蘭・釧路・函館からは遅れをとっているものの、網走や根室より先んじている。樺太連絡という使命がある稚内よりも12年早い開業とは、稚内の地理的不利を考慮しても、意外に思えるところである。要するに、留萠の重要性は早い時代に広く認識されていた、といえようか。

年表−4 港湾を擁する都市の主要駅開業年次
年(元号)年(西暦)駅名備考
明治13年1880年手宮(小樽)昭和60(1985)年廃止
明治25年1892年室蘭のち東室蘭
明治34年1901年釧路旧駅
明治35年1902年函館旧駅・のち亀田(現五稜郭付近)・北海道鉄道
明治43年1910年留萠
大正元年1912年網走のち浜網走・昭和59(1984)年廃止
大正元年1912年岩内昭和60(1985)年廃止
大正10年1921年根室
大正10年1921年紋別平成元(1989)年廃止
大正11年1922年稚内のち南稚内
昭和11年1936年江差
昭和28年1953年松前昭和63(1988)年廃止


 まったくの余談になるが、江戸時代には藩の首府だった松前への鉄道開通が戦後という点に、北海道の鉄道敷設における冷酷なまでの合理性が感じられる。松前は一昔前までの有力な拠点であったわけだから、一般的な感覚からすれば、相応の幹線を接続する発想が出てきてもおかしくない。そうではなく、新時代の拠点は函館だ、と簡単に(そして劇的に)方向を変えてしまう一途さが、明治という時代にはあった。

 ともあれ、留萠に鉄道がやってきたのは明治43(1910)年のことである。増毛への延伸が大正10(1921)年にあった点を除き、支線区に相当する鉄道の計画が動き出すのは昭和に入ってからで、開業が早かった分しばらく動きを止めることになる。

留萠本線と留萠川
図−2.1 留萠本線と留萠川(留萠本線開業当初)


 留萠本線は途中で何箇所も留萠川と交差する。当時の留萠川は、まさに羊腸の蛇行河川であった。ここで少なくとも開業当初時点では、留萠本線は留萠市街地近傍区間において留萠川右岸を走り、留萠川と交差していない事実はたいへん重要である。留萠駅は留萠川に突き当たった、いわば河岸に相当する場所に立地している。これらは留萠川下流域での架橋を避けたと推測される措置であり、極めて合理的な線形選択である。





■留萠川の改修

 留萠本線が大正10(1921)年に増毛まで延伸されてのち、留萠地区での鉄道支線の整備が本格化していく。ちなみに増毛延伸区間は、留萠駅の先で留萠川と交差して、海岸線を増毛に向かう線形となっている。

 留萠本線増毛延伸と並行し、重要な社会基盤整備が行われた。大正 6(1917)年に起工され、大正12(1923)年に完成した、留萠川の河川改修がそれである。河口近くの河道をまっすぐになおし、暴れ川を日本海に直結させ穏やかならしめ、元の河道は市街地として開発するという壮大な計画である。留萠川の新しい河道は、留萠駅手前で留萠本線と交差し、留萠駅を左に見ながら山の端に沿って進み、留萠港防波堤の外(北)で日本海に注ぐ経路が選ばれた。

留萠本線と留萠川
図−2.2 留萠本線と留萠川(留萠本線増毛延伸後・留萠川河川改修後)


 留萠川河川改修は、あくまでも河川を管理する側の都合で行われているため、鉄道側への配慮は最小限にとどまっている。具体的にいえば、留萠駅手前に一箇所追加された留萠川架橋は河川改修を実施した主体が責任を負ったはずである一方、留萠川の新河道は羽幌線計画を踏まえたものでは決してなかった。

 羽幌線(留萠−大椴間)の工事が始まったのは留萠川新河道完成後の大正14(1925)年であり、羽幌線の計画は留萠川新河道に制約されざるをえなかった。羽幌線は留萠駅手前(留萠川右岸)新設の東留萠信号所より分岐して、留萠川新河道と尾根筋の間のわずかな土地を縫うように進む線形を採ったのである。これは留萠川への架橋を避けるためとしか解釈の余地がない措置であろう。

 ただしその一方で、東留萠信号所−留萠間は複線の架橋がなされている。昭和20年代の航空写真から確認できるように、この複線は平行になっていないことから、片方が留萠川新河道によるもの、片方が鉄道側の事情による新設と推測される。この推測が正しければ、留萠川への架橋はいずれ不可避だったわけで、羽幌線起点を東留萠信号所に設定した意味と意義に疑問が残るところである。

 羽幌線(留萠−大椴間)の開業は昭和 2(1927)年のことである。留萠本線から羽幌線へと直通する列車は、留萠駅に到着後、一旦東留萠信号所までスイッチバックしてから、羽幌線に入るという、かなり変則的な運行形態を採ることになる。スイッチバックは地理的障壁を越えるための一手法とはいえ、勾配以外の条件で二度も折り返すスイッチバックは珍しい事例である。





■留萠付近での鉄道開業

 以上の経緯を踏まえて、留萠付近での鉄道開業年次を一覧表にすると、以下のとおりになる。

年表−5 留萠付近での鉄道開業年次
年(元号)年(西暦)路線区間
明治43年1910年留萠本線深川−留萠間
大正10年1921年留萠本線留萠−増毛間
大正12年1923年留萠川新河道完成
昭和 2年1927年羽幌線東留萠信号所−大椴間
昭和 3年1928年羽幌線大椴−鬼鹿間
昭和 5年1930年留萠鉄道恵比島−太刀別−昭和間
昭和 5年1930年留萠鉄道海岸線留萠−西留萠間(貨物のみ)
昭和 6年1931年羽幌線鬼鹿−古丹別間
昭和 7年1932年羽幌線古丹別−羽幌間
昭和 7年1932年留萠鉄道海岸線留萠−北留萠間(貨物のみ)
昭和 9年1934年留萠鉄道海岸線留萠−仮古丹浜間(貨物のみ)
昭和16年1941年留萠本線留萠鉄道海岸線を国有化
昭和16年1941年羽幌線羽幌−築別間
留萠付近で線路付替(東留萠信号所廃止)
昭和16年1941年羽幌炭礦鉄道築別−築別炭礦間
昭和16年1941年天塩鉄道
(後の天塩炭礦鉄道)
留萠−天塩本郷間
天塩本郷−達布間(車扱貨物のみ)
昭和17年1942年天塩鉄道天塩本郷−達布間(貨客とも全通)

注:留萠本線・羽幌線とも開業当初は留萠線と銘されていたが、本稿ではその後の線名で統一している。



 天塩鉄道(後の天塩炭礦鉄道)は留萠付近における鉄道新設の最後である。また北海道全域を見渡しても、これより後に開業した私鉄路線は少ない。つまり、北海道の鉄道史における画期に天塩炭礦鉄道は位置しているといえる。その天塩鉄道はどのように興されたのか。次章ではこの点を探ってみよう。





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