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二本のトンネルの因縁〜〜天塩炭礦鉄道
<完全改稿版>

そのⅤ  二本のトンネルの因縁





■天鉄の事業への意気ごみ

 天鉄は開業にあたり、自社発注の C58蒸気機関車を 2両購入している。 C58は当時ほぼ最新鋭の汎用機であり、そのような機関車を私鉄が発注するというのは珍しい事例である。その一方で、貨物機の D51が選択されなかった点が興味深いところで、これはおそらく、牽引定数・軸重及び購入価格などが勘案された結果と推測される。

 天鉄は、鉄道省に規格を合わせながらも、初期投資抑制の努力を払っていた。それでも留萠鉄道(当初は動力車保有なし)や羽幌炭礦鉄道(中古車を導入)と異なり、ピカピカの新車を購入したあたりに、天鉄の事業への積極的な意気ごみを感じとることができる。

 二本のトンネルを掘ったこともまた然り。しかしながら、その積極性は細部にまで反映されていたものか、どうか。

第一トンネル
写真−2 第一トンネル留萠側近景
※現在は二車線の道道に改築されている






■当時の常識として

 明治から昭和初期にかけて、北海道の建設工事において強制労働(囚人労働・タコ労働・いわゆる強制連行)がつきものだったことは、覆しようのない常識である。このうち、タコ労働に関しては 北海道拓殖鉄道の記事 で言及しているので、本稿の参考の一助となるかもしれない。

 当初版執筆当時の筆者には固定観念があったゆえに、「当時の常識として、建設工事にはタコ労働がつきものでした。二本のトンネルは労働者の膏血を搾ってできたものと見て、まず間違いありません」などといとも簡単に書いてしまった。では、真相はどうだったのか。

 二本のトンネルに関していえば、真偽のほどは定かでないとしても、今日でもなお幽霊の目撃談が伝えられている。よって、少なくとも幽霊譚の基礎となる出来事があった、と考えるのが妥当である。筆者が平成 3(1991)年に現地を訪れた際、天鉄バス運転手の方が「鉄道工事では朝鮮人の強制労働も行われていた」と語っておられたから、その点では話の整合がとれてはいる。

 戦後から還暦した現在では、証拠を集めようにも限界がある。正史たる参考文献(01)は、この点に関しどのように記述しているだろうか。

「工事用諸資材は殆ど戦時下切符制にして調達意の如くならず、労力亦極度に不足を来し、これが補充には総ゆる手段が講じられた。
 加えて相次ぐ物価、労銀の暴騰及び資材労力の入手難は勢い工事費の膨張を招来し、昭和十五年二月主食の統制以来工事人夫の募集を困難ならしめ、一時は人夫不足のため工事は停頓し工事予定を変更すること再々であった」

 強制労働に関する言及はまったくない。好意的に解釈すれば、天鉄がじかに強制労働に関与していない経緯を示す傍証であり、悪意的に解釈すれば、単なる事実の隠蔽である。

 実は、参考文献(04)のまったく別の工事においても、同様の記述が認められる。工事の場所や内容は違えども、施工条件が厳しくなっていた時代背景がうかがえる。真相としてはおそらく、統制経済下の戦時日本においてはタコ労働等の強制労働をもってしても労働力確保が困難になり、材料入手はさらに難しかった、ということであろう。

 正史の書きぶりは、強制労働の有無以前の問題があった、と解釈すべきであろう。

第一トンネル
写真−3 第一トンネル達布側近景
(許可を得て撮影)
※現在は二車線の道道に改築されている






■強制労働再論

 強制労働を語る際に忘れられがちなのは、労働力だけあっても実は意味がなく、それを束ね指揮する親方の存在が不可欠だ、という点である。これは軍隊になぞらえればわかりやすい。兵隊だけいても戦えるわけではなく、部隊を指揮する隊長、実務を支える軍曹がいて、初めて軍隊として機能する。鉄道の建設工事においても、全体を計画指導する技術者、現場を預かる親方がいなければ、工事が始まらないのである。

 技術者は天鉄に属しているから、ここでは親方について考えてみよう。彼ら親方(及び彼らを支えるすぐれた職人衆)はどの工事現場でも優遇されるうえ、当時は全国で工事が興されていたから、「労銀の暴騰」は当然の帰結といえる。

 北海道拓殖鉄道の記事で論じたように、強制労働を行っても所詮、高度・良質な成果は得られない。強制労働が常識として行われていた時代といえども、トンネル・橋梁が多く存在する天鉄において、強制労働を導入できる工種は限られていたはずである。

 強制労働があったことは事実としても、それがあまねく全てを覆っていたかといえば、そうではないと考えるのが妥当である。天鉄においても同様である。「自虐史観」は一事が万事とみなしがちであるが、当時の日本の実相を知るには、合理的・客観的に論考する必要がある。

第二トンネル−本郷公園間
写真−4 第二トンネル達布側アプローチ区間(奥が留萠方面)
※トンネル坑口は約1,000m先にある






■材料吝嗇の可能性

 以上まで記してきたとおり、統制経済体制が布かれていた時代において、労働力確保と材料入手が難しくなり、工事費が増大する状況になっていた。

 この状況に天鉄はどう対処したか。そもそも天鉄が留萠を目指した結果として、二本の長いトンネルを掘らなければならず、初期投資が嵩んでいた状況がある。天鉄はおそらく、請負業者に予算を提示し、予算厳守で工事を進めるよう依頼したと想定される。

 請負業者は利益を出すため、知恵を絞らなければならなかった。とりわけトンネル工事を請け負った業者は困ったに違いない。鉄道の線形に合わせた掘削、地質に対応した支保と覆工など、トンネル工事には技術を有する職人が担うべき領域が多い。いくら北海道で強制労働が常識だったとしても、掘削作業の一部あるいは掘削土・材料運搬といった単純労働にしかあてはめられない。人件費を圧縮するにはおのずと限界が伴うのだ。

 請負業者は天鉄に請負金額の値上げを求めたはずである。その一方、人件費以外の面でなんらか手を施した可能性を想定すべきであろう。最もありえそうなのは、工事に必要な材料の吝嗇、いわゆる手抜き工事である。

 このようなことに言及するのは、それなりの根拠がある。前述した平成 3(1991)年の現地訪問時に見かけた橋梁の老朽劣化がひどかったからである。ポン沖内川に残っていた橋脚は風化して深く削られ骨材が露出しており、小平蕊川橋梁は橋脚が傾き桁がジグザグになっていた。天鉄廃止後ほぼ四半世紀、開業時点からほぼ半世紀を経ていたとはいえ、あまりにも顕著な老朽劣化であった。

 ただし当日は風雨厳しき荒天で、綿密に調査したわけではないから、断定するのは実は危険が伴う。それでも、直感的には材料吝嗇を指摘せざるをえない。天鉄は夕張鉄道から工務課長の派遣を受け、工事案件を担わせている。この課長は腹心の部下を連れてきたと思われるが、新興会社で規模が小さい天鉄においては、少数の技術者が全線の工事を監督しなければならなかったはずだ。彼ら技術者が工事の内容にどれだけ目配りできたものか、証拠はなくとも改めて論ずるまでもないであろう。



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 天鉄の志には気宇壮大なものがあったとはいえ、さまざまな方面から虚しくされた気配がある。これは時代と状況に恵まれなかったため、というべきか。それが業績にまで顕現したというならば、まったくもって皮肉なものである。二本のトンネルの因縁はまだまだ続く。





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