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第4章 二本のトンネルの因縁

 

 天鉄は、自社発注の C58を2両購入しました。 C58は当時ほぼ最新鋭の汎用機ですが、民鉄発注車とは珍しい。貨物機の D51が選択されなかった点が興味深いところで、これはおそらく、牽引定数・軸重及び購入価格などが勘案された結果でしょう。

 以上のように天鉄は、鉄道省→国鉄に規格を合わせつつ、初期投資抑制の努力を払っていました。それでも留萠鉄道(当初は動力車保有なし)や羽幌炭礦鉄道(中古車を導入)とは異なり、新車を購入したあたり、二本のトンネルを掘ったこととあわせ、天鉄の事業への意気ごみを感じとることができます。

 

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 天鉄の高い志、しかし、これが建設工事にまで反映されたかどうか。

 当時の常識として、建設工事にはタコ労働がつきものでした。二本のトンネルは労働者の膏血を搾ってできたものと見て、まず間違いありません。その他の構造物も、おそらく全てそうでしょう。

 筆者は平成 3(1991)年夏、天鉄の沿線を訪れています。当日は昼から大雨になるなど天候がごく悪く、第二トンネルまで辿り着けなかった心残りもありますが、それでも収穫はありました。それは、第一トンネルの趣です。

 さらに平成 6(1994)年夏、第一トンネル坑口を再訪しました。この時は快晴でしたが、やはり雰囲気が奇妙だった。感覚のアンテナに、なにか引っかかるのです。

 以下に、平成 3(1991)年当時の文章を示します。

 

 春日町を過ぎる。駅の跡はわからない。道は次第に山中に入っていく。
 工事中だ。道道留萌小平線改良工事とある。工事の人に「やめた方がいい」と言われたが、工事そのものの邪魔にはならないそうなので、まずはトンネルまで行ってみる。
 これは、凄い、雰囲気だ。
 トンネル入口は靄に包まれている。天候のなせるわざとはいえ、深山幽谷の趣だ。
 山水画の世界ではない。どことなく鬼気を感じる。心の奥に震えがくる。なにか、ある。
 勇を鼓しトンネルに入ってみる。中には霧がかかっている。出口は見えない。入口からの光が届かなくなったところで立ちすくむ。左側の壁面が崩壊している。出口が見えないはずである。
 自転車備え付けのバッテリーランプでは崩壊の状況がよくわからない。もっと強い光源がほしいところだ。この崩壊箇所を越えられるのかどうか、暗闇の中で逡巡する。
 後ろの方でばららっと雫が落ちる音がする。びっくりして振り向いてしまう。冷たい風が吹き抜けていく。「こわい」と感じてしまったらもうだめだ。引き返すことにする。
 山が次第に開け、留萌市街が見えてきた時の安心感には、格別なものがあった。

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 悪天候の中、わたしだけを乗せてバス(注:天鉄バス達布→留萌駅)は出発する。予想通りとはいえ、さびしい道中になりそうだ。
 運転手も同じ思いなのか、しきりに話しかけてくる。ここで、車内での話題をまとめてみると・・・・・・
 その一。
 桜山のトンネルには自殺者の霊が出るとか。目撃談も数多くあるという。あのトンネル、ただごとでない雰囲気を醸しているとは思ったが、そういう事情があったとは。ところが、この後もっと凄い話が飛び出してくることになる。会話はしてみるものである。
 その二。
 路線の廃止は炭鉱の閉山に伴うものではなく、路線の維持管理が苦しくなってきたからだという。なるほど、第一トンネルは内部が崩壊していた。達布のコンクリート橋も沖内の橋脚も腐朽の程度がひどかった。他にも危ない箇所がいくつかあるに違いない。
 これでは、たとえ最盛期の輸送量があったとしても列車の運行は難しい。天塩炭礦鉄道は、その施設の脆さにより、自らの命数を縮めたといえる。
 そして、その三。
 この鉄道の建設工事の際、朝鮮人の強制労働も行なわれたそうだ。これで読めた。二本のトンネルを掘った理由も、構造物が脆弱である訳も。
 強制労働とは、本人の意志を無視して労働を強いることである。賃金が支給されることは、まずない。それどころか、肉体を維持する最低限の(あるいはそれ以下の)食事しか与えられない場合が多い。即ち、強制労働者にかかる人件費はほとんどゼロに等しい。
 強制労働を用いる限り、トンネルの掘削は難事とはいえない。材料さえ揃えれば、あとのことを気にしなくてよいからである。労働者の人数不足は簡単に補える。しかも、賃金は不要なのだ。経営者にとって、これほど好都合なやり方はない。
 構造物が脆弱なのも強制労働と同根である。まず列車を走らせることが先決、耐久性は追求しない、工事費は可能な限り切り詰めるべし−−このように着想していけば、構造物は脆弱にならざるをえない。材料が質量ともにけちられるからである。

 

 第一トンネルにはなにか霊的な力が籠められているに違いない、と思わず確信したほど、その雰囲気には凄まじいものがありました。その強烈な印象は、文章での再現が難しく、もどかしい限りですが、ほんの一断面でも雰囲気の異様さが伝わるでしょうか。

 タコ労働も強制労働も、今となっては実相がよくわからない面が多々あります。自殺者の話にしても幽霊譚にしても、真相は不明です。なにが背景にあるかまでは特定できない、しかし、「なにかある」と感じさせるに足るものが、第一トンネルにはありました。

 天鉄が留萠を目指したその結果、二本の長いトンネルを掘らなければならず、初期投資は嵩んでしまいました。天鉄はおそらく、請負業者に予算を提示し、その範囲内で工事を進めてくれと依頼したでしょう。請負業者は利益を出すために、知恵を絞ったはずです。道内での建設工事でタコ労働は常識でしたから、その他の面でなにか手を施した可能性があります。

 タコ労働のほかに、材料を吝嗇したという事態も想定しなければなりません。遺されている構造物を見る限り、そのように想定せざるをえないのです。いくら廃止後四半世紀を経ているとはいえ、橋梁の老朽劣化はあまりにも著しい。

 先の一文でも触れていますが、沖内川橋梁の橋脚は、本来のアウトラインが風化により深く削られ、骨材が露出していました。小平蕊川橋梁は、橋脚が不等沈下をおこし、桁がジグザグになっていました。

 同時期の建設、廃止も3年しか違わない羽幌炭礦鉄道の橋梁が良好な状態を保っているのと比べ、格段の違いが認められます。気候に大差ないはずですから、材料と施工の質にその原因を求めるべきでしょう。

 天鉄は、夕張鉄道から工務課長を派遣してもらい、工事案件を担わせます。この課長は腹心の部下を連れてきたでしょうが、新興会社で規模も大きいとはいえない天鉄でのこと、ごく少数のスタッフで全線の工事を監督したと思われます。工事の内容にどれだけ目配りできたでしょうか。

 

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 参考文献(01)は次のように記しています。

「工事用諸資材は殆ど戦時下切符制にして調達意の如くならず、労力亦極度に不足を来し、これが補充には総ゆる手段が講じられた。
 加えて相次ぐ物価、労銀の暴騰及び資材労力の入手難は勢い工事費の膨張を招来し、昭和十五(1940)年二月主食の統制以来工事人夫の募集を困難ならしめ、一時は人夫不足のため工事は停頓し工事予定を変更すること再々であった」

 参考文献(04)のまったく別の工事においても、同様の記述が認められます。工事の場所や内容は違えども、その施工は厳しくなっていた様子がうかがえます。真相はおそらく、戦時日本においては、タコ労働をもってしても労働力確保が困難になり、材料入手はさらに難しかった、ということなのでしょう。タコ労働でも強制労働でも、労働力だけあっても意味がなく、それを束ね指揮する親方の存在が不可欠です。彼ら親方はどの工事現場でも尊重されるうえ、当時は全国で工事が興されていましたから、「労銀の暴騰」には無理からぬ面があります。また、資源に乏しい日本の戦時下では、材料入手が至難になるのは当然であり、吝嗇せざるをえなかったのでしょう。

 天鉄の志、壮なりとはいえ、様々な方面からむなしくされてしまいました。これは状況に恵まれなかったため、というしかありません。その因縁が業績に現れたとすれば、皮肉なものではあります。

 

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