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二本のトンネルの因縁〜〜天塩炭礦鉄道
昼食後、嘉一郎は馬車の客となって、千住火力発電所へ向かった。発電所に着いて、
師走の冷たい風の吹く中に降り立った。冬の厳しい甲州に生まれ育った嘉一郎にとって、
東京の冬は暖かいくらいで、少しも苦にならなかった。苦になるのは会社(注:東京電
灯株式会社/東京電力の前身)の現状で、それへの改善策を具体化させるための材料を
求めて、わざわざ来たのである。
嘉一郎は事務所の前を素通りして、釜場へ直行すると、そこの作業員に名を告げた上
で、
「仕事について、なにか不満はないかね」
と尋ねた。
「あります」
初老の作業員は、鉢巻きを外して嘉一郎と向き合い、奥戸修吾と名乗った。
「たとえば?」
「石炭の質が悪いことです。ボロ炭なので、焚くときに大量の滓が出て往生しています」
「早い話、効率が悪いってことだな」
「そういうこと。仕入係の野郎は、石炭屋から袖の下をもらって、ボロ炭を高く仕入れ、
そのツケを俺たち現場の者に払わせているんでさ」
奥戸修吾は、歯切れの良い江戸弁でまくし立てた。嘉一郎には、思い当たる節がなく
もなかった。
「ここでは、どこの石炭を焚いているんだね」
「常盤炭だけど、これよりも北海道炭や九州炭の方が、ずっと質が良いんですよ」
「それに間違いないんだな」
と、嘉一郎は念を押した。
「ええ、間違いのないことに、この首を賭けまさあ」
若山三郎「東武王国/小説根津嘉一郎」より
東武鉄道発展の礎を築いた根津嘉一郎(初代)を活写したこの伝記の中に、北海道炭の品質の良さを示す話題が、小さく挿まれています。勿論、伝記の目的は根津嘉一郎の生涯を著すことにあり、北海道炭の品質に言及することじたいに深い意味があるわけではありません。でも、筆者は、このくだりを読んで妙にうれしかった。
筆者の鉄道志(史)学の原点となった、北海道の鉄道。このたびは、因縁に満ちた二本のトンネルを持つ天塩鉄道→天塩炭礦鉄道(以下天鉄)をとりあげます。
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完全改稿版へのリンク:
二本のトンネルの因縁〜〜天塩炭礦鉄道<完全改稿版>
※本記事は、内容と体裁を全面的に改めた「完全改稿版」を出しています。
現在にあたっては、むしろそちらを御一読ください。
参考文献
(01)「十五年史」(天塩鐵道株式会社)
(02)「七十年史」(北海道炭礦汽船株式会社)
(03)「昭和十七年五月三十一日現在留萠駅構内配線図」
(04)「日本国有鉄道百年史第11巻」(日本国有鉄道)
(05)「民鉄統計年報(各年度版)」(運輸省鉄道監督局監修)
(06)HP『I Love SwitchBack』より (07)「交通公社の時刻表(1964年 8月版)」(日本交通公社) (08)鉄道ジャーナル別冊N0.5 『北海道の鉄道』より (09)鉄道ピクトリアルNo.384『北海道鉄道開通百周年記念号』より(1980年12月増刊) (10)同上より (11)「私鉄史ハンドブック」(和久田康雄) (12)『鉄道廃線跡を歩くⅥ』(宮脇俊三編)より 参考文献(01)(02)(03)の入手にあたっては、三菱大夕張鉄道保存会会長の奥山道紀様の格別なる御高配を賜りました。ここに明記することにより、感謝の意を表します。 なお、本文においては、北海道炭礦汽船株式会社を北炭と略称します。 執筆備忘録
「羽幌線・留萠」(江上英樹)(http://www.people.or.jp/~egamifam/rumoi.htm)
「北海道の鉄道網のあゆみ」(青木栄一)
「北海道の私鉄盛衰記」(小熊米雄)
「23年前1周の北海道」(白井良和)
「天塩炭礦鉄道【留萠〜達布】」(杉崎行恭)
初訪問 :平成 3(1991)年夏
本稿原型の執筆:平成 3(1991)年秋〜平成 5年初頭
本稿の執筆 :平成12(2000)年夏
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