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第2章 天鉄の経由地選定の不思議

 

 天鉄の不思議な点は、その経由地の選定につきます。

 天鉄が興された目的は、御料林から伐り出された木材、天塩炭礦(当初は北炭天塩礦)から石炭を運搬することにありました。天鉄の鉄道敷設免許申請書に付せられた副申書には、下記のような起業目論見が記されています(参考文献(01)/要約)。

   1.北海道人造石油会社第二工場(留萠に建設予定)向け原料炭の輸送(35万トン/年)。
   2.天塩礦の開発に要する作業機械を運搬するために鉄道敷設は不可欠。
   3.一般市場向け石炭の輸送(10〜20万トン/年)。
   4.御料林から伐り出された木材の輸送( 2.5万トン/年)。
     帝室林野局は小平−達布間森林鉄道敷設を中止し、全量を天鉄により輸送することと
     なったため、木材不足の折、天鉄の開通は特に急を要する。

 1は天鉄の需要の根幹をなす理由といえます。石炭を原料として石油に加工する工場が留萠につくられるので、その原料輸送を担う、というのです。参考文献(01)には「我国は国土狭隘にして天然油の埋蔵に乏しく、戦争資材としての石油の必要性より政府に於ては石炭液化による人造石油の製造を企図し、茲に昭和十三年八月人造石油製造事業法の公布」となったと記されています。当時は、まさに国を担う事業と目されていたのでしょう。

 また、冒頭に引用した小説は北海道炭の品質の良さを示すエピソードのひとつですが、天塩炭はとりわけカロリーが高く、人造石油の原料として最適とみなされていたようです(参考文献(09))。即ち、人造石油工場の構想があったからこそ、天塩礦及び天鉄の事業は具体化に向けて動き出したといえそうです。

 2は北海道らしい理由です。炭鉱を開発するにあたり、作業機械運搬のために鉄道敷設が不可欠とは、道路事情の悪さをよく物語っています。北海道の内陸部において、最初にできた交通機関は概ね鉄道です。まともな道路より先に鉄道ができるというのが、北海道の開発・開拓に共通するパターンといえます。

 3は石炭の副次輸送を記した項目です。

 4は、実に興味深い理由です。木材の輸送目論見を記すだけにとどまらず、天鉄の事業は宮内省の森林鉄道敷設とバーターしたものであるから必ずこの申請を認めよとも読める、なかなか強烈な内容です。

 この背景については、若干の解説を必要とするところでしょう。天鉄創立時の発行株式 6万株のうち、 2万株を宮内省が引き受けています(残り 4万株の大部分は北炭及びその関連会社が引き受けたようだが詳細な記述なし)。資本金総額 300万円のうち 100万円を担ったわけですから、これはたいへん大きい。

 勿論、宮内省にもメリットがあるからこそ、出資に応じたに相違ありません。おそらく宮内省は自力でも森林軌道を敷設できたはずです。しかし、森林軌道は一般の鉄道と比べ規格が格段に低いため、自前の運営でなくともできる限り一般の鉄道に輸送を委ねたい、という発想はあったでしょう。してみると、小平−達布間に森林軌道を敷設するよりも、天鉄に出資した方が得策、という判断がなされた可能性があります。単に出資するだけでなく、大株主として経営への発言権も確保していますから、それで充分だったのでしょう。

 

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 天鉄が興された目的は、上に記したとおりです。しかし、そのための手段として、起点を留萠とする必要があったかどうか。羽幌線は既に開業していましたから、小平での接続でもなんら問題はなかったはずです。

 ところが天鉄は、天塩本郷から海岸に出ることなく南進し、尾根に長いトンネルを二本も掘り、しかも留萌川に橋を架け、留萠への直通を指向したのです。

 

 考えなければいけないのは、天鉄の歴史の新しさです。天鉄より後に新規開業した民鉄は、道内には、否日本中見渡しても、そう多くありません。鉄道に限らず民営事業というものは、一般論として、採算性の高いところから順次着手されるはずです。まして、留萠本線深川−留萠間の開業が明治43(1910)年のこと、それから30年経ているわけですから、事業として成熟するまでに相当な期間を要しています。

 実際のところ、参考文献(01)の冒頭には「明治三十四年採掘権を所有して以来継続所有し、常に開発の意図を有したるも諸条件に制約せられ実に数十年の間陽の目を見るに至らなかった」と記されています。開業前の見通しとしては、採算を得られるかどうか、境界線上の事業だったと思われます。天鉄の事業は、宮内省からの出資を得て、ようやく具体化に向けて動き始めたものともいえるのです。

 このような事業においては、初期投資はできる限り抑制したいはずです。ところが天鉄は、二本のトンネルを掘るという。その強い意志の背景には、なんらかの積極的な理由があると考えるべきでしょう。

 

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 残念ながら、一次資料である参考文献(01)でさえ、経路選定に関する記述がありません。従って、憶測・類推になってしまいますが、天鉄はおそらく、自社路線のみで輸送が完結できる経路選定を目指したのでしょう。

 夕張鉄道(天鉄と同じく北炭の子会社)は、夕張産の石炭を小樽港から積み出すための最短経路を採っています。一方、鉄道省には夕張産石炭は夕張線・室蘭本線経由で室蘭港・苫小牧港から積み出してもらいたいとの希望があります。そこで、夕張鉄道が野幌接続となっているを幸い、有形無形の様々な圧力をかけ続けたという説があります。

 夕張鉄道での先例を教訓として、大株主である北炭が天鉄に対して経由地選定の助言をした可能性があります。前述したとおり明確な記述はありませんが、参考文献(01)はそのあたりの背景をそこはかとなく匂わせています。

「当時北海道炭砿汽船株式会社北海道支店の事務部長であった当社現社長大西一男は、海岸線に近き小平蕊炭田の開発は港に遠い事業地のみに依存せる北炭として、経済的価値と共に奥地開発の使命達成のため早急に開発の要あるべきことを進言し、爾来漸次開発の機運昴まり、昭和八(1933)年炭砿開発と併行して鉄道建設を計画せられ、夕張鉄道株式会社小林栄氏に委嘱し、小平達布間の鉄道建設予算編成に着手せられたり。
 昭和十(1935)年に至り部分的に測量を開始し、昭和十二(1937)年より本格的に調査を進め、更に留萠−達布間の路線調査をも併行して計画せられたり」
    注:西暦年は原典になく、引用者が補った。

 

 

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