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絵葉書に見る

日清戦争黄海海戦時の連合艦隊主力

1894(明治27)年9月17日、わが国の連合艦隊は、清国の北洋艦隊を黄海北部の鴨緑江口に追い求め、これを撃破して黄海北部の制海権を獲得し、陸戦場(北鮮)に対する敵の海上補給路を断つことにより、日清戦争を有利に導きました。ここでは、日本海軍発展の契機となった日清戦争黄海海戦(英語名the Battle of the Yalu)で活躍した主力の艦影をかかげ、往時を偲びたいと思います。

<注>
1.連合艦隊とは、複数の艦隊を同一指揮系統下に置いた有事における編成を指します。日清戦争では常備艦隊と西海艦隊とが連合し、艦隊司令長官は常備艦隊司令官 中将 伊東祐亨が兼任しました。
2, 「黄海海戦」の名を冠するものは、他に1904(明治37)年8月10日の日露戦争黄海海戦(英語名the Battle of the Yellow Sea)が有ります。
3. ここに使用した絵葉書は全て当研究所の所蔵品で、千代田の葉面に押された消印は1906(明治39)年5月27日第1回海軍記念日の佐世保局のものです。

4.9月17日は当研究所の所長の誕生日です。


<本隊>
司令長官 中将 伊東祐亨、 参謀長 大佐 鮫島員規、 参謀 少佐心得 島村速雄
本隊
海防艦 松島(旗艦)、巡洋艦 千代田、海防艦 厳島、橋立、コルヴェット 比叡、扶桑
別働隊
砲艦 赤城、巡洋艦代用 西京丸


海防艦 松島。仏国ロワール造船所建造、1891年竣工、4,217トン、32cm砲1門、12cm砲12門、16ノット。



巡洋艦 千代田。英国トムソン社建造、1891年竣工、2,400トン、12cm砲10門、19ノット。



海防艦 厳島。仏国ロワール造船所建造、1892年竣工、4,217トン、32cm砲1門、12cm砲11門、16ノット。



海防艦 橋立。横須賀造船所建造、1894年竣工、4,217トン、32cm砲1門、12cm砲11門、16ノット。


<第一遊撃隊>
司令官 少将 坪井航三、 参謀 大尉 中村静嘉
巡洋艦 吉野(旗艦)、高千穂、秋津洲、浪速


巡洋艦 吉野。英国アームストロング社建造、1893年竣工、4,150トン、15cm砲4門、12cm砲8門、23ノット。




巡洋艦 高千穂。英国アームストロング社建造、1886年竣工、3,650トン、26cm砲2門、15cm砲6門、18ノット。



巡洋艦 秋津洲。横須賀造船所建造、1894年竣工、3,100トン、15cm砲4門、12cm砲6門、19ノット。



巡洋艦 浪速。英国アームストロング社建造、1886年竣工、3,650トン、26cm砲2門、15cm砲6門、18ノット。


<本海戦の経過>

青字は第一遊撃隊に関する事項を示す

時刻連合艦隊北洋艦隊
9/16
17:00
本隊と第一遊撃隊、仮根拠地(朝鮮半島最西端チョッペク岬の北東)を発ち、海洋島へ向かう
赤城は浅吃水を利して沿岸、島嶼を捜索するため、また西京丸は軍令部部長 中将 樺山資紀、参謀長 少佐 伊集院五郎、他一行を乗せて諸般の状況観察のため随伴
大東溝より10浬の地点に投錨
平遠、広丙は溝口を警護
9/17
10:23
吉野、東北東の水平線上に一条の煙を発見南方の水平線に一抹の煙、次いで8隻の艦影を認む
提督 丁汝昌、出撃を命令
11:30吉野、「敵ノ艦隊3隻以上東方ニ見ユ」と信号
(以下、信号は原則として旗流に拠る)
伊東司令長官、敵艦隊発見の報を受け、3艦群陣(航行陣形)から単縦陣(戦闘陣形)への陣形変換、および昼食を命令、赤城と西京丸を右舷から非敵側の左舷に移す
南西に向け約5浬航進
12:05敵艦隊を右舷前方に視認、伊東司令長官、戦闘開始を命令定遠、鎮遠を先頭とする後翼単梯陣で西航、速力7ノット
陣形第一遊撃隊(単縦陣):
 吉野(旗艦、艦長 大佐 河原要一)
 高千穂(艦長 大佐 野村貞)
 秋津洲(艦長心得 少佐 上村彦之丞)
 浪速(艦長 大佐 東郷平八郎)

本隊(単縦陣):
 松島(旗艦、艦長 大佐 尾本知道)
 千代田(艦長 大佐 内田正敏)
 厳島(艦長 大佐 横尾道昱)
 橋立(艦長 大佐 日高壮之丞)
 比叡(艦長心得 少佐 桜井規矩之左右)
 扶桑(艦長 大佐 新井有貫)
別働隊(本隊後部非敵側を並航):
 赤城(艦長 少佐 坂本八郎太)
 西京丸(艦長 少佐 鹿野勇之進)
右翼:
 揚威
 超勇
 靖遠
 経遠
中央:
 鎮遠
 定遠(旗艦)
左翼:
 来遠
 致遠
 広甲
 済遠
付属隊:(北東遠方に遊弋)
 平遠
 広丙
 鎮南
 鎮中
 水雷艇4隻
12:15
第一遊撃隊、左舷艦首方向に敵の付属隊を発見、距離12,000m
坪井司令官、第一遊撃隊各艦に「適当ノ時機ニ達セハ発砲スヘシ」と信号
平遠、広丙他、遊弋しつつ参戦の機をうかがう
12:18伊東司令長官、第一遊撃隊に「右方ノ敵ヲ攻撃スベシ」、次いで12:20西京丸に「避ケヨ」と信号
12:30伊東司令長官、本隊に「速力10浬」、次いで12:32「距離ニ注意セヨ」と信号
坪井司令官、速力8ノットより10ノットに増速、敵艦隊の中央を突くが如く装い、近接を図る
12:40伊東司令長官、赤城に「近寄レ」と信号
12:50本隊旗艦と敵旗艦との距離約6,000m
伊東司令長官、本隊各艦に「適当ノ時機ニ達セハ発砲スヘシ」と信号
第一遊撃隊、敵の正面を航過、敵の発砲を認めるも自重
硝煙が敵艦隊の前面を覆うのを望見、速力14ノットに増速、敵の右翼を時計回りに包翼しつつ急接近
定遠、吉野に向けて初弾発射、距離5,800m
12:52本隊、小角度の面舵により敵正面に急接近
松島、定遠に対し初弾発射、距離3,500m
各艦、第一遊撃隊に対して射撃開始
12:55吉野、敵の最右翼(揚威、超勇)に対し初弾発射、距離3,000m
松島、初被弾(15cm弾?)
厳島、定遠に対し初弾発射、距離5,000m
経遠、第一遊撃隊に衝撃を試みる
12:58松島、鎮遠に対して32cm砲の初弾発射、距離3,500m、遠弾となる
橋立、定遠を射撃、距離3,000m
各艦とも15cm, 12cm速射砲により急射撃
各艦に被弾続出
13:00千代田、定遠を射撃、距離5,000m定遠、鎮遠他、本隊に衝撃を試み漸次北西方に向かうも届かず
13:05吉野、揚威を肉薄射撃、距離1,600m
秋津洲、敵の右翼を射撃、距離2,000m
揚威、超勇に火災発生
13:06千代田、定遠を肉薄射撃、距離1,700m平遠、広丙他、参戦を図り南下
13:08第一遊撃隊、敵の右翼端を撃破、本隊の続航を待って12ノットに減速
浪速、揚威、超勇を射撃、距離2,500m
吉野、右舷後甲板に被弾、集積の弾薬が誘爆、2名戦死するも直ちに消火
定遠、鎮遠、第一遊撃隊を追って北方に航進
揚威、超勇、戦線離脱、北東と北西に退却
13:14第一遊撃隊、敵と離れ、射撃中止
比叡、劣速のため先航の橋立と離れる、間隔1,300m
定遠、来遠、比叡に衝撃を試みる
13:15
比叡、最大戦速で定遠、来遠の間を航過、被弾多数を受けつつも敵陣突破定遠、来遠、比叡を猛射
13:20第一遊撃隊、左舷に16点回頭して北西に向かい、北方より接近する敵の別働隊を牽制
扶桑、衝撃対象となるも左舷に回避
平遠、広丙、東方に一時退避
定遠、来遠、扶桑に衝撃を試みる
13:25赤城、劣速のため敵艦隊の正面に孤立、艦橋に被弾して艦長戦死するも、機砲で来遠艦上を掃射
本隊、東航して時計回りに敵艦隊の背後を襲う
第一遊撃隊、西航
来遠、赤城に800mと肉迫
13:30伊東司令長官、第一遊撃隊を召還
第一遊撃隊、左舷に16点回頭、15ノットに増速、南航して本隊と並航を図るも届かず、やむなく本隊に続航
超勇、右舷に傾斜、沈没
14:00比叡、「本艦火災ノタメ列外ヘ出ル」と信号、東北方に航進来遠他、比叡を追撃
14:15西京丸、「比叡、赤城危険」と信号
14:20第一遊撃隊、左舷に16点回頭、北航ないし西航して比叡、赤城の救援に向かう
赤城、来遠に命中弾を与え、虎口を脱す
本隊は第一遊撃隊と6,000m隔てて敵艦隊を挟んで西航、更に時計回りに敵艦隊の西方に向かう
定遠、鎮遠、東北方に航進
来遠、火災発生
14:22西京丸、舵機蒸気管に被弾、「舵機故障」と信号平遠、広丙、福龍(水雷艇)、西京丸に向かう
14:26松島、鎮遠に対して32cm砲の2発目を発射、前部に命中させる鎮遠、前甲板に被弾
14:30第一遊撃隊、西航しつつ敵艦隊を射撃、距離3,000m前後
浪速、西京丸を避けるため暫時停止
定遠、鎮遠他、浪速に接近を図る
14:34松島、平遠の26cm砲弾を左舷に受け、4名戦死平遠、本隊に接近
14:40西京丸、魚雷攻撃を受けるも2本をかわし、3本目は船底を通過福龍、西京丸に魚雷発射
14:54第一遊撃隊、比叡、赤城、西京丸の安全を確認、敵艦隊の西方を南航の後、左舷に16点回頭、敵の背後を衝く
15:10
本隊、東航して敵艦隊の東方に回り込み、定遠、鎮遠を集中射撃
第一遊撃隊、右舷に8点回頭、距離3,700mで本隊と共に敵艦隊を挟撃、十字砲火を浴びせる
定遠、鎮遠、致遠、靖遠、火災発生、隊形大いに乱れる
済遠、広甲、形勢不利を覚り北西に逃亡を図る
15:26松島、鎮遠に対して32cm砲の3発目を発射するも命中せず
15:30松島、鎮遠の30.5cm砲弾を左舷4番12cm砲郭に受け、集積の装薬が誘爆、28名戦死、火災発生鎮遠、松島に30.5cm砲弾を命中させ、大損害を与える
致遠、右舷に傾斜、沈没
揚威、大鹿島南方に座礁
16:07松島、鎮火するも旗艦機能を喪失
伊東司令長官、不管旗を掲揚するも間もなく「本隊ニ帰レ」と信号
第一遊撃隊、経遠他を追って北上
隊形、四分五裂となり、定遠、鎮遠を残して北西に退却
16:48吉野、経遠に対して射撃開始、距離3,300m経遠、大火災
17:29経遠、左舷に傾斜、右舷推進器を水面上に露出、艦首より沈没
17:40伊東司令長官、第一遊撃隊に本隊復帰を命令旅順に向け退却
17:45第一遊撃隊、追撃中止、反転して本隊に向け南下
17:55赤城、本隊に復帰
18:30第一遊撃隊、本隊に復帰
20:00伊東司令長官、旗艦を橋立に変更
松島を呉に帰投させる
9/18
01:15
西京丸、仮根拠地に帰着
03:30済遠、旅順に到着
広甲、三山島南方に座礁
05:50比叡、仮根拠地に帰着
夜明け後広丙、福龍、靖遠、来遠、旅順に到着
09:30定遠、鎮遠、旅順に到着
11:30平遠、鎮南、鎮中、旅順に到着
12:00本隊と第一遊撃隊、戦場に向けて反転北上
赤城を仮根拠地に帰投させる
16:46赤城、仮根拠地に帰着
9/19
08:00
本隊と第一遊撃隊、敵を発見できず、仮根拠地に帰着
損害戦死 298名
被弾 131発
被撃沈 3隻
逃走中に座礁 2隻
戦死 700名以上
被弾 700発以上

注.「敵」「敵艦」「敵艦隊」などの表現は歴史的事実を示すもので、今日における敵対感情ではありません。念のため。


<本海戦の戦訓>
1. 戦術
1866年の普墺戦争におけるリッサ海戦以後、汽走艦隊同士の本格的な海戦は、本海戦が初めてのものでした。
リッサ海戦では、墺太利海軍のテゲトフ提督が旗艦フェルディナント・マックスに座乗、普国と同盟した伊太利海軍の旗艦レディタリアを艦首の衝角をもって衝撃、撃沈し、墺太利海軍の大勝となったため、衝角戦法は以後四半世紀にわたって世界的に海戦の主戦術と見なされていました。
清国の提督・丁汝昌も衝角戦法を主眼とし、定遠、鎮遠を先頭とした後翼単梯陣(凸梯陣)を張って本海戦に臨みましたが、劣速のため衝撃に成功した艦は皆無であり、陣形は次第に混乱の一途をたどりました。なお、清国軍艦は概して首尾線砲力重視の設計であったことも、後翼単梯陣採用の一因として挙げられます。
これに対し、わが方は舷側砲戦を主眼とし、旗艦を先頭とする縦一列の単縦陣を堅持、優速をもって敵を包翼(翼端を包囲すること、outflanking)し、これに集中射撃を加えて順次撃破する戦術を採りました。
本海戦において、清国艦隊は初め針路南西でわが艦隊に接近し、次第に団塊状となっておおむね北寄りに航進しながら戦闘し、ついに北西の旅順に向けて戦場を離脱しましたが、この間わが第一遊撃隊は敵の右翼と左翼に対してそれぞれ3回、1回の半円を描き、本隊も敵艦隊の周囲をほぼ1周半し、ともに円中心付近の敵を集中射撃し、大多数を撃破することができました。
西京丸の航海長として本海戦に参加し、この様子を目の当りにした少佐 山屋他人は、戦役後の1900(明治33)年に海軍大学校戦術教官となり、本海戦の戦訓から編み出した円戦法を講義しました。これは、敵の先頭艦を中心とする半径2,500mの円弧上を味方艦隊が航進しながら集中射撃するものです。実際には敵艦隊も航進しているので、この対勢を長時間持続することはできませんが、1902(明治35)年に後任となった少佐 秋山真之が円戦法の初期対勢をさらに普遍化させ、かの丁字戦法を編み出したと言われています。これらは、本海戦冒頭の坪井司令官の行動に端を発したと言えるでしょう。
また、本海戦で図らずもわが方が中速・重武装の本隊(正)と高速・軽武装の第一遊撃隊(奇)の正奇ニ隊でそれぞれの持ち味を活かしつつ敵を夾撃し、戦果を収め得た(以正合、以奇勝・・・正を以って合し、奇を以って勝つ)ことより、日露戦争の戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻を基幹とするいわゆる六六艦隊や、第一次大戦後の戦艦8隻・巡洋戦艦8隻を基幹とする八八艦隊への伏線が張られたものと考えられます。

2. 速力
優速の艦隊は、劣速の艦隊に対して常に有利な対勢を占め、これに上記のような有効な攻撃を加えられますし、万一敵が味方より強ければ退避することもできます。つまり海戦の主導権を握れますが、逆に劣速の艦隊は自ら敵に接近できず、有利な対勢を占めることができません。
本海戦で、わが方は敵と隻数および排水量合計でほぼ互角であったにもかかわらず、優速に因る機動性を遺憾無く発揮して、海戦の主導権を握りました。一方、清国艦隊は速力に劣り、かつ斉一性を欠いていたため、上記のように陣形を維持することができませんでした。
このように、軍艦はまず「走ってナンボ」な訳で、ろくに走れない軍艦は射撃訓練の静止目標と大差有りません。清国艦隊の速力7ノットに対し、わが方は本隊が10ノット、第一遊撃隊に至っては最大15ノットの高速力でした。つまり最低でも相対3ノットの優速が必要な訳で、以後わが主力艦は敵主力艦よりも3ノットの優速を目標とすることになります。
なお、第一遊撃隊の旗艦吉野は最大速力23ノットと当時の世界最速巡洋艦でした。世界最優秀艦の保有志向も、以後の日本海軍の特徴の1つに挙げられます。
※日清戦争で、わが方は燃料に前半期は和炭、後半期は英炭を使用し、本海戦ではほとんど全部有煙和炭(赤池炭)を使用したため、全力発揮時は盛んに煤煙を上げたとのことです。

3. 砲力
清国の定遠、鎮遠はともにクルップ式30.5cm連装砲塔を艦首寄りに2基配した当時東洋一の巨艦(常備排水量7,220トン)であり、口径20cm以上の通常砲に関しては敵の合計27門に対してわが方は合計11門と劣勢でした。一方、口径12cm以上の中口径速射砲に関しては、敵のクルップ式12cm×3門に対し、わが方はアームストロング式15cm×8門、同12cm×59門と圧倒的に優勢でした。
大口径通常砲の発射速度が毎分1発以下であるのに対し、中口径速射砲は毎分6発以上とされ、短時間に敵に多大の損害を与え、戦闘力を急速に低下させました。また、わが一艦は電鈴による片舷斉射を実施したとされています。ただし、わが方が多数搭載していた4.7cm速射砲は威力不十分と判明したため、以後5.7cm速射砲に取って代わられました。
大口径砲に関しては、松島、厳島、橋立はそれぞれ4発、5発、4発の32cm砲弾を発射し、一部が鎮遠、来遠に命中しましたが、装甲を貫徹するには至りませんでした。一方、定遠、鎮遠はそれぞれ120発、77発の30.5cm砲弾を発射、後者の1弾は松島の15cm砲郭に命中し、重大な損害を与えました。大口径砲は命中数は少ないものの、一旦命中すれば効果は決定的であるため、以後わが国も30.5cm砲4門を搭載する標準型戦艦standard battleshipの整備を進めることとなります。

4. 防御力
定遠には合計159発、鎮遠には合計200発の命中弾が有りましたが、舷側356mm (14in) 、砲塔305mm (12in) の装甲を貫徹したものは無く、砲塔、弾薬庫、機関などの枢要部分(ヴァイタル・パート)は完全に保護され、戦闘力を失うことは有りませんでした。
こうして装甲の威力が再確認されましたが、両軍とも非装甲部分では被弾による火災が多発し、しばしば消火困難であったことより、以後船体への可燃物の使用が厳しく制限されるようになりました。

5. その他
前記「速力」の項とも関係しますが、比叡、赤城など艦隊中の劣速艦艇は運動中に取り残されて孤立し、却って敵の狙うところとなり、味方の行動の妨げとなりがちです。武装の貧弱な西京丸も同様で、これら劣速、弱小の艦艇は主戦場より遠ざけ、弱敵・損傷艦の掃討など補助任務に充てるべきであったと考えられます。
日没が近づき、海上に煙霧が濃くなったため、伊東司令長官は追撃を中止し、翌朝敵根拠地の威海衛沖で再戦を企てましたが、敵艦隊が退却したのは対岸の旅順でした。敵水雷艇の夜襲を慮り、またわが方に旗艦変更の不利は有ったものの、追撃が不徹底であったのは反省すべき点です。
清国艦隊の最左翼に居た済遠、広甲はさほどの損害を受けてなかったにもかかわらず、形勢不利と見るや勝手に戦線を離脱し、逃亡を企てました。特に済遠は7月25日の豊島沖海戦に続いて2度目の敵前逃亡であり、艦長は当然処刑されました。清国艦隊にも終始旗艦・定遠を掩護した鎮遠艦長・林泰会のような人物は居ましたが、全般に練度と士気はわが方が高く、軍紀も厳正であったと認められます。ちなみに、わが方の艦長クラスの中には、日露戦争で指揮官として活躍する名前も散見されます。

6. 追記(2005.1.4)
12:18の伊東司令長官の一遊撃隊に対する「右方ノ敵ヲ攻撃スベシ」の信号の意味について、敵の向かって右側、つまり敵陣の左翼(済遠、広甲など)を攻撃せよとの趣旨であったとする論調が一部に見受けられますが、これでは左舷戦闘となり、戦闘開始に先立って赤城と西京丸を本隊の非敵側(左舷)に移した措置と矛盾します。ここはやはり「左側遠方に見える付属隊(平遠、広丙など)に構わず、右側手前に見える敵主力に向かえ」と解釈するのが自然と考えられます。
また、本海戦に先立ってわが方が本隊(正)と第一遊撃隊(奇)の正奇ニ隊で敵を夾撃する、のちの乙字戦法(下図)を企画し訓練していたという事実は確認されておらず、実際問題として旗艦先頭の単縦陣が精一杯の艦隊運動であった当事のわが方の実力に照らしても、第一遊撃隊が敵左翼、本隊が敵中堅ないし右翼、のような分撃を企図していたという論調には与し難いものが有ります。

<乙字戦法>

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<結びに>
日清戦争黄海海戦は、日露戦争における同名海戦(英語名The Battle of Yellow Sea)や次ページに述べる日本海海戦のようにあまり一般の関心を集めることが有りませんが、こうして見てくると以後の日本海軍と日本軍艦の方向性を決めたものの萌芽が随所にうかがえ、再評価の必要が大いに有るものと考えられます。

<主要参考文献>
明治二十七八年海戦史 上巻 軍令部編纂 1905年
近世海軍史要 海軍有終会 1938年
海軍砲術史 同刊行会 1975年
世界の艦船 第75集、第78集、第97集、第486集

<関連資料1>
相互リンク先の天翔艦隊殿より、本海戦に因む軍歌のページに直リンクの許可をいただきました。
勇敢なる水兵 (最も有名な曲)
黄海の大捷 (明治天皇御製
黄海の戦 (相互リンク記念)
水雷艇の夜襲 (翌年2月の威海衛夜襲を唄った曲)

<関連資料2>
戦役後に日本軍艦となった鎮遠の艦影を以下に紹介します。


甲鉄艦 鎮遠。独国クルップ社建造、1885年竣工、7,220トン、30cm砲4門、14.5ノット。


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