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日露戦争黄海海戦に見る機関部の実相


3. 機関部から見た戦況


3-1. 全般的状況

機関部から見た戦況を時系列で表にまとめてみました。
ソースは「帝国海軍機関史」下巻所載の後藤兼三(当時少機関士、のち少将)「日露戦争三笠ノ思出」です。
表中、青字は三笠の機関部に関する事項を示します。

時刻連合艦隊露西亜太平洋艦隊
8/9
夕刻
出動、引き続き半速航行
出港準備完了
8/10
払暁
円島付近漂泊掃海船に続き、下記の順で出港
06:35頃敵艦出港の警報、連続して入信
東郷司令長官、浅間、駆逐隊、艇隊に至急出動を命じ、自隊は遇岩の南方へと前進
掃海水路を航進、針路略南西
08:13前缶(1〜5号)、および9, 10号缶起火使用
6〜8号、11〜13号点火
08:30後缶前部5缶(16〜20号)埋火使用
同後部5缶(21〜25号)消火、汽吹掃除を行う
08:481/2進、44rpm(機械回転数、以下同様)
08:50全進、63rpm
10:00総缶使用、埋火起火使用、後缶後部5缶至急点火
各部戦闘用意をなす、三直配置
10:10暫時漂泊
10:15掃海船を帰港させる
針路南東
10:40微進
7号缶収熱器(給水加熱器)漏洩、修理に40分を要す
11:201/2進
11:30昼食終了、戦闘準備完了
11:44全速、漸次回転増加
12:00速力13ノット
12:07原速14ノット、90rpm
二直配置
12:09遇岩の南東微東3浬の地点に達す、西南西に変針
原速11ノット、76rpm
12:30敵艦隊の南東に航下するを発見
機械室主蒸気管の左右交通弁を閉鎖
日本艦隊発見
12:35総員戦闘配置
12:53戦闘旗掲揚「戦闘開始」
12:58第一戦隊、敵を洋心に誘出すべく、左八点一斉回頭、単横陣とする、針路南南東日本艦隊の誘いに乗らず、原針路維持
13:08第一戦隊、さらに左八点一斉回頭、日進を先頭の逆番号単縦陣とする(丁字対勢)、針路東北東
距離約12,000m
13:15射撃開始、左舷戦闘
79rpm
射撃開始
この頃、漸次左に回頭
北東に向かう
13:22針路北東、敵に近接を図る
80rpm
13:28南西に向かう敵艦隊と反航戦となる
83rpm
この頃、漸次右に回頭
南西に向かう
13:36第一戦隊、右十六点一斉回頭、三笠を先頭の単縦陣に復す
針路南西、並航戦から敵の先頭を抑えにかかる、右舷戦闘
三笠、後部シェルターデッキに12in砲弾が命中、主(後)檣根元を貫通し、左舷機械室後部通風筒上部にて炸裂
破片は機械室にも侵入
この直後、丁字対勢の裏をかき、再度左に急転舵
東南東に向かう
14:08第一戦隊、右十六点逐次回頭、針路南東、敵艦隊を追う
90rpm
漸次南東に向かう
15:02原速15ノット、96rpm
15:20頃射撃中止、敵艦隊追跡に専心
須磨機関故障、隊列の後尾に就く
和泉を隊列に編入
17:00頃夕食
17:20総員戦闘配置
17:38三笠、敵先頭の7,300mまで近づき、射撃再開
17:46三笠、後部砲塔右砲根元に被弾、砲身切断して海中に落下
水圧機室から蒸気の元を締めの依頼
18:37三笠、ツェサレヴィチの艦橋付近に12in砲弾を連続2発命中させるウィトゲフト司令長官戦死
ツェサレヴィチ旗艦機能を喪失、左に急転舵、自軍戦列に突入
19:00頃漸次左方に向かい、敵艦隊を包囲敵陣大いに乱れる
ツェサレヴィチ、迷走の後、僚艦を追う
19:30頃八雲、第一戦隊と別れ笠置以下に合同、南下アスコリト、ノヴィーク、南方に脱出を図る
パラーダ、ジアーナ、やや後れて続航
19:50頃第一戦隊、左四点一斉回頭、梯陣にて敵の前路を圧迫
針路西北西
南西に孤立せる須磨、アスコリト、ノヴィークと交戦
明石以下の第六戦隊、須磨を救援
敵艦隊の大部分、旅順に退却を図る
アスコリト、ノヴィーク、須磨と交戦、20ノットで逃走を図る
20:02射撃中止
第一戦隊、左十六点逐次回頭、針路南南東、脱出した敵艦を追う
20:10頃12in砲弾の破口より左舷真水タンクに浸水、左舷に3〜4度傾斜、石炭を左舷炭庫より使用して回復
20:23原速14ノット、90rpm
二直配置
20:40第六戦隊、発砲中止、アスコリト、ノヴィークを追跡
8/11
02:00
須磨、追撃を断念
天明第一・第三戦隊、追撃を断念、反転して仮泊地に向かう
第六戦隊、アスコリトを9,000m先に発見、明石、和泉、追跡開始
ツェサレヴィチ、ジアーナ、脱出成功
10:25第六戦隊、アスコリトを見失い、追跡を断念アスコリト、脱出成功
昼頃敵艦隊の大部分、旅順に遁入
薄暮ノヴィーク、膠洲湾に遁入
23:00ツェサレヴィチ、膠洲湾に遁入
8/12
未明
ノヴィーク、石炭を補給して膠洲湾を出発、日本の太平洋岸を迂回
(8/20樺太コルサコフにて全損)
夜半アスコリト、上海到着
8/24ジアーナ、サイゴン到着



3-2. 日本艦隊の状況

3-2-1. 日本艦隊の燃料

当時の日本軍艦の燃料については、「帝国海軍機関史」下巻に以下の記述が有ります。

「高速力運転ニハ最初和炭ヲ使用シタレドモ濃煙ノ為メ信号ヲ識別スルコト能ハズ運動上危険ノ虞アルヲ以テ後ニハ定期高力運転ニ使用スベキ英炭ヲ流用セリ、時ノ常備艦隊機関長海軍機関大監山本安次郎ハ従来ノ実験ト此ノ時ニ於ル経験トニ鑑ミ粉炭多キ英炭ヲ以テ高速力運転ヲ為サントスルハ頗ル困難ニシテ到底缶ノ最大能力ヲ発揮シ得ザルヲ認メ之ガ選別供給方ニ関シ其ノ筋ニ電請ノ手続ヲ為シ以テ戦用英炭ノ粉炭ヲ篩ヒ別ケ其ノ塊炭ノミヲ各艦ニ搭載スルコトノ認許ヲ得タリ(中略)。
(明治)三十七年一月九日東郷連合艦隊司令長官(於佐世保軍港旗艦三笠)ハ時局愈々切迫シタルヲ以テ各戦隊ニ訓令シテ曰ク各戦隊ノ各艦ハニ昼夜分(十節)ノ和炭ヲ積載シ得ル余積ヲ存シ英炭ヲ満載スベシ、但右英炭ハ艦員ノ手ヲ以テ適宜選炭スルヲ要ス(後略)。」

上記のように、10ノット巡航ニ昼夜分の和炭を除けば、戦闘航行にはもっぱら英炭を使用したため、燃料の質に関しては特に問題となるようなことは無かったものと考えられます。


3-2-2. 日本艦隊の速力

第一戦隊の戦闘速力は既述のように15ノットで、三笠の機関長は公試成績をもとに回転数を96rpmに調定しましたが、日本艦艇は開戦から最も貝類や藻類の生育する4月前後を含む約半年間、艦底の清掃を行えなかったため、実際には13〜14ノットしか出ておらず、13ノットで逃走を図る露西亜艦隊に容易に追いつけなかったとされています。
一説には復水器不調の「敷島」の最大速力に合わせたとされていますが、「明治三十七八年海戦史(極秘)」第六部巻三(情報提供: 摂津氏)によると
「三十七年八月十日本艦(筆注、敷島)ハ三笠、朝日、富士及ヒ八重山諸艦ト共ニ旅順口封鎖の配備ニ就キ、缶十三箇ニ汽醸シ、午前七時ヨリ円島ノ北方ニ在リテ漂泊中、同九時三十八分、敵艦隊港外ニ在リトノ報ニ接シ、直ニ行進ヲ起スヤ、(原速十浬)行中各般ノ戦備ヲ整ヘ、同十一時四十二分、原速十二節総缶点火ノ令ニ接シ、残余ノ十二缶ニ至急点火ヲ行ヘリ、次テ同五十五分、原速力ハ増シテ十四節トナリ、午後零時三十分、減シテ十二節トナリシモ、同零時四十分、速力ハ急増シテ又十五節トナレリ、斯テ彼我艦隊ハ漸次相接近シテ、同零時四十九分、敵艦隊ヲ十余浬ノ距離ニ見タル時ニ当リ、本艦ノ汽醸力ハ、充分ナラスシテ所要ノ回転ニ伴フコト能ハス、一時前続艦トノ間隔稍遠サカリシカ、新点火缶ニハ拳大ノ炭塊ヲ選ヒテ、稍炭層ヲ厚クシ、且送風機械ヲ全力回転シテ、極力焚火ニ努メタルノ結果、新点火缶ノ気圧ハ次第ニ上昇シ、随テ上昇セハ、随テ之ヲ併用シ、幾モナクシテ、総缶ノ汽圧ヲ最高程度ニ回復シ、同一時彼我戦闘開始ノ時ニハ、漸次定距離ヲ保チ得ルニ至レリ、斯テ同一時二十七分、本艦発砲ヲ開始ス、爾後激戦数刻ニ及ヒ、同八時十分、日没シテ始テ彼我艦隊間ニ於ル戦闘ヲ終了ス、此ノ戦闘中、主機械ノ回転ハ、八十二ヨリ一百ノ間ヲ上下シテ、何等ノ故障ナク、缶ノ圧力モ、亦戦闘開始後ハ、能ク其ノ最高二百五十听ヲ維持シ、嘗テ低下セルコトナカリキ」
と、敷島の速力低下は一時的であり、焚火法の工夫によって速力回復後は十分戦列を維持できた旨が伝えられています。

1904(明治37)年7月1日、東郷司令長官は「旅順の敵艦隊に対する戦策」(連隊機密八三二号)を策定しましたが、その前文には
「旅順艦隊現下ノ活動兵力ハ不利ニ打算シテ戦艦五隻巡洋艦五隻駆逐艦十三隻ト認メテ可ナリ 而テ其ノ速力ハ彼ニ「セワストーポリ」等ヲ混同セル間ハ十二節ヲ超ユルコトナカラン(後略)」 
との前提条件が明記されています。
第2項で述べたように、日本戦艦の計画最大速力が18.0〜18.25ノットであることから、第一戦隊の戦闘速力は約3ノット減の15ノットとされていましたが、同様に露西亜戦艦で最も劣速のボルターヴァ級の計画最大速力が16.0〜16.5ノットであることから、露西亜艦隊の戦闘速力は13ノットと見積もるべきところ、12ノットと下算してしまったのは、セヴァストーポリの公試速力15.3ノットの情報に拠った可能性も考えられます。


3-2-3. 日本艦隊の機関部稼働状況

「日露戦争三笠ノ思出」には、上記の他に全般的所見として
「二直配置戦闘中機械ノ動作頗ル円滑ニシテ擦熱其ノ他ノ故障ナク総テ良態 汽力維持ノ状況又頗ル良好ニシテ焚火度ハ約四分間ニ火(?)三杯ヅツノ割合ニシテ毎時火床毎平方フィート上ノ燃焼度(筆注、燃焼率)約十八ポンド 不絶灰局扉ヲ加減セリ」
との記述が有ります。
一般的に、舶用缶の燃焼率は自然通風のとき15〜20lbs/ft2/h (73〜98kg/m2/h)、強圧通風のとき20〜40lbs/ft2/h (98〜195kg/m2/h)とされていましたので、上記の焚火状態(燃焼率18lbs/ft2/h=88kg/m2/h)は、自然通風で対応できる範囲と判ります。

「日露戦争三笠ノ思出」は、続けて
「前後煙突共ニ敵弾ノ為メ破孔数ヶ所ニ及ビタルモ 其ノ位置幸ニ中央以上ニ多カリシヲ以テ通風ニ著シキ影響ヲ呈セザリキ、又送風機ハ煙突破損ノ際ヲ慮リ不絶之ヲ使用シタリシト雖モ毎分平均百五十回転ヲ超過セズ プレナムゲージニ気圧ヲ認ムルニ至ラザリキ」
との記述が有ります。
ちなみに、この時期の缶室用の送風機は小型蒸気機関による駆動で、最大回転数は300rpm前後、また機械室用の送風機は電動式で、最大回転数は450rpm前後でした。

露西亜艦隊の砲弾による日本艦艇の機関部の被害は、手元の資料に照らす限り、重大なものは特に無かったようです。



3-3. 露西亜艦隊の状況

当時の極東における露西亜軍艦の燃料は、輸入による英炭と、日露開戦前に購入した和炭(九州炭が主体と推定)、ならびに近隣地域で採掘の泥炭(地上施設用と推定)とが有り、英炭は戦役中は中立国船舶によって輸送されましたが、多くはわが方の臨検を受けて拿捕されるなどしたため、海陸で封鎖された旅順港の備蓄分は日を追うごとに減少したものと考えられます。なお、撫順炭鉱はすでに露西亜が採掘権を得ており、東清鉄道南満州支線(のちの南満州鉄道)で旅順に輸送することも可能であったものと考えられますが、旅順港の備蓄分に含まれていたとの記録は残っていません。

露西亜艦隊の機関部稼働状況について述べた資料は多くありませんが、「明治三十七八年海戦史」には、露西亜太平洋艦隊参謀長マッセヴィッテの報告として
「(前略)殆ト之(司令長官戦死)ト同時ニ『ツェサレヴィチ』ハ機関ト舵ヲ毀傷セラレ約四十分間進退ノ自由ヲ失ヒ(後略)」
と有ります。
「帝国海軍機関史」下巻所載の「参考記録」から、この裏づけを探してみました。

 第八表(抜粋)

艦名海戦年月日外部損傷致命傷(缶機械弾薬庫ノ爆発等)
ツェサレウイッチ1904-8-10惨烈ナル命中弾 15
其ノ他軽微ノ命中弾 無数
煙突ヲ撞撃シテ破裂シ破片煙突ヲ通過シ過熱蒸気管ヲ損傷シタリ
レトウイザン惨烈ナル命中弾 11皆無
ポビエダニ檣切断皆無
アスコリト命中弾 無数 煙突ニ命中セシ断片ノ為メ水管7個損傷セリ

上記より、機関部(主缶、主機)そのものへの直撃は無いものの、煙突の破損のため速力が低下し、また被弾時の破片によって一部の蒸気管や水管を損傷したことが判ります。詳細については、次項で詳述します。


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