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日露戦争黄海海戦に見る機関部の実相

5. 付記

機関部に直接関係する事柄ではありませんが、本海戦にまつわる問題を取り上げてみましょう。


5-1. 戦術面の戦訓と日本海海戦への反映について

本海戦における戦術面の戦訓は、以下の3点に要約できるものと考えられます。
 1. 第一合戦において敵を取り逃がし、一意追撃の体勢に陥り、砲戦に適する15:30〜17:30前後の約2時間を空費したこと
 2. 第二合戦において敵旗艦「ツェサレヴィチ」が被弾し、敵陣大いに乱れたとき、これに乗ずるわが総攻撃が行なわれなかったこと
 3. 夜戦においてわが駆逐隊、水雷艇隊の攻撃が全く奏効しなかったこと
このうち、最も重要なのは1. で、中でも13:08の丁字対勢の形成が約12,000mの遠距離で行われたため、敵に回避の余地を与えたこと、および14:08の西航から東航への反転が遅れたため相対的位置が後落し、速力差が約1ノットと小さかったことと相まって、追撃に長時間を空費したことです。その結果、2. のように第二合戦の時間が削られ、3. の夜戦の不首尾も手伝って戦果不十分に終わりました。
これらの反省に立ち、東郷司令長官は
 丁字対勢の形成は、敵に回避の余地を与えないよう、距離8,000m前後で行う
 13:08〜13:36のような逆番号(指揮官最後尾)の単縦陣は、命令指揮上具合が悪いため、極力指揮官先頭の単縦陣で運動する
 反航戦は避け、極力同航戦を行う
 常に敵の先頭より前へ出て、わが砲火を敵先頭に集中するとともに、敵艦隊とウラジオストクの中間に占位するよう運動する。そのためには敵より少なくとも3ノットの優速が必要
 薄暮以前に大勢を決する
 夜戦で駆逐隊、水雷艇隊は肉薄攻撃を行う
 決戦翌日黎明までに敵艦隊よりも先回りし、ウラジオストク寄りで待ち受ける
などの決戦要領を会得したものと考えられます。

なお、第二合戦に至る追激で、復水器不調とされた敷島を顧慮せず、三笠、朝日、富士、春日、日進、八雲の6隻が速力16ノットでまず近接を図るという選択肢も有りますが、その場合は第二合戦の開始が約1時間繰り上がる反面、わが方は戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻をもって敵戦艦6隻と対峙することとなるため、余りにもリスクが大き過ぎると判断、却下されたものと考えられます。




5-2. 浅間の行動について

八雲と同様、第三戦隊に属していた浅間ですが、 なぜか旗艦八雲以下と行動を共にせず、下記太字のように不可解な単独行動が目立っています。

時刻八雲および第三戦隊浅間
8/10
天明
老鉄山の南方15浬に在り
06:35頃敵艦隊出港を知る裏長山列島に在りて炭水補給中
10:23東方に疾航中、敵艦隊渤海湾に向かうとの情報に接し、西航
12:00老鉄山を北1/2西に見る地点に到達、東航しつつある敵艦隊を発見
12:10戦闘旗掲揚、八雲、笠置、高砂、千歳の単縦陣形成
敵艦隊の右方に並航し、味方主力の方向に誘出を図る
12:20北東に第六戦隊、次いで東微北に第一戦隊を発見
12:40頃針路南東
13:15丁字を描いた第一戦隊の後方を塞ぐため、左十六点逐次回頭
針路北西
13:30一斉回頭にて反転した第一戦隊の前方警戒のため、右八点逐次回頭、針路南西
14:08敵艦隊の後尾を攻撃のため、増速して北航
14:30頃敵艦隊の左舷後方に出る、針路東、敵巡洋艦隊に近接を図る
15:15東郷司令長官より「敵ノ巡洋艦隊ヲ砲撃セヨ」との命を受ける
16:00第一戦隊に続航を図る、針路南南東
18:05八雲、敵の殿艦「ポルターヴァ」と交戦北西より第一戦隊に接近するも合流せず左転、針路北東とし、敵艦隊の航跡を横切り、その左舷側に出ようとする
18:15八雲、日進に続航
19:30頃八雲、第一戦隊と別れ笠置以下に合同、南下西航する敵艦隊と砲火を交わしつつ、その前方を数回横切るように運動する
針路西方ないし北方
20:18針路北東
20:33針路東針路東
23:00針路南南東この頃、敵艦隊に先んじて山東高角以南に出ようとし、南微東に航行
8/11
06:25
北方に引き返すこの頃、第一戦隊と会合
昼間東郷司令長官の命により、高砂を第一戦隊に合同させる
千歳に極力敵艦を追撃させる
浅間、笠置を列に加え、帰投
東郷司令長官の命により、第一戦隊の右舷前方(東方)の監視に当る
監視任務終了後、第三戦隊に復帰

浅間は、当日早朝の補給はさておき、18:00頃に味方主力に接近した後は、本来ならば旗艦八雲に続航し、協同して敵艦隊の後尾を攻撃するのが適切であったと考えられます。
翌年の日本海海戦では、浅間は連繋機雷作戦(当日の天候にかんがみ中止)の指揮艦となっていましたが、本海戦では連繋機雷は着想以前であり、同艦が何らかの別名を帯びていたか、手元の資料では残念ながら判然としません。
「明治三十七八年海戦史(極秘)」第一部巻六、および「浅間戦闘詳報」の記述(情報提供: 摂津氏)によると、第三戦隊に合流せんと接近を続けていたところ、ツェサレヴィチの急転舵で敵艦隊が大混乱に陥ったので、この機に敵巡洋艦を攻撃せんと北進し砲戦を行ったが、却ってペレズウィエト、ポルターヴァおよび敵巡洋艦などから射撃を受けて「一時殆ど死地に陥り」、優速と夜陰に乗じて退避した、との要旨が伝えられており、艦長の独断専行を示唆しているかのようです。




結びに

日露戦争黄海海戦は、翌年の日本海海戦の陰に隠れてあまり注目されることが無いようですが、本海戦の失敗を教訓として来航するバルチック艦隊への備えを十分に実施した結果、連合艦隊の完全勝利への道が拓かれたものと考えられます。
(完)




主要参考文献

明治三十七八年海戦史 上巻 海軍軍令部 1934
参戦二十提督 日露大海戦を語る 東京日日新聞社・大阪毎日新聞社 1935
帝国海軍機関史 日本舶用機関史編集委員会 原書房 1975
軍艦機関計画一班 増補三版巻之弐 海軍機関学会 1919
機関実験参考書 海軍工機学校 1933
蒸気機関 八版 内丸最一郎 丸善 1917
蒸気缶 改訂十五版 内丸最一郎 丸善 1927
艦船 実用機関術 訂正第八版 二瓶壽松 丸善 1922
日本近世造船史附図 造船協会編 弘道館
All The World Fighting Ships 1906-1921, Conway, 1997
Russian and Soviet Battleships, McLaughlin, Naval Institute, 2003
Soviet Warship Development, Vol.1: 1917-1937, Breyer, Conway, 1992
Cruiser <<Askold>>, Krestyaninov and Molodtsov, <<Modelist-Konstruktor>> Editorial Board, 1996
Battleships of <<Peresvet>> class, Krestyaninov and Molodtsov, <<Modelist-Konstruktor>> Editorial Board, 1998

なお、 月刊「」 2004年9月号  特集●艦隊大決戦 グラビアに、日露戦争黄海海戦100周年 絵ハガキ『日本艦隊』と題し、当研究所の所蔵する艦艇絵葉書16点が掲載されましたので、ご高覧願います。


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