このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

〜とうちゃんのバイクライフ〜




バイクとの出会いは、中学生の時に次兄がヤマハXS650に乗ってきたことから始まった。
当時の650ccは今で言えば1300ccぐらいの存在であり、それはそれは迫力があった。


キックでエンジンを掛けようとしてケッチン(反発)食らったり、
アイドリング中でも振動でセンタースタンド立てたまま歩いていったり、
走行中にも振動でキャブが外れたり、その迫力はもうまるで怪物だった。
でも、その怪物の後ろに乗せてもらったら今までと世界が違って見えた。
今まで感じた事のないスピードで景色が傾いたまま流れて行く!

この、今見ても美しく思えるバイクとの出会いがヤマハファンになるきっかけでもありました。



そして中学の修学旅行の時に長野県のビーナスラインの車山のヘアピンで、僕らの乗ったバスを抜いて行ったバイクが描いた美しいコーナリングを見て、
自分もあんなキレイな走りをしてみたいと思ってバイクに乗ろうと思ったのです。



自分の走りのテーマは『流れるような、スムーズな走り』
未だに自分のイメージした通りに走れていないと思う、今でも僕はあの時のバイクのイメージを追いかけているのかもしれない・・・



YAMAHA Chappy LB50-2/H (77〜82年・約10000km)

2サイクル ピストンバルブ 空冷 単気筒

憧れの『キング』ケニー・ロバ−ツ(1978・79・80 WGP500チャンピオン)と同じ、アメリカ・ヤマハインターカラーの黄色。
(コンペティション・イエローという色でした)
Hとはハンドクラッチ式のことで、一応スポーツタイプに分類される。

16歳になった高校2年の春から、家用に買ったこのバイクに乗っていた。
周りの皆がスポーツバイクに乗っている中、ファミリーバイクで頑張っていた。

ミッションは4速のロータリーチェンジで、普通に走るときには問題ないのだが、
気合いが入り過ぎると幻の5速(無いのでニュートラルに入る)に入れてしまい『ギャウーン』とオーバーレブ!
あわててギヤを戻そうとして踏み込んで(ローだっ!)死ぬ程のエンブレで『ギャウーン』とまたやってしまう。

素人チューンでヘッドやポートをツルツルに磨き倒した、耐水ペーパーと僕の指は仲良しだったのさ。
9番まで上げたプラグが溶けるまで回した(よく焼け付かなかったもんだ)、
ホンダ系のように排気量アップには手が出せなかったのだ。
友人のミニトレ(GT50)にも簡単には負けなかった。

いろいろとハンデが有ったのだが、その分考えて走るようになった。
機械好きの次兄や、バイト先の新聞屋の人たちがいろいろ教えてくれたし、
高校のクラブの先輩がトライアルチームに入っていた影響で、トライアルも教えてもらっていた。
ダートなんかも走りに連れて行かれて鍛えられました。
おかげで、悪コンディションや悪路でも走れるスキルが早いうちから身についた。
(ちなみに次兄もトライアルの道に進みました)
今から思うと、かなり変わったキャリアの始まり方でしたね。
バイクの基本的な楽しさはコイツで覚えました。

この写真は舗装前の高野龍神スカイライン(和歌山県)です。
こんな道をオフロードバイク達と走っていました。


YAMAHA Trial TY125
2サイクル ピストンバルブ 空冷 単気筒

トライアルチームに先輩のオマケで関わっていた頃、練習用のバイクが無いので、
チームの皆さんが余ったパーツで組んでくれた物です。
当時、この125は入門用として人気もあり、エンジンは部品の交換だけで輸出用の175ccに改造出来たため、
壊れても部品取りに保管してる人が多く、なんだかんだで1台組めてしまった。
そんな寄せ集め車両なので登録は出来ず、まだ原付免許しか持っていなかったので、住んでる住宅地から繋がってた山とかでトライアルの練習をしていた。

イマイチ調子は出ていなかったけれど、ライディングの基本を覚えるのに十分に役立ってくれました。
当時から腰椎椎間板ヘルニアがひどく(今でも直っていない)、競技に出れるような体調では無かったため、練習に頑張ってました。
この時のアクセルワークやブレーキコントロールなどの経験が、その後のバイクライフに大きく影響を与えてくれました。

そして、いつの間にか別の部品取り用の種車にするためバラされてしまいました。



HONDA CB400N HAWK3(NZ-1) (79〜83年・約80000km)
4サイクル 3バルブOHC 空冷 並列2気筒

高校卒業時に試験場で3回目の実技試験に合格し、中型2輪の免許を取り、
その翌日に免許に合格した友人と翌週にバイクを買いに行った。
本当はRD400(F)かZ400FXが欲しかったけど『そんなん出るの半年以上先やで〜』
とバイク屋のオヤジに言われ、第3候補のコイツを買った。
(その友人は、続きナンバーのCB400T(HAWK2)を買いました。)

なぜ250にせず400かというと、当時400と250はほとんどの車種は共通車体で、
ブレーキやタイヤ・ホイール等のパーツで差(明らかにダウングレード)があり、
下手をすると400より重い等どうしても価格差以上に見劣りしていたのです。
RG250やZ250FTなど専用設計の車種が出てくるのはもう少し先の事でした。

大学生活の4年間、通学にバイトにツーリングにと、年間2万kmペースで本当に毎日乗っていた。
低速からトルクフルで、6速ホールドで流せたのでツーリングが楽だった。
燃費も平均で30km/Lは走ったし、北海道では最高42km/Lを記録した事もあった。
九州から北海道まで走りまわり、ツーリングの楽しさはコイツで覚えた。
本当に乗りやすくて良いバイクでしたね。

また、自分でピストンリングやバランサーチェーンを換えてエンジンのオーバーホールが出来た整備性の良さも今のバイクには無いものでしょう。
タペット調整なんかは日常整備で、車検整備以外は自分でやっていました。
まぁ、昔は自分である程度直すのは当たり前でもあったのですが。

大学を卒業する頃にクランクケースに亀裂が入り残念ながら寿命を迎えてしまい、乗り換える事になりました。
このバイク無しには大学生活の4年間はありえませんでしたね

左の写真は昔の宗谷岬、バイクで中まで入っていけました。(右端がCB、左端はZ250FT、真ん中のRD400は友人の遺品となってしまいました。)
右の写真は4年目の春、友人から貰ったMB50のミニカウルを付けていました。



KAWASAKI GPz400(A-1) (83〜86年・32000km)
4サイクル 2バルブDOHC 空冷 並列4気筒

社会人になる時に購入、4気筒もDOHCもカウル付きもモノショックのリアサス(ユニトラック)も初めてだった。
やや大柄な車体で(後年550と共通車体だったと知りました)CBとは全然違うバイクでした。
長兄がZ750FXに乗っていたのでカワサキに乗ってみたかったのです。

このバイクはバイク屋で『インターセプター』と呼ばれておりました。
(インターセプターというのはホンダVF750Rのアメリカ仕様の名だったのだが、
言葉の響きがカッコ良くて写真を参考に自分でカッティングシートでロゴを作っていたのです)

低速が弱かったものの高速がパワフルで、メーター(180km/h)を振り切った。
大形カウルと良いポジションのおかげで長距離も楽で、ポジションはこれが一番良かったと今でも思っている。
しかしあまり良い個体ではなかったようで、雨が降ったらミスファイアしたり、
メーターの内部がランプの熱で溶けたり、ちょくちょく修理に行っていた。
(当時のカワサキはそんな物だった)
タンク上の液晶燃料計もけっこうアバウトで警告灯が点いても半分ぐらいしか入らないとか、
ツーリングでアテにならなかったのはご愛嬌。

また、運も悪くて、人に貸したら転倒されたり、北海道の網走では崖から谷底に転落されたり散々な目に遭っていた。
そのせいか、3年でフレームにクラックが入り、手放す事になった。

左の写真は長野県・新和田トンネルの出口、この当時からよく長野に来ていた。
アンダーカウルだけの状態が好きでした。
右は家の近所でのヤラセ写真(センターとアンダーカウルはオプション)。



YAMAHA FZR400(1WG) (86〜95年・67000km)
4サイクル 4バルブDOHC 水冷 並列4気筒

当時WGPライダーのクリスチャン・サロン(フランス・ゴロワーズヤマハ)のファンだった僕は、
このブルー(ファラウェイブルーと言うらしい)を半年待って手に入れた。
標準色の白・赤カラーより似合ってると思う。
バイク屋の話では、大阪でこの色の1番目の納車車両なんだとか。

初のレプリカバイクで、ワークスレーシングマシンYZF400と同時開発されたその走行性能は凄かった。
今で言えばYZF-R6ぐらいの存在で、とても『59PSしか無い』とは思えないパワーと、キレの良い高回転域の音。
高剛性のアルミ製デルタボックスフレームと相まってハイレベルなコーナリングが可能で、膝を擦ったのは後にも先にもコイツだけ、
タイヤも当時の最強である、ミシュラン・ハイスポートラジアルを奢っていた。
(ツーリング主体にはちょっとやり過ぎだったかも・・・)

前傾ポジションがやや辛かったけども、エンジン特性はフラットトルクで意外と扱いやすくて走りやすく、
デュアルライトは明るく夜間走行でも頼もしく、軽くて運動性能の良い車体でツーリングも楽だったし、
2人乗りしても運転しにくくなる事は無かった。

耐久レーサーをイメージして『FZR』のロゴなどのカウリングにある文字関係は
夜間に光って見えるように蓄光のカッティングシートで作り替えていたおかげで、
夜に見ると、なかなか不思議な感じがあって好きでしたね。

左手を手術した為に、乗れない時期があって長く持っていた割には距離を走れなかったのだが、
手放す時にバイク屋さんが『こんなに大事に乗ってもらって、幸せなバイクだね』と言ってくれた時は涙が出そうだった。

左の写真は島根県・奥出雲おろちループ。アンダーカウルを外したスタイルの方が好きでした。
右の写真は長野県・松原湖へ抜ける裏道。


KAWASAKI Ninja ZX-9R(B-1) (95〜99年・25000km)
4サイクル 4バルブDOHC 水冷 並列4気筒

ライダーズクラブの写真を見て一目惚れ。
正式名称に『ニンジャ』という名がついた第一号になります。
コイツに乗りたいが為に、当時合格率3%以下と言われた悪名高い限定解除試験を3回で突破しました。
足つき意外の問題点もなく、とても900cc/140PSもある怪物と思えない扱い易さで、自分が上手くなったのかと思えるほどでした。
(Uターンが苦手なのはライダーの問題)

どんな所でもアクセル一捻りで自在に速度をコントロールできる余裕のパワーで、ロングツ−リングでもストレスを全く感じず、
そんな走りでも燃費が平均25km/Lも行く経済性にも驚いた。
ただ、タイヤはあまり長く保たないので、そこはピレリ・ドラゴン(スチールラジアル)でどうにか凌いでいた。

トルクフルで6速が50km/hからでも使えるし、そんな所からでも加速力は気が遠くなるほど強烈!
パワーバンド内での爆発的な加速力にはもう目がついていかない程で、脳ミソが後頭部に貼りつくような感じでした。
高速道路では200〜220km/hの巡航でも片手運転が可能なほど安定して走るし、その速度でのコーナリングも恐怖感を感じない。
レーシングマシン並の性能を持ちながら充分に実用的で『さすが大人のスポーツバイク!』と思ったものです。

北陸道で大阪から新潟まで7時間ほどで走っても意外なほど疲れませんでした。
真剣に攻めてもヒラヒラせず、節度のあるハンドリングとパワーで、どこに行っても上手く走れました。

最高速はどこまで出るのか知らなかったのだが、300km/hまでメーターが刻んであったので中国自動車道で最高速チャレンジしてみた(バカですねー)。
でも、300km/hという世界を他人の言葉や文章では知ってはいるが、実際は知らない。自分の経験値として知っておきたかったのだ。
『シュゴォーッ』という独特な吸気ノイズのまま、片手運転しても平気な200km/hを4速で軽く突破!
何とかメーターを確認できた6速・270km/hを超えてもまだまだ加速を止めないパワーが恐ろしかった。
(だいたい295km/hぐらい出るらしいが、メーターを見る余裕は全く無かった。)

本当に不満が無く、街中から超高速、ワインディングまでオールマイティーに使える懐の深さで、
いわゆる『SS』とは少し違うバイクで、残念ながら手放したが機会があればまた乗ってみたいですね。

左の写真は長野・安曇野のウラ道、夏でも人の来ない穴場。
右は手放す直前、スーパートラップの軽量サイレンサーを付けていた。



YAMAHA TT250R (96〜2007・約25000km)
4サイクル 4バルブDOHC 空冷 単気筒

9Rのサポート&林道ツーリング&街中用として中古で購入。
もともとはカワサキのKSR80を探しに行ったのだが、掘り出し物の新古車を見つけてしまったので・・・

9Rから乗り換えても不足を感じない発進加速力はおみごと。街中ではこちらの方が実用レベルで圧倒的に速いですね。
でも9Rの250km/hよりも恐い120km/hはオフロードタイヤだし仕方ないところか。
車体が軽く扱い易いので林道でも川でも不安なく入っていけるおかげで、行動フィールドが素晴らしく広がった。
ただ車高が高いので信号待でバレリーナになってしまうのと、尻が痛くなるシートが難点。

荷物も載るし燃費もいいので(平均30km/Lぐらい)ツーリングが楽。
どこまでもバンクするので下手なロードモデルよりもコーナリングが速い。
ハードブレーキングで後輪がスネーキングしようがリフトしようが安定していて、
ステップが路面に擦るまで寝かせても怖くない(バカですから)し、
コーナリング中でも自在にラインが変えれる自由度の高いハンドリング、
何の改造もしていないのにスーパーモタードのような走りが出来る。
本当にオフロードバイクか?と思える程のポテンシャルで、乗り方が合っていたのか相手がリッターレプリカでもパワー有利な場面以外では負ける気がしなかった。
何をしてもコントロールできるという絶大な安心感を与えてくれるバイクでした。

穴場めぐりの旅にとっておきの相棒ですが、やはり長距離などではアンダーパワーと巡航速度とケツが泣き所。
これでせめて300ccぐらいのエンジン積んでたらなあ。

この写真は北海道の浦幌、道から大きく外れて草原の中で遊んでいた。本当に道草ですね。



オマケ



ALPINESTARS Cro-Mega LX


高校時代、自転車部(二輪部と言われていた)だったとうちゃんは自転車も好きです。
たまたま宝くじが当たったのでそのまま注ぎ込んで買ってしまいました。

恐るべき高さのシート高(ポストを10cmほど切りましたがまだ高い)、肩幅しかないハンドル幅、
スタンドが取り付けられないエレベーテッドフレーム、完全にレーサーです。
(写真のスタンドは整備用なので車体に収納できない)

長年乗っていなかったが、 最近ロード風に改造して復活しました。







HONDA RCB481A
1977世界耐久選手権チャンピオンマシン


当時世界耐久選手権で『無敵艦隊』と呼ばれたレーシングマシン。
ジャン・クロード・シュマランとアレックス・ジョージ組が使っていた本物です!

撮ったのは1978年だから、前年のワークスマシンですよ!
たまたまホンダの試乗会に行ったら、何気なしに置いてあった、
今では絶対にありえない事だろうけど跨がってもOKだった。

翌年、CB400Nを選ぶきっかけになったのは間違いないですね。
(後ろのシルバーのバイクがCB400Nです)





ヘルメット変遷

アライ S-70

初めて買ったヘルメットだ、オーソドックスなジェット形。
当時は原付にはヘルメットの着用義務は無かったが、所属していたトライアルチームの人達に言われたし、
バイトでもバイクに乗っていたので安全の為に買ったのだ。
一番安かったけれど『自分のヘルメット』を持った事で、バイク乗りの一員になったのだと自覚した。

コレが今現在でも売っているのは驚き!
(値段は当時の倍ぐらいになってるけど)


アライ モデル名不明。

長兄から譲り受けた物、当時のアライのロゴは『HA』
(新井社長のイニシャル)となっていて、
ショウエイの方がブランドイメージは数段上だった。
そこで「BELL」のステッカーを貼ってごまかしていた。

当時のフルフェイスは正面からの風圧をかわすだけの形状で、シールドと帽体には隙間があって風切り音もウルサいし、風や雨水も入るし不快。
そこで開口部のまわりにスポンジを貼って対策していたのだが、クリアシールドにをするとスポンジが見えてしまいカッコ悪いので、濃いグリーンのシールドを装着してごまかしていた。

ホーク3の1年目の途中までこれを愛用していた。





NAVA(イタリア) インテグラル2

ホーク3の2年目〜3年目まで被っていた。

WGPで片山敬済やバージニオ・フェラーリ、スティーブ・ベーカー達が被っていて、非常に憧れた一品。

なかなか輸入されず、たまたまオレンジ色が1個残っていたのを見つけたので色も気にせず購入。
シールドの開閉方法が独特で、完全に密封出来るために風切音や雨水が内部に入って来ないので快適だった。
上から取付ける半分だけのスモークシールドも「さすがイタリアンデザイン!」という発想でカッコ良く、
しかもポリカーボネイト製のおかげで軽く、当時の国産にはこれ以上に魅力のあるモデルが無かった。
形としては、今でも一番好きなモデルでしたね。

ちなみに、友人達はノランのヘルメットを被っていました。

半年ぐらいでバージニオ・フェラーリのカラーリング(黄色+緑)に自分で塗ってみたが、
バイクとの色バランスがあまりに合わなかったので、デザインを少し修正して青+白に塗り替えた。
シールドも青タイプに変えました

ラッカーで色を塗ろうとしたら溶けるので驚きました。
ポリカ用の塗料は入手しにくかったのだが、プラモ屋さんで売ってました。







NAVA(イタリア) インテグラル3

ホーク3後期に被っていたもの、やはり当時の国産にはこれより魅力を感じるモデルは無かった。
インテグラル2と比べると、顎あたりがコンパクトになり、被り易くなっていた。

これも当時グランプリでマルコ・ルッキネリやグラチアーノ・ロッシ(バレンティーノ・ロッシの親父ね)が被っていて気に入ってた。

赤いバイクに青いヘルメットとチグハグな色使いだったが気にしてなかった。
なんと言っても軽かった、シールドもワイヤーコントロールで片手で開閉出来て
密封性も良かったので雨でも内側に水が入る事がなく快適だった。

ただ、シールドが傷が付きやすいのに入手しにくかったのが難点で、長期ツーリングでは後半に辛い事もあった。
このモデルからスモークシールドを使うようになった。

この頃には私のトレードマークである『牛さん』を描いていましたね。


AGV(イタリア) KR2000

GPzに乗っていた時に被っていた。
もちろん憧れのケニー・ロバーツ仕様。

今までのNAVAに比べると重量が倍ぐらいあったのだが、そんなに重たく感じなかった。


被り心地は可もなく不可もなく、あまり良い印象は残っていない。

この頃はツナギ(タカイ製)、レーシンググローブ(SPIDI製)、
ブーツ(アルパインスター製)、と全身レプリカ野郎だったが、
そのうちツーリングにツナギは不向きと分り、それ以来着なくなった。



アライ ラビーン

この頃になると国産品の方が使い勝手も品質も圧倒的に良くなっていました。
風や雨の進入は完全にシャットアウトされていました。

コレ以降はアライ派です。

外国製は2年ぐらいで内装が悪くなる(洗うと中のスポンジがボロボロのスカスカになる)のです。

FZRの時に被っていたから10年は使った事になるが、内装が洗い易かったので寿命が長かったのかも。
ステッカーだらけなのは本人がステッカー馬鹿なのと、傷隠しのため。おかげで年々派手になっていった。






アライ SZ-アルファ

主に街乗り用として使用している。
カラーリングモデルの柄に気に入るのが無いので無地の黒にカッティングシートでデザインした。

きっかけは大型2輪限定解除試験対策として購入。

今と違い大型2輪は試験場の1発勝負で『本当に』外見も採点基準になっていて、
派手なフルフェイスでは合格しない(ちなみにとうちゃんが合格した時は約120人受けて合格たったの3人)とさえ言われていた。
当時は上のラビーンだったので、ちょっとマズイと思い購入。(当然、試験に合格するまでは無地+クリアシールド)

TTRに乗りはじめた頃もよく使っていたが、被るのが楽(メガネかけてるので)だし、軽いので今でも良く使っている。
でも年季入りすぎてるから、そろそろ買い換えないと・・・




アライ Super-e

ZX-9Rに乗っていた時に被っていたもの。

これも無地の黒にカッティングシートでデザインした。
デザインコンセプトは『空気を切り裂く』イメージ、ラインは空気の流れを表している。
若干、昔のスティーブ・マグラフィンぽくなった気もするが、こっちの方が良く出来たと思う。

さすがに夏場は暑いが 被り心地もいいし、超高速走行でも視界が安定してる。
シールドは好き嫌いがあるのだが、目が強い光に弱いので昼間は仕方なくブラックミラータイプ、
(チタンコートのためレインボーカラーに見えてるだけ)で走っていた。
シールド交換が簡単なので、夜間や雨天走行用に荷物の中にいつもクリアシールドを持っていた。





アライ OW

シールドの変更でロード用にもなる変わり物。

これは無地の白にトロイ・リ−・デザインの『ソウル』をアレンジしてみた。
バイザーはスティングレイ、ゴーグルはスコット。
昔からスーパークロスが好きなのだ。
(第1回のジャパン・スーパークロス見に行ったんですよ)

さすがにオフロード用で、内装が汚れても分解掃除できるのが便利。
大変気に入っているのだが、近所の子供がこれを見て泣くのが難点か・・・






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