このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


[勿来関所古図]

このところ関東地方は晴天に恵まれていた。年初の大雪も姿を消し、成人の日でもある 1/13, 14 はどうやら全国的に晴れ渡っていたようだ。

この日も私は相棒の MG-F で北上を続けていた。
「さぁて、どこへゆくかな?」
勿論こんな感じの行き先不明な週末である。
「そうだ。白河には何度も足を向けているけど、勿来は未だ行った事ないな〜」
そんなわけで、今回は福島県と茨城県の境に近い、古刹勿来の関を訪ねてみる事にした。折しも場所は栃木県益子294号上、そのまま右折して国道123号線で東へ方向転換する。

道はやがて茂木を過ぎ常陸大宮、そしてちょっと道に迷い、山を越え気付いたら日立市内に鼻面を突っ込んでいた。国道6号ちょっと渋滞。宿はいわき平にとる。

さて部屋に入り地図をみる...と、発見、
「がぁ〜ん、勿来通り過ぎとる」
見れば勿来より随分と北に来ていた。実は雪がないなら、このまま仙台当たりまで行っちゃおうかな〜などと夢想していたためだ。むむむ。

翌朝、仕方ないので勿来まで戻る道すがら、ちょっと国道を離れ四倉〜塩屋崎,小名浜への海岸路をドライブする。快適である。まぁ、例によりどっかの漁港に迷い込んだりはしたものの、どうにかお昼前に勿来の近くへ復帰。連続して MG-F 2台を目撃。
先行き不安な車だけど、がんばれ〜。意味もなく応援なぞしてみたりして。


[四倉〜塩屋崎の海岸にて]


[関所跡]


[詠み人 小野小町]

もともと奥州と大和朝廷との支配圏の間に、これら奥州の関所といものが作られていたようです。勿来はかつて菊田関と呼ばれていました。ちなみに勿来は「なこそ」とよみます。いつの頃から勿来と呼ばれようになったのか知りませんが、勿来の勿とは「〜しない」という意味を持ち、「なこそ=な来そ」で「来るなかれ」という解釈がされていたようです。この往来を拒絶するイメージが、北の地である奥州への空想を膨らませ、やがて歌の枕詞になったそうです。

よって古来より多くの歌に勿来の関所が折り込まれているのです。実はこれと同様、多くの歌に残されているのが奥州三古関です。白河の関所併設の施設も、多くの歌を取り上げています。

勿来の「勿(〜しない)」ですが、わすれな草を全て漢字で書くと、勿忘草と表すそうです。


[併設勿来関文学歴史館の1階は
『不思議タウンなこそ』
]

奥州征伐(いわゆる奥州侵攻ですね)の際に源八幡太郎義家が立ち寄ったのが、ここ勿来の関だったそうです。鞍をかけた松だとかが伝わっていました。

福島県の天気予報は「浜通り・中通り・会津地方」の3つに分けて行われる事が多く、勿来やいわきなどは浜通り(大平洋岸)に含まれるが、これは江戸時代には「江戸浜街道」と称されたことに起因する。関所のできた古代には「東海道(あずまかいどう)」と呼ばれていたそうである。

ところで関所といえば江戸時代をイメージしてしまう私でしたが、歌舞伎勧進帳にもあるように源義経・武蔵坊弁慶の時代、いやそれどころかもっと以前から建てられていたようです。既に5〜6世紀には大和朝廷側から見た「蝦夷南下対策の砦」として設けられており、白河の関などは江戸時代にして既に「どこにあったのか分からない」状態だったと言います。

現代に戻りまして、勿来より国道289号を使うとどうやら白河へ抜けられるようです。このまま次の関所へ向かってみましょう。


白河の関へ

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