このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

廃線の迷宮

九州は鉄道の宝庫でありました。故に今や廃線と第三セクター鉄道の宝庫でも在りますが、軽便鉄道の宝庫でもあったのです。筑後地区に限定する廃線迷宮、それも怪し過ぎる軽便鉄道の迷宮を立ち上げようと思っています。取りあえずは、久留米を基点とする怪しい廃線から着手していきましょうか?

 1.筑後軌道! 九州最長の怪しい軽便鉄道、久留米の廃線ゆーたら、ここでしょ!H16.6.28
  1−1.筑後軌道実地探索! 久留米から始める筑後軌道散歩!H16.6.28
  1−2.筑後軌道駅名一覧! 久留米から日田まで停車場一覧!H16.7.15追記H16.7.25改訂H16.6.24
  1−3.筑後軌道駅名一覧! 久留米循環線!停車場一覧!H16.7.15 追記H16.7.25
  1−4.筑後軌道駅名一覧! 草野支線!停車場一覧!H16.7.15 追記H16.7.25
  1−5.筑後軌道略歴! 吉井馬車鉄道改め、筑後馬車鉄道改め、筑後軌道の略歴!H16.7.19
 2.両筑軌道! 田主丸から秋月まで!筑後軌道に連結していた怪しい軽便鉄道!H16.11.14

 1.筑後軌道!

九州最長の怪しい軽便鉄道、久留米の廃線ゆーたら、ここでしょ!

 久留米市内循環線まで保有していた怪しい鉄道会社がありました。この怪しい鉄道会社は、久留米の豆津橋のたもとから、日田の豆田町まで、ナローゲージ(狭軌)の軽便路線を保有していたのです。当時吉井と田主丸の豊富な資金を元手に民間資本が更正県道に軌道敷設するという手法で、久留米と日田を結んだ九州最長の軽便鉄道、それが吉井馬車鉄道改め、筑後馬車鉄道改め、筑後軌道株式会社なのです。

 筑後軌道株式会社は、明治三十六年五月二十五日資本金十七万五千円の株式をもって、吉井町七百四十六に本社を置いた当時浮羽郡唯一の交通機関でした。

H16.8.25地図追記
 明治三十六年十月二十五日に吉井と田主丸間で運行を開始し、久大線の開通と共に昭和四年三月二十五日に幕を降ろした筑後軌道は、筑後地区軽便鉄道の常として、更正県道上に鉄路を敷設するという手法を取ったが為に、その遺物はほとんど残っていません。

 彼等が鉄路を敷設した更正県道は、今や国道264号、国道209号、国道322号、県道53号、そして国道210号、となってしまい、度重なる工事で、かつての姿を留めていません。
 加えて、吉井-日田間は、加ヶ鶴トンネルを拡張して国道に転用したり、民家の裏庭を掠めたり、そして再び県道に戻り三隈橋を渡り、亀山橋を渡り豆田に至るのですが、未だ日田地区の駅の所在地は半ば謎のままです。

 豆田−日田駅(隈?)−徳瀬−石井−発電所前−川下−逆谷橋−長谷−虹峠−袋野−保木−原ノ町−原口−大石−松本−隈ノ上−上千足(かみせんぞく)−下千足(しもせんぞく)−土取−上吉井−上町−札ノ辻−下吉井−女学校前−竹重−樋ノ口−松原−殖木(ふえき)−上田主丸-中田主丸−下田主丸−門ノ上−唐島−川崎−常持−樺目(かばめ)−勿体島(もったいじま)−善導寺−與田(よだ)−木塚(こつか)−津遊川(ついがわ)−太郎原(だいろばる)−追分−旗崎−千本杉−高良川−  −国道−東久留米−日吉町−苧扱川(おこんがわ)−  −縄手−大石−豆津ってのが、今分かっている駅名である。

H16.8.25地図追記
 これに市内循環線(千本杉−御井町−矢作−下川原−国分公園−国分−一丁田−司令部前−国道)と草野(樺目−矢作−草野)と、縄手−九鉄久留米停車場前が、加わる。久留米市内の筑後軌道を伝える証拠としては、千本杉にあった営業所の写真が、国土交通省 九州地方整備局 九州技術事務所の古いパネルに収蔵されている。この写真と同じ物は、あちこちで一人歩きしていて、同じ写真が違う表記であちこちの町史で使用されている。

 加えて、水運を主たる顧客と目していたとしか思えない縄手−大石−豆津は開業後、すぐ休止されたらしい。縄手という拠点は、大川鉄道と接続していた時期もあったらしく、縄手から伸びる久留米駅への貨物連結線の扱いがどうだったのか?謎でもある。縄手からスィッチバック状態だったのか?それとも、、、謎が謎呼ぶ筑後軌道であった。

 問題は久留米が軍事都市であった事で、地図にどこまでマトモに表記されているかも不明のままだから、ぼちぼち現地踏査で精度を高めていこうかな?

 現在謎は謎を呼び、ちょっと脳味噌ばぁ〜んっ!状態になってしまっている。

  1.市内循環線には更に御井町への分岐線が存在していたらしい?

  2.地図には存在しない矢作という停留所もあったらしい?

  3.国道と市内循環線の取り回しが分からない?

  4.高良川と国道の間にあったはずの駅名が分からない(今の五穀神社バス停付近)。

  5.日吉町と苧扱川の間にあったはずの駅名も分からない(今の久留米井筒屋前の六ツ門バス停付近)。

  6.苧扱川と縄手の間にあったはずの駅名も分からない(今の荘島バス停付近)。

  7.市内循環線には、北島という駅もあったらしい、国分公園と北島とは?

  8.豆津−大石−縄手は、明治四十二年に開通し、四十三年に休止したらしいが、いろんな資料に記載されている。

  9.縄手の駅は何時まで在ったのか?大川鉄道との連結は?

 苧扱川(おこんがわ)ゆ〜たら、線路敷設の小松組のあったトコだが、今はもう無い地名(今は本町)だし、鹿児島線の西に貨物取扱線が延びていたし、何でこ〜なるのぉっ!

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 1−1.筑後軌道実地探索!

久留米から始める筑後軌道散歩!

 久留米市内の筑後軌道の遺産といえば、実はつい最近までしっかり残っていた。それは現在の明治通りで、呼び方が「電車通り」だったのだ。筑後軌道がこの区間に複線を敷設していたからであろう。

 千本松には、筑後軌道の営業所があって、国分へ向かう市内循環線の基点でもあったし、ここから先は電化されていない本線が日田まで延びていたので、切り替え等が行われていたのだろう。かなりデカかった営業所だったのかな?

 まずは、京町の九鉄(九州鉄道は二つ在って、国鉄に吸収された奴と、今の西鉄。混乱の元だ)久留米停車場前から、荘島あたりの停車場、苧扱川(おこんがわ)、日吉町、東久留米、国道、五穀神社あたりの停車場、高良川、千本杉の9つの停車場と、JRの高架をくぐった先の、縄手、大石、豆津という三つの停車場、そして市内循環線の司令部前、一丁田、国分、国分公園(北島?)、下川原、矢取、御井町であるが、何故に?実は日吉町、東久留米、国道って言うこの3つ、ここも確証が無かったりする。名前が分からないなんて!ど〜なっているんだろうか?

 答えは簡単だ、まず、軍都久留米は、「色は黒いが、血は赤い」の悲劇の龍師団が存在した。そんな師団司令部があって軍事機密満載であっただけに、地図にも欠落&修正がある。例えば、司令部前とか言う表記は、何処にも無いっ!でも確かに存在していた。

 というんで、傍証を固めて、停車場の名称から一つ一つ確定して行かねばならない。意外と大変だ。

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 1−2.筑後軌道駅名一覧!其の壱

久留米から日田まで停車場一覧!

豆津 久留米市の西の端といわれた豆津には、橋がある。久留米市に最近かけられた橋というのは、力技で辻褄合わせるという大技使いが多過ぎて、筑後の公共工事に不信感を抱く人間が多いのも事実です。瀬の下には渡しもありました。豆津には船着場があったらしく、筑後軌道の前にも軽便鉄道があったといわれている程に、久留米駅が水運と密接に結びついていた時代があるらしいのです。筑後川の水運の基点であったらしいのだが、開通後すぐに閉鎖された悲劇の駅です。おそらくこちらに駅があったと思われる堤防側のバス停を撮影してみました。私の収集した地図からもこことしか思えません!

大石 地味な大石の停車場ですが、バス停の辺りの雰囲気が、、、ここまで最初に廃止された区間です。

九鉄(官線)久留米停車場前 現在の西鉄バスのターミナルが、そうでは無かったかと、実は筑後軌道の前にも軽便鉄道があって、どこがどうなっているのか?でも、地図とは符合します。実質的な終着駅です。久留米駅側から撮影しました。右手奥に縄手のバス停が見えます。

縄手 現在のJR高架の西百米付近?或いは今の縄手バス停付近にあった駅。二つの記載があるので、時代を追って、移設したのでしょうか?実は久留米駅の西側には貨物の取り扱い区画がそこへの分岐もここではなかったか?そうすると無理が、、、客車線のみがこちらにまわっていたとすると納得できます。奥に見えるのが久留米駅です。

荘島 正式駅名は不明ではあるが、現在の荘島停留所付近にあったと思われる。

苧扱川 おこんがわと読む珍名駅、現在のみずほ銀行の東にあったと思われる。

日吉町 旭屋デパートこと井筒屋デパート前にあったらしい。でも旭屋開業は廃線後。旭屋にはKBCの放送局がありました!六つ門かとも思いましたが、旧地図にはこの北側一帯に日吉町と記載されています。

東久留米 福島線と交差していたからこそ、あったとしか思えない。今の日吉町バス停付近が昔東久留米でした。

国道 国道3号線を走っていた市内循環線への連結駅?ベスト前か?国道交差点か?何故かと言えば久留米駅の目と鼻の先に存在したベスト(ここのベストも閉鎖です!)前のバス停は、今はもう無いものの、この距離でバス停が存在するだけでも、摩訶不思議な存在として久留米の謎筆頭!って感じだったんです!

七本杉 ロイホの少し西あたりか?

高良川 九州藍胎漆器の前にある久留米総合庁舎前バス停。

千本杉 異様に広い千本杉交差点が営業所では無かったか?ここで市外線は終わり、御井線と分岐する。

旗崎 現在の旗崎バス停と同一地点。旧街道との交点でもあり、ここから北野方面に行く人も多かったはず。

追分 現在の追分バス停より東に行ったところあたり。

太郎原(だいろばる) 現在の太郎原バス停。

津遊川(ついがわ)

木塚(こつか)

與田(よだ) おそらく離合出来る中核駅であったはず。

善導寺

勿体島(もったいじま)

樺目(かばめ) 草野支線の分岐点が在ったが、今の椛目バス停。

常持

川崎 ここにも離合出来る中核駅であったはず。

唐島

門ノ上

下田主丸

中田主丸 複線で離合できる中核駅であったらしい。現在のバスターミナルがその名残。

上田主丸 両筑軌道との接続駅のハズだが、連絡線の記録が見当たらない。地形図にはあるのに!離合も出来たらしいから、分岐連絡線は確実に在った筈だ!

殖木(ふえき)

松原

樋ノ口離合場所があったとも言うがダイヤグラフからは、伺えない。保線区であったとも言う。

竹重

女学校前 現在の浮羽東高前、昔は女学校だったらしいのだ。

下吉井 操車場があった本社中核停車場で、現在の光タクシーあたりに車両倉庫があったという。

札ノ辻 同名の交差点信号もあるんだよね。

上町

上吉井

土取

下千足(しもせんぞく) 同名のバス停が今も在る。

上千足(かみせんぞく) 吉井の西鉄バス停か?離合出来るトコであったらしい。

隈ノ上 ここから一度210号線から離れて行く。

松本 浮羽町の

大石 大石駅の出てきた所あたりかなぁ?駅への進入路には停車場の法則!

原口

原ノ町

保木今の三叉路あたりだろうか?ここから210号線に戻る。

袋野 筑後軌道の経営するホテルに旅館があったという。セメント会社のあたりだろうか?

虹峠 昔あったバス停のあたり?

長谷 夜明大橋下のドライブインのあたり。離合出来る駅だったらしい。

加ヶ鶴 現在の加ヶ鶴トンネルは、筑後軌道の加ヶ鶴トンネルを拡張したもの。

川下 昔あったバス停のあたり?

白手橋 今も210号線を通しているあの信号の下に白手橋があって、信号名称が一緒。

発電所前 日田の水力発電所が今も在るので、そのあたりか?

石井 ここも離合できたらしい。ここらから現在の210号線の南側に軌道跡が残っている。

2006年6月現在、三隈橋が掛けかえられるが、残っていた筑後軌道の鉄橋の跡が工事で撤去されている。仮橋がちょうど筑後軌道の跡と重なる。

徳瀬 三隈中学校の前

日の隈 現在の日の隈天満宮の東側あたり。

ここいらに筑後軌道基礎石組公園があります。亀山(きざん)公園と道を挟んで反対側です。この下に軌道跡が眠っています。

 軌道道(きどんみち)終着点でその先は家になっている。ここから県道677号から北側に平行に軌道が走る。

三本松 今の三本松信号の辺りかな?

豆田 終着駅は現貞清製材所一帯。ターンテーブルから停車場(てんしゃば)まで一式揃っていたらしい。

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 1−3.筑後軌道駅名一覧!其の弐

国道から千本杉まで停車場一覧!

 国道は、今の国道210号と3号線の交差点上という地図を発見した。そして国道3号線を一丁田まで南下し、陸橋をくぐったら斜めに左折して今のタイホー国分店辺りまで伸びていたのが、国分線。そこから自衛隊正門へ向かわず、斜めに右折して進むと自衛隊駐屯地の一番角から左折し自衛隊の駐屯地に沿って進む。今の住宅地を突き抜けて、川を渡ったとこらで斜めに右折すると住宅地のど真ん中をつきぬけ、今の信愛か矢取営業所の辺りで県道に合流する。あとはバス路線に沿って千本杉まで。こ〜ゆ〜トコらしい。地図は手書きではあるけれど、どうやって作れば良いんだろうか?あ、最初に出来た御井線というのが千本杉から御井町の鳥居の手前にある営業所まで伸びていた。今の商学部前の三叉路で市内循環線と御井線が分岐していた。

国道 本当にベストの前あたりにあったんだろうか?実は交差点に国道と記載されている軍用地図らしき資料も発見してしまったんです!

司令部前 現在の税務署あたりにあったのか?久留米駅南方一帯は軍事基地が集結していました。後に払い下げで税務署に学校、バス会社の営業所が乱立しています、最後の遺産であった火薬庫が消滅したのは二十一世紀になってからでしたでしょうか?

一丁田 久大線開通前に筑後軌道が走っていたが為に、立体交差になったという、珍しい地点です。ここだけでも立体交差していたが為に、3号線の渋滞が緩和されています。ここを西鉄福島線も通っていました。

国分 今のタイホーの前としか思えない。所謂国分線の終点で、千鳥屋とタイホーの中間くらいの向こう側。そしてここから直進せずに右写真の交差点を斜めに右折する。この交差点を直進すると連帯の正門にブチ当たる。

国分公園 謎である、わからない。今、候補地を探索中。この信号を曲がる事は分かっている。でもショートカットする裏道が在ってこちらを通って行ったんでは無いかと思っていた。

下川原今の信愛と自衛隊の角の間が、不明になっている。橋の跡は無いし、延長上に結構な楠の切り株があって、ここを通っては居なかったのか?でも軌道の跡らしい道は発見したが、その先は消えている。自衛隊倶楽部のトコに出たのか?詳細に調査を繰り返そうと思っています。

矢取 農協のコープがあるから、可能性は高い。もう少し先にはもうひとつ、停留所があるし、この周辺の資料があまりに少なくて、困っています。

御井町 鳥居のトコまで分岐が伸びていた事は、御井町誌の米屋さんに関する記述に、筑後軌道の待合所であった時期があった事が記されています。こちらは、シニアネット久留米の須佐さんが上げられているデジタルアーカイブにありますんで、一度覗かれてみては如何?る。御井線終点と呼ぼうか?高良大社の入り口まで伸びたという事か?バス路線はここでUターンして下の交差点で元に戻っていくのだ。

ここから曲がる。今の商学部前の交差点から、左に伸びるのが市内循環線になる。この角にある商店の敷地は昔筑後軌道の離合場所であったという記述が、御井小100年誌に見つける事が出来ました。

千本杉 やっぱり今の広大無辺な千本杉の交差点あたりだったんだろうね!

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 1−4.筑後軌道駅名一覧!其の参

樺目から草野まで停車場一覧!

樺目 今は椛目になっているバス停。

矢作 地図にすら記載が無い謎の停車場!ど〜も無かったヨウナ気がするんだ。

草野 現在の草野郵便局の北側あたりに位置していた終着駅!

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 1−5.筑後軌道略歴!

吉井馬車鉄道改め、筑後馬車鉄道改め、筑後軌道の略歴!

 久留米と日田を結ぼうと画策した筑後の素封家達は、西州鉄道という鉄道会社を立ち上げようとした。だが、不況で資金は集まらず、この計画は途絶する。この事件と明治三十五年度竣工を目指した久留米−荒瀬間の更正県道工事計画が、筑後軌道という九州最長を誇った軽便鉄道を産み出す原動力となる。

 この西州鉄道株式会社の株式申込み者相手に打たれた新聞広告が、日田100年史に見る事が出来る。この時は、吉井馬車鉄道株式会社と名乗っていた。従って、吉井馬車鉄道株式会社が一番最初であろう。この名で軌道敷設許可等の事前準備が行われたであろうが、会社設立時には筑後馬車軌道株式会社となっている。従って、吉井馬車鉄道という呼称は一般的ではない。

 当初の計画では、久留米−荒瀬間の軌道敷設が目的であった。この理由は明白だ。これより先は筑後川は渓谷になり、困難な開鑿工事が必至となるからであろう。袋野から石井に至る経路は難工事であったであろう。日田の丸三瀬から荒瀬(現在の浮羽町山北)は水運利用で十分であろうと見切り発車したと思われる。

 さて、吉井馬車軌道は明治三十六年四月に更正県道工事完了と同時に、吉井−田主丸間の軌道敷設も竣工した。だが、会社設立は済んでいなかったので、明治三十六年五月二十五日に、筑後馬車軌道株式会社として、改称設立し、本社を吉井町に置いている。

 明治三十六年十月二十五日吉井−田主丸間の営業開始である。離合は樋ノ口で行われた事は判明している。吉井は後に下吉井と呼ばれた操車場のあった今の吉井駅前の光タクシーの所であろうか?上田主丸は、両筑軌道の連絡線が接続していた今の上田主丸バス停付近であろう。下吉井−竹重間の女学校前という停車場は当初無かった様だ。

 明治三十七年二月十七日には田主丸−善導寺間が開通している。

 明治三十七年七月六日には善導寺−東久留米間が開通した。

 明治三十七年八月二十一日から、善導寺−東久留米間の運行が馬匹から大阪・福岡鉄工所製石油発動機関車に変更されている。

 明治三十八年十一月一日から、吉井−善導寺間も馬匹から、石油発動機関車に変更され、馬車鉄道ではなくなっている。

 明治三十八年十二月十八日から東久留米−縄手間の久留米市街線の営業が開始された。

 明治三十九年十二月五日に縄手−九鉄久留米停車場間の運行開始で、吉井−九鉄久留米停車場間が全線開通した事になる。だが、出願は久留米−荒瀬間なのだ!全線開通じゃねぇだろう!と叫びたくなってしまった。

 さて、様々な資料を参照していると、謎が謎を呼び、大変な事になっていくる。例えば、田主丸町誌の樋ノ口付近を走る筑後軌道(円勝義蔵)と浮羽町史の巻頭写真の保木停車場と記された写真はまったく同一の写真である。更には、田主丸町史の筑後軌道の写真が、筑後市史の南筑軌道の写真がまったくの同一としか思えない。この写真は浮羽町史の九百二十一頁にも使用されているから、もはや、大混乱である。上久留米は後の東久留米であったらしい。旧版の地図を参照すると、予想もつく。

 だが、浮羽郡案内の記述を信ずれば、明治四十一年一月九州鉄道と連絡を遂げたらしい。他の資料(田主丸町誌)では明治三十九年十二月五日に九鉄久留米停車場−縄手間の完成と運行開始が記されている。同じ資料に大正元年十二月十六日にも官鉄久留米停車場前−縄手間の客車線の延長が成されてるという。官鉄って国鉄久留米の事であろうが、九鉄を吸収合併したのが国鉄で、官鉄久留米停車場と九鉄久留米停車場は、同一としか思えないのだ。ここで、九鉄が二つあるぞ!と突っ込まれるかもしれないが、西鉄の久留米−福岡間の開通は千九百二十四年大正十三年である。この開通時期に存在していたとは思えない。後の西鉄は、国道あたりに位置しているし、東久留米近くで後の三井電鉄線と交差していたハズである。

 明治四十年七月一日には、社名変更し、筑後軌道株式会社となっている。

 さて、ここから、更なる拡張が開始される。

 明治四十二年三月一日には、国道−国分間の国分線と縄手−豆津間の豆津線が営業開始だ。

 明治四十三年五月四日には、吉井−千足間の運行が開始された。千足は現在の浮羽町朝田であったという。

 明治四十三年六月には、豆津線の営業は停止されている。短い人生だった様だが、明治四十四年発行の二万分の一地図には大石と豆津の記載が在る。これもまた、謎のひとつだ。

 明治四十四年四月一日には、千足−保木間の運行が開始された。朝田から国道二百十号線からそれて、現在の八女香春線に入り高見の交差点で保木吉井線に入ってやがて保木の三差路で国道二百十号線に合流している。

 大正元年十二月十六日には縄手−九鉄久留米停車場裏の貨物線が開通している。一部資料には、縄手−九鉄久留米停車場前間の客車線が開通したとある。明治三十九年十二月五日の全線開通という表記はどうなるのだろうか?

 大正二年五月二十四日には国分−千本杉営業所間が開通して、市内循環線が開通している。だが、ここにも、謎がある。御井町の分岐線も確認されているのだ。現在の御井町に在る米屋は筑後軌道の待合室になっている。そうなると、市内循環線に分岐が無ければおかしいし、国分町史や御井町史にはこの分岐線の記述が在る。他にこの分岐線に関しての記述は無い。

 大正二年五月二十五日には、保木−長渓(長谷)間が開通した。

 大正二年十月五日には、樺目(現在は椛目)から矢作経由で草野まで草野支線の運行が開始された。古地図には記載の無い矢作の停留所は何処にあったのであろうか?

 大正三年十月二十一日に、難工事であった加ヶ鶴隋道が完成し、長渓(長谷)−石井間が開通している。

 大正五年五月七日、三隈川の架橋工事も終了し、石井−豆田間が開通し、全線開通である。

 だが、長らく延伸しなかった国鉄の久大線が胎動を開始する。久大線は久大西線と、久大東線という東西からの分割延伸という形で建設が進められた。久大東線は民鉄の路線を買収しての開始であったが、久大西線の開通で、昭和三年十二月二十四日、草野支線と御井線が廃止された。

 昭和四年三月二十五日に、国分支線と全線が廃止されて、筑後軌道の鉄道部門はその幕を下ろしている。

 それでも、自動車部門は存続し、後に国鉄に?西鉄に吸収された。貨物輸送部門は、現在の西久大運送に吸収されて今に至っている。

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 2.両筑軌道!

田主丸から秋月まで!朝倉&筑後軌道に連結していた怪しい軽便鉄道!

 両筑軌道といえば、橋が流されて追い込みかけられた悲運の軌道である。しかし、筑後地区から筑前地方に至り、筑豊地方まで延伸しようとした遠大な構想に向かって進んだ雄雄しき軌道でも或る。

 上田主丸から、秋月まで、上田主丸は筑後軌道に連結し、秋月は現在の秋月市街地より結構手前、いつも秋月に入る旧道よりもう一本東にある畑の中にある道のさらに東、ホントの畑の中に位置していた。結構一杯駅があって、田主丸−櫻町−板町−立野−筑後川−中村−林田−鎌崎−小田−鳩胸−一ツ木−来春(らいは)−三福小路−水町−七日町−甘木−大塚−安川橋−下淵−千住橋−女男岩−秋月というラインナップである。県道33号甘木田主丸線、国道386号線、国道322号線がその跡に沿っているか?国道322号線は両筑軌道の跡地になっている部分が多そうだ。しかし、道路上に設置されていない部分も多く、廃線跡が細い道に形を変えている所も少なくない。

 筑前と筑後を結ぶという事で、明治四十四年九月に創立された両筑起動株式会社は、大正元年九月に田主丸−甘木間で営業を開始している。明治最後の年に創立され、大正最初の年に営業を開始した軌道だ。大正二年には秋月−甘木間の営業も開始している。

 明治四十四年一月には朝倉軌道は二日市から朝倉町の恵蘇宿まで延長しているから、甘木地方は朝倉軌道と両筑軌道を介して、多くの物産を運搬する動脈を得た事になり、経済に貢献したであろう事は想像に難くない。

 この頃の筑後地方軽便鉄道の特色は、地元素封家が地元経済の成長の為に資金を注ぎ込んでいる。田主丸・秋月の下座地区の金持ちが頑張って、日田金や吉井銀、そして草野銀に対抗したのだ。だが、大正十年の大洪水が両筑橋と両筑橋に併設されていた鉄道橋を押し流し、両筑軌道は両筑ではなく筑前・筑後に分断されてしまう。

 両筑軌道の筑後側は、田主丸−櫻町−板町−立野で終わるのだ。そして久留米の方が都市としては巨大な消費地でもある。加えて、当時既に筑後軌道の開通で筑後側の水運は崩壊していた。筑後軌道との連結は必至であったし、もはや二日市から?朝倉軌道だけでは、、、甘木地方の経済の為にも再建必至だったというので、当時の村々から二人づつ出して、両筑軌道存続期成会を結成!本社が田主丸であったが、七日町に出張所を設けて、そちらで様々な業務を開始し、会社再建を目指したが、免許制度はそんな両筑軌道に追い込みをかける事となる。

 運休申請しても認可されず、全員解雇して運転士は隣の筑後軌道の非番(!)のモンや、臨時雇(何処から引っ張った?)で間に合わせ、午前・午後各一回の運行で頑張ったのだ!

 苦節四年、頑張った結果、大正十四年五月、七十五万円まで増資していたのに、全資産を二十五万で新両筑軌道株式会社に売り払って、心機一転巻き返しを図ったのだ。図ったのだが、鉄道橋は再建される事は無かった。本社が田主丸だが、ほとんどの業務は甘木の七日町停留所に新設された出張所で行われたという。

 昭和五年には、甘木−田主丸間の軌道は廃止され、両筑橋を経由する自動車で運行されるバス会社状態になる。

 そして昭和六年三月には連結する朝倉軌道に買収され、両筑軌道株式会社に戻るのだが、甘木−秋月間も自動車運行となり、軌道としての営業実態は消滅していたが、長く両筑軌道の名前を保ち続け、社名から軌道という表記が消えるのは、昭和十四年の朝倉軌道自動車部との合併を待たねばならない。

 古今東西、何処でも、鉄道橋の流失が経営に打撃を与える事に違いは無い。もしも、県道の両筑橋の上を両筑軌道が通っていたら、今とは違った歴史が紡がれたと思うと、残念でならない。三井電気軌道(現在の西鉄甘木線と今は無き福島線)は宮の陣橋を渡っていたから、無理ではなかっただろうに。宮の陣橋は鉄骨リベット留めという無骨な鉄橋であったが、両筑橋は木と鉄で出来た橋であったが故に、不運な軌道であったと、思わざるを得ない。

 ちなみに両筑軌道の駅名一覧だ!

田主丸地図に拠れば、国道二百十号線の上田主丸バス停付近で筑後軌道に連結していた。

櫻町田主丸小学校をぶち抜いて田主丸盲学校の角当たりに櫻町という地名があり、そこみたい。

板町今も在る板町バス停あたりか?或る掲示板で建設前の発掘作業で石炭ガラを掘り出した記述がある。

立野立野の集落のど真ん中!狭い道が伸びていて、あ、これが軌道の跡だなと感じる。

筑後川現在の楓という集落の西の外れくらいか?

中村現在の中村バス停周辺?桂川を渡ったあたり?

林田林田の信号の北側、片延の集落のあたり、林田ってバス停があるんです。

鎌崎

小田

鳩胸

一ツ木

来春(らいは)33号線から県道八重亀菅野来春線に入ったトコあたり。

三福小路学校前あたりかな?

水町鉄路は住宅地に消えている、判らない。

七日町出張所があったトコで、国道七日前信号から南に少し入ったあたり?

甘木今のバスセンターは、朝倉軌道の駅跡らしいし、、

大塚

安川橋どっちだろ?橋の袂?今の下淵バス停のあたり?

下淵今の下淵バス停のあたり?

千住橋今の千住バス停のあたり?

女男岩今の夫婦岩バス停のあたりかな?

秋月秋月の入り口の石橋から道一本向こうの畑の中にぽつんとある。

上記は筑後の貨幣と小話集に記載された切符に拠っている。

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参考文献
久留米市史、田主丸町誌、久留米市誌、御井町誌、浮羽郡誌、御井小学校創立百周年記念誌、筑後の貨幣と小話集、甘木市史、浮羽町史、吉井町史、鉄道廃線跡を歩くⅨ、日田・玖珠の100年、日田文化27号(出版社・著者・版数等未記載省略)
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