恐るべき鍋島家2007.6.14葉隠といえば、佐賀鍋島藩であった。その鍋島家は、凄まじい君主を成立当初から陸続と輩出し続けた。鍋島直茂に始まる個性の強い君主列伝は、鍋島藩内部に支藩を設けた独特なシステムから、更に個性の強い君主を生み出し、最終的には幕末に東洋一の軍事国家に育て上げた直正を生んでしまいました。
しかし、凄いんですけれど、凄いんですよ、でも、結構情けないんです。鍋島家の祖になる直茂さん。え〜歳こいて、夜這しておられました。最初の奥さんの実家が大友に付いたと言って離縁して、一人寝は寂しいと、一目ぼれした後家さんに夜這するんです。この時代、当人同士の合意があれば良かった様ですが、あんまり長く夜這を掛けたんで、痺れを切らした陽泰院の実家の家臣に足の裏を刀で斬られて(槍で突かれた?)その傷は死ぬまで残ったと言います。直茂さんのエピソードは、何処か微笑ましいモノが多いです。
そんな茶目っ気のある父の後を継いだ勝茂は、中央集権体制へ移行しようとはするんですが、世にも珍しい群雄割拠小領主乱立国家を築いてしまいます。兄にあたる養子の鍋島茂里とか、いろいろ居ましたからね。西軍に付いた負い目から暴走する古株を庇い続ける父直茂に頭が上がりませんでした。
そして自分の不始末の為に一生を幕臣として暮らした勝茂の弟忠茂は鹿島鍋島の祖になります(父直茂の詫びでしょう)が、同時に幕臣として旗本にもなっています。忠茂の子正茂は、鹿島鍋島君主でありながら、幕臣としても実直に勤め上げますが、叔父から鹿島鍋島を取り上げられます。出来た父直茂が死んだら、馬鹿息子勝茂は無茶に無茶を重ね始めました。
勝茂は弟忠茂を不幸にするだけでは飽き足らず、長男元茂を徳川家から押し付けられた再婚の際に廃嫡します。元茂は人質として江戸に送られるわ、廃嫡されるわ、鬱憤を晴らすべく剣の道にのめりこみ、柳生新陰流の印可を受ける初めての大名になります。はっきり言って、この人も被害者です。
徳川家から来た妻との間に生まれた忠直は結婚し子供を設けますが、疱瘡で若死に、ここでも勝茂はおいおい!的行動を取りました。未亡人と五男の直澄と結婚させるのです。おいおい、徳川のね〜ちゃんと結婚すりゃあ、鍋島を継げるのか?勝茂は直澄に鍋島を継がせようとした節もあります。この人も不幸になります。
こうなりゃあ、屈折している元茂は完璧に切れます。勝茂は孫の光茂に鍋島家を相続させますが、それまでに時間が掛かりすぎました。この右往左往の過程で鍋島藩は三支藩、鍋島分家、竜造寺の生き残りという群雄割拠状態が確立しちゃっていたから、ワシ等のゼニで鍋島ここまでしておきながら!とみんな切れてしまったんです!
ここから鍋島は内部抗争の時代に突入します。家光と紀州・尾張・水戸の壮絶な抗争と同様の内部抗争の結果、切腹する家臣もかなり出ています。本家と蓮池・小城・鹿島の支藩の関係は最悪になり、竜造寺家の知行も含め、戦国時代同様に小領主が乱立する形態を保ち続けます。鍋島本家は弱小君主で実高六万石程度、金が無いので化粧田からの上がりがある奥さん達から借金せにゃあならん羽目に陥ります。
実際、今の長崎県には鍋島藩の分家や飛び地が点在しています。佐賀県と長崎県に及んでいた肥後鍋島家、高校サッカーの国見高校で有名な旧国見町は、旧鍋島領で神代(こうじろ)鍋島家邸宅があるんです。長崎市の深堀地区も、長崎喧嘩で有名な深堀鍋島家の領地でした。諫早も竜造寺で鍋島家の分家みたいなもんです。三十六万石のほとんどが、分家・親類・親類同格・家老で分けられた結果、鍋島本家の実力は、、、惨めなもんでしょう。
その結果、殿様を非常に軽視する葉隠武士が誕生する訳です。葉隠に語られる武士達は、勝茂がナンボのもんじゃぃっ!光茂がナンボのもんじゃぃっ!ワシらが鍋島じゃぃっ!殺せるもんなら、殺してみぃ!血ぃ見るどぉっ!という鍋島武士の叫んでいます。
彼等は直茂を尊敬しつつ、勝茂、光茂という鍋島藩主を使い物にならん、馬鹿モンじゃ!鍋島は直茂さんとワシらが作ったモンじゃぃっ!という、硬直した思考形式に陥って行ったんじゃないでしょうか?事実鍋島藩では禁書扱いされていたんです。
その遠因は直茂の無茶に在るでしょう。直茂と陽泰院は苦労人です。この夫婦は隠居しても、苦しい時を支えてくれた部下を庇い続け、幾つもの伝説と基本スタイルを確定させてしまいました。「死ぬことと見つけたり」の主人公である斎藤杢之助の父斎藤用之助は、葉隠で語られる最も有名な鍋島武士です。
若輩者と鉄砲調練させられて空を撃ち「ワシの腕は直茂様が御存知じゃ!なめるな!」と言い放つ男は斉藤用之助です。直茂は確かに「そうじゃ、あいつのお蔭でワシは生きておられる。間違いない!」と庇います。
喰う米が無いと妻が泣き、年貢米を強盗する男が斉藤用之助です。これを聞かされた直茂夫婦は「なぁかか(陽泰院)よ、ワシらがこうして居られるのは斎藤用之助のお蔭じゃ、ワシらの為に命がけで戦こうてくれた、そんな男に食う米も与えず強盗にまで落ちぶらせるとは、、、」と号泣します。この夫婦、腹芸の達人です。直茂がここまで言えば、直茂の名声は上がり、馬鹿息子勝茂の評価は落ちます。
しかし、この斎藤用之助の血筋は今も佐賀に残っています。ちなみに十一代目は斎藤用之助さんは硫黄鳥島移住やら沖縄で大活躍されたそうで、あの、斎藤用之助かよぉっ!杢之助の血筋はどうなっちまったんでぇっ!と、逆上した記憶がありました。
葉隠は、老人の繰言の迷言集です。しかし中央集権体制下では無茶は出来ません。光茂の治世で無茶が禁止され、彼等ボンボン世代の憧憬の存在であった旧世代の鍋島武士への応援歌が葉隠なんではないでしょうか?
そんな真の日本人集団鍋島は、幕末に武雄鍋島君主鍋島茂義を生みます。その人生は、諫言!諫言!そして諫言の半生であり、諫言と暴走で切腹寸前まで追い込まれたりもしていますが、蘭癖大名の魁として、時代の最先端を進み、ほぼ独力で当時東洋最先端の部隊を編成したと思われます。葉隠武士として葉隠に登場すべき人物なんです。そしてこの人物の最高の功績は、肥前の妖怪と呼ばれた鍋島直正を育て上げた事になります。
アームストロング砲を作り上げた(佐賀藩が作り上げたこの砲がアームストロング砲なのか、今も議論がされています)鍋島直正の基礎にあったのは、武雄鍋島君主鍋島茂義の作り上げた兵器製造研究とその実践があった事は間違いありません。蒸気船建造の製造責任者として武雄鍋島君主鍋島茂義を任命したのは鍋島直正でした。ほぼ全ての技術成果にはこの鍋島茂義が絡んでいる事から、鍋島直正の影に鍋島茂義あり!という仮説さえ、成り立つのでは?私はこの人物が凄い!と思うのです。でも、反面教師として馬鹿君主であった借金&浪費の迷君、鍋島斉直が凄いのかもしれません。鍋島は一代かわり、馬鹿過ぎる人が普通の人を凄く良く見せているだけかな?と思った事もあります。
最初に戻りまっせ!