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偉人の謎九州編

偉人の謎というか、九州には凄い偉人達が、掃いて捨てるほど居たりする。日本最強の島津相手に寡兵を率いて玉砕(彼の時代には玉砕という言葉はなかったが、使わせていただこう。歴史上アッツ島守備隊全滅に対して使用されたのが始まりであったと思う)した立花の殿様に始まり、国を傾けながらも将軍様の覚えめでたかった奇跡の有馬公、そりゃあもういっぱいおられたのさ!
恐るべき家臣団を誇る立花家 戦国の世に、奇跡の復活を遂げた名君を戴いたすんげぇ家臣団!
恐るべき君主を誇る有馬家 太平の世に、才人・奇人を輩出し続けた有馬藩!凄過ぎる!
恐るべき豊後王大友宗麟 欧州にも知られた偉大な豊後王!キリストの愛を叫び十字軍やった凄い人!
恐るべき葉隠総本山鍋島家 幕末世界最先端の技術を誇り、武士道の総本山でもあった鍋島家!凄い!

恐るべき家臣団を誇る立花家2004.4.27

水郷柳川・御花をご存じだろうか?柳川藩の殿様がやっておられる料亭で、元は殿様のお屋敷とお庭である。

だいたい旧藩主が地元に住んで居られると言うのは、ほとんど皆無に近い奇跡なのだが、その成り立ちを知れば、当然か?とも思える。立花家は、関ヶ原の戦いで一度は西軍に付いて領地と城を失ったが、ねばり強い家臣達のがんばりで、本領に復活し、今に至っている珍しい藩だ。だが九州では、関ヶ原の敵中突破で勇名を馳せる島津勢相手に勇猛果敢に奮戦した武闘派でも知られているのだ。

立花家の祖、宗茂の実父高橋紹運は、岩屋城という太宰府の裏山にある城で、島津勢五万を相手にたった八百で戦い抜き、全滅した。籠城する場合、1/3の兵力で互角に戦えるという法則がある。そして、城が堅固で在れば在る程に、少ない兵力で戦う事が出来る。それでも五万相手に八百名で戦うというのは、無理である。三千四百の敵兵と差し違えて、高橋紹運とその一統は、岩屋城で一人も残らず死んだ。

この事実が、立花家の復活の遠因では?そんな感じがする。立花家は大友家の滅亡を乗り越え、関ヶ原で西軍に付くという失態を犯してすら、本領復帰し、幕末まで至っている。

宗茂は将軍のお伽衆となったが、或る意味人質では無かったのだろうか?関ヶ原では家康本陣の真ん前をぶち抜いて敵中突破して全国にその名を轟かせた島津勢五万相手に、八百余で戦った立花である。何をするか判らない不気味さがあっただろう。事実一時期筑後を統治した田中吉政の治世には、隠れ立花藩士が暗躍し、一瞬も気が抜けなかったとも言われている。

流浪の時期も、他家に仕官した家臣団は大手を振って宗茂を支え続けた。大手を振りながら支え続けたという処が、恐ろしい。加藤清正も黒田如水も恐ろしい集団を仕官させたものだ。立花家が誇るべきは、その結束力であろう。ここまでの結束を誇る集団を私は知らない。

七十三歳で戦陣に没した立花道雪が柳河を、と言い残したが故に、その言葉が彼等を縛ったのかも知れないが、それ故小藩に留まり立花家は明治に至ったのだろう、幕末には良い家老を配して危機を逃れたが、無事安泰に明治を迎えられた藩は少ない。

明治になって立花侯爵家の当主は、営農に労力を傾注した。伯爵家の農園は早生みかんを生み出し、日本中に広めていった。男爵芋はあるけれど、伯爵みかんは無かった。時期になれば、それを今に伝える立花農園のみかんジュースも売りだされる事をご存じだろうか?道の駅おおむたとかでも、売っているので、一度味われては如何だろうか?味わいながら、立花道雪・高橋紹運という武将と彼等に従った凄い家臣団がいたことを偲んで下さい。少々高めなんで、そこんトコよろしく。
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恐るべき君主を誇る有馬家2004.8.6

福岡県は、筑前・筑後・豊前と分かれていろいろあったが、筑後には柳川立花藩と久留米有馬藩があった。有馬藩と言えば、江戸で知らぬモノの無い、有名どころであった。水天宮さんの総本山(神道の場合これは問題があるけれど、あえて使用した)がお城のすぐそば!加えて、水天宮さん奉納花火大会は九州最大規模を誇り、江戸時代に水天宮さんを分霊して江戸屋敷内に建立したが為に、水天宮の有馬藩江戸屋敷として有名になり、庶民が塀越しにお賽銭を投げ込むので知られ、困窮した大名家の一例として挙げられる事が多い。しかしご開帳までして、お賽銭は江戸屋敷の運営費に注ぎ込まれていたらしい。

でもね、でも、この有馬藩、半端じゃない金を大名火消しにつぎ込んでいたし、英明な犬公方に愛された事実を見ても、有馬の血筋は暗愚の血筋ではなく英明であったことで知られている。

欧州で円周率の計算が確立する前に、既に円周率を現代並に計算していた日本の和算、その関流算術の高弟筆頭で知られた七代目君主頼?!そして、火事と喧嘩は江戸の花、町火消しと双璧をなした大名火消しを永く勤めても居る。江戸のね〜ちゃん達にきゃ〜きゃ〜言われた大名火消しが有馬藩であった事は有名だ。大名火消しは主君自ら、或いは若殿が派手な格好で陣頭指揮するのだから、、ほとんど江戸時代のアイドルだ!で!犬公方より拝領したお犬様を大名行列の先頭を進ませたという、有馬の曳き犬!普通そこまで、、、化け猫ゆ〜たら鍋島と思われているが、実はこっちの方が有名だった有馬の猫騒動!江戸で知られた精力絶倫大名八代頼貴!藩財政を傾けて、焼き物・庭園・茶室に没頭した数寄大名頼徳!とか、、、切り殺された人に、、、有馬藩の君主ときたら、豪快というか、豪放というか、普通では無い人物に事欠かないのだ。

有馬藩の藩主の末裔といえば、有馬記念の元になった御仁に、作家の有馬さんに、

ちなみに、久留米有馬藩の領地内、現在の大刀洗町には、何故か、今に至るキリシタン部落があって、五島・長崎・天草以外で唯一長崎の教会建築の棟梁鉄助さんが建てられた煉瓦の教会があります。元の領主、毛利の時代に布教が進んだようですが、実は、有馬家にもキリシタンが居た模様で、旧篠山城の神社に残されたキリシタンの遺物が無い訳では有りません。藩も大目に見ていたんでしょうか?今村の有力信者は初期に転んで、後に庄屋となり信者を庇護してきた事も知られています。何故か、そ〜ゆ〜トコには欠かせません。
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恐るべき豊後王、大友宗麟2005.2.4

戦国時代の大分県の有名人といえば大友宗麟に終始する。大友宗麟といえば、日本で最初に十字軍をやった人、フランキ砲を指揮して日本で最初に砲撃戦闘を行った人(異論在るかな?)、天正遣欧使節断を送った人、その生涯は凄すぎるのだ!

十字軍の本質は、キリスト教徒という暴徒の、文化国家イスラム圏への侵略・略奪戦争に他ならなかった。大友宗麟はキリスト教に入信した事で知られるが、奥さんの実家の本家である宇佐神宮を焼き払った。出家して宗麟と名乗りながら、女好きはなおらなかった。良い女見つけたら、旦那殺してモノにする位の女好きで、キリスト教に入信しても、女好きはなおらなかった。今の宮崎県である日向の国に布教せんと新しい愛人さん(二番目の奥さんとは見せかけ離婚した)掻き抱きつつ侵攻し、神社仏閣焼き払いながら進軍した様は、まるで十字軍!凄い!凄すぎる!結局大敗北するや、真っ先に愛人さん掻き抱きながら逃亡している。尻に帆かけて逃げ出した様は織田信長の浅井攻めを思い起こさせるが、その後、離反と造反が繰り返されて偉大なる豊後王は居城まで攻め込まれてフランキ砲と呼ばれる国崩しを駆使して窮地を脱するに至る。

天正遣欧使節団を送ったのも、この人である。キリスト教に入信するほど軽薄な人物でもあったし、禅宗狂いが、伴天連狂い?という面から見ても、すこぶる現実的な梟雄という評価が正しいのではないか?と思える。つまり、利用できる物は臨機応変に利用する現実主義者である、いや、あろうか?。

ところで、豊後王という表記、普通は使いませんよね、これって欧州からの逆輸入なんです、別府銘菓に名を残すフランシスコ・ザビエル(金のザビエル・銀のザビエルばご存知無い?)が所属したイエズス会はエスパニアやポルトガルの植民地拡張の先遣隊として大活躍したキリスト教原理主義者集団です。まめに報告書を本国の本部に送っていました。その報告書の中に大友宗麟や奈多夫人、長床衆(仏教寺院用語から転じ普遍的に存在した特殊集団)が出てきて、大分県は魑魅魍魎の巣窟か?的小世界が出現するそうです。

その中でイザベルと呼ばれた世紀の悪女奈多夫人(実家は神社だぞ!反伴天連が普通だろう?)、そしてドン・フランシスコと呼ばれた豊後王宗麟、故に日本よりも欧州で有名なドン・フランシスコこと豊後王、大友宗麟が誕生します。

島津に負け、竜造寺に造反され、羽柴秀吉を頼って、天下の名器と呼ばれる茶器・城・部下を献上して惨めな末路を迎えました。有馬や大友、松浦の九州諸勢力が植民地化されている惨状を目にした秀吉は、キリスト教禁止を打ち出すのです。そして、息子は無茶して潰されて、大友家は旗本で幕末にいたることになりました。

宗麟の妹(異論在ります)の孫が、立花宗茂です。柳川の御花の御当主の先祖です、早生みかんを作った御方の御先祖さま(御先祖さまの兄貴さん)です、家康・秀忠・家光に愛された好人物です。豊臣政権下でも徳川政権下でも敵を作らなかった好人物です。浪人中もかつての部下は九州から江戸や東北まで野菜や海産物や金やいろんな物を、宗茂に届け続けました。そんな人物が同じ大友の血を継いでいる事から見ると、大友宗麟は鬼っ子、取り替えっ子だったのかもしれません。

だから、宗麟の父は、宗麟には継がせられないと、廃嫡しようとして殺されたんです。大友二階崩れという事件がそれです。宗麟の父と三男坊がうまい事やってたら、大分県(豊後の国)が小分割される事は無かったかもしれません。
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恐るべき鍋島家2007.6.14

葉隠といえば、佐賀鍋島藩であった。その鍋島家は、凄まじい君主を成立当初から陸続と輩出し続けた。鍋島直茂に始まる個性の強い君主列伝は、鍋島藩内部に支藩を設けた独特なシステムから、更に個性の強い君主を生み出し、最終的には幕末に東洋一の軍事国家に育て上げた直正を生んでしまいました。

しかし、凄いんですけれど、凄いんですよ、でも、結構情けないんです。鍋島家の祖になる直茂さん。え〜歳こいて、夜這しておられました。最初の奥さんの実家が大友に付いたと言って離縁して、一人寝は寂しいと、一目ぼれした後家さんに夜這するんです。この時代、当人同士の合意があれば良かった様ですが、あんまり長く夜這を掛けたんで、痺れを切らした陽泰院の実家の家臣に足の裏を刀で斬られて(槍で突かれた?)その傷は死ぬまで残ったと言います。直茂さんのエピソードは、何処か微笑ましいモノが多いです。

そんな茶目っ気のある父の後を継いだ勝茂は、中央集権体制へ移行しようとはするんですが、世にも珍しい群雄割拠小領主乱立国家を築いてしまいます。兄にあたる養子の鍋島茂里とか、いろいろ居ましたからね。西軍に付いた負い目から暴走する古株を庇い続ける父直茂に頭が上がりませんでした。

そして自分の不始末の為に一生を幕臣として暮らした勝茂の弟忠茂は鹿島鍋島の祖になります(父直茂の詫びでしょう)が、同時に幕臣として旗本にもなっています。忠茂の子正茂は、鹿島鍋島君主でありながら、幕臣としても実直に勤め上げますが、叔父から鹿島鍋島を取り上げられます。出来た父直茂が死んだら、馬鹿息子勝茂は無茶に無茶を重ね始めました。

勝茂は弟忠茂を不幸にするだけでは飽き足らず、長男元茂を徳川家から押し付けられた再婚の際に廃嫡します。元茂は人質として江戸に送られるわ、廃嫡されるわ、鬱憤を晴らすべく剣の道にのめりこみ、柳生新陰流の印可を受ける初めての大名になります。はっきり言って、この人も被害者です。

徳川家から来た妻との間に生まれた忠直は結婚し子供を設けますが、疱瘡で若死に、ここでも勝茂はおいおい!的行動を取りました。未亡人と五男の直澄と結婚させるのです。おいおい、徳川のね〜ちゃんと結婚すりゃあ、鍋島を継げるのか?勝茂は直澄に鍋島を継がせようとした節もあります。この人も不幸になります。

こうなりゃあ、屈折している元茂は完璧に切れます。勝茂は孫の光茂に鍋島家を相続させますが、それまでに時間が掛かりすぎました。この右往左往の過程で鍋島藩は三支藩、鍋島分家、竜造寺の生き残りという群雄割拠状態が確立しちゃっていたから、ワシ等のゼニで鍋島ここまでしておきながら!とみんな切れてしまったんです!

ここから鍋島は内部抗争の時代に突入します。家光と紀州・尾張・水戸の壮絶な抗争と同様の内部抗争の結果、切腹する家臣もかなり出ています。本家と蓮池・小城・鹿島の支藩の関係は最悪になり、竜造寺家の知行も含め、戦国時代同様に小領主が乱立する形態を保ち続けます。鍋島本家は弱小君主で実高六万石程度、金が無いので化粧田からの上がりがある奥さん達から借金せにゃあならん羽目に陥ります。

実際、今の長崎県には鍋島藩の分家や飛び地が点在しています。佐賀県と長崎県に及んでいた肥後鍋島家、高校サッカーの国見高校で有名な旧国見町は、旧鍋島領で神代(こうじろ)鍋島家邸宅があるんです。長崎市の深堀地区も、長崎喧嘩で有名な深堀鍋島家の領地でした。諫早も竜造寺で鍋島家の分家みたいなもんです。三十六万石のほとんどが、分家・親類・親類同格・家老で分けられた結果、鍋島本家の実力は、、、惨めなもんでしょう。

その結果、殿様を非常に軽視する葉隠武士が誕生する訳です。葉隠に語られる武士達は、勝茂がナンボのもんじゃぃっ!光茂がナンボのもんじゃぃっ!ワシらが鍋島じゃぃっ!殺せるもんなら、殺してみぃ!血ぃ見るどぉっ!という鍋島武士の叫んでいます。

彼等は直茂を尊敬しつつ、勝茂、光茂という鍋島藩主を使い物にならん、馬鹿モンじゃ!鍋島は直茂さんとワシらが作ったモンじゃぃっ!という、硬直した思考形式に陥って行ったんじゃないでしょうか?事実鍋島藩では禁書扱いされていたんです。

その遠因は直茂の無茶に在るでしょう。直茂と陽泰院は苦労人です。この夫婦は隠居しても、苦しい時を支えてくれた部下を庇い続け、幾つもの伝説と基本スタイルを確定させてしまいました。「死ぬことと見つけたり」の主人公である斎藤杢之助の父斎藤用之助は、葉隠で語られる最も有名な鍋島武士です。

若輩者と鉄砲調練させられて空を撃ち「ワシの腕は直茂様が御存知じゃ!なめるな!」と言い放つ男は斉藤用之助です。直茂は確かに「そうじゃ、あいつのお蔭でワシは生きておられる。間違いない!」と庇います。

喰う米が無いと妻が泣き、年貢米を強盗する男が斉藤用之助です。これを聞かされた直茂夫婦は「なぁかか(陽泰院)よ、ワシらがこうして居られるのは斎藤用之助のお蔭じゃ、ワシらの為に命がけで戦こうてくれた、そんな男に食う米も与えず強盗にまで落ちぶらせるとは、、、」と号泣します。この夫婦、腹芸の達人です。直茂がここまで言えば、直茂の名声は上がり、馬鹿息子勝茂の評価は落ちます。

しかし、この斎藤用之助の血筋は今も佐賀に残っています。ちなみに十一代目は斎藤用之助さんは硫黄鳥島移住やら沖縄で大活躍されたそうで、あの、斎藤用之助かよぉっ!杢之助の血筋はどうなっちまったんでぇっ!と、逆上した記憶がありました。

葉隠は、老人の繰言の迷言集です。しかし中央集権体制下では無茶は出来ません。光茂の治世で無茶が禁止され、彼等ボンボン世代の憧憬の存在であった旧世代の鍋島武士への応援歌が葉隠なんではないでしょうか?

そんな真の日本人集団鍋島は、幕末に武雄鍋島君主鍋島茂義を生みます。その人生は、諫言!諫言!そして諫言の半生であり、諫言と暴走で切腹寸前まで追い込まれたりもしていますが、蘭癖大名の魁として、時代の最先端を進み、ほぼ独力で当時東洋最先端の部隊を編成したと思われます。葉隠武士として葉隠に登場すべき人物なんです。そしてこの人物の最高の功績は、肥前の妖怪と呼ばれた鍋島直正を育て上げた事になります。

アームストロング砲を作り上げた(佐賀藩が作り上げたこの砲がアームストロング砲なのか、今も議論がされています)鍋島直正の基礎にあったのは、武雄鍋島君主鍋島茂義の作り上げた兵器製造研究とその実践があった事は間違いありません。蒸気船建造の製造責任者として武雄鍋島君主鍋島茂義を任命したのは鍋島直正でした。ほぼ全ての技術成果にはこの鍋島茂義が絡んでいる事から、鍋島直正の影に鍋島茂義あり!という仮説さえ、成り立つのでは?私はこの人物が凄い!と思うのです。でも、反面教師として馬鹿君主であった借金&浪費の迷君、鍋島斉直が凄いのかもしれません。鍋島は一代かわり、馬鹿過ぎる人が普通の人を凄く良く見せているだけかな?と思った事もあります。
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