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九州旅行記・2005年10月24日


本日の行程
0〜1日目鹿児島中央→(新幹線つばめ)→新八代→(特急くまがわ1号)→人吉→(くま川鉄道)→湯前→(くま川鉄道)→人吉→(いさぶろう)吉松→(鈍行)→隼人→(鈍行)→鹿児島中央→(鈍行)伊集院→(鈍行)→鹿児島中央3日目

1.鹿児島中央→新八代

午前6時40分頃起床。今日もこのホテルに泊まるので、必要な荷物だけをトートバッグに詰めて、午前7時過ぎにホテルを出た。まだ朝早いので人は少ない。鹿児島中央郵便局で金を下ろして、駅に向かう。みどりの窓口で九州新幹線つばめ号の乗車券と自由席特急券を購入。九州内乗り放題の周遊きっぷでは九州新幹線に乗れない。せめて乗車券の分だけでも周遊きっぷが使えるようにしてほしいものだ…。駅構内には立ち飲み焼酎バー「Amutas」がある。駅構内の焼酎バーなんて全国でここだけだろうな…。

2面4線のホームのうち、今の時間は片方しか使われていない。ホームに上がって写真を撮る。鹿児島中央は終点駅なので、当然全列車が止まるのだが、全ホームに頑丈な新幹線タイプのホームドアがついていた。通過列車のある駅では頑丈なホームドアがあるのは当然なのだが、たしか新幹線全列車停車の京都や新大阪にはなかったような…。ホームは8連まで対応しているようで、行き止まりの先に桜島が見える。

7時20分頃に新幹線つばめ36号が入線してきた。車内清掃が終わった後、車内に入る。座席は自由席でも左右両方2人がけ。一瞬グリーン車か?と思うほど豪華な座席。通路を挟んで左右2人がけなので、2人の席の間の肘乗せも大きくて、隣に人が座ってもゆったりした感じがする。また、前の座席との間隔も広い。

列車は定刻の7時37分に鹿児島中央駅を発車。駅を出るとすぐトンネルに入る。発車直後の案内放送は日英韓中の4ヶ国語放送。新幹線は新八代駅までだが、新八代駅では同一ホーム上で在来線の博多行きリレーつばめ号に乗り換えが出来るので、あくまでも「つばめ号博多行きです」と案内されるし、車内ドア下にあるLEDもリレーつばめ号を含めて、博多までの停車駅がずらずらと表示されている。LEDではニュースの他、福岡・熊本・鹿児島・大阪・東京の天気予報などが表示される。

車内はほぼ満席だったが、鹿児島中央の川内でかなり降りた。鹿児島から川内への通勤に使われているようだ。私の横の人に座っていた人も降りたので、車内を探検。公衆電話はなく、デッキが携帯電話スペースと決められているようだが、九州新幹線はほとんどがトンネル内を走行するので、意味がないような…。飲み物の自動販売機があるが、350mlの缶が150円、500mlのペットボトルが180円。30円もマージンを取るのかよ…。しかも値段のところはシールで訂正した跡が。値上げしたのかよ!。洗面台と通路のしきりはすだれになっていた。これはかなり斬新。

川内の次の出水でも大量に下車し、車内はがらがらに。その次の新水俣は2面3線の国鉄型配線。在来線ならともかく、新幹線でこのような配線の駅は珍しい。ネット上の書き込みで、九州新幹線全通後は新水俣が上りの待避駅、新八代が下りの待避駅となるということらしいが、どうなのだろうか。

トンネル内を駆け抜けた新幹線は、鹿児島中央から40分あまりで新八代に到着。新幹線はここが終点だが、車内放送では終点とは言わない。新八代も2面3線の駅だが、現在は島式ホームのみを利用し、しかもその片方は在来線の博多行きリレーつばめ号のホーム。新八代で乗客の大半はこのリレーつばめに乗車したが、私は乗車しないので、新幹線の写真や駅の写真を撮った。

写真撮影後、改札を出た。在来線とは全く別の改札になっており、リレーつばめ号以外の在来線列車に乗るには、改札を出て、橋上駅舎となっている在来線の改札へと行かねばならない。新八代駅自体、新幹線開業に伴いできた駅なので、駅前には何もない。在来線の駅も、いかにも最近造りましたよという感じの漂う2線相対式ホーム。だが肥薩おれんじ鉄道の列車の一部がここまで来るので、引き込み線がある。

新幹線の駅の観光案内所やキオスクで時間を潰し、8時40分過ぎに在来線の駅へ。8時51分に人吉行きの特急くまがわ1号が入ってきた。

2.新八代→人吉

特急くまがわ1号はキハ185系の2連。九州横断特急と兼用の真っ赤な電車。そのため、車両全面の幕は「九州横断特急」となっていた。列車は次の八代から肥薩線へ入っていくのだが、昨日乗った肥薩おれんじ鉄道(旧鹿児島本線)は肥薩線の線路をまたいでいく。八代から鹿児島への鉄道を敷く際、東シナ海沿いを通る線路は外国からの攻撃を受ける可能性があるということから、山の中を通っていく路線を先に敷設することが決められた。そして1909年に開通したのが現在の肥薩線で、現在の鹿児島本線・肥薩おれんじ鉄道が全通する1927年までは肥薩線が鹿児島本線を名乗っていた。おれんじ鉄道が肥薩線をまたぐというのは、おれんじ鉄道が後で作られた路線であることを意味する。

八代から人吉までは球磨川に沿って列車は走る。そのため、川を無視して真っ直ぐ進む九州自動車道とは何回も交差する。また、九州新幹線とも交差する。鎌瀬駅までは線路の進行方向右側に川があるが、それ以後、那良口駅あたりまでは進行方向左側になる。よって左側の席を陣取った。列車は新八代を出てから15分ほどで坂本駅に到着。さすが歴史のある肥薩線、重厚な感じの駅だった。列車はずっと川沿いに走る。対岸の国道219号も同様に川沿いに走る。これほどまで長距離にわたって川沿いに走る路線は珍しいのかな…。そのためか、人吉までの肥薩線は「川線」と呼ばれているそうな。人吉から先は「山線」らしい。

途中、瀬戸石駅で特急と行き違いをし、一勝地駅・渡駅に停車。一勝地は縁起のいい駅名として切符も売られているとか。縁起物の切符はあちこちで売られていて、あまりありがたみがないのだが…。列車は2連にもかかわらず車販があり、一勝地を過ぎると客室乗務員のお姉さんがごみの回収にも来る。観光特急らしく、なかなかよいサーヴィスだ。渡のあたりから人吉盆地へ入り、球磨川ともお別れ。家々が見えてくる。定刻の9時52分に人吉到着。

接続しているいさぶろう号への切符を買い求める人たちを横目に、私はくま川鉄道の乗り場へと向かった。くま川鉄道はかつては国鉄湯前線だったが、1989年に第三セクターへと転換された。元国鉄線なので駅の中で乗り換えが出来るが、せっかくなのでくま川鉄道の入り口から入ってみた。だが跨線橋を渡り、たどり着くのは人吉駅で一番奥のホーム。階段を下りたところに切符の自動券売機がおいてあるだけという素っ気なさ。ホームページで調べたら一日乗車券なるものが売られているようなので、階段の裏にある有人窓口へ行ってみたが誰もいない。中を覗いていたら「どうしました?」と係員の人が線路から声を掛けてきた。一日乗車券をくださいと言って、発行してもらった。窓口には一日乗車券の案内は一切なかった。終点湯前まで片道680円で、往復しても1000円というのはお得だから売りたくないのか。

10時9分発の湯前行き9Dは10人弱の乗客を乗せて人吉駅を出発。しばらくは肥薩線と平行して走り、分岐点に相良藩願成寺駅がある(肥薩線は駅がない)。列車は人吉盆地を東へと進み、ひたすら田園風景が続く。比較的真っ直ぐな路線だが、最高時速は60キロに制限されているようだ。肥薩おれんじ鉄道は元幹線だけあって80キロだったのだが。これで列車がクロスシートならば文句がなかったのだが、残念ながら私の乗った列車はロングシート。くま川鉄道は沿線に目立った観光地がないこともあり、高校生の利用率が高いようだ。だからロングなのは仕方がないようだ。

沿線で一番大きい免田駅で行き違いをしたが、なんとタブレット閉塞方式をとっている。駅員さんがタブレットの入った輪っかを運転士に手渡すという光景を初めて見た。かつては全国のローカル線で見られたのだが…。この免田駅で列車に乗っていた女子高生が下車し、車内は私とおばあさんだけになった。だがそのおばあさんも東多良木駅で降りてしまい、そこから終点湯前まで乗客は私だけとなった。東多良木から湯前まで何駅かあるが、どの駅でも乗客はゼロ。だが列車は丁寧に止まり、そして運転士さんはドアを開ける。

40分ほどの道のりで湯前駅に到着。駅にはくま川鉄道の職員のおばさんが私の一日乗車券をチェックした。湯前駅は駅舎も駅前も時代が昭和から止まっていた…。駅前には食堂2軒・旅館1軒・タクシー屋2軒だけ。タクシー常駐というのがすごい。コンビニを探して駅から少し離れたところを走っている国道219号沿いを歩くが、古い店しかない…。駅から歩くこと10分強、ようやくスーパーを見つけて食料を調達することが出来た。

駅に戻り、駅前で食事をして、トイレを済ませてから、さきほど私が乗ってきた折り返しの列車に乗り込む。車内に入ると運転士さんがロングシートで昼寝をしていてびっくりw。湯前11時35分発車の時点で4人乗っていた。さすがに帰りも私一人というわけにはいかないか。多良木や免田でもかなり乗ってきた。最後は人吉駅に着くまで少し昼寝。

人吉に着くとみどりの窓口でいさぶろう号の指定券を購入し、駅前をぶらつく。人吉駅弁を作っているやまぐちという会社の建物には堂々たる「汽車弁当」の文字。この「汽車弁当」の文字がある建物の1階は食堂だったが、今年か去年か(記憶があいまい)に閉店になったようだ。現在はこの建物の隣の小さな建物で駅弁を販売している。その他にもお土産屋を少し見て回った。当然焼酎がメインだが、若干日本酒も売られていた。だがここで酒を買ってしまうと、今日・明日はその瓶を持ったまま移動せねばならないので、我慢して買わず。

12時50分ぐらいに駅のキオスクで発泡酒を買って、駅構内に入った。そしていさぶろう3号の発車するホームで鮎ずしを購入。このいさぶろう3号のホームではキオスクではなく、今や全国でも数駅だけという立ち売りでの駅弁販売が行なわれている。立ち売りをしておられる方は菖蒲豊實(しょうぶ とよみ)さんという方で、非常に有名な方。鮎ずしを買った後に写真を撮らせてくれと言ったら、駅弁の入っている入れ物を台においていたのに、それをわざわざ肩からかけて、撮影に応じてくださった。今日はテレビ局の撮影も来ており、撮影時には列車の横を歩いて駅弁を売っておられた。

八代方面からの特急が着いた12時55分ごろにいさぶろう3号が入線してきた。いよいよ今回の旅のハイライト、肥薩線ループ・スイッチバック区間の旅が始まる。

3.人吉→吉松

肥薩線の人吉から吉松までの区間は矢岳越えとよばれる峠越えの区間となる。今であればトンネルで突き抜けるのだが(実際に九州自動車道は6キロ以上の長さを誇る加久藤トンネルで峠を越える)、肥薩線はスイッチバックやループなどを使って越えてゆく。沿線は人口が少ないが、このような昔の鉄道技術の粋を集めて作られた路線自体や、矢岳峠から見えるすばらしい景色を売りにして、1日2往復の観光列車が運転されている。それが「いさぶろう」号と「しんぺい」号。列車はキハ47とキハ140の2連だが、車内は大幅に改造されており、向かい合わせのボックス席の真ん中にテーブルが備わっていて、フリースペースも充実されている。だがフリースペース以外は全て指定席。時刻表には座席表が載っているので、進行方向左側で、進行方向向きの席を取った。

列車は午後1時2分に人吉駅を発車。駅弁立ち売りの菖蒲さんと、菖蒲さんを撮影していたテレビ局の人が見送ってくれた。発車後はテープによる案内放送が流れ、また車内に取り付けられたテレビが運転席からの映像を写してくれる。鮎ずしをほおばりながら、案内放送に耳を傾ける。鮎ずしは1匹の鮎を2枚におろし、それがご飯の上に載っていて、頭から尻尾まで全部食べられる。駅弁にしては珍しく、プラスチックの折に入っているので、持ち帰ろうと思えば持ち帰れるのがよい。

人吉から少し進んでくま川鉄道と分かれ、ゆっくり進んで1時19分に大畑(おこば)駅に到着。スイッチバックのために作られた駅なので、周りには何も無い。だが古い駅舎が残っており、構内も広く、往時の様子が分かる。停車時間は7分ということなので、走り回って写真を撮りまくる。

大畑駅を出発した列車は、列車がやってきた方向に戻り、スイッチバックでより高いところへと走ってゆく。鉄道は車輪と線路の摩擦が少なく、急勾配だと車輪が空転してしまう。そのため、一旦平らなところ(この場合だと大畑駅)で一旦止まり、反転して勾配を登ってゆく。トンネルを掘る技術のなかった時代はこのような面倒な方法で峠を越えていくしかなかった。また、蒸気機関車が運転されていた時代は、トンネルは煙が充満するので、できるだけ避けたいものであったというのも理由になる。

大畑駅を出て少しすると、スイッチバックの終点に着く。ここでまた反転し、山を登ってゆく。スイッチバックを終えた列車はループ線に入る。ループ線は名前のとおり、ぐるっと一周している線路。山の勾配がゆるいところを回ることによって、少しでも線路の勾配がゆるくなるようにしている。だがそれでも最大勾配は30.3パーミル(1000メートル進む間に30.3メートル登っている)で、鉄道としてはかなり急勾配。ただいまループ線を通っていますという放送が入るが、たしかに線路が曲がっているのは分かるがあまりループ線という実感が無い。ループ線を1周したところで列車が止まり、ループ線を終えましたと放送が入った。

ループを終えてからも列車は唸り声を上げながら進んで行き、大畑駅発車から25分で、峠の頂点である矢岳駅に着いた。矢岳駅の標高は536.9メートル。人吉が106.6メートルなので、列車は45分ほどで400メートル以上も登ってきたことになる。ケーブルカーならいざ知らず、一般の列車がここまで登るというのは相当なもの。矢岳駅はかつては列車の行き違いなどが行われていたようだが、現在はただの棒線駅。駅舎は大畑と同じくかなり古い駅で、元の車庫には蒸気機関車D51が静態保存されていた。車庫には2両分とめられるスペースがあるが、もう片方には長らくSLあそBOYで使われてきた蒸気機関車58654が止まっていたそうな。あそBOYは蒸機の老朽化によって運行中止になるが、運行中止後はまた58654は矢岳駅に戻ってくるのだろうか。矢岳駅でも7分停車し、写真を撮りまくった。

矢岳駅を出た列車はすぐに矢岳第一トンネルに入る。矢岳第一トンネルは総延長が2キロを越え、肥薩線内最長のトンネル。勾配がきつく、物資の運搬が困難などの条件が重なって、非常に難工事となったようだ。開通した時に、当時の鉄道関係の責任者であった逓信大臣山縣伊三郎が、矢岳トンネルの人吉方に「天険若夷」という石額を、鉄道院総裁後藤新平が吉松方に「引重致遠」という石額を坑口に掲げた。これにちなんで、「天険若夷」に向かって走る吉松行きが「いさぶろう」号、「引重致遠」に向かって走る人吉行きが「しんぺい」号と名づけられた。矢岳第一トンネルを抜けたところで列車が止まり、「引重致遠」の解説がなされた。

この場所からもすばらしい景色が見えたのだが、ここから少し進んで、最もよく景色の見える場所で列車が止まった。ここからはえびの高原や霧島連峰がが一望できる。この場所は根室本線の狩勝峠・篠ノ井線の姨捨と並んで、日本三大車窓と称される。だが狩勝峠は1966年に新狩勝トンネルが開通して線路の付け替えが行われ、もはや幻の車窓。

ここでは「日本一の車窓」という看板が立っていた。篠ノ井線には乗ったことがないのでよく分からないが、日本一の名前は決して嘘・大げさ・まぎらわしいではないと思った。ここでも写真をいっぱい撮った。ここを出発した列車は、先ほどまでとはうってかわって、ものすごいスピードで坂を下って真幸駅へと向かう。スピードメーターを見たら時速80キロを出していた。いくら改造車とはいえ、もとが古い列車なので、体感速度は80キロ以上で、むしろ怖いとさえ感じる速度だった。

真幸駅もスイッチバックの駅なので、一旦駅より高いところを通過し、スイッチバックの引込み線に停車。そして反転して真幸駅に入る。真の幸せということで記念切符もあり(人吉駅で販売)、また「幸せの鐘」というものもある。ここでは停車時間が3分ということなので、急いで写真を撮って車内に戻った。ここで一番の見所が終了。

真幸駅を出た列車は、また逆方向に進み、吉松駅を目指す。真幸を出てしばらく進むと、山の神第2トンネルの前で停車する。太平洋戦争終結直後、吉松から人吉へ向かっていた列車がこのトンネル内で立ち往生した。煙で苦しくなった復員兵士がトンネルの外に出て吉松方面へ戻ろうとしたところ、列車が逆そうして50人以上が轢死・酸欠死したらしい。現代のトンネルではところどころに避難所があるが、古い肥薩線のトンネルにはそのような設備は無い。また、トンネルも列車がぎりぎり通れるほどのスペースしかないので、このような惨事になったのだろう…。慰霊碑を見てから列車がまた進みだした。

このトンネルを過ぎてしばらく進むと、都城からやってくる吉都線が見えてくる。しばらく吉都線と並行して走り、列車は終点の吉松駅に到着。ここで30分ほど待つと特急はやとの風がやってくるのだが、せっかくだから鈍行に乗ろうと思い、いさぶろう到着の5分後に出る隼人行き4233Dに乗車。だがこれが色々な意味で失敗だった…。

4.吉松→鹿児島中央

隼人行きの列車はキハ140の単行。やはり田舎の旅はボックス席じゃないとねえ、などと思っていると、帽子をいさぶろう号の中におき忘れてきたことに気づいた…。特急に乗るのであれば、吉松駅で30分ほど滞在するので、その間に帽子を忘れたことに気づいていたかもしれないのに…。というわけでしばし呆然となり、かつて山野線が分岐していた栗野駅をきちんと見るのを忘れた…。だがここで特急はやとの風とすれ違った。

元々明日夕方に吉松駅に行く予定だったので、帽子を取りに行くことはできたのだが、なんとか予定より早く取りにいけないものかと時刻表とにらめっこするが、結局良いプランを立てることができなかった。

そうやっているうちに、列車は築100年の駅、嘉例川駅に到着していた。列車はすぐに発車してしまうので、降りることは出来ないが、詰襟の服を着たおじいさんを見ることが出来た。この人はこの駅の名誉駅長である福本 平さん。テレビにもたびたび出てくる有名な人。ちなみに特急はやとの風に乗っていると嘉例川で5分以上止まるので、駅に降りることが出来た…。はやとの風はキハ40の改造車ということでも有名なので、こちらに乗っておけばよかった…。

肥薩線の吉松−隼人間もかなり山の中を通るが、かつての本線だけあって行き違いの出来る駅が多い。吉松から50分ほどで終点隼人駅に到着。隼人では10分ほどの待ち合わせで、鹿児島中央行き6951Mに乗車。列車は717系の2連。車端部は全部ロングシートで、クロスシートは車両の真ん中に少ししかない。だがうまくボックス席を確保できたので、鹿児島中央までずっと寝ていた。

鹿児島中央では駅員さんに帽子のことを言って、吉松駅に電話をかけてもらった。そうすると駅で預かっているということなので、明日取りに行くと伝えた。この時に私と応対してくれた駅員のお姉さんの発音はものすごい鹿児島訛りだった…。隣村と言葉が違うとまで言われる薩摩弁だが、若い人の話す言葉は標準語に近く、イントネーションだけが違う。年寄りの喋る薩摩弁は外国語らしいが…。薩摩言葉といえば、かせいしもんそという合同企業面接会のポスターがあちこちに貼られていたのだが、「しもんそ」は「しましょう」の意味だから、「加勢しましょう」ということなのだろうか…。

鹿児島中央でのやり取りの後、またホームに戻り、4時21分発の川内行き2452Mに乗車。昨日、伊集院からバスに乗ったため、鹿児島中央−伊集院間を乗っていなかったからだ。夕方なので車内は高校生で満員。といってもつり革を充分つかめる程度だったので、817系2連で充分か。鹿児島中央と東市来の間は複線となっている。

鹿児島中央から20分ほどで伊集院に到着。下車した高校生はみんな改札に向かうが、私は鹿児島中央へ戻る列車を待った。待っている間に貨物列車が通過していった。伊集院では10分ほどの待ち合わせで、鹿児島中央行き2457Mが入ってきた。こちらはすいていた。

鹿児島中央には5時過ぎに到着。アミュプラザをしばしぶらつき、6時前に中央駅前電停へ行き、市電に乗った。中央駅の3つ先の高見馬場電停で下車し、繁華街を少しぶらつく。そして行ったのはこむらさきという店。All Aboutによれば、熊本・宮崎にもこむらさきというラーメン屋があるが、それぞれ無関係らしい。なんと紛らわしい…。ここのラーメンは細切りキャベツが乗っている。キャベツ入りは珍しい。

帰りは腹ごなしのために鹿児島中央駅まで歩いた。だが距離にして1キロ強なので20分もかからなかった。途中、高見橋の上に大久保利通の銅像があった。鹿児島中央駅前には大阪商工会議所初代会頭にもなった五代友厚などの「若き薩摩の群像」という銅像もある。こういうのを見ると薩摩に来たんだなあと思う。

今日もダイエーで焼酎と発泡酒を買い、午後8時前にホテルに戻った。昨日の焼酎が少し残っていたので、今日は350mlぐらい飲んだことになるのか…。酒がなくなった後、ローソンで「くいな飯」という奄美地方の雑炊のようなものを食べた。今日も11時前に就寝。

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