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旅行記 フランス篇


2000年3月25日から4月3日までのヨーロッパ旅行の記録
1.プロローグ・ドイツ篇  →  2.スイス・リヒテンシュタイン篇  → 3.フランス篇 →  4.イギリス篇・エピローグ

11時10分、約4時間の行程を経て、パリのリヨン駅に到着した。パリには中央駅がなく、このリヨン駅や北駅、東駅などの独立したターミナルが多数ある。これらのターミナル同士を結ぶ交通機関がないので、ターミナルの移動にはバスや地下鉄を利用しなければならない。ここからバスに乗って昼食場所へ向かう。昼食場所は東駅近くのレストラン。エスカルゴを食べた。歯ごたえなどは他の貝類とあまり変わらなかった。なかなかの味であった。

昼食後はフランス人のガイドと一緒に市内観光。ガイドさんは30歳代後半ぐらいの男性、日本に5年ほど暮らしていたらしく、たどたどしさがありながらも日本語でガイドしてくれた。とても感じのいい人であった。最初に行ったのがノートルダム大聖堂。ここで20フランスフラン(1フランスフランは15円から20円)の2000年記念メダルを2種類購入(当時はまだユーロが導入されていなかった)。やはりヨーロッパの方が日本より2000年記念のグッズが多く売られている。この聖堂の前にパリの道路の起点、日本で言えば東京の日本橋に当たる点がある。その後は買い物。一つのショッピングビルのフロアごとに国が違い、3階が日本人用のフロアであった。

その後はバスでルイ16世などが処刑されたコンコルド広場(ここに異様な速さで回る観覧車があった)・シャンゼリゼ通りを通って凱旋門(凱旋門から12本の道路が放射状に伸びており、門の周りを右回りに回って別の道路へ入る)・エッフェル塔の横を通った。エッフェル塔はパリ万博のためにつくられたというのは有名だが、当初は万博終了後に取り壊す予定だったらしい。ところがその当時通信技術が発達し、エッフェル塔が電波塔に適していることから電波塔として使われることになったそうだ。バスに乗って気づいたのだが、バス停の3つか4つに1つには、ポケモンの映画の広告がある。また、パリの町の建物(省庁や大統領官邸などの公共機関から店・レストランなど)はほとんど数百年前に建てられた石造りの建物がそのまま使われている。また、細い道路が多く、一方通行になっていて、しかも交差点が多いのですぐ赤信号にひっかかる。車が多く、ごみごみしている。花の都と言われる割にはさほど美しい感じがしなかった。

これらの主要な建物の横を通り、宿泊するオテルニッコー(フランス語では単語の頭のHを発音しないので、ホテルはオテルとなる)に着いた。このホテルはセーヌ川に面しており、川の向かい側にフランスの国営ラジオ局が、そばの中洲にはアメリカから送られた自由の女神像のミニチュア版(かなり小さい)があった。これは本体のあるニューヨークを向いている。このホテルは名前のとおり、日航が経営しているホテルで、宿泊客の過半数が日本人。だからフロントにも日本人がいるし、室内の案内書きにも日本語が書いてある。1日目から3日目のホテルには英語の案内書きがあったが、ボロホテルにはフランス語しか書いていなかった。また、日本の海外放送もテレビで見られた。ここで見たNHKのニュースで、初めて北海道の有珠山が噴火しかけていることを知った。また、フロントで新聞を買った。新聞のデータは通信衛星を使ってヨーロッパに送られ、ヨーロッパの印刷所で印刷される。だから日本とほぼ同じ時間に新聞が読める。だが高い。22フラン(約400円)もした。

一旦ホテルを出て、夕食はリヨン駅近くのレストランへ行った。デザートはストロベリージャムがたっぷりかかっていて、気持ちが悪くなるぐらい甘かった。食事の最中にフランス人の女の子が10人ぐらい入ってきた。それがうるさいうるさかった。

30日は7時半に起床、朝食を食べに行くがとても混んでいた。この日は前日のガイドと一緒にヴェルサイユ宮殿へ行った。これはフランス絶対王政全盛期のルイ14世が建てた宮殿で、もとは狩りをする時の館であった。宮殿はとても大きく、荘厳な感じがした。中もとても広いが、かなり混んでいたので数時間見ただけなのにかなり疲れた。

パリに戻って昼食。その最中に外で爆竹のような音がして、騒がしくなった。何事かと思い、外を見てみると、デモらしきものが行われていた。しかし昼食が終わったころにはデモも終わっていた。昼食後は三越の前で解散、自由行動となった。まずは15分ほど歩いてルーブル美術館へ向かう。入場料は45フラン(約850円)だが午後3時以降に入場した場合は26フラン(約500円弱)、18歳未満は無料だが、入場券売場で私と弟の2人が18歳未満だと言うとパスポートを見せろと言われた。パスポートは父が腹に巻けるパスポート入れに入れており、簡単に出せなかったので結局2人とも45フランを払うはめになってしまった。フランス人は英語を嫌っており、フランス語の表記しかないところが多い。この美術館も例外ではなく、展示物の説明もすべてフランス語だけであった。時間がなかったのでほとんど見られなかったが、まずはモナリザを見に行った。モナリザのところには人だかりができているのですぐに分かった。絵画は普通むきだしで展示されているのだが、モナリザだけはケースに入っていた。次にミロのビーナスを見た。こちらはあまり人がいなかった。これはよく世界史の教科書などにのっているのだが、横や後ろがどうなっているか気になっていた。だから前・両横・後ろの4面の写真を撮った。最後にハンムラビ法典を見に行った。かなり大きい石であった。結局、この3つだけ見てルーブルを後にした。

その後メトロ(パリの地下鉄の名称・今は東京メトロがあるから一般的になったか…に乗った。メトロはいくら乗っても均一料金(8フラン、約150円)。10枚綴りの回数券は55フラン(約1000円弱)なのでそちらを買う。切符は入るときに自動改札に通すだけで、出る時には要らない。列車は数分おきにくるが、駅でも車内でも案内放送は一切ない。きちんと駅名を見ておかないと乗り過ごしてしまう。凱旋門近くのメトロ駅で降り、親の買い物を見に行く。その後、その店の近くにあるカフェでホットドッグを食べた。注文してから店の人が隣のパン屋へパンを買いに行き、大丈夫かと心配したがとてもうまかった。30フラン(500円強)という値段もよかった。その後メトロに乗って高島屋へ行った。1時間ほど両親の買い物を待った後、メトロを2本乗り、ホテルの最寄り駅に戻った。その途中の駅で何か放送をしていた。事故だろうかと思っていると向かい側に座っていた女の人が8時から10時まで電車が運休するのだと教えてくれた(英語で。聞き取るのに苦労した)。こんな時間帯に運休するというのは日本では考えられない。

そして駅についてから、ガイドさんに教えてもらったレストランへ夕食を食べに行く途中、中華料理屋の前でその店の人が「ニーハオ」と話しかけてきた。「No, I am Japanese!」と言ってやろうかと思った。これ以外にも中国人に間違えられたことが数度あった。夕食はかなりうまかった。その後ホテルに戻る途中に立ち寄ったお土産屋の人の日本語がうまかった(日本人の友達がいるとのこと)。また、その後交差点で信号待ちをしていると、そこにあったホットドッグ屋さんが「食べる?」や「超おいしー」と言ってきた。パリにはおもしろい人が多い。

3月31日は6時半に起床。火山が噴火したようだ。7時にレストランが開き、7時25分に集合だったのでゆっくりと朝食が取れなかった。その後バスに乗ってイギリスへ向かうユーロスターに乗る北駅へ向かった。パリのタクシーは行き先を言っても「知らない」などと言われたり、法外な料金をとられたり、訳の分からない所へ連れて行かれたりすることが多い。ツアーの人の中にも、高い料金をとられた人がいた。

北駅のユーロスター待合室は2階にあった。ユーロスターはイギリスへ行くというのに、時刻表などもフランス語しか書いていなかった。ユーロスターも座席を反転することができなかったが、座ったのはたまたま進行方向だったので良かった。ユーロスターはTGVと違い、速かったが、ほとんど寝ていた。そのせいで楽しみにしていたドーバー海峡トンネルも知らない間に通り過ぎていた。

フランス篇終

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