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通り紹介

江戸時代からみられる。開通時期は不明。由来は上御霊神社の前を通っている事による。屈折が多く、1つの通りとは認識しにくい通りである。


豊臣秀吉の京都市街地改造によって開通。秀吉がこの通り沿いに寺院を集結させたことによる。


中世後期に開通し、毘沙門堂大路と呼ばれていた。特に室町通との交差点は立売ノ辻として賑わいを見せていた。応仁・文明の乱による荒廃後、豊臣秀吉の京都市街地改造によって再開。名前の由来は呉羽屋が立ち売りををしていたことによる。


開通年月は不明。応仁の乱以前の絵図には記述がある。後鳥羽上皇の院御所・五辻殿や藤原成親の五辻第、鳥羽天皇皇女五辻斎院などが平安末期から鎌倉時代にかけてこの辺りにあったので、五辻の名は早くからあったものと考えられる。


開通時期は不明。下鴨神社の御蔭祭の神幸の道筋であったことから名がついた。御影祭典道という別称もあった。


中世の北小路にあたる。東洞院大路との交差点以東、東京極大路まで、この道路の北川に今出川という川が流れていたため江戸期以降、今出川通と呼ばれるようになった。近世は新町通−鴨川間だったが、現在は鴨東の東今出川通、西の旧・須磨町通とつながり、七本松通との交差点から南に斜行して西大路に合流する。鴨東では今でも東今出川通の名前が使われる。正式には鹿ケ谷通までであるが、行き止まりは銀閣である。


平安時代の近衛大路とほぼ同じ位置にあるが、鴨東地域のみの道路。洛中で平安時代の近衛大路に相当する道路は出水通。明治初期までは志賀越道の南にある農道にすぎなかったが、京都帝国大学・第三高等学校が開校してから整備された。


享保19年に作られた二条新地の北限線。名称は平安京の春日小路にあたる丸太町通の北に位置することによる。東大路以東を春日北通、以西を春日上通と称すが、両方とも全線に使われる事も多い。東大路通以西は京大病院の南端である。


開通時期は不明。名称は川端通のそばにある頂妙寺の仁王門にちなみ、大仏仁王門通ともいう。東大路以西の道幅が約5メートルに対して、東大路以東が約28メートルなのは、明治45年に市電東山線の軌道敷設のために拡幅・延長をしたためである。


知恩院古門前通ともいう。慶長8年の開通。新門前通があとでできたので「古」がついたのだろう。名称は浄土宗総本山知恩院による。


知恩院新門前通ともいう。寛永年間の開通。古門前通よりあとにできたので「新」がついたのだろう。名称は浄土宗総本山知恩院による。


寛永年間開通。由来は白川にかかる橋の名前による。国の伝統的建造物群保存地区に指定されており、石畳の道でお茶屋が並ぶ。


白川に沿って通っている通り。新橋通沿いと共に国の伝統的建造物群保存地区に指定されており、石畳の道で料亭や旅館が並ぶ。


もともとは宮川町筋1町目と2町目の間を東西に抜ける辻子だった。宮川町の開設後に開通した。東端には祇園甲部歌舞練場やウインズ京都がある。


五条通の北側にある。江戸時代は垣町通とも書いた。六波羅密寺の横を通っている。洛中では万寿寺通にあたる。


昭和初期に市街地の拡大に応じて考えられた都市計画道路の1つ。着工されたのは第2次大戦後。昭和30年代に徐々に東に延ばされ、昭和61年に修学院駅前を走っている白川通まで達した。


都市計画によって作られた通り。大正12年、烏丸今出川以北への市電延伸に伴い、北大路橋-室町通間が完成。以後延伸を続け、昭和10年全通。


鞍馬口通(くらまぐちどおり)  西大路通−賀茂川
東鞍馬口通(ひがしくらまぐちどおり)  賀茂川−白川通
開通時期は不明。由来は鞍馬へと続く道であることによる。賀茂川にかかる出雲路橋以東は東鞍馬口通と呼ばれる。


開通時期は不明。現在京都府立医大の近くにある盧山寺がこの通りの大宮西入にあったことによる。


中世の今小路にあたると思われる。応仁・文明の乱による荒廃後、豊臣秀吉の京都市街地改造によって再開。通りの命名は誓願寺が秀吉によって京極三条に移転したあと。なお、七本松通-今出川通間では今小路通の名が残っている。


豊臣秀吉の京都市街地改造によって開通。通り名の由来は不詳。


開通年月は不明。応仁の乱以前の絵図にこの通りが描かれているので古い。由来も不詳。江戸時代は無車小路という別名もあった。


一条通(いちじょうどおり)  七本松通−烏丸通
東一条通(ひがしいちじょうどおり)  川端通−吉田神社前
平安京の一条大路にあたる。当時から様々な祭の行列を見るための桟敷がよく作られた。都の拡大後も洛中と洛外の境となっていた。中世、一条室町の交差点は「一条札の辻」と呼ばれ、江戸時代前半までは京都の道路の起点であった。一条通と離れているが、鴨川以東のほぼ同緯度にあるのが東一条通で、東大路通以東は京都大学のキャンパスを横断する。


平安京の正親町小路(おおぎまちこうじ)にあたる。現在も正親町通ともいう。由来は上立売通と同じ。


平安京の土御門大路にあたる。現在でも土御門通・上東門(じょうとうもん)通という異称がある。天正年間にこの通り沿いに貨幣の兌換や金・穀物を調達する家があり、裕福であったので長者町と呼ばれるようになった。


全長400メートルほどの短い通り。由来は上長者町通とおなじ。


平安京の鷹司小路にあたる。現在でも鷹司(たかつかさ)通・新在家(しんざいけ)通ともいう。鷹司通の由来はこの通りのそばに鷹司殿があったことによる。初めは寺町通まで通っていたが、宝永5年(1708)の皇居拡張によって烏丸通以東がなくなった。


出水通(でみずどおり)  七本松通−烏丸通
荒神口通(こうじんぐちどおり)  寺町通−鴨川
平安京の近衛大路にあたる。出水の由来はこの通りの烏丸通との交差点付近で湧き水があり、時には道路に浸水した事による。現在でも近衛通と呼ぶ事があるが、現在は 川端通−吉田東通間 のみをさすのが一般的である。なお、この道路の東側の延長上にある寺町通−鴨川間の道路は荒神口通という。


平安京の勘解由小路(かげゆこうじ)にあたる。現在でも勘解由小路通(かでのこうじどおり)ともいう。下立売の名の由来は上立売・中立売と同じ。江戸時代から見られる。


平安京の中御門大路にあたる。よって現在でも中御門通・上魚棚通の異称がある。椹木町の名の由来は椹木を扱う材木やが多かったことによる。初めは寺町通まで通っていたが、宝永5年(1708)の皇居拡張によって烏丸通以東がなくなった。


平安時代の春日小路にあたる。通り沿いの西堀川に丸太の材木屋が多くあったため、江戸時代頃から現在の名称が使われるようになった。鴨東は18世紀前半に整備。明治16年に丸太町橋完成。明治26年に熊野神社境内を貫く道路が完成。明治45年に松屋町通から北に上る道路が完成。妙心寺の前から西は新丸太町通と呼ばれている。


平安京の大炊御門(おおいのみかど)大路(郁芳門通)にあたる。応仁・文明の乱で荒廃し、豊臣秀吉の市街地改造までは上京・下京の境で人家もまばらであった。江戸時代には竹屋町通と旧名の大炊通が併用されていた。鴨東地域では東竹屋町通とも言う。


夷川通(えびすがわどおり) 堀川−鴨川西岸
冷泉通(れいせんどおり) 川端通−哲学の道
平安京の冷泉(れいぜい)小路にあたる。名前の由来は、昔流れていた西洞院川の支流のごく一部を夷川と称していたことによる。応仁・文明の乱で荒廃し、豊臣秀吉の市街地改造までは上京・下京の境で人家もまばらであった。江戸時代でも冷泉通の名と併用されていた。現在でも鴨東地域では冷泉通の名が使われているが、「れいせんどおり」と読む。


平安京の二条大路にあたる。平安時代は道幅が17丈で、朱雀大路に次ぐ広さであった。これは大内裏以北と以南を隔絶するためである。大内裏に近い事から上流貴族の邸宅が軒を連ねていた。応仁・文明の乱による荒廃後は上京と下京のそれぞれ独立した集落のちょうど中間に位置し、人家もまばらであったが、足利氏の遺臣原三郎右衛門と林与次兵衛が二条通周辺に遊郭を設けたが、二条城建設時に移転させられた。二条城建設によって二条通は城の大手筋的性格を持つと、次第に町家も建つようになった。


平安京の押小路にあたる。貴族の邸宅が多く、後には武家屋敷街になった。応仁・文明の乱による荒廃後、天正年間(16世紀後半)に再開したが、烏丸通以西の開通は宝永年間(18世紀初頭)である。


平安京の三条坊門通にあたる。高倉御池東入にある御所八幡より、烏丸通以東は八幡町通とも称した。御池通の名称は二条城の南、御池通に面している神泉苑の池よりついた。応仁・文明の乱による荒廃後、豊臣秀吉の京都市街改造によって再開されたが、江戸時代になっても三条坊門通と御池通の名前が併用された。昭和20年の建物強制疎開によって南側に拡張し、戦後は京都の幹線道路になった。正式な御池通は千本通までだが御前-六軒町間も俗称で御池通と呼ばれる。


平安時代の姉小路にあたる。応仁・文明の乱による荒廃後、天正年間(16世紀後半)に再開。


平安時代の三条大路にあたる。


平安京の六角小路にあたる。中世には下京町衆の評議の場所となった頂法寺(六角東洞院)の東堂が六角形であることから六角という名がついた。また、この道の東端に誓願寺があることから、かつては両方の名前が使われていた。江戸時代には大名屋敷や牢屋敷が並んでいた。


平安京の四条坊門通にあたる。1591年、浄土宗の永福寺(蛸薬師)が室町二条下ルから現在の新京極蛸薬師東入に移転してからこの通りが蛸薬師通と呼ばれるようになったのだろうが、いつ頃名前が変わったのかは不明である。「蛸薬師」の由来は こちら で。


平安京の錦小路にあたる。名前の由来は宇治拾遺物語に次のようにある。

10世紀の半ば頃、清徳という人がおり、母親が死んだ後、愛宕山の上で3年の間ずっと念仏を唱え続けた。すると母の「念仏のお陰で私は仏になりました」の声が聞こえた。それを聞いて清徳は安心して山を下りた。
その後この人は農民から1石の米をもらっても全部平らげてしまった。これを聞いた右大臣が米10石を施行したところ、清徳の尻に餓鬼や畜生や動物が数万とついており、それが全て食べてしまった。しかも右大臣以外の人には見えなかった。
すっかり食い終わった後、この数万の動物が一斉四条大路の北の道路でに用を足したので一面糞だらけ。よって"糞小路"と呼ばれるようになった。
それを聞いた帝が「四条の南の小路は何と言うのか」と問うと「綾小路と申します」と臣下が答えたので、「それならばそこを錦小路と呼ぼう。糞小路では汚すぎる」と言って以来、錦小路と言うようになった。

しかし平安末期の文献には「具足小路を天喜2年に錦小路と改称した」とある。恐らく具足小路がなまって糞小路となったのであろうが、別の文献には「糞小路を天喜2年に錦小路に改称」とあるので、改称当時は糞小路の別名もあったのかもしれない。
錦小路の名の由来は、大和錦の織物を作る人が住んでいたからだという説がある。江戸初期から自然と魚商などが住むようになり、現在のような市場が形成された。


平安京の四条大路にあたる。平安時代後半にはこの通りを境に以北は人家が密集した様子が当時の本に書かれている。祇園祭もこの通りを中心に展開されていた。寛文年間(17世紀後半)に祇園町が開かれると、鴨東地域も栄えるようになった。


平安京の綾小路にあたる。名称の由来は綾を織る人が多く住んでいたというものがあるが、定かではない。中世になると寺院が立ち始めたが、豊臣秀吉の京都市街地改造で寺町通に移転していった。新撰組が誕生した八木邸は坊城通綾小路下ルにある。


平安京の五条坊門通にあたる。天正14(1586)年、豊臣秀吉が方広寺を作るにあたり、東山渋谷から仏光寺が現在の位置に移転してから仏光寺通と呼ばれるようになった。だが五条坊門通の名前は近世になっても使われていた。


平安京の高辻小路にあたる。近世はこちらを仏光寺通、現在の仏光寺通を旧名の五条坊門通と呼ぶこともあった。江戸時代は壬生通までであった。江戸中期までは柳馬場通から東洞院通にかけて藪があったことから藪の下通とよばれることもあった。


平安京の五条大路にあたる。東端が清水寺に突き当たるの早期から栄えた。応仁の乱で荒廃し、豊臣秀吉が六条坊門小路に五条大橋をかけてから現在の五条通に繁栄を奪われた。由来は玉津島神社の並木の松のみがあったことによる。また応仁の乱以前の景観を描いたとされる絵にも松原通に面して待つ並木があったようだ。近世に入ったから五条松原通といった言い方がされるようになり、次第に松原の名前が定着していった。


平安京の樋口小路にあたる。この通りの柳馬場通西入に万寿寺という寺があったから万寿寺通と呼ばれるようになった。この万寿寺は後に東福寺の境内に移転した。現在の名前は近世には一般的に使われるようになった。


平安京の六条坊門小路にあたる。豊臣秀吉が伏見街道沿いに方広寺、豊国神社を建てた時、それらと洛中を直結するために旧来の五条大橋を六条坊門通に架けかえたことから六条坊門通が五条通と言われるようになった。伏見街道を旧・五条通(現・松原通)まで延長しなかったのは、現在の五条通の西端に織田信長の時代以来、陣所となった本圀寺があたことによると言われているが詳細は不明。
また、通りの呼び名も「大仏橋通」「五条橋通」「橋通」などと色々あった。宝暦2年(1762)刊の「京町鑑」には「五条橋通と言われていたのがいつの間にか五条通と言うようになった」とあり、当時としてもはっきりとした区別はなかったようだ。
太平洋戦争末期の建物強制疎開によって拡幅され、山科-東山の五条バイパスが完成して国道1号が五条通に移ってからは、完全に京都の中心的道路の役割を果たすようになった。


平安京の揚梅(やまもも)小路にあたる。東中筋通以西では中堂寺通とよばれ、千本通まで通じている。かつては雪踏屋町通の異称もあった。こちらは雪踏屋が多くあったことによる。横諏訪町通という名称もあった。


開通時期・由来ともに不詳。17世紀の文献には記述が見られないが18世紀には見られるのでその頃の開通かと思われる。


開通時期も由来も不明。この区域には17世紀前半に六条三筋町があったことから、三筋町開設の際に開かれたものであろう。別に諏訪町通(すわんちょうどおり)とも称したが、これはこの通り沿いに諏訪神社があったことにやると考えられる。


平安京の六条大路にあたる。応仁・文明の乱で荒廃後、天正期に再開した時には真っ直ぐな道路ではなく、ずれた道になった。江戸時代、この通りは東本願寺内町域では魚棚通と呼ばれていた。下魚棚通から魚屋が移ってきたためである。しかし明治になると魚屋は廃れていった。


平安京の左女牛(さめうし)小路にあたる。近世には籠屋町通・万年寺通・花屋町通の3つの通りが少しずつずれて存在していたが、このうち花屋町通は上数珠屋町と合わせて左女牛通といわれたり、万年寺通の一部とみなされたりしていた。明治になって万年寺通が延長され、花屋町通と改称すると、以前からの花屋町通は旧花屋町通と言われるようになり、現在でも新しく開通した方は新花屋町通と言われることもある。


渉成園(枳穀邸)の北側にある通り。由来不詳。「京町鑑」には佐女牛通という別称が載っているが、これも由来不詳。


正面通(しょうめんどおり) 大和大路−丹波口
中数珠屋町通(なかじゅずやまちどおり) 烏丸通−間之町通
平安時代の七条坊門小路とほぼ同じ位置にある。方広寺大仏の正面につきあたるので江戸時代から正面通と言われるようになった。途中渉成園・東本願寺・西本願寺によって分断される。東本願寺-渉成園間は中数珠屋町通と呼ばれる。


下数珠屋町通(しもじゅずやまちどおり)  烏丸通−三ノ宮通
北小路通(きたこうじどおり) 佐井西通−新千本通・千本通−大宮通・堀川通−新町通 JR山陰線と西本願寺で中断
平安京の北小路にあたる。平安京の官設市場の中央を通っており、一筋南の七条大路と並んで経済道路として重要な役割を果たしていた。応仁の乱で荒廃したが、天正年間に大宮通以東が開通した。正式には新町通以西を北小路通、烏丸通以東を下数珠屋通というが、両方を含めて下数珠屋通ともいう。北小路通・下数珠屋通の間には東本願寺がある。


平安京の七条大路にあたる。平安京の官設市場である東西市は七条大路に面して、栄えていた。応仁・文明の乱による衰退後、天正年間に再開して再び重要な街道となった。五条通が拡幅されるまでは国道9号線となっていた。


開通時期は不明。由来は慶長時代以降、このあたりに魚屋があったことによるが、後に魚棚通(六条通)に移った。だが通りの名前だけは残った。


平安京の塩小路にあたる。木津屋橋の名の由来は不詳だが、生酢屋橋という表記もあり、こちらは酢を商う家が多かった事による。


平安京の八条坊門小路とほぼ同じ位置にある。平安時代にあった塩小路通は現在の木津屋橋通にあたる。昔は三哲通という別名があり、通りの手鞠歌で「六条 三哲 通りすぎ〜」というフレーズがある。六条河原院に築かれた塩竃に入れる海水を運ぶ道であったから塩小路という名前がついたという説があるが確かではない。現在、鴨東では大仏南門通や三十三間堂南門通という名前も使われる。
京都駅の住所が烏丸塩小路下ルであるように、京都駅前の道といえば住人でなくても京都に来たことがある人には分かってもらえる道である。大きな道というイメージがあるが、河原町通以東は片側1車線になり、鴨東では一方通行の細い道になる。


平安京の八条大路にあたる。平安時代後期には平氏一族の邸宅が数多く八条大路沿いに並んでいた。近世初頭には八条通の油小路以東が御土居の外になってしまったことから、明治に入るまで市街地化しなかった。


平安京の針小路にあたる。平安時代から農村化が進んだが、東寺周辺では町が成立していた。


平安京の九条坊門小路にあたる。名称の由来はこの通りが東寺の前を通ることによる。近世までは九条坊門の名も使われた。信濃小路と呼ばれた頃もあった。


平安京の九条大路にあたる。朱雀大路との交差点には羅城門があり、その両側に東寺・西寺が作られ、王城鎮護の昨日を担っていた。応仁の乱以降は農地化され、道路としても東寺付近以外は機能しなくなった。そのため九条大路付近が「九条」という地名を名乗るようになった。壬生通−油小路通の間は国道1号、壬生通以西は国道191号として、現在も重要な役割を果たしている。市電の環状ルートとして、最後まで市電が残ったのも九条通である。




京都から南へ出る伏見街道・竹田街道・西国街道などを結ぶ道路として、大正初年に開通。昭和30年代に拡張舗装。主要道路になった。


平成14年春に命名された通り。道路自体は1960年代から整備されたもので、都市計画道路55号線であったため、かつては55号線という通称で呼ばれていた。また、鳥羽街道とも言われていたが、一般的に鳥羽街道とは羅城門から南に伸びる道のことであり、混乱をきたしていた。そこで西高瀬川をまたぐ祥鳥橋という橋がこの道路の中央部にあるので、この橋の名を取って通り名にした。




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