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「少年時代の自分に会う旅」 2004年9月

井上陽水さんの「少年時代」。この曲を聴いた人はほとんど、ジーンとしみるものがあるはずだ。それはなぜなのだろう。きっとそれぞれの「少年時代」を思い出し、その曲想や歌詞から自分の少年時代とだぶらせてしまうからなのだろうと思う。この10月で房総方面の特急が183系からついにE257系に置き換わることになった。房総方面の183系の最後の姿を見よう、撮ろうとあちらこちらでにぎわっているようだが、以前よりあちらこちらで述べているようにこの房総方面、特に外房線には少年時代からの思い入れがある。それは、電化される前より、館山や大原の海水浴場へ家族で出かけていたのだが、自分が物心ついたころに思い出に残っているのは外房の大原の海。小学生のころには毎年連れて行ってもらっていた。当時は家族で旅行なんてそんなにできる時代でもなく、年に一回の楽しみ。私の父が勤めていた会社の海の保養所が大原のひとつ隣の「三門駅」の近くにあった。といっても正確な位置などは子供だったためにはっきり記憶していたわけではない。ただ、海水浴から戻った夕方、なんとなく三門駅まで散歩に行った記憶があり、そんなに離れていないのだろうなと記憶していたにすぎない。その保養所はとても古い大きな建物で、平屋の木造の趣のある建物と古い白い洋館からなっていた。そして、芝生のとても広い庭もあった。庭の一角には林があり、そこでカブトムシを取った。海水浴から帰ってその庭で家族で夕涼みをしたりした思い出。小学生の途中より、外房線は電化され、特急「わかしお」号がそれまでの急行が両国駅を発着していたのに替わり、東京駅地下ホーム発着となり、運行されるようになった。そこで繰り返される思い出の最後の数年間はこの特急「わかしお」号が連れて行ってくれた。父も母も他界して、この思い出を語れる人ももういなくなってしまった。「少年時代」を聞く度、自分にとって思い出される光景はこの場面なのである。





房総方面183系の最後の姿を撮るときは外房線とずっと前より決めていた。
かといって、外房線の撮影地を知っているわけでもなく、有名撮影地などは
聞いたことがない。地図を見るとわかるのだが、案外海のすぐ近くを通って
いる箇所も少なく、外房の海と一緒にというわけにもいかない感じだ。
特に編成がきれいに入るとか、そんなことはどうでもよかった。「わかしお」
が思い出の中にあるように写っていれば。天気のよさそうな日を選び、
朝、新宿駅へと向かった。現在の外房線は東京駅からだと、京葉線を経由
しており、当時の路線とはだいぶ違う。そこで、「新宿わかしお」号に乗る
ことにしたのだ。こちらは土、日曜日のみの1往復の運転だが、新宿より
中央線快速の線路を進み、総武線の線路に入り、秋葉原を経由して錦糸町
手前で総武線の快速の路線に入る。当時と比較的近い線路を走る。少年時
代の自分に会うために、今回はここまで徹底した。そして、大原までの切符
を買う。

7時19分発のこの列車は7時には入線していた。やはり183系の最後の
姿を求めてきたのだろう。私と同じように写真を撮っている人が数人いた。
定刻に出発。途中秋葉原で、同じ183系国鉄色とすれ違う。こちらは同じく
新宿発となる、「新宿さざなみ」号の回送のようだ。秋葉原駅のホームか、
ホームが見渡せる場所なら、貴重な183系国鉄色が2編成まとめて見る
ことができるわけだ。きっと写真を撮っていた人がいるのだろう。総武線
快速の軌道に入ってからは、昔通ったそのままの道筋だ。違うことといえば
沿線の風景や通り過ぎる駅前の風景。そして、すれ違う列車といったところ
か。江戸川を渡り千葉県に入る。しばらくして千葉駅に到着。当然、ここは
千葉県の県庁所在地になるわけだが、皮肉なことに東京発着の列車は
通常この駅は通らない。京葉線から次に停車する駅は蘇我駅となるのだ。
そして、千葉駅を経由する列車の次の停車駅は蘇我。

ここで内房線と別れ、外房線に入る。まだまだ沿線の風景は住宅地だ。
ここまでの間、ほとんどの通過する駅で、ホームの端から列車を撮影する
人を見かけた。そして、外房線に入ってからは沿線で三脚を立てる
人も見かけるようになった。「みんな考えることは同じなんだな」。
私も撮影地がどこかは見当もついていなかったので、列車の中からよさそう
な場所を探す。とりあえず、大原まで行くが、それまでの間で、もしもよさそう
なところがあったら、帰りに寄ろうかと思っていた。線路を跨ぐ陸橋や、田園
の中の踏切。実際に降りて見てみないとわからないが、いくつかよさそうな
ところはあった。上総一ノ宮を過ぎ、いよいよ次の停車駅は大原。三門駅
を通過。なかなかのどかな田園風景が広がる。当時の景色ははっきりとは
覚えていないが、これほど建物はなかったような気がする。まもなく列車は
減速し、大原駅に到着。この前にこの駅に降り立ったときから、実に30年の
月日が流れたわけだ。別段特別なものがあるわけではない、「駅」なのだが
そう考えるとなぜか感慨深いものがあるから不思議だ。すぐに折り返しの
普通列車もあるのだが、あえてこの列車は見送り改札の外へ出てみる。
残念ながらこの駅前の記憶はほとんどない。少年当時はここまでくると、
駅前の風景どころではなく、すでに気持ちは海水浴に向かってしまって
いたのだろう。












駅前を一通り歩いたあと、次の列車まではまだ相当時間がある。歩いて
三門方面へ行こうかとも思ったが、ここからは相当の距離がある。
駅前にとまっていたタクシーに乗り込む。「三門駅にお願いします。」
タクシーは出発した。が、途中でこんな質問をしてみた。「大原と三門の
間にどこか、見通しのよい踏切などはありませんか?」考えてみればかなり
妙な質問である。ところが運転手さんは別段怪訝そうな表情も見せず、
「じゃあ、線路に沿って行きますか。」というのだった。話を聞くとたまに
そういう人がいるそうだ。世の中、かなりの数の「鉄」がいるようだ。
結局三門駅までは行くが、タクシーの運転手さんが最初に連れて行って
くれた踏切まで戻る。ホームセンターの裏手にある、田園地帯の真ん中の
踏切だ。ここで2本ほど撮影し、海の方へゆっくり歩いていく。国道を渡り、
小道に入ると、畑が広がる。懐かしい房総の香りがしている。
真新しい家も何軒か建っており、これらの家は最近できたものなのだろう
と思う。やがて道は突き当たり、左に折れる。三門駅方面へ向かう。
途中、庭木を切っている地元の人と挨拶を交わしながら、何気なく聞いて
みる。「あのぉ、昔この辺に○○荘というのがあったと思うのですが。」
するとその方は「ああ、まだありますよ。」と。多少驚き、「え!まだあるん
ですか? かなり古いと思うのですが。」 「ええ、でも、そのまま残っている
はずですよ。ここの道をまっすぐ行って、途中でちょっと分かりにくいんです
が、右に曲がって・・・」 昔、父からその保養所はほかの会社に売られた
ことは聞いていた。そして、売られれば古い建物は建て替えられるだろう
という話をしたことがある。それだけにとても意外なことだった。
大体の場所を聞き、海を見たあと、近くまで行ってみようと思った。
20分ほど歩き、海へ出た。ここら辺の海は外房のためとても波が高く、
少年時代に保養所から散歩に行ったとき見た海は、真新しい防波堤を
兼ねた壁に思いっきりあたって砕け、波しぶきが上がっていたのを記憶
している。ところが現在の海は波も穏やかで、砂浜になっている。
近くにいた老人にたずねてみると、沖にテトラポットを置いてから、砂が
あがるようになり、現在のような砂浜ができてしまったとのこと。波も
テトラポットがあるために高いものではなくなったそうだ。
変わるはずがないと思われる海の風景でさえこのように変わってしまう。
しばらく海を眺めたあと、保養所があると思われるほうへ歩いて行く。
15分ほど歩いて見覚えのある路地に出た。確か昔は未舗装だったはず。
しかし、現在は舗装されている。路地を曲がると、長い塀が続き、ここが
その場所であることがわかる。周りを一回りしてみる。記憶のとおり広い。
1周するのにゆうに5〜6分はかかる。門の中を覗いてみる。はたから見た
ら明らかに不審者だ。しかし、その門の中に見えたものは、昔のままの
風景。しばらく動くことができず。そこで少年時代の自分の姿を見た。
保養所の名前は確かに変わってしまっているが、建物などはまったく変わっ
ていない様子。無理は承知で考えられない行動に出てしまった。
まったくの部外者である私はその門を開けて入ってしまったのである。
玄関まで30メートルほど。そして、玄関で大きな声を出した。
「ごめんください!!」 窓は開いているのだが、返事がない。もう一度、
「ごめんくださ〜い!!」 やはり返事がない。これでは仕方がない。
これ以上無許可で進入すれば不法侵入になってしまう。あきらめて、門の
方へ戻る。当然、許可を得ていないので写真も撮ることはできない。
少しばかり残念な気持ちで歩いて行ったが、ちょうどそのとき、ひとりの
女性が門を入ってきた。手に買い物袋を下げている。
「あのーすみません!」当然怪訝そうな、いや、むしろ疑いの目で私を見る。
当然のことだろう。しかし、その人に自分がどうしてここにいるかを話すと
微笑しながら、「どうぞ、庭の方へ行ってもいいですよ」と言ってくれた。
お言葉に甘え、広い芝生の庭へまわる。この庭のあちらこちらに少年時代
の自分がいた。林の中でカブトムシを探している自分。ベンチで座って、
父や母と話をしている自分。弟と走りまわっている自分。いとことキャッチ
ボールをしている自分。その場所に再び立てただけで十分であった。
ふと建物の方を見ると、ひとりのおばあさんが池のところにいる。
大きな建物なので、玄関のところで呼びかけても聞こえなかったようだ。
私の姿を見つけるとまた怪訝そうな表情で、「どなたさん?」と言われた。
再び事情を説明する。そこで、先ほどの女性がウーロン茶とコップを手に
庭に出て来られた。庭のテーブルにお茶を置くと、「どうぞ、ここに座って
ください。」とお茶をコップに注ぎ、すすめてくれる。恐縮しながら、その
お茶をいただく。おばあさんが私に話しかけてくる。「え〜と、お名前は
何でしたっけ?鈴木さん?田中さん?」 「いえ、○○です。」と答えると、
「あ〜。○○さん。」と言うので、「え?ご存知なのですか?」と言うと、
「そりゃ覚えてますよ。わたしゃ昔からここにいるんですから。」
よく見ると、見覚えがある。というか、ここで食事の世話やいろいろな身の
周りの世話をしてくださっていたおばさんだった。30年の時をさかのぼり
記憶が一致した瞬間だった。「はい!その○○の息子です!こんなに
なってしまいました!!(笑)」 「ほう、あのカブトムシをとっていた子供
さんね?(笑)」 そこまで覚えていてくださるとは感激である。
私の父は会社でも管理職クラスだったので、余計記憶に残っていたそうだ。
当然期待もしていなかったし、予想もしていなかったことなのだが、このあと
は、新しく管理しているその女性と昔からここのいるそのおばあさんと、
懐かしい庭でお茶を飲みながらの談笑となった。
「よかったら中も入っていってくださいよ。」ということで、またお言葉に甘え
トイレをお借りしたついでに中も歩いてみる。洋館の部屋の多少の模様替え
はあったようだが、母屋の方は何ひとつ変わっていない。小学校6年生の
とき最後に行ったときに泊まった部屋を見たとき、その懐かしい母屋の香り
とともに完全に30年前にタイムスリップしていた。
庭へ戻り、しばらく話をした後、帰り際に父、母はすでに他界したことを
告げると、悲しそうに「まだお若かったのでしょう。」とつぶやかれた。
丁重にお礼を言い、私は出発した。おばあさんは門のところまで送って
くださった。昔と何も変わらないおもてなし。「またこちらへ来たら寄って
くださいね。」 門を閉めるとなんともいえない、寂しいような、うれしいような、
悲しいような、複雑な気持ちになった。



三門駅へ向かって歩きだす。三門駅に到着し、程なく列車はやってくる。
この駅も少年当時は木造の駅舎だったように記憶しているが、現在は
なんと貨車を再利用したものだった。
2駅ほど乗り、太東駅で下車する。この駅と東浪見駅の間に跨線橋がある
のを行きの列車内から確認している。ちょうど駅と駅の中間ほどで、かなり
遠かったのは分かっているが、少年時代の元気をもらい歩いて行くこと
にした。30分以上歩いただろうか。山道を登ったところに、その
跨線橋はあった。車も通るかなり大きな橋だ。しかし、橋の上まで行くと
列車内からは確認できなかったのだが、ネット状のフェンスがあり、撮影
には不向きであることがわかった。仕方なく、跨線橋の下の道に降り、
線路に沿った畑の中の農道を歩いていく。築堤が続き、ここも撮影できない
かと思われた。が、不思議と焦ったり、あきらめたりという気分にはならな
かった。「まあ、撮れなければそれでもいいか・・・」なんて考えていた。
数百メートル歩いていくと、小さな橋梁を跨ぐところの草が築堤に向かい
枯れている。「これはもしや」と思い、あがっていくと、1メートル四方の
小さなスペースだが、上りも下りもアウトカーブから狙える場所だった。
この場所に三脚を立て、列車を待つ。数本撮ったところで、東浪見駅方面
へ歩き出す。「さて、次はどこへ行くか。」 東浪見駅までは予想通り、
30分程かかった。列車は待つことなくすぐにやってきた。上総一ノ宮の次
に八積という駅がある。なんとなくそこで降りてみる。駅の周りを少し歩き
まわり、踏切なども見てみたが、あまりよい感じではない。ふと駅を見ると
ホームに跨線橋がある。「あそこから撮れるかもしれない」と思い、駅へ
戻り、切符を買い、委託の駅員さんに断りホームへ入る。跨線橋に登って
みたが、架線柱が邪魔をしてあまりよい感じではない。橋の階段の途中
から上りの列車はよい感じで狙えるようだった。時刻表を見ると運良く、
まもなく「わかしお」がやってくる。もう日はだいぶ西に傾いている。
この間まで夏だと思っていたのだが、だいぶ日が短くなってきた。
思い出の特急列車は過去のものとなる。しかし、それでも頭の中の思い出
は消えることはない。そして、会おうと思えばいつでも少年時代の自分に
会うことができるのだ。その気さえあれば。
列車はそこになくなっても、自分の頭の中にはいつまでも走り続けるのだ。

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