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フランチャイズ制は1952年から正式に敷かれることとなる。
しかし、この時点で専用球場を持っているのは大阪、名古屋(中日ドラゴンズが改名)、阪急、南海の4球団だけで、野球場を確保できたのも松竹、広島、近鉄、西鉄の3球団だけであった。前述のように東京には読売、国鉄、東急、大映、毎日の5球団が混在していたが、いずれも後楽園球場を本拠球場としなければならなかった。また、大洋は下関市を本拠地としたが、経営的に成り立たないことは明白であった。様々な問題点を含みながらも1952年からフランチャイズ制が施行されたのである。
セ・リーグは1950年の段階では本拠地球場により近い方に主催権を与える方式がとられていたが、1952年は各球団とも主催数は60前後となった。読売と名古屋が多く、松竹と広島が少ないのは、リーグの後半戦で一方の本拠地球場に偏ってしまったからである。すなわち、読売×広島は残りの2試合を後楽園球場で、名古屋×松竹は残りの2試合を中日球場で行うこととなり、これらの試合がそれぞれ読売球団と名古屋球団の主催試合となったのである。試合の利益収入は主催者側が全部取ることになっていたが、これらの試合がどちらの収入となったかは不明である。
パ・リーグは1950年にすでにフランチャイズ制が整っていたが、1952年はさらに強化された。南海と阪急にいたっては主催試合のほとんどを本拠地球場で行った。近鉄球団は藤井寺球場が本拠地球場であるが、郊外にあるため、大阪都心の大阪球場を借りて主催試合を行うことが多かった。本拠地球場より多くの主催試合を他球場で行ったのは近鉄球団だけである。
後楽園球場を本拠地球場とするチームは、主催試合に後楽園球場が使用できない場合には、東京近辺の球場を使うことが多かった。特に1952年完成の川崎球場が多く利用され、両リーグあわせて49試合が行われた。
フランチャイズ制は導入されたものの、まだ他球団の本拠球場で主催試合を行う球団もあり、フランチャイズ制は完全に確立はされていなかった。ただ、主催試合を対戦相手球団の本拠球場で行うことは完全に消滅した。
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