このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

フランチャイズ制以前

 現在のプロ野球の流れを溯ると、そのはじまりは1936年の7球団による日本職業野球連盟の結成にたどりつく。同年から同連盟によるプロ野球興業が始まるわけであるが、当時はまだ現在みられるようなフランチャイズという概念はなく、試合の収入金は連盟が管理し、各球団に分配される方法が採用されていた。フランチャイズ制が提唱される以前の収入配分はいかなるものであったのか。収入配分と深い関わりをもつ試合制度の変遷とあわせてみていきたい。

 日本職業野球連盟の結成初年の1936年は、大きくわけて春季、夏季、秋季のリーグ戦が行われた。
 春季のリーグ戦では、総収入のうち試合経費と7%の連盟経費を差し引いた純益を、上位3球団がその60%を、下位3球団が残りの40%を平等分配することになった。試合経費とは球場使用料、ボール代、入場券作成費、前売り手数料、球団旅費、整理費、救護班経費などを指す。連盟経費とは審判員や記録員の費用を指す。夏季の連盟結成記念の3大会では、それぞれ勝敗によって分配された。秋季はリーグ戦もトーナメントも一定の比率で分配された。第2回全日本野球選手権試合の優勝決定戦は洲崎球場で東京巨人とタイガースとの間で行われたが、入場税を控除した収入から試合経費を引いた純益のうち、60%を対戦した両球団と日本職業野球連盟が三等分し、残りの40%を他の5球団で平等に分けた。

 1937年はシーズンを春季と秋季の二つに分けて、それぞれリーグ戦が行われた。この年の2月にイーグルス球団が連盟総会で加盟を承認されたので、8球団による対戦となった。球団数が偶数になったことにより、二連戦方式が初めて日程に組み込まれることになった。この二連戦方式とは「A−B、C−D」の試合が翌日に「D−C、B−A」として組まれることを指す。試合形式が変わったことで、収入の分配も変わることとなった。3月16日の理事会では、「総収入金より球場の使用料、ボール代、入場券のほか試合に直接要する試合経費と、連盟経費を引いたものを、二等分し、一方(甲)を出場2チームに二等分、もう一方(乙)は試合総数で割り、各チームの勝敗によって分ける」ことが決められた。甲は平等分配金、乙は勝率分配金と呼ばれた。1試合に限ってみれば、その試合における勝者が75%、敗者が25%の配分を得られる。
 1938年も前年と同様の試合制度、収入配分であった。

 1939年3月1日に日本職業野球連盟は日本野球連盟と呼称を変えた。また同年から2シーズン制を改めて1シーズン制が採用されることになった。純益配分も変更されることとなり、平等分配金を40%、勝率分配金を60%とした。1試合に限ってみれば、その試合における勝者が80%、敗者が20%の配分を得られることとなり、勝敗を重視する配分法が採られた。また選手権賞として優勝チームに500円が贈られることとなった。
 1940年になると、東京巨人、タイガース、阪急の3球団から、もっと勝敗を重視した分配率に改めるべきだという意見が出され、平等分配金を30%とさらに落とす措置がとられた。また試合経費を全球団による平等負担に改められた。しかし、これでは負け越した場合には収入よりも支出の方が多くなりかねないこともなかったので、当然のことながら下位球団から反対の声があがった。
 1941年から優勝チームに対する賞金が1000円に引き上げられた。

 後楽園球場はイーグルス、甲子園球場はタイガース、西宮球場は阪急、上井草球場は東京セネタース、洲崎球場は大東京の本拠地球場ではあったが、球団はそこで行われていた試合の収入のすべてを取得できたのではなく、球場使用料を徴収できるだけであった。しかも、その球場とは関係のない球団同士の試合も組まれており(例えば後楽園球場におけるタイガース×南海)、フランチャイズ制とは大きくかけ離れたものであった。

 ただ、フランチャイズ制は敷かれていなかったものの、日本職業野球連盟規約には球団とその本拠地に関する事項がいくつかみられる。第6条は同連盟に加入する場合に満たさなければならない条件を示すものであるが、その4項には「本據地ノ人口ハ貳拾萬人以上ノ事」とある。次の第7条の6項には、東京市及び大阪市は4倶楽部以内、名古屋市、横浜市、神戸市、京都市は2倶楽部以内、人口20万人以上の都市は1倶楽部と制限が決められていた。第21条は「加盟倶楽部の権利義務」として「加盟倶樂部ノ所在都市ヲ本據地ト稱ス 加盟各倶樂部ハ其ノ本據地ヲ當聯盟ノ總會ノ同意無クシテ變更スル事ヲ得ス」とある。フランチャイズ制は施行されていなかったものの、球団の経営に堪えられるだけの人口を有する都市を本拠地とし、さらに都市人口にあわせて数も限られるなど、球団チームの本拠地の選定にはそれなりの制限があった。

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