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プロ野球は戦争で一時中断されたものの、連合軍最高司令部(GHQ)の協力が得られたため、プロ野球は戦後すぐに復興した。
戦後初のシーズンを終えた1946年末に、1947年度の連盟スローガンを「アメリカ野球にならえ(Follow the American' Baseball !)」とすることが決定承認された。これを受けて各球団にニックネームがつけられ、球団名も変えることとなった。阪神球団は再び大阪タイガースと名乗った。その他の球団にはニックネームがなかったので、東京巨人は読売ジャイアンツ、中部日本は中日ドラゴンズ、阪急は阪急ブレーブス、パシフィックは太陽ロビンス、ゴールドスターは金星スターズとなった。セネタースは東京急行電鉄に経営権を委譲したため東急フライヤーズとなった。近畿グレートリングはそのままであったが、シーズン途中に南海電気鉄道が近畿日本鉄道から分離したので、再び南海球団となりニックネームをホークスとした。
また1947年はフランチャイズ制の確立が唱えられはじめたが、試合当日の純益をもとに、勝者7割、敗者3割の分配が続けられた。また、当該試合に関連しない費用はチームより拠出する、特別宣伝費は試合経費として取り扱うことも改定された。
なお1947年には日本野球連盟とは別に、国民野球連盟という組織が誕生し、各地で転戦した。利益は勝者60%、敗者40%で配分されたが、九州遠征では契約した興行師に広島から九州にかけての全試合の売上を持ち逃げされたこともあったという(宇高,1980)。
プロ野球の理想的形態を整えるためには、フランチャイズ制の問題を解決しておく必要があった。日本野球連盟は、公式試合の地方進出について地方の新聞社に共催を要請するとともに、メジャーリーグにならってフランチャイズ制を導入しようと考えた。
連盟の代表者会議でフランチャイズについて話されたのは1947年9月24日が最初である。この会議では、営業を各チームにおいて担当する原則を樹立するためにフランチャイズ制を急速に実施する必要があるとして、フランチャイズ設定の原案作成委員が選出された。
そして1948年1月19日から連盟代表者会議が箱根の湯本で開かれた。これは公式戦の地方進出とフランチャイズ問題についての会議であり、のちに「箱根対談」として伝えられている。公式戦の地方進出については、地方の有力新聞社に共催を斡旋した共同通信社の代表から、全国35紙からの招きがあることが説明された。フランチャイズについては、読売ジャイアンツと金星スターズが後楽園球場、東急フライヤーズが横浜、中日ドラゴンズが名古屋、太陽ロビンスが京都、南海ホークスが大阪、大阪タイガースが甲子園球場、阪急ブレーブスが西宮球場と決められた。なお東急と中日は野球場を持っていなかったため、暫定的に後楽園球場をホームグラウンドとして仮指定された。同じく野球場を持っていない太陽と南海については、大阪と阪急とを交えた四者による対談を後日開くこととした。
太陽と南海の本拠球場の設定のために、連盟の鈴木龍二会長は2月1日に在阪4球団と金星の代表を西宮球場に呼び集めた。5時間にも及ぶ会議の結果、南海は甲子園球場を、太陽は西宮球場を選んだ。
中日の親会社である中部日本新聞社は、フランチャイズ制が話題に上ると、さっそくホームグラウンドの確保に動き出した。野球場建設の構想を打ち出した中部日本新聞社は発起人会を開き、資本金1000万円で株式会社中部日本スタヂアムを創立することが決められた。1948年10月17日に球場建設工事が着工されて、12月2日に中日球場が完成した。
また南海もGHQの好意と大阪府・大阪市の協力を得て、大阪の繁華街・難波に大阪球場を新設した。完成は1950年9月12日のことである。
1948年はフランチャイズ制が試行された年であったが、同時に地方での試合も多くなった年でもあった。それまではほとんどの試合が後楽園、甲子園、西宮の3球場で行われおり、地方で行われた試合はごくわずかであった。1947年は公式戦476試合のうち地方で11試合(桐生4、長野2、松本2、徳島3)しか行われなかった。しかし、プロ野球人気により地方での開催の要望が高まっていた。日本野球連盟は共同通信社を窓口にして、地方興行のギャランティーを1試合10万円として地方新聞社に共催を斡旋したところ、全国各紙から招きの要望があった。共同通信社は運営機関として「木曜会」を組織した。この木曜会には読売新聞社、朝日新聞社、毎日新聞社のほか、北海道新聞社、河北新報社、中部日本新聞社、京都新聞社、中国新聞社、西日本新聞社などの地方の有力紙も加わった。また地方興行とあわせて、三連戦方式が採り入れられた。これは同一カードで地方都市を巡回することが、主催社の経済的負担を軽くする最良の方法であると考えられたからである。こうして1948年は全国約50都市で連盟公式試合が行われた。
しかしながらフランチャイズ制が仮導入されたとはいえ、試合収入はホームチームの独占ではなく、勝者7割、敗者3割の収入配分であった。また球団が主催試合を行う球場を決めたのではなく、日本野球連盟に指定された試合の球場から本拠地により近い球団が裏の攻撃をするというものであった。
参考文献
宇高 勲(1980):日本リーグと国民リーグ時代.牧野喜久男編『別冊一億人の昭和史 日本プロ野球史』毎日新聞社,pp.134〜136.
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