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使用野球場の問題

 1949年末に日本プロ野球史の一大転機となるできごとがおこる。太平洋野球連盟(パ・リーグ)とセントラル野球連盟(セ・リーグ)の分立である。2リーグ分立の詳しい経緯は省略させていただく。
 1949年11月26日に2リーグ制が正式に決定された。そして同日に太平洋野球連盟の結成式が毎日新聞社別館で行われた。パ・リーグ加盟球団は、在来の阪急ブレーブス、南海ホークス、東急フライヤーズ、大映スターズと、新規参入の毎日オリオンズ、近鉄パールズ、西鉄クリッパースの7球団である。
 遅れて12月15日に、セントラル野球連盟の初会議が読売本館で開かれた。セ・リーグ加盟球団は、在来の読売ジャイアンツ、大阪タイガース、中日ドラゴンズ、そして大陽に資本出資した松竹ロビンスと、新規参入の西日本パイレーツ、大洋ホエールズ、広島カープ、そして1950年1月12日に加盟が決まった国鉄スワローズの計8球団である。
 そして1949年12月19日、日本野球連盟が解散し、翌1950年から2リーグ制が始まった。

 両リーグに分かれたことによって、試合が催される野球場についても問題が生じた。パ・リーグは加盟球団の所有球場である西宮球場、藤井寺球場、そして建設中の難波球場(大阪球場のこと)と、後楽園球場を使用球場にすると発表した(『朝日新聞』1949年11月27日日刊3面)。後楽園球場は資本的に大映と関係をもっていたため、パ・リーグ側に近かった。セ・リーグは甲子園球場と中日球場を使用するが、当時は東京では後楽園球場のほかにプロ野球で使用できる大きな球場がなかったため、後楽園球場をパ・リーグに独占されると東京での試合に困ることとなる。いくら読売球団が人気があるからといっても、球場がなければ試合をすることもできない。しかし、後楽園球場側は両リーグに公平に使用できるよう発表したため、事なきをえた(『朝日新聞』1949年11月30日日刊2面)。
 本拠球場が定まっていたのは、大阪タイガースの甲子園球場、中日の中日球場、阪急の西宮球場、近鉄の藤井寺球場、南海の大阪球場、西鉄の春日原球場である。この他にも広島カープは広島、大洋は下関、西日本は福岡で行われた。ただ、東京は読売、国鉄、東急、大映、毎日の5球団が混在し、この5球団で後楽園球場を使用することとなった。
 福岡には西日本と西鉄の2球団あり、それぞれセ・リーグとパ・リーグに分かれて加盟した。もともとは西日本鉄道がチームを経営し、西日本新聞社が宣伝を引き受けるものとして、1つの球団として加盟しようとしていた。ところが2リーグに分立することとなり、西日本鉄道は電鉄の関係でパ・リーグ側に、読売新聞社と通信提携をしていた西日本新聞社はセ・リーグ側にわかれて加盟するはめになった。1951年の初春に両球団が合併し、新たに西鉄ライオンズとしてパ・リーグに加わった。

 1950年シーズンのセ・リーグは日本野球連盟の時と同じく、本拠地球場により近い球団が主催をしている。1950年のセ・リーグの収入分配方法は勝者6割、敗者4割の配分であったので、あまりフランチャイズ制の意識がなかった。
 一方、パ・リーグは20回戦総当たりで、各球団の主催試合が本拠球場で最も多く行われた点もあわせてみても、セ・リーグよりもフランチャイズ制の意識が強かったといえよう。
 フランチャイズ制が確立していなかった最大の事例としては1950年の日本選手権試合(日本シリーズ)があげられる。1950年はセ・リーグからは松竹ロビンス、パ・リーグからは毎日オリオンズが出場した。しかし、この両球団は専用球場を持っていなかったため、選手権試合をどこで行うかについてもめた。そこで東京、関西、名古屋の両リーグの球団が使用している球場で行うこととなった。
 当初、東京での球場は収容力が大きく使用料も要らない明治神宮球場を使用することに内定していた。特にセ・リーグが明治神宮球場の使用に積極的に動いていた。ところが、このことが後楽園球場側に知られた。後楽園球場は資本的に大映と関係があり、パ・リーグ側に近かったが、結局はセ・リーグにも使用させることにしたという経緯もあり、後楽園側は来シーズンのセ・リーグの使用を拒否する姿勢もみせた(『朝日新聞』1950年11月8日日刊4面)。結局、第1戦と第7戦はセ・リーグ主催で明治神宮球場を、第2戦はパ・リーグ主催で後楽園球場を使用することとなった。ついで第3戦はセ主催で甲子園球場、第4戦はパ主催で西宮球場、第5戦はセ主催で中日球場、第6戦はパ主催で大阪球場が使用された。結局このシリーズは6戦までとなったが、日本シリーズの全試合とも違う球場で行われたのはこの年だけである。

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